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プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その5 『弁論術も迎合でしかない』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com

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トレーニング技術と化粧法

身体をメンテナンスする技術には、医術とトレーニングがあり、医術に擬態して技術のようになりすましているのは料理法だった。
では、トレーニングの方には、どの様な迎合が技術としてなりすましているのかというと、化粧法。

人間は、規則正しい生活を送って適切な量の食事を取り、適切な運動を行うことによって、健康で美しい肉体を手に入れることが出来る。
特に、身体のプロポーションを良くして機能的にも見た目にも良くしようと思うのであれば、、トレーニングは欠かせないということになる。
しかしこのトレーニングも、ただ単純にやれば良いというわけではない。 ダンベルなどの器具を使い、適切な重量と回数で負荷を欠けなければ、効率よくカラダを鍛えることは出来ない。

重量が軽すぎるものを使ってトレーニングを行っても効果は薄いし、回数が少なすぎても駄目。
逆に、扱う重量が大きすぎたり、間違ったフォームで行ってしまうと、効率が下がるだけではなく怪我もしてしまうかもしれない。
その為、トレーニングを行うためには専門の知識が必要となる。 この知識や実践は最善を目指す為の技術であり、迎合するものではない。

しかし、このトレーニング技術には、化粧法という迎合が潜んでいる。
例えば、よく血液が循環した健康的な顔色を手に入れようと思うのであれば、本来であれば、人は体をメンテナンスして健康を維持しなければならない。
だが、顔に化粧を施すことで、目の下のクマを隠したり顔全体を明るい色に変えることが可能になる。

面倒くさいトレーニングなどは一切しなくても、顔色を健康的に見せるだけであれば、ファンデーションを塗ればそれでよい。
体型も同じで、裸になってしまうと醜いプロポーションがバレてしまうというのであれば、服を着込んで身体のプロポーションを隠してしまえば良い。
着る服の形や色を、自分にとって似合うものに調整することで、その人物の外見を美しく装飾して誤魔化すことが出来る。

洗練されたデザインのきらびやかな服を着れば、誰しもが、服の方に目が奪われて、その下に醜い身体が収まっているなどということは想像しなくなる。
その上で、服から出ている顔や手などを化粧によって誤魔化してしまうことで、外見だけは美しさを装うことが出来る。

迎合である化粧法では根本解決はしない

しかしこの方法も、前に説明をした料理のように、最善に向かう道ではない。
目の下にクマが出来ているのは何かしらの体の不調が有るからで、それを根本的に解決する事こそが善に向かう道であるはず。
腹に脂肪が溜まってくるのは、日頃の生活態度が悪いことが体に現れている証拠なので、日頃の生活を見直すことが最善のはず。

しかし、この様な根本的な解決を一切せずに誤魔化す化粧術は、最善の道を目指すものではないので、技術とは言えない。
また化粧の方も、迎合にありがちな『確固たる答えがないもの』だったりする。

料理の場合は、食べる人間によって味付けを変える為に、絶対的なレシピがないのと同じ様に、化粧も、自分が他人にどの様に見られているのかというのを想定して、その方法を変える。
流行によって化粧の方法が変わるように、絶対的な正解は存在しない。 今現在でありえないという化粧法だったとしても、未来で価値観が変わってしまえば、化粧の方法も同じ様に変わる。
平安時代の日本人の化粧の正解と、今現在の女子高生の中での化粧の存在は全く違うし、そこまで昔ではなくても、少し前にはガングロという顔を真っ黒師にして目の部分だけを白く化粧をするのが流行っていた。

化粧で重要なのは、他人が自分をどの様に見ているのかということで、他人が考える美しさを自分の体で体現する必要がある。
これは、着飾る為の衣装は装飾品も同じで、それを付けることで、自分がどの様に見られるのかというのが最優先される。
人は、他人から見て自分が美しいと判断される事に満足感や優越感を感じるものなので、これらの化粧法は快楽だけを求めた迎合であるといえる。

しかし、トレーニング方法には基本的には流行り廃りはない。
人間の構造の解明が進むことによって、より良い方向に改善していくことは有っても、好きな子が自分を見ているからという理由でトレーニングメニューが根本的に変わることはない。

弁論術も迎合でしかない

この様に、身体の技術である医術には料理法という迎合が潜んでいて、体育術・トレーニングには化粧法という迎合が潜んでいる。
同様に、魂の技術である政治術の立法と司法にも、それぞれ迎合が技術に擬態した形で潜んでいる。
立法に潜んでいる迎合がソフィストの達の術で、司法に潜んでいるのが弁論術に当てはまる。

