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【原稿】第75回【ゴルギアス】勉強は社会に出ると無意味になるのか 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

勉強は社会に出ると無意味になるのか

このカリクレスの主張は、今現在でも同じことを言う人達が沢山いますよね。
『三角法やピタゴラスの定理が、社会に出て一体何の役に立つのか?』とか、『学校で習う大半のことは、社会に出て使うことはない。』とか、哲学をしている人に対して『答えが無いことを考えて意味あるの?』という人たちは大勢います。
では、この人達はどのような態度をとれといっているのかといえば、『上司に気に入られて、同期の中で一番に出世する方法』だとか、『社会で役に立つコネの作りかた』など、世渡りの方法を学べと言ってくるわけです。

カリクレスを始めとして、何故彼らは、このような主張をするのでしょうか。 カリクレスに言わせれば、他人がそのような態度をとることが心地よいからです。
例えば、子供が言葉をうまく扱えずに、間違った言葉遣いをしたり、それを治すために一生懸命勉強する姿というのは、観ていて癒やされるし微笑ましい光景だから、子供はそのような行動を取るべきだと主張します。
子供がもし、ハキハキと自分の思っていることを正しい言葉遣いで話たりすると、そんな大人びた喋り方をする子供は可愛くないし、観ていて嫌な気持ちになるから、子供は子供らしく、大人よりも明らかに劣った状態で、大人に追いつくために努力してるぐらいが丁度よい。

一方で、大人になっても言葉遣いがなっていないようなものは、ぶん殴ってやりたくなると言います。
つまりカリクレスは、子供には子供の態度があって、子供のうちからしっかりとした言葉遣いをしたり、目上の者に気に入られる為にお世辞を言うなどの処世術を身に着けているものは気持ち悪いし、子供らしくない。
逆に、成人しているのに、目上の者に対して媚びへつらうことをせずに、勉強にうつつを抜かすような人間は、大人な態度とは言えないので、これもまた、観ていて不快になると言ってるわけです。

このような考えはカリクレスに限ったことではなく、プライドが高く、自分が支配者層にいるだとか、他人よりも優れていると思いこんでいる人が多く持っている考えだと思います。
要は、基本的に他人を見下したいんです。 子供がしっかりとしていると、自分の立場を揺るがす存在になる可能性がありますし、大人になっても勉強している人は、学問という点に置いては逆立ちしても勝つことが出来ません。
自分が絶対に勝てない物を持っている者の存在は、それだけでプライドが傷つけられるものですが、その人間が処世術を身に着けていて、自分に対して頭を下げてくれれば、自分のプライドも守られて精神的に満足することが出来ますが…

その者が、自分が居座っている立場に憧れも持たず、その地位にいる自分に対して敬意も払わなければ、その人間に対して憎悪にも似た感情を抱いたしまいます。
だから、大人になったら勉強はやめて、権力に対して頭を下げる人になるべきだし、それを拒否する人間は、口で言ってもわからないのなら、暴力でもって懲らしめるべきだと言ってるわけです。
先程も少し言いましたが、この意見は、カリクレス個人としての意見というよりも、人を支配する権力者層の多くの考えです。 権力者は、自分は勉強はしないのに、自分が無知だと思われるのを恐れているんです。

知識よりも社交術

カリクレスの前に対話を行ったポロスやゴルギアスもいっていましたが、権力者になる為には知識は必要がありません。 何故なら、知識を持つものを支配してしまえば、その人間が持つ能力は支配者のものとして扱えるからです。
では、その権力を手に入れるために必要なのは何かといえば、自分の主張が正しいことのように勘違いさせる演出を行える、弁論術という口先の技術です。
無知なものに対して口先の技術で説得したり、権力者に取り入ったりすることで、人からの信頼を勝ち取ったり人脈を築いたりしていくわけです。 この過程で知識は必要がありません。

むしろ、言葉の演出の矛盾に気がついてしまうような知識のあるものは、邪魔な存在と言えます。 口先一つで成功するためには、自分の周りの人間は全員、無知でなければなりません。
そして実際問題として、この方法で権力が握れているという事実があります。 しかし、このようなシステムで生まれた権力者は、例外なく無知なので、アテレーを宿した卓越した人間とは言えません。
その為、不正も行います。 そして、ソクラテスのように、目上の人間に対して媚びへつらうわけでもなく、信念を持って正論を主張し続ける人間は、無知な権力者からは嫌われます。

無知な権力者は、無知だけれども権力だけは持っているので、不正を行って罪をでっち上げて、ソクラテスのような耳が痛い正論を言う人間を逮捕して有罪にして、死刑にして殺してしまうことも可能です。
ソクラテスが哲学に没頭せずに、社交術を身に着けて人脈を広げていれば、裁判の場で有利な証言をしてくれる承認もたくさん現れるだろうし、権力者にコネを持つものが助けてくれたりもするかもしれません。
でもそれを行わずに、役にも立たない知識だけを追い求めていると、権力者によって殺されてしまうぞと、カリクレスは言います。

