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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その7 『不正で幸福になれるのか』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com
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不正を行いながら幸せになれた人

前回までの話では、行動の善悪は目的の善悪によって左右され、目的の善悪は正義の有無によって決まることがソクラテスによって語られた。
ソクラテスによれば、目的が正義によって決められていれば手段も正当なものとなり、その様な一連の行動は人を良い状態へと導き、幸福になれるという考え方だった。

しかしポロスは、この意見にも納得ができない。 何故なら、不正を行いながら幸福と呼べる人生を謳歌している人間を知っているからだ。
この人物は、マケドニアの王。 この王は王族と奴隷との間に生まれた子供で、王位継承権が有るもののかなり下で、普通であれば、惨めな人生を送っていた人物だった。
だが、ライバルとなる王位継承権を持つ人間を次々に騙し討にして暗殺していき、全て排除した後に、自分が王として君臨した。

本来であれば、奴隷の子として惨めな人生を送るはずだった人間は、殺人を犯すという最大の不正を行い続けることによって、国家の長となることが出来、富と権力を手に入れた。
ソクラテスの主張では、不正を働くものの目的は悪いものなので、不正を行い続けた王は不幸になっていなければならないはずなのに、この人物は幸福になっている。
このエピソードは、ソクラテスの主張に反するのではないだろうか。それともソクラテスは、この人物が不幸とでもいうのだろうかと質問する。

しかしソクラテスは、この問いに対して答えられない。
何故ならソクラテスは、この人物の名前を聞いたことがある程度で、実際にあって話したことがなく、面識がない状態だったからだ。
ポロスからの一方的な話を聞いたところで、その人物の心の中まで見通すことなど出来はしない。また、人を外側から見ただけでは、アテレーをどの様に捉えているのかは分からない。

しかし、仮にその者が不正を働いていたとしても、捕まって裁きを受ければ幸福にはなれると主張する。

不正を行う者と被害を受ける者はどちらが害があるか

ポロスはこの点にも納得ができない。 せっかく不正を行って成功して絶対的な権力を得たのにも関わらず、不正がバレて捕まってしまえば元も子もないじゃないかと。
これまでのポロスの意見をまとめてみると、『人を支配できる権力が欲しい。』『不正を行うよりも、行われる方が不幸だし哀れだ。』『不正を行ってバレなければ良いば、バレて裁きを受けるのは悪いことだ。』
…となり、かなり一般人の感覚に近く、その一方でソクラテスの意見はというと、その逆の主張をしているというのが分かる。

しかしソクラテスは、『順序立てて考えていけば、ポロスも他のモノたちも、自分と同じ様な考えになる』と断言する。

そして順序立てて考えるために、ポロスと議論に際しての前提条件を確かめ合う為に、ポロスに質問をする。
まず、不正を行うのと受ける方では、どちらが悪く害があるのかを確認し、不正を受ける方が害がある事を確認する。(ポロスは不正を受ける方が哀れだと主張していたから)
次に、より醜いのは不正を行う方なのか、受ける方か何方かを確認し、不正を行う方が醜い事を確認する。

この質問を受けてソクラテスは、より醜いのが不正を行うほうなのであれば、悪いのは不正を行うほうだと言い出す。
ポロスは到底、受け入れられない。しかしソクラテスは、ポロスが受け入れられないのは、美しい事と良い事は同じではないし、醜い事と悪い事は同じではないと考えているからだと指摘する。
そして、美しさ=良さ と 醜さ=悪さについて説明しだす。 (注意して欲しいのは、美しさや醜さは、単純な造形の差だけではないということ。)

美しいとはどの様な常態か

まず、美しさや醜さについて考えてみる。

そもそも人が美しいと思うのは、何らかの点において優れているものの事を美しいと表現している。
例えば人間の身体を例に取れば、より重いものが持てるだとか、柔軟性が有るとか、そういったものを美しいと表現している。
プロポーションや造形美にも美しさは有るが、それは身体の機能に裏付けられた造形美であり、力強く持久力と柔軟性が有る肉体のプロポーションを美しいと表現している。

食糧不足で細い人間しかいない地域では、太っている事が魅力的だとされる場合もある。 プロポーションそのものに絶対的な美の基準はなく、卓越性を宿したものが美しいと表現される。
そして、美しいと感じるものを見続けるのは、心地よいことであり、言い換えるなら快感ともいえる。 
当然、この逆が醜いとされるもので、力もなく、柔軟性もなく、持久力もない肉体は美しくない肉体とされる。

つまり、美しい肉体とは卓越した肉体で、観るものに快楽を与えるものの事であり、醜い肉体とは真逆の存在で、害があり、苦痛を伴うもの言い変えることが出来る。

ポロスは、不正を行うのと受けるのとでは、どちらが醜いのかと聴いた際に『不正を行う方が醜い』と答えたが、先ほどの話に当てはめるなら、醜いとされた不正を行うほうが悪い事になる。
では、不正を行うという行為は、どの点において悪いのだろうか。 害が有る点についてなのか、不快だからか、それとも両方なのか。
不正を行う行為は他人に害悪を撒き散らす行為なので、この行為は害悪が有る点で醜い行為といえる。

不正はバレた方が幸せなのか

ソクラテスは、この議論を開始する前に前提条件を確認したが、その際の質問は、不正を行うのと受けるのは、どちらが害悪が有るのかというものと、どちらが醜いのかという質問だった。
しかしこの質問は、聞き方を変えているだけで、質問内容はほぼ同じだったことが分かる。 にも関わらず答えが変わるのが、そもそもおかしい。
では、この両者を比べた場合に、どちらが害悪が大きいのか。 他人に不正をして害悪を振りまく方が害悪が大きいのか、それとも、その被害に合う方が害悪が大きいのだろうか。

