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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

会田誠氏の公開講義がセクハラだと訴えられた件について考えてみた

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昨日の事ですが、Twitterを眺めていると、『会田誠さんの公開講義がセクハラで訴えられる』といった記事の紹介がタイムラインに上がってきました。
www.bengo4.com

この記事を呼んで、いろいろと思うところが有ったので、今回はこの事についての考えを書いていきます。

出来事の要約

事の発端は、原告の京都造形大出身で美術モデルをされている大原直美さんが、卒業後に京都造形芸術大の東京キャンパスで行われた、『芸術の永遠のテーマ『ヌード』を通して美術史を知る 人はなぜヌードを描くのか、見たいのか。』というテーマの公開講座を受講したところ、その内容にセクシャルな表現が含まれていて、精神的苦痛を受けたようです。
記事内で、問題がある講義を行ったとして名前が出ているのは、会田誠さんと鷹野隆大さんの二人。

原告の大原直美さんは、全5回講座の第3回の時点で会田誠さんの講義で精神的苦痛を受け、動悸や吐き気、不眠の症状がつづき、急性ストレス障害の診断を受け、大学側に苦情を入れたようです。
しかしその後、第五回の講義にも参加して、また不快な物を見せられた為に、堪忍袋の緒が切れてしまったようです。

当然のように大学側に講義をし、大学側はセクハラを認めて示談になると思いきや、大学側が、『もう貴方とは関わり合いになりたくないから、一切の関係を切りたい。 また、今回の件は公にしないように。すれば名誉毀損だから』と言い出した事で腹を立て、今回の訴えに発展したようです。
具体的な訴えの内容を、先程のリンクから一部を引用しますと
代理人の宮腰直子弁護士は「大学は、セクハラ禁止のガイドラインをもうけており、公開講座を運営するにあたっても、セクハラ対策をすべきだった。作家の作品の是非や、セクハラ言動そのものでなく、そうした環境を作り出したことに問題があった」
とのことです。

ちなみにですが、公開講座の受付ページはこちらになっています。
air-u.kyoto-art.ac.jp

会田誠が参加する部分の内容の紹介文として、『たぶん芸術と対立概念になりがちなポルノの話や、第二次性徴期の話、フェミニズムの話なども避けては通れないでしょうね。』と、そして、第5回のテーマの紹介文には『ヌード表現とセクシュアリティの関係を歴史を振り返りながら再考します。』と書かれています。
原告の大原さんは、この部分の説明文を読まずに参加したか、もしくは、読んだけれども、内容がそれ以上だった為に精神的ショックを受けたのでしょう。

ネットの意見

この話題が出だした当初に私がTwitterで検索した限りでのネットの反応としては、『ヌードがテーマで会田誠さんが講師なら、そんな内容になるよね? 事前に調べてなかったの?』という意見が8割ぐらいの印象です。
私自身は会田誠さんの事を知っていて、画集も持っているので、最初に印象を抱いたのもこれ。わざわざ大学の公開講義を探し出してきて応募する人が、それに携わる講師も検索しないのかというのか?と疑問に思いました。

この他には、少ないながらも、『会田誠さんは誰でも知ってるような人物じゃない。』といった感じで、会田誠さんを知ってる前提で議論している人たちに対して『マウントをとっている』と避難している人達。
この主張も分からなくはありません。 私は、美大出身でも何でも無い高卒ですが、少し美術に興味が有って、美術系の手例番組を観る習慣が有ったので知ってましたが、知らない人も大勢いるとは思います。
原告の方は京都造形大学出身で美術モデルをされている方のようですが、絵画とかインスタレーションには全く興味がなく、会田誠さんを知らなかったという可能性もあるでしょう。

しかしその後、記事をもう一度読み込んで疑問に思ったのは、第3回で精神的ショックを受けて大学側にクレーム入れた人が、その1ヶ月後に開かれた第5回の講義に参加し、全く同じ被害を訴えている点です。
何をもって普通というかは置いていて、自分が受け入れられない強烈なショックを受けたテーマの講義を、もう一度受けようと思う場合、次は失敗しないように講師を検索すると思うんですよ。
その講師がどんな人となりで、どんな思想を持っていて、作品を発表しているのかを調べる時間は十分あったと思うんです。 というか、有名講師を呼んでの公開講義は、まず講師がどんな人物か知ってる人が行くもんだと思うんですが、テーマに惹かれて参加しただけの人でも、1回失敗したら、次は慎重になるはずですよね。

