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プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その6 『力とは何なのか』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com
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弁論家が持つ力は力ではない

ソクラテスは弁論術は迎合だとして技術には入らないような低俗なものとするが、一方で現実世界では、弁論術を極めた人間が政治的権力を握り、絶大な力を奮っている事実がある。
この矛盾はどうしたものなのか。彼らが振りかざしているのは力ではないのか。ポロスはソクラテスの主張に納得ができない。

これに対してソクラテスは、弁論術によってのし上がった人間が振りかざしているものは、力ではないと断言する。
何故なら、権力者が振るう絶大な力と呼ばれているものは、それを振りかざしている当の本人の為になっていないから。
『力がある』という状態を、それを使用することによって自分自身に何らかのプラスをもたらすものと定義するなら、自分にとって何のプラスにもならない事しかしてない弁論家たちは力がないのと同じ。

ただ弁論家達は、自分の為になることは何一つしてはいないが、自分たちにとって一番良いと思っている事は、進んで行っていると主張する。

だが、ポロスはこの反論も理解が出来ない。
ソクラテスは、権力者は自分にとって一番良いと思っている事を実行できていると主張している。自由のない奴隷はもちろん、ギリシャに住む一般市民ですら、自分の一番良いと思っていることを簡単には実行することが出来ない。
好きな時に好きなものを食べるとか、ムカついた奴を、ただそれだけの理由で処罰することなんて絶対にできない。 それが出来る権力者は、力があるのではないかと。

しかしソクラテスに言わせれば、それは彼らが好きでやりたい事であって、それ自体が最善の道ではない。
そして、最善を目指さない行動というのは、それが自分自身がやりたい事であったとしても、その行動自体に意味はないという事。
意味がない行動を行える権利を行使するというのは、力があるということなのだろうか。

思い通りに行動する事が良い事とは限らない

別の表現をすれば、権力者が無知であるが故に、どちらの方向が自分の為になる『善』の道で、どの方向に行けば、自分の為にならない『悪』の道かを見定めることが出来ないとする。
この環境で、権力者が『悪』に向かう間違った道を目標に定めて、自分の持てる力を総動員して破滅の道に向かうのは、力を行使したといえるのだろうか。

例えば、よく観察して考えれば、絶対に負けるギャンブルが有ったとする。
そのギャンブルに、無知であるが故に持てる力を全て使って全財産を賭けて負ける行為は、力がある行為といえるのだろうか。
破滅の方向に向かって全力疾走できる力を持つよりも、そんな力を持たない方が人は幸せになれる。 人の最終目的が幸せになることであれば、無知な人間の力は害にしか成ってないので、力があるとは言わない。

それでもまだ、権力者に力があるというのであれば、権力者は皆、最善の道を見極められるだけの知恵を持った人間だということを証明しなければならない。
この証明が出来ないのであれば、権力者が知性を欠きながら、最善の道を見失っている状態で好き勝手に行動しているだけだという可能性は消えない。
そして、最善の道を知らない状態で好き勝手に振る舞うことは、力があるとは言わない。

しかしポロスは、この説明にどうも納得ができない。
ムカついた相手に権力で仕返しするとか、人を自分の思い通りに動かして自分の欲を満たすという行為は、皆が憧れる力。
その力を持つものが権力者と呼ばれて、自分はそれになりたいと思っている。 その行為そのものを否定されても、いまいちピンと来ない。

大切なのは手段か目的か

ソクラテスの意見にポロスが納得できないでいるので、次は、ソクラテスの方がポロスに質問する形で話を進める。

人々が普段、達成しようと臨んで行動している事は、行っている行為そのものか、それとも、最終目標として据えているものなのだろうか。
例えば、受験勉強をしている学生は、ただ勉強がしたいから勉強を行っているのだろうか。それとも、受験に受かりたいから、嫌な勉強を無理して頑張っているのだろうか。
病気で医者に行って診察を受け、苦い薬を貰って飲んでいる人は、苦い薬を呑みたいから飲んでいるのだろうか。それとも、病気を直したいから、苦いのを我慢して飲んでいるのだろうか。

これは考えるまでもない事で、目的を達成したいから手段を講じるのであって、手段そのものが目的になるはずがないし、なってはいけない。

では、人間の最終目的とは何だろうか。 人間は、健康でありたいとか富や知識や人望がある状態になりたいと思っている。
何故、この様な状態になりたいのかというと、これらの状態が良い状態で、良い状態である事が幸福だと思っているから。
逆に、これらの状態とは真逆の状態。つまり、病気で貧乏で無知で誰からも相手にされない状態は悪い状態なので、その様な状態にはなりたくないと思っている。何故ならこの状態は不幸だから。

人間は、幸福になりたいが為に自分の状態を良い状態にしようと思い、良い状態にする為に、働いたり、勉強したり、運動したり、コミュニケーションを取ったりする。
決して、働いたり、勉強したり、運動する為に生まれてきたわけでも、生きているわけでもない。

人を良い方向に導くものだけを『力』と呼ぶ

この理屈を、先ほどの権力者の行動に当てはめてみよう。
ポロスの主張では権力者は、気に障った者を死刑にしたり、他人の財産を奪い取るという行為が自由に行えるから権力があり、憧れる対象と行っていた。
しかし、権力者の最終目的とは、人の命や財産を自由に奪うことなのだろうか。 そうすることが楽しく、その行為そのものが幸福をもたらすのだろうか。それとも、その行為は手段でしかないのだろうか。

