だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

第65回【プロタゴラス】勇気と臆病は恐怖に対する知識の差? 後編

広告

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.mu

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

対話を通して入れ替わる両者の意見

議論が終わり、プロタゴラスは自身の主張を否定されたような形で、そして、ソクラテスは自分の主張を押し通したようにもみえるので、討論はソクラテスの勝ちの様にも思える内容となったのですが… 面白いのはここからなのです。
それは、ソクラテスの口から指摘されることになります。

ソクラテスプロタゴラスが討論を始めたキッカケまで遡ると、元々は、徳とは教えられるものなのか、それとも、教えられないような才能のようなものなのかというのが発端でした。
ソフィストであるプロタゴラスは、自身がアレテーを教える教師だと名乗ってお金を稼いでいますから、当然、アレテーとは知識のようなもので教えられると主張し、ソクラテスがその主張に対して疑問を投げかけたのが、この議論の始まりです。

しかし、議論を終えてみると、最期に巻き返して攻め込んでいるソクラテスは、『アレテーを構成している勇気は、才能のようなものではなく、知識である』と力強く主張し、プロタゴラスを説得しようとします。
ですが、それに対するプロタゴラスは、ソクラテスの意見に反対したいが為に、『勇気は知識のように、教えられるようなものではない』と頑なになっている様子がわかります。
勇気ある行為とは、手放しで褒められるような美しいものだと思われていますし、プロタゴラスも思っています。 しかし、それが知識による打算の結果という事になれば、尊敬の対象では無くなってしまうからです。

結果として、プロタゴラスは『勇気ある行動とは、知識による打算ではない。』として、ソクラテスの意見を頑なに拒み、一方でソクラテスは、『勇気とは知識と同じものである。』言い換えれば他人に教えられる様なものであると力説します。
といってもソクラテスは、対話の中で勇気は知識だと確信を得たから論破しにかかったわけではなく、プロタゴラスと確かめた同意内容をまとめた事によって、自分自身が最初に抱いていた思いとは逆の結果に辿り着いてしまっただけなんですけれどもね。
つまり、対話をして意見交換をした事によって、両者の意見が完全に入れ替わってしまったというわけです。

結果としては、この対話によって勇気と知識は同じものだと結論付けられたわけではありません。
勇気を理解していると思いこんでいたプロタゴラスは勇気の本質を誤解していたという事を知り、ソクラテスは、徳が教えられるような性質のものかもしれないという可能性を得ただけとなっています。

今回の対話で、アレテーの正体についての結論が出るわけではありませんが…
哲学そのものが、『卓越性とは何か』を考え、どのようにすれば『幸せ』に到達できるのかという、未だに答えが出ていない問題に対して自分自身で考えることなので、この対話編そのものが、読者に考えることを促すような作りになっています。

結局 勇気とは何なのか

9回に渡って話てきた私の解釈ですが、プラトンが書いた本の日本語訳をそのまま朗読しているわけではなく、私がどの様に読み取ったのかを、独自の解釈を加えて話してきました。
これだけを聞いたとしても誤解をする可能性もあると思いますので、興味を持たれて時間のある方は、岩波や光文社文庫などから出版されている日本語訳を読まれることをお勧めしておきます。

このコンテンツでは、初めて、哲学書というのを読み解いてみたのですが… どうだったでしょうか。
今までは、当然のように知っていると思い込んでいるものが、実はよく分からないものだったという感覚に襲われなかったでしょうか。
この作品の後半部分では、主に勇気についての解釈が議論されますが、勇気というのは、誰しもが、誰かに教えられるわけでもなく知っていると思いこんでいる事柄ではないでしょうか。

映画や漫画や小説などの物語では、『勇気ある人物』が登場することは珍しくないでしょうし、そのキャラクターの奮闘を観て、誰しもが、『勇気があるな』と思うことでしょう。
物語に登場するキャラクターは、当然のように作者によって演出されている為に、その様に感じる部分もありますが、過剰な演出を抜きにしても、勇気ある行動というのは理解できているように思えていました。
おそらくですが、このプロタゴラスという対話編を読む前は、映画や漫画に出てくるヒーローの行動を観て、漠然と、『この行動は勇気のある行動だが、この行動は臆病者が取る行動だ』と思ったり感じたりしていたのではないでしょうか。

