だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

第74回【ゴルギアス】不正行為の加害者と被害者、哀れなのは何方か 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

不正行為で幸福は手に入るのか

前回は、人の行動は目的と手段に分けることが出来て、行動の善悪は目的の善悪によって左右されるという話をしました。
手段そのものは、良いものでも悪いものでもなく、その手段を達成する目的が良い目的なのであれば、良い目的を達成するための手段も正当化され、このようにして行われた行動は幸福につながる。
その一方で、悪い目的のためにとられる手段は不正であり、不正を働くことこそが不幸へと繋がる道なので全力で避けるべきだとういのが、ソクラテスの主張でした。

しかしポロスは、この意見に納得することが出来ません。 何故なら、不正を行いながら幸福と呼べる人生を謳歌している人間を知っているからです。
では、不正を行いながら、幸福と呼べる人生を歩んでいる人物とは、どのような人物なのでしょうか。 ポロスによると、その人物はマケドニアの王様のようです。 マケドニアといえば、アレクサンダー大王を生んだ国で有名ですよね。
このマケドニアの王は、王様と奴隷との間に生まれた子供で、王位継承権は低く、本来であれば、奴隷の子として惨めな一生を送る予定だった人物です。

しかしこの人物は、自分の親戚や兄弟を次々に暗殺していき、最終的には王位継承権を手に入れて、一国の王にまで登りつめます。
古代に限らず、中世などでも玉座を争って身内同士の殺し合いが行われるというのは珍しい事ではありませんが、人の命を奪ってまで地位を手に入れようとする行為は、いつの時代でも褒められたものではありません。
また、ポロスが例に上げたこの人物は、真っ向から勝負を挑んでライバルを倒していったのではなく、騙し討や暗殺によって人を殺めて、その地位を手に入れました。

奴隷の身分だったものが、殺人という最大の不正行為を繰り返すことによって到達したのは、不幸な現実ではなく、その国で一番偉いとされる王様の地位。
王様は、自分の命令一つでどのようなことでも実行できてしまう権力を持つ上に、それ以上に偉い人間がいないわけですから、誰からも裁かれることもない。もっとも幸福な地位につく事に成功しました。
ソクラテスの主張では、不正を行えば不幸になるはずなのに、このマケドニアの王は、数多くの不正を行った結果、国で一番の権力を手に入れて、不正を裁かれることのないような地位につくことが出来ています。

行動だけで善悪はわからない

この王様は、不幸なのでしょうか。それとも、幸福なのでしょうか。
ソクラテスは、この質問に答えることが出来ません。 何故なら、例として挙げられたマケドニアの王については、名前程度しか知らないからです。
ポロスからの一方的な話を聞いただけでは、その人物が何故、そのような行動をとったのかが分かりませんし、彼が行ったことが不正行為なのか正当な行為なのかも分かりません。

前回からも言っている通り、ソクラテスの主張としては、目的が善であるなら、その行動は善になり、その逆なら悪になるというものです。
ポロスの言う通り、罪もないライバルたちの命を、自分が王になりたいという欲望のみで奪っていったとしたなら、その行為は不正な行為で、彼の人生は不幸なものとなりますが、そうでなかったとしたらどうでしょう。
彼以外の全てのライバルが、王になれる器ではなく、私利私欲の為だけに動くような人物で、その者たちが王に成れば民が苦しむと思い、多くの市民のために行動を起こしたのであれば、事情は変わってきます。

不正は刑罰によって浄化される

ポロスの一方的な話だけでは、そのどちらなのかを見極めることが出来ないので、わからないと答えます。
しかし、仮に彼が不正を働いていたとしても、逮捕されて裁きを受け入れれば幸福になれると、ソクラテスは主張します。

この意見に、ポロスはまたしても理解することが出来ません。 何故なら、不正を行って絶対的な権力を手に入れたとしても、逮捕されて投獄されてしまえば元も子もないからです。
前回、ソクラテスはポロスに対して、私利私欲に走って、ワガママに暴走して不正を働く権力者には憧れるのに、銀行強盗に憧れないのはなぜかと聞きました。
権力者でも銀行強盗でも、不正を行うという点では同じで、不正を行って手に入れるものも同じなら、この2つは同じものと考えられるのに、何故、一方には憧れて、もう一方には憧れないのかと問いかけましたが…

今回の議論で、ポロスが何故、権力者にだけ憧れるのかがわかりますよね。 その国で一番の権力者になれば、自分を捕まえて裁く人間は誰も居ないからです。
つまりポロスは、不正を行うことは悪いことだとは思っておらず、それがバレて逮捕されることが悪いことで、不幸な事だと思っているわけです。
このポロスの感覚に共感する人は、現在でも多いと思います。 スピード違反や駐車禁止が見つかって罰金を請求されることは、運が悪いことだとか、万引きをして捕まらなければ得をしたと思う人間は結構いると思います。