それもせずに参加して、またセクハラ被害を訴えているのが疑問です。

ネットの意見の中には、『講義内容が自分に合わなければ、退出すれば良いじゃないか。』といった意見も有りましたが、私自身が気が弱いので、『合わないから出る。』といった選択肢が取れない人の気持ちは理解できます。
でも、私のような弱い人間は、自分の判断で退出できない気の弱さが有るからこそ、自衛の為にも、同じ失敗は繰り返さないように気をつけます。
それをしていない部分については、ちょっと理解が出来ないです。

自分がクレームを入れたんだから、次は講義内容が修正されるはずと思ったのでしょうか。
でも、それってどうなんでしょう。 表現の自由を突き詰める美大で、クレームが有ったから表現を変えますって事をするのでしょうか。

名前を出された会田誠さんは、『表現の不自由』というテーマで自身の考えを発表していますが、クレーム対応で表現を変えるというのは、その考えと対立する考えのように思えます。

施設はどこまで告知するのか

今回の事ですが、会田誠さんの名前とセクハラという言葉が全面的に出てはいますが、訴えの内容としては、芸術家の表現を規制しろと主張しているわけではなく、大学側の対応が悪いという主張です。
表現の自由には口を出さないが、今回の原告の様な被害者を出さない為の対策が足りないと主張しているわけで、つまりは、ひと目で講義内容が分かるように注意喚起すべきだという主張なのでしょう。

でも、告知ってどこまですれば良いのでしょうかね。
今回の公開講義も、第3回と第5回のテーマは、アートとエロスの境界線を探るという事で、セクシャルな表現を話すと告知されていますが、それでは足らないという事なのでしょうか。
ということは、講師の方にはフリートーク的な講義は止めてもらって、話す内容を1度原稿に起こして、どんなセクシャルな表現をするのかを細かく書かなければならないという事になります。

でもこれって、公開講義だけの話で収まるんでしょうかね。
例えば映画の場合、自分が想像していた話ではなかったり、不快な映像が流れる場合もありますが、その場合に備えて、映画館は注意書きを書いて、同意した人だけ観られるような体勢を整えないと駄目なんでしょうかね。
例えば、『この作品には、キスシーンがあります。』『この作品には、直接的な性の描写があります。』『この作品には、男女の性交を匂わせる表現があります。』『この作品には、直接的な性描写はありませんが、男女がダンスを踊ることによって、性描写を表現しています。』といった事を全部明記した上、同意した人のみ入れるようにするべききなのでしょうか。

仮に、こんな事をすれば、ネタバレ警察が殴り込んでくることでしょう。

そもそも美とは何なのか

原告の方は、アートに美しさだけを求めている為に、それ以外の表現が受け入れられないのかもしれません。
美しい裸体を美しく描くことが美術だというのは、文章で書くと簡単なことですが、では、『美』とは何なのでしょうか?

美しいヌードとは、顔のパーツの配置のされ方が絶妙で、プロポーションが最高な人を最高の技術で描く事が、『究極の美』なのでしょうか?
そもそも、何を持って美しい。美のイデアとはどんなものなのかといった事は、二千年以上考えられてきたのに答えが出て無いものです。

現状で美しいとされている人を美しく描いたところで、そこに普遍的な美のイデアが確実に宿るとはいえません。 逆に、美しくないとされているプロポーションをしている人を描いたとしても、そこに美が宿る場合もあります。
美とは造形美なのか、演出できるものなのか、本能的なエロスを含むものなのか。それとも、それを超越した何かなのか。
芸術家と呼ばれる人は、美のイデアが何に宿るのかを追求するのが使命だったりします。

その為には、余計なものをドンドンと削除していき、最終的に根本的なものだけを残そうとするミニマル的なアプローチも有るでしょうし、逆に、美しいとされているものに対して、残虐性や痛さといった要素を付け加えていき、どこまでが美しいと言えるのかといった挑戦方法もあるでしょう。
いろんなアプローチで美に関する作品を生み出し、それを一般公開する事で社会の反応を感じ、普遍的な美を解明しようというのが美術の役割ともいえます。
当然のことながら、この様な作業の大きな障害となるのが、表現規制です。 表現が規制されてしまえば、普遍的な美に対する追求の手を緩めざるをえません。
その為、一部の人達は表現規制と戦いながら、ギリギリのラインを攻めていくわけです。