私の場合もそうで、勇気などが分かりやすく描かれるヒーロー物の作品を観たりすると、そこに登場する主人公格のキャラクターが起こす行動を観て、『自分には真似できないな』とか、『勇気ある行動だな。』と思ったりしていました。
ですが、この対話編を読み解いた後も、今までと同じ様に勇気という概念は、確固たるイメージとして存在しているでしょうか。

物語に登場する彼ら、彼女らは、持って生まれた才能故に、普通の人間には到底とれないような行動をやってのけるのでしょうか。 それも、知識を身につける事によって、絶対に成功させる確信があるから、行動しているだけなのでしょうか。
仮に、絶対成功させる確信があるから行動しているのだとした場合、その行為は、勇気ある行動と呼べるのでしょうか。
それとも、損得勘定で動いているだけの打算的な行動なのでしょうか。

また、勇気ある者が勝てるかどうかが分からないものに立ち向かった結果、窮地に立たされるという場面も、物語には多く登場します。
彼らが窮地に立たされるのは、彼らが無知であるが故に、危険を察知できなかったからなのでしょうか。
そんな無知な彼らが、傍から見れば勝てないと分かっている敵に立ち向かっていくという行為は、勇気ある行為なのでしょうか。それとも、愚かな行為なのでしょうか。

対話を通して『分かっている』と思い込んでいたものが分からなくなる

このあたりの事は、既に知っていると思いこんでいる為に、深く追求しない方のほうが多いと思います。
大抵の方は、結果論で物を観ていて、強大な敵に立ち向かって、尚且、勝てば、それは勇気のある行動だと称賛され、負けてしまえば、『何故、あんな無謀な戦いをしたんだろう?』といった感想を抱いてしまいがちです。
特に、今現在、流行っているマーベル映画などのヒーロー物は、子供向けのような分かりやすい構図にはなっておらず、ヒーローそのものが、人間臭いキャラクターで、物語の中で葛藤したりします。

その、人間臭いキャラクターが、迷った挙げ句に強大な敵と戦うことになって、結果的に勝てば、勇気ある行動だとして称賛され、負ければ、準備不足とか、何故戦ったんだと言われてしまったりします。
もちろん、映画というのは、観た後で皆が内容について語りやすいように作られているわけで、様々な思いが交差するような演出になっているのですが…
よくよく考えると、私達が語る勇気とは、結果論でしかなかったりします。

観客として作品を観ていると、戦えば勝てそうな相手に尻込みしているキャラを観てしまうと、臆病者のように映ってしまいますし…
どう考えても勝てなさそな敵に単独で向かっていくキャラクターは、バカそうに見えてしまいます。
では、どの様なキャラクターが勇気あるキャラクターなのかというと…

自分よりも、ちょっと強い敵に対して向かっていき、トンチなどを使ってギリギリ勝つなどの状況を見ると、『勝てるかどうか分からないのに、向かって行くなんて勇気があるな。』となったりします。
ただ、この場合も、もしかすると、勇気があるとされているキャラクターは、周りの環境などを見定めた結果、確実に勝てるとわかって向かっていっているかもしれません。
その種明かしをされてしまうと、『勇気が有る』とされていた行動に対しての評価も、少し変わってしまったりしないでしょうか。

『勇気ある行動』は誰が決めるのか

勇気というのは、よく、『勇気を出す』とか『勇気を振り絞る』なんて形で使われますけれども、この使われ方は基本的に、主観的な使われ方ですよね。
つまり、勇気を出すのも振り絞るのも、自分であるわけですけれども、そうして行われた行動が勇気ある行動かどうかを判定するのは、第三者である他人であるわけです。
勇気を出して行動した本人が、勇気を出したと思いこんだとしても、それを周りで見ている人間が、勇気ある行動だと評価しなければ、その行動には勇気が宿っているとは言えないわけです。

こうして考えていくと、そもそも勇気とは何なのかというのが、分からなくなってくるのではないでしょうか。
…という事で、プロタゴラスの読み解きは今回で終了するわけですが、結構、長くなってしまったので、次回に、もう少しコンパクトに纏めた上で、考察などを加えるという『まとめ回』を挟もうと思います。
kimniy8.hatenablog.com