親友思いのカリクレス

注意して欲しいのは、これは単純なカリクレスによるソクラテスに対しての脅しではありません。 カリクレスは、ソクラテスを大切に思っているが故に、忠告をしているんです。
ソクラテスのような態度を無知な権力者に向けて行ってしまうと、その権力者は無知な為に、ソクラテスの命を奪うという決断を簡単に下してしまいます。
そうはなって欲しくないから、ソクラテスに対して態度を改めるように忠告しているんです。

この話を聞いて、ソクラテスは大喜びをします。 何故ならソクラテスは、真理に到達するために必要なのは、知識と好意と率直さを持つものとの対話だと思っていて、目の前のカリクレスは、その全てを持っているように思えたからです。
ソクラテスはまず、カリクレスがどの様な考えを持っているのかを聞き出します。

欲望に忠実に生きることが幸福につながる

カリクレスの主張としては、知識や社会秩序の維持などの後天的に刷り込まれた常識などは軽視して、人間が生まれながらに備えている直感や本能などを優先させたほうが良いし、それに従う事こそが、幸福への道。
もし、大量の富を稼ぎ出すことが出来るのであれば、自分の本能に従って、できるだけ多くの富を独占できるように考えて行動すべきだし、独り占めできるのであれば、それに越した事は無い。
仮に、自分よりも力も知恵も持たない人間が財産を保有していることが分かれば、自分の欲望に従って、その人間の財産を奪うべきだと考えます。

この、『欲望に忠実に生きる』という考えを前提にすれば、ペルシャ全土を支配できたダレイオスがギリシャに攻め込んできた理由も説明ができます。
ペルシャの大軍勢を支配して指揮する力があるのだから、その力でもってギリシャも征服して、より広大な土地を支配下に置きたいと考えるのは、当然の行動と言えます。
人間は次から次へと欲でてきますが、その欲を満たし続けて満足感を得ることで幸福になれるというのが、カリクレスの考えです。

逆から考えると、幸せになるためには欲望を満たして満足感を得なければならず、欲望を満たすためにはそれなりの力が必要ということになります。
人の最終目標が幸せになる事で、幸せになるためにはアテレーを宿した優れた卓越した存在にならなければならないとするのなら、優れた状態というのは力がある状態だと言い変えることも出来る事になります。

『力が強い』とは

しかし、この説明にソクラテスは疑問を抱いてしまいます。 例えば、力強いとされている人間1人と、ひ弱な人間100人が殴り合いの喧嘩をする場合を考えると、どちらが勝つでしょうか。
1人の力がどれほど優れていたとしても、非力な人間100人が一斉に殴りかかってきたら、それに勝てる人間はほぼ居ないでしょう。 それでも勝つことが出来るというのであれば、1対1万人ならどうでしょうか。
グラップラー刃牙に出てくる範馬勇次郎という人物は、人間は同時に4方向からしか襲ってこれないから、4方向の敵を同時に倒せる技術と力があれば、スタミナがつづく前提であれば全人類を相手にしても勝てるといってましたが…

そんな事が出来るのは漫画のキャラクターだけで、実際には数で押されれば少数は負けてしまいます。
これは金銭や財産でも同じで、この地球上で1番の金持ちがどれほど金持ちだからといって、その1人が持つ資産と、その人物以外の70億人の資産の合計を比べた場合は、その他70億人の財産の方が確実に多いです。
少数の者と大多数の者を比べた場合、全ての面に置いて、大多数の者の総合力のほうが上回ることになり、先ほどの理屈に当てはめれば、大多数のもののほうが優れた存在ということになってしまいます。

カリクレスは前に、法律は大多数の弱者の事を考慮して作られていて、その法律の考えが浸透することで、『独り占めは良くないことで、分配することが良いことだ』という価値観が定着したと言っていましたが…
その大多数の弱者の総合力は、少数の権力者や資産家を上回っている為、法律は強者である大多数の市民の為に作られているという事になってしまいます。

強者によって作られている法律

カリクレスは、力を持つ権力者は、その力を欲望の赴くままに自由に使って、力の無いものから金銭を奪っても良いと言っていましたが、力を持たないとされる市民が団結して一つの勢力になれば、権力者達の力を上回ってしまいます。
この団結した市民たちが、少数の権力者や資産家に対して、欲望の赴くままに自由に力を行使して、彼らから金品を奪い取って、それを市民たちで分け合ったとしたら、その行動は分配になるのでは無いでしょうか。
国の中では、大人数で団結した市民こそが最強の存在なのだから、その団結した市民が、少数の権力者や資産家から、命や金品を奪うというのは、先ほどのカリクレスの主張からすれば良いことだし、幸福につながる行為になります。

カリクレスが対話に乱入してくる際に、ソクラテスは本能的な考え方と社会的な考え方を意図的に取り違えることで、相手の意見が矛盾しているように仕向けているとして批判していましたが…
ソクラテスがカリクレスが主張する『力こそが正義』という考え方で、一つ一つ整理していくと、結局は同じような法律ができてしまうという結論になってしまいました。

しかしカリクレスは、この理屈に対して反発します。 カリクレスが主張する力とは、喧嘩で使うような単純な力ではなかったからです。
では、何を持って『力』と呼ぶのでしょうか。 それについては、また次回に話していこうと思います。