だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

バンクシーの裁断絵画問題を受けて 『美』について考えてみた

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先日のことですが、バンクシーといアーティストが書いた絵がオークションに出品され、競り落とされた直後に、額縁に仕掛けられていたシュレッダーによって、絵画が台無しになったというニュースがありました。
初めて、この話を聴いた時は、アートが持つカンターカルチャー的な側面を表現したのかななんて思ったのですが…
その後のテレビが、美術関連の仕事をしている人に取材して、今回の件についてのコメントを求めていて、その返答に対して『モヤッ』としたので、今回は、何故『モヤッ』としたのかについて、書いていこうと思います。

今回の件では、誰も損をしていない?

私が観ていたニュース番組に出ていた美術評論家によると
『今回の件では、誰も損をしていない。
むしろ、絵がシュレッダーで破壊されたことによって、1点ものになった事で、むしろ価値が上昇した。
関わった全員がハッピーになる演出で、流石、バンクシーって感じですね。』と仰ってました。

・・・
この発言、何か、引っかからないでしょうか。

私は、この発言を聴いて、大いに引っかかり、疑問を持ってしまいました。
この美術評論家にとって、絵画やアートとは何なのでしょうか?
お金を増やしてくれるアイテムなのでしょうか?

アートというものが、単純にお金を増やす為の錬金術の素材なのであれば、確かに、今回の件で損失を出した人間はいないでしょう。
その絵画に、美しさとか思い入れなど、一切の感情を抱くこと無く、単純に、『数年後にお金を数倍にしてくれる道具』であるのなら、この解説は的を得た解説なのでしょう。
しかし、アートとは、そのようなものなのでしょうか?

今回の出来事によって、少なくとも1枚の絵がこの世から無くなったわけですが、その『絵』が無くなった事で喪失感を抱く人間は、いないのでしょうか。

アートとは何なのか

古代ギリシャでは、『美』というものが重要視されましたし、その様な環境に生まれたソクラテスは、漠然とした抽象的な概念を、より具体的に考える習慣を広めました。
漠然とした抽象的な概念である、『美』とは何なのか。 何を持って、『美』と呼ぶのか。 誰の目から見ても確実に『美』と呼べる、絶対的な『美』という価値観は有るのか。
それが有るとして、では、『絶対的な美』とは、どのようなものなのか…
このような事が追求されていた為か、町中には石像や銅像が溢れ、今で言う芸術品と呼ばれるものは、今よりももっと身近にある存在でした。
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(私が現在プレイ中の、アサクリ オデッセイのスクショ)

しかし、現在はどうでしょうか。
古代よりも遥かに技術が進み、豊かになったことで余裕のある私達の身近には、どれ程の美術品・芸術品が有るのでしょうか。
むしろ、時代が進めば進むほど、身近にあるものは工業製品になってゆき、コストダウンの為に余計な装飾は省かれ、身の回りを見渡せば、そこに有るモノはシンプルで無機質な四角いモノや丸いモノだけになっていきました。

美術や芸術品は、美術館にお金を払って、ガラスケース越し観に行くものになり、より遠い存在となって行きました。
それと同時に、『美術品』という性質も、徐々に変わっていきました。
今の世界での『美術』とは、古代人が考えた、『誰にとっても美しいと感じることが出来る絶対的な美』ではなく、より、難解なものへと変化していっています。

今の時代の『美』

昔の『美』というのが、誰にでも直感的に感じることが出来る美しさを追求していたのに対し、そこから2500年たった今では、美術の基準そのものが変わってきたように思えます。
今の時代の『美』というのは、誰にでも直感的に感じることが出来る共通認識としての存在ではなく、勉強して知識を身に着けないと理解出来ないモノへと変わっていきました。

では、勉強をして知識を身に着ける事で、誰にでも『絶対的な美』が理解できるように、『美』が解明されたのかというと、そうでもありません。
『美』は勉強が必要な一方で、その価値基準は一部の人間が独占していて、ブラックボックス化しています。
どこからどう観ても落書きにしか見えないものや、ガラクタにしか見えないものも、美術界の重鎮が『いい仕事してますね』というだけで、天文学的な値段がついたりするのが、今の美術界です。
これを読んで、『いくらなんでも、落書きやガラクタには、美術的価値はないでしょ。』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは、大げさな表現ではありません。