ポロスの価値観では、犯罪や違反を行うことそのものは悪いことではなく、むしろ、それらが見つからなければルールを守っている人間を出し抜けるのだから、効率が良いとすら考えているのでしょう。
しかし、それらが見つかってしまえば、せっかく得をしたことが帳消しになるどころか、刑罰や罰金によって、不正を行うことで得たプラスが消し飛んでマイナスになってしまうので、不幸だと考えているわけです。
一方でソクラテスは、不正や違反そのものが悪い事だと考えているので、ポロスと意見が合わないわけです。 しかしソクラテスは、順序立てて考えていけば、同じ考えになるとして、物事を1つ1つ分解して考えていきます。

不正を犯すのか被害に遭うのか

物事を順序だ立てて一つ一つ考えるために、ソクラテスはまず、前提条件を確かめる為にポロスに質問をします。
まず、不正を行うのか、それとも、他人の行った不正の被害を受けるのか、どちらが悪く、害のある出来事かをポロスに対して質問し、ポロスは、不正の被害に会うほうが悪い行動で、害がある行動だと答えます。
このポロスの考えは、今までの彼の発言と一致していますよね。

次にソクラテスは、より醜い行動は、不正を行うことなのか、それとも、不正の被害にあうことなのか、どちらかを聞き、これに対してポロスは、不正を行う方が醜い行動だと答えます。
この答えを聞いたソクラテスは、より醜い行動が不正を行うという行動なら、悪くて害がある行動も、不正を行う方にならないとおかしいと言い出します。
このソクラテスの発言にポロスは困惑しますが、ソクラテスは、ポロスが先ほどの発言を受け入れられないのは、美しい事と良い事は同じではないし、醜い事と悪い事は同じではないと考えているからだと指摘します。

美しさとは

そして、『美しさ』と『良い事』が、『醜さ』と『悪い事』がそれぞれ同じである事を、説明しだします。
この説明に入る前に、誤解のないように言っておきますと、このゴルギアスに限らず、ソクラテスが『美しさ』というテーマで語る時の『美しさ』とは、多くの人が想像するような造形美のような見た目の美しさではありません。
『美しさ』を、見た目の美しさだけだと勘違いしてしまうと、今後の議論が誤解によって全て意味のないものになってしまうので、注意してください。

ソクラテスは、『美しい』という事と『良い事』は同じことだと主張してしますが、芸能人やモデルのように、外見の美しさが優れているものが、良いものだし卓越した素晴らしいものだとは言っていません。
では、ソクラテスが語る『美しさ』とは何なのかというと、アテレーを宿しているかどうかです。
例えばソクラテスは他の作品で、ギリシャ内でもっとも美しい人物を聞かれた際に、前に取り上げたソフィストプロタゴラスの名前を挙げています。

プロタゴラスは、ソクラテスよりもかなり年上で、ソクラテスからみればお爺さんのような存在ですが、何故、そんなプロタゴラスギリシャ全土でトップレベルに美しいのかというと、彼が豊富な知識を持っているからです。
プロタゴラスは豊富な知識を持ち、多くの人が彼の知識を頼って尋ねてくるし、宿すことで優れた存在になれると言われているアテレーを研究し、実際に出来るかどうかは置いておいて、他人にアテレーを教えている人物です。
多くの人が、彼の演説を聴くために大金を払い、耳を傾ける存在です。 プロタゴラスのことを多くの人が賢者だと認め、彼を優れた人物だと評価する人が大勢いるので、彼をアテレーを宿したものだとして、美しい人だと言っています。

良いことは美しく悪いことは醜い

話を戻して、美しさや醜さについて考えてみると、そもそも人が見て美しいというのは、どういうものなのでしょうか。
例えば、人間の肉体を見て美しいと思う場合。 先程の話ではないですが、見た目であるプロポーションが美しいと感じる場合、冷静になって考えると、身体の比率に美しさが宿っているわけではありませんよね。
特定のプロポーションを見て美しいと感じるのは、その比率や造形に美しさが宿っているのではなく、そのプロポーションの肉体には、何らかの点において優れた点があるからです。

肉体において優れているとは、筋力が有るとか持久力が有るとか、柔軟性に優れているなど、肉体の能力的に優れている事なのですが、これらの全てを満たした肉体というのは、優れた造形になってしまいますよね。
機能美と言えばよいのでしょうか。 瞬発力や持久力や柔軟性を兼ね備えた肉体というのは、余計な脂肪や大き過ぎる筋肉はついていないですし、機能的に優れたプロポーションをしています。
そのプロポーションの事を美しいと言っているだけで、単純にウエストの絶対値が細いだけの体を見ても美しいとは言いませんよね。

このプロポーションも、地域や環境によって、美しいと感じる価値観が変わってきます。食糧難で食べ物がない地域で、みんながやせ細った人しか居ない地域では、脂肪がついたまるまると太った人を見て美しいと感じる地域もあるでしょう。
地域や環境によって、人が美しいという価値観は変わりますが、その美しいとされている人を観ていると、心地よく、目を奪われてじっとみてしまったりもします。
この様に、人が美しいと感じる肉体は、絶対的なプロポーションではなく、それぞれの地域の価値観で機能的だと思われたものが美しいと思われています。 そして当然ですが、その逆が醜いということになります。