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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第60回 『プロタゴラス』詭弁に対抗する為の対話術 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
一応、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一分内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回の議論の中心となったのは、アレテーとは何なのかという、核心に迫ったテーマでした。
議論を進めていく中で、プロタゴラスが考えるアレテーとは、『正義』『節制』『敬虔』『勇気』『知恵や知識』と言ったパーツが組み合わさったものだということが分かりました。
これらの事を徳目と呼びますが、この徳目は、それぞれがアレテーなのではなく、人の顔についている目や耳や口のように、それぞれ別の役割を持ちながら、アレテーの一部を担っている存在ということでした。

プロタゴラスの説明に納得がいかないソクラテスは、その答えを聞き出した後も、根本的な質問を続け、それに嫌気が差したプロタゴラスが投げやりな回答をするというところまで話しました。

反対の性質を持つものは一つしか無い

その後、ヘソを曲げてしまったプロタゴラスに気を使って、ソクラテスが別のテーマを用意し議論は少し横道にそれていきます。
彼は、まず、本格的な議論を始める前に、いくつかの点について同意できるかどうかを、プロタゴラスに対して訪ねます。
まず最初に尋ねるのが、『反対の性質を持つものは1つしか無い』という点について、同意できるかどうかです。

概念というものは、単独で存在しているわけではなく、常に相反する反対の性質を持つものと同時に存在しています。
例えば、表という概念は裏という概念がなければ存在できませんし、明るいという概念は暗いという概念抜きには存在することは出来ません。
美しいという概念は、醜いという概念があって初めて存在できる概念で、仮に、この世から醜いという概念がなくなって美しいものしか無い世界になれば、美しいことが当然で普通になってしまい、美しいという概念は無くなってしまいます。

この様に、価値観や概念といったものが存在する為には、相反する概念とセットでなければならないわけですが、この『反対の性質を持つもの』というのは、表に対して裏というように、1つしか無いとされています。
ソクラテスはこの主張を行い、プロタゴラスも、この意見には同意します。

そして、この考え方を、アレテーにも当てはめて考えてみることにします。

分別の反対の言葉

まず、分別しない、無分別という存在について考えます。 この無分別の正反対の言葉は、知恵がある状態の事ではないかとソクラテスプロタゴラスに訪ねたところ、『そうだ』と同意をします。
ですが、『無分別』とは、分別を行わ『無い』と書くため、無分別の正反対の言葉は、分別とも考えられます。
先程の理論に当てはめると、正反対の概念は1つしか無いとのことでしたが、無分別の反対の意味として、知恵と分別という2つの候補が上がってしまいました。

これは、無分別の対義語としてどちらかが間違っているか、それとも、分別と知恵が全く同じ概念となるかの何方かという事を意味します。
無分別は分別が無いと書くために、一見するとこちらが反対の意味のようにも思えます。 しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。
概念は、相反する2つの状態を同時に宿すことは出来ないと考えます。 つまり、美しく有りながら醜いとか、裏でありながら表という状態は無いということです。

まず、この事を頭に残しておいた状態で、話を次に進めます。
次に考える事は、不正を行うような人物についてです。

分別ができる人間は不正を行わないのか

分別とは、事の善悪や損得を考える能力のことなので、分別がない人間というのは、何が悪い事なのかが分からずに、欲望に任せて不正を行うと言ったことをしてしまいがちです。
その人物が悪人ということではなく、これから始める行為が、良いことなのか悪いことなのか。 その知識がない為に、悪いことをしているという自覚なしに、犯罪などをしてしまうケースは有りがちです。

しかし、不正行為は無分別の人間だけが無意識に行ってしまうようなものなのでしょうか。
分別が有り、何が良いのか悪いのかを熟知していて、それでも尚、自分の欲望を満たす為に、悪いと知りながら不正に手を染める人間というのは存在しないのでしょうか。

現実の世界を見てみれば分かりますが、そんな人間は腐る程いますよね。
脱税するのが悪いと分かっていながら行うものや、脅しや詐欺が悪いと分かっていながら、お金欲しさに実行する者は、日々のニュースを観るに珍しい存在ではありません。

概念は単独では存在できない

では、これまでの事をまとめてみると、どうなるのでしょうか。
概念は単独で存在する事は無く、存在する場合は正反対の性質を持つものと対になって生まれます。

反対の性質を持つものは1つしか無く、正反対の性質は同時に宿ることはありません。 水という液体が、熱くありながら、同時に冷たいということはありえませんよね。
この前提を思い出してもらった上で、先程の分別の対義語の話を思い出してもらいたいのですが… 分別の対義語を考えてみると、『知恵の無いもの』と『無分別』の2つの対義語が候補に上がってしまいました。 
『反対の性質を持つものは1つしか無い』という先程の前提を満たそうと思うのであれば、『知恵が無い状態』と『無分別』は同じ1つのものと考えるか、対義語として何方かが間違っていることになります。

次に、不正を行う人間について考えるわけですが、不正を行う人間は分別がない人間と言われているので、ここでは、『不正を行うもの = 無分別』とします。
先程、『分別』と『知恵』は同一のものかもしれないという可能性が上がったので、ここでは一旦、『不正を行うもの = 知恵のないもの』も成り立つものとします。

『概念の前提条件』としては、他に、正反対の性質は同時に宿ることが無いとのことでした。

では、『不正を行う』という行為と、知恵や分別が有るという状態は、同時には成り立たないのかを考えてみます。
不正を行う行為は、『無分別』や『知恵の無い状態』と等しいという事を先ほど定義したので、この定義によると、不正を行うような人物は『知恵』も『分別』も持っていては駄目だということになります。
しかし実際には、分別がある状態で、悪い事と知りつつ、知恵を働かせて不正を働く人間というものが存在します。 悪いと知りつつ、自分の利益の為に知恵を働かせて脱税行為をするのが、これにあたりますよね。

この状態は、不正を行うような分別も知恵もない人間が、分別と知恵を働かせて不正を行って利益を得た事になるわけで… かなり矛盾した事になります。
また、分別と知恵を働かせて不正を行う人間は、アレテーの一部である『分別』と『知恵』を持っていることになるので、この不正を働いた人物は、アレテーを持つ人間という事にもなってしまいます。

ですが、当然のことながら、分別をわきまえて知恵を働かせて、自分の利益の為に不正を働くような人間は他人から尊敬ませんし、他の人間と比べて卓越した人間でもありません。
アレテーを構成する『知恵』や『分別』を宿した行動を行ったのにも関わらず、何故、不正を働いた人間は尊敬されず、何なら見下されることになるのかというと、不正を働く行為は『善い行い』ではないからです。
つまり、自分自身の欲望を満たすためだけの、正義が宿らない行為をした為に、共同体の皆から軽蔑される事になるわけです。
(つづく)
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