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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第59回 『プロタゴラス』優れているとは どういう事なのだろうか 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

徳とは性質の違う徳目で構成されるものなのか

これまでの話をまとめると、アテレーというのは、正義・節制… といった、複数の徳目によって構成されていて、その徳目は、同じ性質を持つものではなく、全く違った性質を持つものだということになりました。
この顔の例を使った説明の場合で考えると、何らかの事故で目や耳を無くしてしまった人が居たとしても、耳がないからという理由で、その人物には顔がないとは言いません。

顔を構成する部品が欠けた人がいたとしても、その人の頭の前面には、顔が概念として存在することになります。
以上の説明で、プロタゴラスはソクラテスの質問に、上手く回答できたような気もします。
しかし、果たしてこれは、本当に正しいのでしょうか。

それぞれの徳目は全く違った存在なのか

例えば、正義という言葉は正しいという言葉が入っている為、意味合いとしては正しい行動という性質を持っています。 では、他の徳目は、正しいという性質を備えていないのでしょうか。
節制は正しくないことなのでしょうか。 勇気ある行動とは、正しい行動とは言えないのでしょうか。
一般的な感覚としては、勇気は正義が伴っていなければ成立はしない様に思えますが、勇気と正義は、何の関わりもない状態で単独で存在しているようなものなのでしょうか。

例えば、『自分の利益や欲望を満たす為に、勇気を振り絞って弱者から搾取するという』という言い回しには、何か違和感を感じてしまうのではないでしょうか。
同じ様に、『知識を総動員して知恵を絞って計画を立てて、勇気を振り絞って強盗殺人を実行した。』人が居た場合に、その人は、他の人間よりも卓越しているとして尊敬されるのでしょうか。

この様に、悪いことに知恵が使われれば悪知恵となり、他人を貶める悪い行動となってしまいます。 知恵は正しいことに使われなければ、アテレーとは言えないでしょう。
アテレーとは、日本語訳をする時に、徳という言葉を使う場合が多いと、前に説明しましたが、例えば、法律の勉強をして弁護士資格を取って、法の範囲内で正義に反する事をする弁護士がいた場合、彼らの事を悪徳弁護士なんて言ったりもします。
法治国家で、法に則って行動するというのは推奨される行為ですが、法を犯さなければ何をしても良いというわけではありません。

法の抜け道を探して、法に抵触をしない形で、正義に反して自分の欲望を満たそうとする行動は、徳の真逆の行為として、悪徳と呼ばれて批判されます。

それぞれの徳目には関連性が有る

つまり、これらの徳目というものは、それぞれ単独で存在しているものではなく、相互に関係し合って切り離せないような関係にあるとも考えられます。
これは、正しさだけに限定されるものでは無く、それぞれの徳目の中には、相互に他の徳目が内包されている状態で、全く違ったものではなく、限りなく近いものだということが分かります。
正しい行為の中には、美しさも含まれていますし、正しい道を進む為には勇気も必要だったりします。そして、勇気ある行動もまた、美しい行動だとも言えます。

これは、先程のプロタゴラスの主張とは異なりますよね。
というもの彼は、それぞれの徳目は違った性質を持つものだと主張していたからです。

ソクラテスが、アテレーにおける徳目とは、1つ六面体のそれぞれの側面のように、基本的には同じだけれども、観点が変わる事で見え方が変わるのかと聞いた時に、それを否定し、プロタゴラスは顔のようなものだと答えました。
それぞれの徳目は、目や口や耳といった、全く別の働きを持つ器官で構成されていると主張していたのですが、先程の考察によると、それぞれの徳目は他の徳目の特徴を内包している、かなり似通ったものだという事になってしまいます。
他の徳目の特徴を内包しているとは、正しさの中には美しさが宿っているし、勇気の中には正しさが宿っていると言った具合に、単独で存在しているわけではないということです。

この主張を聞いたプロタゴラスは、『正義と敬虔には似ている部分や共通する部分があるけれども、だからといって同じというわけではない。 でも、ソクラテスがそう思いたいんであれば、それで良いよ。』と諦めムードに入ります。
しかし、ソクラテスは妥協を許さない男なので、そんな忖度は許しません。 ソクラテスの主張に対して納得がいかない部分があるなら、納得はせずに十分に吟味をして欲しいと要求します。

全く違った者同士にも共通点は有る

これに対してプロタゴラスは、『全く違うもの』とされているものであっても、共通点を探そうと思えば探せることを指摘します。
例えば、黒と白は正反対の色のように思えますが、色という点では共通していますし、互いに色という枠組みの中に入っています。 黒が色だからといって、その真逆に位置する正反対の白は色ではないとは言えないわけです。
硬いものと柔らかいものは正反対ですが、別の観点からみると、互いに触った際に感触が有るものという点では共通しているともいえます。

先程の顔と、それを構成するパーツの例でいうならば、全てのパーツの原料はタンパク質ですし、目と耳と鼻と口は、脳に情報を伝えるという部分において共通した機能を持っています。
それぞれが取り扱う情報は違っていて、目は光、耳は音、鼻は匂い、口は味といった違いがありますが、脳に情報を伝えるという点においては、同じ機能を持っているといえます。
これと同じ様に、正義と敬虔は、全く違うものでは有るけれども、その中に共通点が全く無いかと言われれば、そんな事は無いと答えるしかないだろうと、プロタゴラスは主張します。

これを聞いたソクラテスは、『正義と敬虔には、その程度の差しかないのですか?』と驚いた様子で質問仕返すも、プロタゴラスはソクラテスを説得する気が削がれている状態なので、この議論を辞めてテーマを移すことにします。

この部分のパートは、ソクラテスが議論に勝つ為に詭弁を使って相手を陥れているようにも捉えられますが、実際にはそういう事ではないのだと思います。
プロタゴラスが、議論にやる気を無くし、『君がそう思いたいんであれば、そうなんじゃない? 君の頭の中ではね。』といった投げやりな態度をとった際にも、自分の発言で疑問に思う点が有るなら指摘して欲しいと懇願しています。
ソクラテスが議論において目指している事は、議論に置いて相手を打ち負かすことではなく、真実に到達する事です。

この目的を果たす為に必要なのは、自分が正しいと思い込んでいる考えを、それ以上の正しい指摘によって打ち砕いてもらうというのを延々と繰り返していくしかありません。
ソクラテスは、プロタゴラスの主張に対して疑問に思った点について質問をぶつけたので、プロタゴラスに対しても同じ様に、自分の主張に間違った点があれば指摘して欲しいと主張しているわけです。

ですが、プロタゴラス側に立って、この対話を見てみると、『無知だから、私に教えてください。』と言ってきた相手に教えだした所、相手はこちらの話を疑って、頑なに信用せずに反論ばかりしているようにも思えてきます。
教えを請いに来た相手が、こちらの話すことを全く信じないと分かれば、それ以上、話す気が無くなってしまうのも、分かる気がしますよね。

ソクラテスは、プロタゴラスがやる気を無くしているのを感じ取り、別のテーマに移行するのですが、その話は次回にしていきます。
(次回)
kimniy8.hatenablog.com