これを考えるには、次のテーマと合わせて考えるほうが分かりやすいかもしれない。
次のテーマは、『不正を行っている場合、バレた方が良いのかバレない方が良いのか。』

物事には、行為を『行う方』と『行われる方』が存在する。 『する方』と『される方』が取り扱うものは全く同じもので、両者の天秤は釣り合っている。
例えば、殴るという不正行為を例に挙げると、殴る人間がいれば、殴られる人間が存在する。 この『殴る力』は全く同じものとなる。
分かりやすく数値で説明すると、100万円を貸した人間がいるということは、100万円を借りる人間がいるということ。 貸した金額が100万円なのに、借りてる金額が10万円ということはない。
100万貸したら、借りては100万借りていることになる。 この両者の金額は絶対に釣り合う。

これを先程の、『不正を行うものと不正を行われるものは、どちらが悪く害のある行動なのか』という例に当てはめると、不正を行う方と行われる方の『不正』は同じもので、同じ悪という事になる。
不正を受ける方が悪いというのであれば、不正を行う側は、受けている方と同じ大きさの悪を他人に押し付けている事になる。
では、悪を押し付ける行為と悪を押し付けられる行為では、どちらの方が醜いのだろうか。 この質問にポロスは『押し付ける方だ』と答えているので、醜く悪く害のある行為は、不正を働く方ということになる。

次に、不正を行っている場合に、バレた方が良いのか悪いのか。
この問題も先程と同じで、一つの物事を『行う方』と『行われる方』に分けて考えてみる。

不正がバレるということは、不正を暴く側がいるわけだけれども、では、不正を暴くことは良いことなのか悪いことなのか。 当然、不正を暴く事は良い事といえる。
つまり、不正を暴かれるという行為は、不正を暴くという良い行為を押し付けられているのと同じという事になる。
裁きによる刑罰も同じで、不正が行われない正当な裁きが下されて刑罰が執行されるのは良い事で、これを押し付けられる告発された側は、良い行いをされたという事になる。

別の表現をすると、人間を身体と魂に分けるとすると、不正を行って悪い状態というのは、魂が悪に染まって悪い状態といえる。
この魂の悪い状態を身体に例えると、身体が悪い菌に侵されて病気になっている状態ともいえる。 この状態で、治療を受けずに放置しておくことは、患者にとって良いことなのだろうか。
当然のことだが、身体が悪い状態で放置しておけば、病気はさらに悪化して取り返しの付かないことになる。 魂も同じで、早い段階で不正を取り除くという治療を行って処置しなければ、手遅れになってしまう。

では、不正を取り除いて魂を浄化するにはどうすればよいのか。
それは、不正が暴かれて、正当な裁きが行われて刑罰が執行されること。裁きと刑罰は、人に善悪を教えて身をもって学習させるために行うのだから、正当に裁かれることで魂は浄化される。
しかし、大抵の人間は、不正がバレて刑罰が執行されるのを恐れる。 これは、歯磨きも定期検診も怠ってきた人間が、虫歯になって歯が傷みだしているのに、『歯医者が怖い』といっているのと同じ。

眼の前の恐怖に目が奪われて、それを放置した際の最悪の状況を想定できていないだけ。 治療は早く行えば行うほど、危険性は低くなる。

相手を憎むのであれば不正を正さずに弁護すべき

もし、弁論術というのが、言論の場を支配して相手を陥れて、自分が良い状況を作り出す術だというのであれば、弁論術の今の使われ方は間違っている。
相手を陥れたいというのであれば、相手が不正を働くように誘導しなければならないし、こちらの思惑通りに不正を働いたとすれば、その不正がバレないように、その場をコントロールしなければならない。
それに失敗して、もし、相手の不正がバレて相手が裁きにかけられた場合は、弁論術を駆使して出来るだけ刑が軽くなるように働きかけなければならない。

何故なら、相手にとって悪い状態というのは、不正を働く事そのものだし、最も恐れなければならない事は、不正を働いたことによって汚れて悪くなってしまった魂が、浄化されない事。
弁論家にとっての相手が、対話すべき仲間ではなく、打ち負かすべき的なのであれば、敵が最も困る手段を講じなければならない。
それなら、相手が不正を働くように、そしてそれがバレないように、バレたとしても刑が執行されないように全力を尽くさなければならない。

こうする事によって、敵は最大の不幸に見舞われることになる。

ソクラテスが何故、普通の価値観と真逆のことを言ったのかというと、それは、ポロスやゴルギアスの態度だろう。
ソクラテスは一貫して、対話相手というのは真理を見つけるための仲間であって、敵ではない。 お互いが協力し合って、間違っている部分や誤解している部分は指摘し合って、一つの真実を見つけるべきだと主張してきた。
しかし、弁論家やその弟子たちがやってきた事というのは、相手を陥れる事で有利な状況を作り出す事。

この様な態度は、対話相手を仲間だと思わずに、言論による闘争の敵とみなしているから行うとしか考えられない。
弁論家が、論争相手を敵だとみなして攻撃するのであれば、弁論家は、相手の不幸を最大にする方法を選んで実行しなければならない。
であるならば、相手が不正を働くように進めなければならないし、その不正がバレないようにしなければならないし、バレた際には刑が執行されないように努力しなければならない。

これを横で聞いていたカリクレスが、この議論に割って入る。
『その理屈が正しいというのであれば、私達の生活は全て真逆になってしまう』と。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