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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その2

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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徳は教えられるもの

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kimniy8.hatenablog.com

プロタゴラスの主張としては、徳とは他人に教えられるものというものだったが、ソクラテスは、徳が教えられるものであるなら、徳が高い人間の子供は徳が高いはずだが、現実を見るとそうとは限らないといって、その主張に反対する。
この主張に対してプロタゴラスは、『才能』の有無で説明をしだす。

プロタゴラスの主張では、全ての人間は徳を備えているとのことだったけれども、完全に平等に備えているのかといえば、そうとは言えないと主張します。
ゼウスは、人類に対して徳を授ける時に、全ての人に行き渡るように配分をした為に、人類は徳の核のようなものは平等に授かったけれども、それを応用発展させる力そのものは、個人の才能によるという事です。

例えば、運動神経の良い人は、スポーツのコーチから同じ様に指導を受けたとしても、才能のない人に比べて上達も早く、トレーニングを積み重ねることで、常人には追いつけないような場所にまで到達することが出来ます。
これは学問などの知識の分野でも同じで、同じ様に授業を受けているのに、僅かなヒントで問題を解く方法を思いついて発展させていく人もいれば、落ちこぼれる人もいます。
徳も同じで、全ての人が徳という概念や核の様なものを持ってはいるけれども、才能がない人間は、徳を伸ばすことが出来ないという事です。

共同体を作る人間にとっては、徳が高い人達が増えれば増える程に、その共同体は住みやすくなるわけなので、全ての人間は他人に徳を教えようとするが、才能がない人間は、それを吸収することも発展させることも出来ないということ。
では、才能のない人間は諦めるしか無いのかというと、そうではなく、才能がなければ無いなりに、徳を学習する方法はあると主張します。
この徳の学習方法というのが、前回にも書いた、習いたくない分野は習わせず、興味のある分野だけに特化して学習するという勉強方法なのでしょう。

このプロタゴラスの主張は、それなりに納得できるものがあります。
というのも、どんな分野であれ、極める為には他の知識が必要になってくる為、結局の所、総合的な勉強をしなければならないからです。

教える才能がない教師は、『将来必要になるから!』という漠然とした言葉で、算数嫌いの人間に無理やり算数ドリルをやらせたりするわけですが、本人が興味がない状態で勉強をさせたとしても、それは身につきません。
しかし、その人物が建築に興味を持ち、大工に弟子入りした場合はどうでしょう。 最初こそ、道具の手入れの仕方や材料の加工の仕方などの勉強しかしませんが、建築全般に興味を持ち、建築士を目指すようになると、建物の耐久性を計算する為にも数学に興味をもつことになるでしょう。
建築は建物の外観も重要ですから、デザインにも興味が湧くでしょうし、歴史的建造物のデザインの背景を探るためには、歴史も勉強しなければならないでしょう。

勉強をする目的がはっきりする事で、学問に対する捉え方が変わります。
これは徳も同じで、共同体のあり方などを勉強していくと、自分ひとりのワガママを通すことが、結果的に自分の損失につながる事が理解できるようにもなるかもしれません。
能力を伸ばす力は才能に依存しているため、全ての人間が同じ様に徳を高めることが出来ないですが、才能がないからといっても全く身につかないわけではなく、才能が無いなら無いなりに身に着けることは出来るというのが、即れてすの反論に対しる返しとなります。

徳とは何なのか

プロタゴラスの主張によると、徳とは教えられるものという事らしいですが、では、その徳の本質とは何なのでしょうか。 プロタゴラスは、何を教えるのでしょうか。
彼に言わせれば、それは『正義』『節制』『敬虔(けいけん)深く敬って態度を慎む様』からなるものだそうです。
人間が持つ徳とは、人間が共同生活を円滑に送るためにゼウスが人間に授けたもので、それを達成するのに必要不可欠なのが、この3つというわけです。

確かに、正義がなければ秩序が保てませんし、皆が欲しいだけ欲しいと欲望を丸出しにすれば、これまた社会は保てません。
皆が、この共同体の中では自分が一番だと思って行動すれば、色々な軋轢が生まれるでしょうから、安定した社会を保つためにも、この3つは必須と言えるかもしれません。

ですが、ここで問題が出てくるのが、徳とは、その3つが揃ったときなのか、それとも、その3つそれぞれが徳というものなのかという事です。
それぞれが徳というものであるなら、徳という一つのものが、『正義』『節制』『敬虔』という3つのものに分裂したことになります。
3つ揃った時とするならば、では、その1つが欠けた行動。例えば、正義も節制も備えているけれども、敬虔だけが抜けた行動を取った場合、その行動は徳とは言えないのかという疑問です。

プロタゴラスの主張としては、徳というのは1つのものであるけれども、様々な側面を持っている。例えば、サイコロというのは1つのものだけれども、サイコロには6つの面が存在するということです。
正義・節制・敬虔などは、徳が持つその1面であって、それぞれが徳そのものというわけではないという事。
では、正義・節制・敬虔の中の1つのものを手に入れれば、他の全てのものが手に入るのかというと、これはそうでもないらしいです。勇気を持っていても、知恵が無いものも存在するからです。

ここで、新たに『勇気』と『知恵』というものも、徳の側面の1つだと追加されてしまいました。
徳という、ただ1つのものの正体を聞いただけなのに、その正体はドンドン増えていきますし、また、それらが正体なのかというと厳密にはそうではなく、それらはただの側面でしか無いという状態になってしまいました。