つまり、『美しいものを美しく書くだけで良い。』と言葉では簡単に書けますが、それを実行する為には普遍的な美を追求しなければならず、普遍的な美を追求する為には、エロ・グロ・ナンセンスというものも手法として使われる。
今回行われた公開講座には私は参加していない為、講義内容は想像することしか出来ませんが、美とエロ・グロ・ナンセンスの関わり合い方などを考えていくような内容だったのではないでしょうか。

講師の方々は、普遍的な美のイデアが分からないが為に、社会実験的に様々な作品を生み出しては社会の評価にさらしてきて、今尚、美について考えているのでしょう。
その思考方法が受け入れられないというのは人それぞれなので、悪い事とも良い事ともいえませんが、アプローチそのものを否定するというのはどうなんだろうとは思ってしまいます。

大学側の対応

今回の争点となっているのは、芸術家の活動云々ではなく、大学側の対応のようです。
公開講義の内容について抗議したところ、大学側はセクハラを認め、示談になる直前までいったそうなのですが、その際に大学側が、『今回の件を公表しないこと。』と『二度と大学側にかかわらない事。』を条件として出した事が原因で、訴えに発展したようです。

原告側だけの主張で、双方の意見がわからない為に、想像でしか書くことは出来ませんが、個人的には大学側の言っている点も理解できます。
というのも、原告の方は、今回の件を公表しないことの理由として、有名人を保護する為に生徒を切り捨てたと主張していますが、本当にそうなのでしょうか。

例えば、真面目な紳士キャラで売っている作家がセクハラをし、それを口止めした場合は、イメージが崩れる事を恐れて口止めと言われても仕方のないことかもしれません。
しかし会田誠さんは、過去の自分のエロ・グロ・ナンセンスな作品を通して、自分のキャラを公開しています。
Twitterの反応も、『あの有名な芸術家の会田誠さんが、セクハラしたなんて!!!』といった反応は、私が検索した範囲では見つけられませんでした。

主な反応といえば、『会田誠さんを呼んでヌードを語ったら、そんな内容になる事は想像できるよね。』といった反応ばかり。
今回のことが公になったことで、会田誠さんがダメージを受けたのかというと、全くといって良いほど受けてはおらず、逆にTwitterで多くの人がつぶやいた事により、今まで会田誠さんを知らなかった人間に知ってもらえた為、利益のほうが大きい。
大学側が原告の言う通り、有名人を守る為に口止めをしたとは考えにくいです。

では何故、大学側は口止めをしたのでしょうか。
これは、情報不足の為に憶測になりますが、仮に、この示談で示談金が支払われる予定だった場合。 この事が公になると、二匹目のドジョウを狙って他の人間が示談金目当てに公開講義に殺到するなんて事も考えられます。
大学側としては、そのような事が起こると困る為に、示談にするなら、事を大きくしないようにしたかったとも考えられます。

『二度と大学側にかかわらない事。』という条件をつけたのも、個人的には理解できます。
私が仮に飲食店を経営はじめたとして、その店の客が『この料理は口に合わない!』とクレームをつけてきたとしましょう。
こちらが必死に謝って、何とかその日はやり過ごし、一安心していたところ、翌日、またその客がやってきて、全く同じ料理を注文し、『この料理は口に合わないぞ! 前に言ったよね?』とクレームを付けてきたとしたら?

私なら、『うちの料理はこの味なんです。合わないというのなら、料理の料金はいらないから二度と来ないでくれますか?』と言ってしまうでしょう。正直、関わり合いになりたくないですし、その為に時間を割きたいとも思いません。

やり取りが詳しくは公開されていませんし、これは私の想像でしかありませんので、実際には大学側が想像を絶するほど高圧的な態度をとってきた可能性も否定はできません。
ただ、既に公開されている情報だけを読み込むと、この様に感じてしまいました。

まぁ、セクハラというのは、本人の主観的なものなので、原告の方がどれ程のショックを受けたのかを私達が完璧に理解することは出来ません。
当然のように、他人が『大した事がない。』と決めつけられるようなものでも無いでしょう。
なので、この訴えをもって『大袈裟だ!』なんて事は言えません。

結果は見守ることしか出来ませんが、これを機に、表現規制が強化されたり、必要以上のゾーニングやネタバレ強制なんて事になると、住みにくい世の中になりそうだなとは思いました。