弁論術とは、魂の技術である司法に擬態し、自らも技術だと言い張っているだけの迎合に過ぎない。

そして、ソフィスト達の行っている事と弁論術は、共に魂の技術の擬態である為、この事を詳しく考えたこともない一般人は、両者の違いが分からない。
詳しく考えたことがないという意味合いでは、弁論家やソフィストですらも、自分たちが行っている事をよく理解していない。

(以下の話は、人間には魂や身体といった区別がないという反論に対する反論を先に主張している?)
もし、これまで語ってきたような区別がないとするのなら。 つまり、人間の肉体には精神が宿っておらず、肉体は肉体のみで欲望を満たすという行動を勝手に行っているのであれば、この世は混沌の世界となっているだろう。
アナクサゴラスの説によると、この世の中は複数の種類のスペルマタと呼ばれる極小の粒子によって作られているとされている。
宇宙誕生の際には、様々なスペルマタは混ざり合って混沌とした状態になっていたが、そこに理性が宿ることによって、混沌の中に秩序が生まれて様々な物が誕生し、今現在の世界が生まれたとしている。

この節は、大昔に語られていた神話というわけではなく、科学が進んだ今現在でも、似たような考え方があったりする。

秩序と混沌

時間が何故、一方方向に進み続けているのかというのは、よく分かっていない。
力学的には、時間が巻き戻ったとしても矛盾はないのに、何故、時間が一方方向に進み続けるのか。 それを見極める方法として、エントロピーの増大というものが有る。
エントロピーとは乱雑さを表すもので、エントロピーが増大するとは、乱雑になっていくということ。

この、エントロピーが小さい状態を秩序がある状態と呼び、エントロピーが大きい状態を無秩序な状態とよぶ。 無秩序は、混沌やカオスと言い変えることができるかもしれない。
例えば、バケツいっぱいの水の中に、牛乳を1滴たらしたとすると、時間経過と共にその牛乳はバケツの水と混ざり合い、バケツ一杯の薄い牛乳が出来上がる。
白い牛乳という秩序のある状態が同じ液体である水の中に入ってしまうと、その秩序は保つことが出来ずに、秩序は崩壊して時間と共に拡散し、いずれは均一のものになってしまう。

別の例でいえば、熱もこれに当てはまる。
例えば、マグカップに入れた熱々のコーヒーが有ったとして、これを飲まずに数時間放置していれば、そのコーヒーは冷めてしまう。
何故、コーヒーは冷めてしまうのかというと、コーヒーの熱はマグカップに伝わり温まったマグカップの熱は、その外側の空気に伝達することで、コーヒーの熱が部屋全体に拡散していったから。

時間経過と共にコーヒーは部屋の温度と同じレベルにまで下がり続け、逆に、部屋の温度はわずかながら上昇することになり、いずれは、コーヒーと室内温度は同じになる。
熱がコーヒーという一箇所に集まっていた状態を秩序ある状態とするならば、冷めていってる過程はエントロピーが増大して熱が拡散している状態といえる。
ここでも、秩序ある状態から無秩序の状態に一方方向に突き進んでいる。

熱が拡散して均一になる法則は、熱力学第二法則というようだが、これを究極レベルで考えると、宇宙は熱的な死を迎えてしまう。(ノヴァ教授が憎む。)
逆にいえば、秩序が宿る事で、この世界は均一ではない状態を維持することが出来る。その秩序をもたらすのが理性であり魂ということなのだろう。
人間には精神や魂が宿り、その魂が理性によって身体を制御している事で、人としての秩序を保っているという事。

その魂が存在しないということは、理性も存在しようがなく、秩序も生まれないので、人間は混沌の一部となっているはず。
しかし、そうは成っておらず、人間には確固たる自我が存在する為、人間には秩序を生み出す理性があり、理性が宿る魂がある。
今感じる『私』という主観があり、その主観が身体を制御している。

しかし弁論術は実際に役に立っている

この話を聞いたポロスは、当然のことながら納得ができない。
ポロスの見立てでは、有名な権力者は皆、弁論術の使い手で、彼らは弁論術によって周りの人間を説得することで、自分の力を示してきたと思いこんでいた。
そして自分も出世できるような優れた人間になる為に、弁論家であるゴルギアスの元に弟子入りしたのにも関わらず、その技術が技術とすら呼ばない迎合のような下らないものだと否定されてしまった。

しかし実際には、権力者である彼らは、口先の技術によって巨大な権力を得て、その権力によって一般市民が持たないような絶大な権力を持っている。
誰かを死刑にしようと思えば、適当な罪をでっち上げて裁判所に連れていき、弁論術によって裁判官を説得してしまえば、気に入らない人間を死刑に出来る。同じ様な方法で、財産を奪えるかもしれない。
彼らは絶対的な力で、明らかに民衆を支配する力を持っているのに、それが市民に対する迎合というのは、どうにも納得できない。

しかしソクラテスは、それは力とは呼ばないとして否定する。
(つづく)
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参考書籍