ソクラテスが、何故、このような質問を投げかけたのかというと、日常での徳の使われ方とのギャップを感じたからでしょう。
現実世界では、正義に則った行動をすれば、徳の高い行動だという事で他人から尊敬をされます。 その他にも、美しいふるまいをすれば、同じ様に尊敬や憧れを獲得することが出来るでしょう。
節制や慎み深さも同じで、それぞれ単独の徳目が宿った行動をしただけでも、徳の高い行為として尊敬や憧れを得ることが出来ました。

つまり、日常的な使われ方としては、『正義』『節制』『敬虔』それに、『正義』や『誠実』が単独で宿った行動は、全て徳が高い行為だと認識されているという現状が有りました。
その為、これらそれぞれが単独で徳と呼ばれる存在なのか、それとも、全て揃わなければ徳とは言わないのかという疑問が出てきたのでしょう。
また、それぞれが徳で有るなら、三段論法によって、正義や節制などの徳目は、全て同じものということになり、1つを手に入れる事で全てを手に入れる事も、理論上は可能になります。

これに対してプロタゴラスは、正義や節制などは、同じものでは無く、徳の1面に過ぎないと主張します。
同じものではない上に、徳という1つのものの1面とはどういう事なのでしょうか。
先程は、分かりやすくサイコロに例えましたが、サイコロの目が無い、ただの六面体で考えた場合、それぞれの面に違いはなく、側面や上面の様に見方が変わるだけ、本質的には同じものです。

しかし、プロタゴラスの主張によると、それぞれの徳目は同じものでは無く、徳の部分を表すものだと答える。
この説明を聞いたソクラテスは、『徳とは、目や口や鼻といった、それぞれ別の働きをする器官がついている、顔のような存在なのですか?』と質問をすると、プロタゴラスは、これに同意する。

徳とは性質の違う徳目で構成されるものなのか

先程の話をまとめると、徳というのは、正義・節制… といった感じで、複数の徳目によって構成されていて、その徳目は、同じ性質を持つものではなく、全く違った声質を持つものだということになりました。
しかし、果たしてこれは正しいのでしょうか。

例えば、正義という言葉は正しいという言葉が入っている為、意味合いとしては正しい行動という性質を持っています。 では、他の徳目は、正しいという性質を備えていないのでしょうか。
節制は正しくないことなのでしょうか。 勇気ある行動とは、正しい行動とは言えないのでしょうか。
一般的な感覚としては、勇気には正義が伴っていなければならないでしょう。 例えば、『自分の利益の為に勇気を出して弱者から搾取するという』という行動には、違和感を感じてしまいます。

その他の徳目も同じで、悪いことに知恵が使われれば悪知恵となり、他人を貶める悪い行動となってしまいます。 知恵は正しいことに使われなければ、徳とは言えないでしょう。
つまり、これらの徳目というものは、それぞれ単独で存在しているものではなく、相互に関係し合って切り離せないような関係にあるわけです。 それぞれの徳目の中には、他の徳目が内包されている状態で、全く違ったものではなく、限りなく近いものだということが分かります。

これは、先程のプロタゴラスの主張とは異なります。
というもの彼は、それぞれの徳目は違った性質を持つものだと主張していたからです。 ソクラテスが、徳における徳目とは、1つのものの六面体のように、基本的には同じだけれども、見方を買えているだけなのかというと、それを否定し、プロタゴラスは顔のようなものだと答えました。
目や口や耳といった、全く別の働きを持つ器官で構成されていると主張していたのですが、先程の考察によると、それぞれの徳目は他の徳目の特徴を内包している、かなり似通ったものだという事になってしまいました。

この主張を聞いたプロタゴラスは、『正義と敬虔には似ている部分や共通する部分があるけれども、だからといって同じというわけではない。 でも、ソクラテスがそう思いたいんであれば、それで良いよ。』と諦めムードに入ります。
しかし、ソクラテスは妥協を許さない男なので、そんな忖度は許しません。 ソクラテスの主張に対して納得がいかない部分があるなら、納得はせずに十分に吟味をして欲しいと要求します。

これに対してプロタゴラスは、『全く違うもの』とされているものであっても、共通点を探そうと思えば探せることを指摘します。
例えば、黒と白は正反対の色のように思えますが、色という点では共通していますし、互いに色という枠組みの中に入っています。 黒が色だからといって、その真逆に位置する正反対の白は色ではないとは言えないわけです。
硬いものと柔らかいものは正反対だが、互いに触った際に感触が有るものという点では共通している。 これと同じ様に、正義と敬虔は、全く違うものでは有るけれども、その中に共通点が全く無いかと言われれば、そんな事は無いと答えるしかないだろうと答えます。

これを聞いたソクラテスは、『正義と敬虔には、その程度の差しかないのですか?』と驚いた様子で質問仕返すも、プロタゴラスのやる気が削がれている状態なので、この議論を辞めてテーマを移すことにします。

この部分のパートは、ソクラテスが議論に勝つ為に詭弁を使って相手を陥れているようにも捉えられますが、実際にはそういう事ではないのでしょう。
プロタゴラスが、議論にやる気を無くし、『君がそう思いたいんであれば、そうなんじゃない? 君の頭の中ではね。』といった投げやりな態度をとった際にも、自分の発言で疑問に思う点が有るなら指摘して欲しいと懇願しています。
ソクラテスが議論において目指している事は、議論に置いて相手を打ち負かすことではなく、真実に到達する事です。 この目的を果たす為に必要なのは、自分が正しいと思いこんでいる考えを、それ以上の正しい指摘によって打ち砕いてもらうというのを延々と繰り返していくしかありません。

ソクラテスは、プロタゴラスの主張に対して疑問に思った点について質問をぶつけたので、プロタゴラスに対しても同じ様に、自分の主張に間違った点があれば指摘して欲しいと主張しているわけです。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考文献