人の命や財産を、ただいたずらに奪うことが楽しくて仕方がないなんていうのはサイコパスだけで、大抵の人間は、その行為そのものが幸せにつながるなんて思っていないだろう。
とすると、ポロスが主張していた権力者の力を行使して行っていたものは、手段に過ぎない事になる。
これが手段であるのならば、目的は別にあると考えるべきで、その目的を達成するために手段がくだされたというのが正しい手順だろう。

では、権力者の最終目的は何なのか。 何の目的を達成する為に、人の命や財産を奪うのか。
もし仮に、この目的が『悪』であるのであれば、達成することによって自分を悪い状態にしてしまう『その権力』は『力』と呼べるようなものではない。
しかし、最終目的が自分を悪い状態にするものであったとしても、その権力者は、自分の思い通りの行動をとっていることには違いない。

例えるなら、その行為の行き着く先が良いことか悪いことかを判断する能力がない、アルコールやパチンコ中毒者が、その行為を継続し続ける様子は、継続できる力があるとは言わない。
しかし、その中毒者が、自分の欲望に負けて、快楽を求めて自分の意志で実行している事には変わりがないということ。
だが、この中毒者は、自分が望んでいることをしているわけではない。 何故なら、依存症である自分の状態が良いとは思っておらず、より良い状態になれるものならなりたいと思っているから。

これと同じ様に、善悪の区別もつかない人間が、ただ闇雲に権力を振り回したとしても、それを力とは言わない。
力を振るうとは、良い行動を行う時に使われる言葉だから。

納得は全てに優先する

ソクラテスの主張は、論理的に正しいし、つけ入る好きはない様に思う。それでもポロスは納得できずに、感情に訴える。『権力欲はないのか?』
誰だって、人を思い通りに支配したいと思うし、楽をして優雅な生活をしたいと思うはず。 権力欲は本能的なもので、誰にでも備わっているようなものではないのか?と
このポロスの気持は、私も含めて一般的な感覚に近く、非常に理解できるもの。 誰だって、何の努力もなく偉くなりたいし崇められたいと思っているから、なろう系のラノベが次々とアニメ化される。

しかし、これに対してソクラテスは毅然とした態度で『羨ましくない。』と一蹴。 むしろ、人から命や財産を奪って当然と思うような連中は、哀れんでやるべきだと主張する。
ポロスは、命や財産を奪われる人間には、例えば身内を殺されたというような、それ相応の理由がある場合でも、仕返しできる権力を羨ましくはないのかと聴くが、ソクラテスはそれも否定する。
何故なら、裁きを行って刑を執行するのは目的ではなく、手段でしかないから。 だから、正当な理由で裁きを行った場合は、判断を下したものを憐れむ必要はないが、羨ましく思う理由もないと。

ここでも、ソクラテスの主張は筋が通っているし、反論してソクラテスの意見を覆すのはかなり難しいだろう。
しかしポロスは、感情的に納得ができない。 SBRのジャイロも言っている。『納得は全てに優先するぜ!』と
『ソクラテスさん。 あんたは、正当な理由もなしに理不尽にも他人の命や財産を奪うような人間は、哀れんでやるべきだというが、本当に可愛そうで憐れむべき対象は、理不尽を押し付けられたほうじゃァないんですか?』

このポロスの主張も、一般的な感覚で考えると非常によく分かる。 ひ弱な人間が複数人の不良に囲まれ、恐喝されてカツアゲされたとした場合、哀れなのはカツアゲをされた方だというのが普通の感覚だろう。
しかしソクラテスは、カツアゲした方こそが憐れむ対象だと主張している。これには納得ができない。

だがソクラテスは、その価値観には理解を示さない。 権力者になって、不正な理由で他人を死刑にするぐらいなら、自分が不正な理由で死刑にされる方がなんぼかマシだと。
何故なら、最大の不幸は不正を犯す事だから。 そして、正当な理由なしに人の命を奪えるような独裁者にもなりたくないと主張する。

犯罪者に憧れる人間はいるだろうか

これでも納得できないポロスに対して、ソクラテスは例を出して説明をしだす。

武器を持たずに話し合いに来た人たちが集会所に集まっていたとして、そこに唯一、武器を忍ばせた人間が入ってきて、その武器でもって、他人を従わせたとした場合を想像してみる。
この場合、武器を持つ人間は、恐怖によって絶対的な力を行使することが出来るので、その中で、一番の権力者といえる。
武器でもって脅すことで他の人間に命令して、様々な不正を行うことが出来る。 ポロスは、この例の中に出てくる武器を持ったものになりたいというのか?と

ポロスは、その様な人間にはなりたくないと答える。 理由は、その様な不正は、いずれ捕まって、罰を受けるからと。

しかし冷静に考えると、この行動そのものが悪とは言えない。 何故なら、その行動は手段であって目的ではないからだ。
もし仮に、この行動の目的が、その場にいる人間全員の命を守るためだとか、そういった正当な理由が有ったとしたら、事が終わった後に捕まるということもないだろう。
では目的の善悪は、どの様に決めるのだろうか。 その境界線を、ビシッ!と引くことは可能なのだろうか。

ポロスはこの質問に答えることが出来ずに、その答えをソクラテスに求める。
ソクラテスは、目的の設定をする際に、何を基準にするのかというので善悪が分かれると主張する。正義にしたがって目的を定めていれば善だが、その逆であれば悪。
(つづく)
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参考書籍