例えば、美術のカテゴリーの一つで、マルセル・デュシャンが言い出した『レディーメイド』と呼ばれる物が有ります。
レディーメイドを簡単に説明すると、工場で機械的に作られているトイレの便器などを、アーティストが『これは芸術品!』と主張して、アーティストとしての自分のサインを便器に書いて、芸術品として出品したことから始まった流れです。
この便器も、一流の職人が作った一点物とかではなく、工場で大量生産されている、ごくごく普通の便器です。
『レディーメイド』という言葉そのものが、『オーダーメイド』の対義語で、意味合いとしては既成品という意味が有るので、本当に、ただの便器です。
その便器に、アーティストがサインをしただけで、その便器は美術品となり、美術館に飾られて、関連グッツが売り出されるモノとなるのです。

誤解のないようにしておくと、アーティストのサイン自体に価値が有るから、便器の値段が上昇したのではなく、アーティストがサインをした事によって、便器が美術品になったという事です。
この理屈が通るのであれば、対象となるものは何でも良いわけです。 その辺りの河川に流れ着いた流木でも、そこに転がっている石でも、誰かが鼻をかんで丸めたティッシュでも良いのです。
誰かが『これには価値があるよ!』といって、みんながそれを信じれば、対象は何であっても良く、大切なのは、人々を説得する為の権威で有ったり、説得力でしか無いわけです。

美術 = お金

先程の説明で、美術品や芸術品に大切なのは、そこに秘めている美しさではなく、権威付けと説得力だと書きましたが、これと全く同じ構造のものが、私達の身の回りにも存在します。
それが、お金です。 私達は、お金の為に自由時間を削って働き、お金の為に争い、お金の為に一喜一憂する生活を送っています。

しかし、冷静に考えて、お金ってなんでしょうか。 その材料を注意深く観てみると、効果の材料は金属ですし、紙幣の材料は紙とインクでしかありません。
では何故みんなは、この金属や絵が刷られた紙の為に、時には命を失うような危険なことまでするのかというと、これらの金属や紙には、中央銀行と呼ばれる機関が『これらのものには、価値があるんですよ!』と信用を付け加えたからです。
みんなは、権威ある中央銀行を信用して、『お金』というのは価値の有るものだと思いこんでいて、実際にお金で経済が上手く回るというサイクルが出来上がっている。
ですが、このサイクルは皆が『価値が有るもの』と思い込んでいることで成り立つ不安定なもので、背景となっている権威やシステムが崩壊すれば、ただの金属と紙切れになってしまいます。

これは、今の美術品も同じでしょう。 日々、大量に生み出される美術品の中から、美術界の大御所の目に留まりやすく、且つ、プレゼンしやすいものに権威付けが行われて、価値が上昇する。
こういう構造では、アーティストは、自分が考える『美』を追求した品ではなく、大御所の目に留まるような商品を作らなければならない。 これは、アーティストにも生活が有るから、当然ですよね。
結果として、アーティストは評論家の人達の目に留まりやすく、それを使用することで上手い具合の大喜利が出来るような素材を作らされる…

評論家は権威を得る事で、どんなものにでも価値を付加することが出来るようになるので、その権威を得る為に必死に勉強をし、権威を持っている評論家に気に入られる為に、上のものを必死で持ち上げる。この構造により、権威はより強固になり、絶対的なものとなる。
しかし、その大本の権威が揺らいだらどうなるのでしょうか。 現代に生み出された美術品は、それでも普遍的な価値を維持し続けることが出来るのでしょうか。

本当の価値とは何なのだろう

結局の所、現在に置ける価値とは、権威を持つ人間が『これは価値がありますよ!』といったものが価値があるモノなのでしょう。
その根拠は、特に無くてもよいのでしょう。
最初の話しに戻りますが、この絵は、シュレッダーで切り刻まれる前に、一億数千万円の値段が付いていました。 しかし、シュレッダーによって、その絵の価値そのものは無くなったはずでした。

しかし、価値の無くなったはずのその絵は、オークションにかけられた事によって、何故か『完成した』事になり、更に多額の評価額が付くことになりました。
では、最初の値段は何だったのでしょうか。 彼らは、未完成品を絶賛していたのでしょうか。
それとも、最初の絵を評価していたけれども、その絵が作者の仕掛けによって台無しにされてしまった。その状態を放置すれば、今後、オークションで芸術品という名の『資産を何倍かにしてくれる素材』を購入する人が減る可能性が有る。
つまり、オークションの客が減る可能性が有るので、『オークション会場で商品をシュレッダーによって細切れにした』という状態そのものに値段を付けて、購入者の資産の目減りを抑えたのでしょうか。

どちらにしても、詭弁にしか聞こえませんし、そこに普遍的な『美』は無いような気がするのですよね。