だぶるばいせっぷす 新館

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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第85回【ゴルギアス】まとめ① 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

善い快楽・悪い快楽

その国で一番の権力さえ手に入れてしまえば、欲しいと思ったものを手に入れることが出来るし、自分が気に入らないものを不正な手段によって国外追放にしたり、更には死刑にすることだって出来てしまう。
そして、その様に自由に振る舞ったとしても、一番の権力者であれば、その事を問題視して咎めてくるものも居ない。
人生の大半を快楽の追求のみに専念することが出来るようになり、充実した人生が送れると思いこんでいます。

ポロスは、この様な人生こそが幸せだと思い込んでいて、幸せになりたいが為にゴルギアスの元で弁論術を学んでいるので、ソクラテスの主張が理解できないというよりも、したくない様子です。
このあたりの議論は、快楽に身を任せる事が悪だという前提で話が進んでいますが、では果たして本当に快楽に身を委ねることは悪なのかというと、必ずしもそうとは言えないけれども… ソクラテスは悪だとしておきたい様子です。

何故そうなのかというと、この問題は『ゴルギアス』の中では議論されてはいませんが、前回取り扱った『プロタゴラス』の中では、少しだけ議論されていて、ソクラテスがその様な態度をとってるからです。
ソクラテスは、プロタゴラスに対して『快いと思う状態や快楽そのものは、悪なのだろうか。』という質問をし…
この質問に対してプロタゴラスは、『国家公共の為になる事を行うことに快楽を感じる人は、快楽に身を委ねたとしても悪には染まらない』と答えています。

善悪の基準

この、国家公共の為になる行為とは、国家や自分が住む地域に貢献するような行動をとって、その行動によって皆から感謝される事に快楽を得るような人間は、その快楽を満たすために行動していれば悪人にはならず、皆から重宝される善人になるって事です。
困っている人を助けて、その際に感謝されることで満足感が満たされる。 その満足感を得たいという欲望から、良い行為を重ねて地域や国家に貢献する人は、善い人と言えます。

その一方で、自分だけが金持ちになりたいという欲望を叶えるために、不正を行って詐欺を働くとか、無尽蔵の食欲に従って、毎日のように暴飲暴食を繰り返すといった行為を行う人間は、良い人間とは言えないでしょう。
不正を行って他人の金を騙し取るような人間は、その行為を繰り返していけば罪悪感も徐々に薄れ、犯罪をすることに慣れていって魂が悪に染まっていくでしょう。
暴飲暴食を繰り返す人間は、他人にはそれ程、迷惑をかけないかもしれませんが、自分自身の肉体はまるまると太って、柔軟性や持久力は失われて劣った肉体へと変わるでしょうし、食べ過ぎによって病気になることもあるでしょう。

他人に迷惑をかけない欲望であっても、自分自身が劣った者になるという意味では、体は悪い方向へと進んでいく為、この様な欲望に身を委ねるという行為は、褒められた行為とは言えないでしょう。
相対主義者であるプロタゴラスは、快楽にも、人を善い方向へと満ちびく快楽もあれば、悪い方向へと誘う快楽もあるので、快楽そのものが善いものか悪いものかという質問には、一概には答えられないとしました。
そして、同じものであったとしても、捉え方によって善にも悪にもなるとして、様々な例を出して説明をしました。

相対主義的価値観

例えば、ある種の植物は毒を持っていて、それを食べると人は死んでしまうような植物や果物があったとします。
その植物は人間にとっては悪い存在ですが、その植物を研究することによって、致死量に届かない程の少量を取ることによって、人をしに至らしめる病気を治す薬になるとわかったとすれば、その植物は人間にとって悪い存在とは言えなくなり…
大量に食べると体に悪いものだけれども、少量だけ取るなら薬になり、人間にとって役立つものとなります。

これは、大抵の食べ物にも当てはまることで、人間は食べ物を食べないと死んでしまいますが、食べ過ぎれば病気になるので、食事は適量を摂ることが重要になります。
この食事を取り上げて、『食事は善いものか悪いものか』と質問をされたとしても、簡単には答えが出せないし、状況によって変わるとしか言えないと主張しました。

この返答を聴いたソクラテスは、プロタゴラスの話が長いと難癖をつけてソクラテスメソッドを提案し、そのルールの元で話し合いをしようと持ちかけ、話をはぐらかしたような感じになりました。
この反応を観て、ソクラテスが逃げたような印象を持つ方も多いと思います。 プロタゴラスの話には一理ありますし、何でもかんでも絶対主義で解決できるというわけでもないでしょうからね。

しかしその後、議論は別のテーマをはさみつつ、最終的には、快楽というのは行動の結果であって、それを目的にしてはならないという話になりました。
人間の進む道は、複数に分岐していて、それらの道には、無数の、そして様々な大きさのメリットやデメリットが転がっている。
幸福な人生を歩むとは、人生が終わる時に、メリットからデメリットを差し引いた際に最大量のメリットが残っている状態が、幸福だということになったんでしたよね。

権力は善いものなのか

その、幸福へと続く正解の道に到達するために必要なのは、快楽を得たいと思う欲望なのか、それとも、メリットとデメリットを正しく見極めるための技術なのかという話になった際に『必要なのは感情に流されずに判断できる技術だ』という事になりました。
つまり、『プロタゴラス』の対話編を読み解く限りでは、快楽は絶対的に悪というわけではないけれども、快楽そのものを目標に置いてしまうと、大抵の人間は道を誤ってしまうという結論に行き着きました。

この話をそのまま、ポロスが求める幸福に当てはめると、ポロスは、欲望を満たすために好き勝手に振る舞い、時には欲望の為に不正を働いたとしても、それを咎められることがないような権力者の地位につくというのが幸福だと思っています。
快楽に善悪があるのかどうかは、プロタゴラスとの対話でも明確な答えは出ませんでしたが、ソフィストであるプロタゴラスは、『国家公共のためになる行動を取る事が快楽につながるなら、善い快楽』としていましたが…
ポロスは、欲望のためなら不正を犯しても良いし、それが咎められることがないのなら、なおのこと良いとまで言ってしまってます。

このポロスの考え方は、完全に欲望に支配されている考え方ですので、ソクラテスが考える『人を幸福に導くのは、人の感情ではなく技術だ』という考え方に反したものとなっています。
そこでソクラテスはわかりやすい形で、ポロスの意見が間違っていることを伝えます。

力の使い方

権力という力でもって他人の資産や命を奪うというのは、自分に逆らえない状態を作って脅すのと同じなので、武力を背景に弱者を脅して金品や命を奪う行為と同じだし、さらにいえば、ナイフをチラつかせてカツアゲしている人間と変わらない。
そしてソクラテスは『ポロス、君は、弁論家の弟子になって弁論術の修行をして、カツアゲをしたいのか?』といった感じの質問します。
ソクラテスに言わせれば、力というのは良い方向に向かう時にだけ使う言葉で、自分が悪い方向へと堕落していく時に使う言葉ではないからです。

様々な便利な道具を手に入れて、それを使いこなす知恵を手に入れたとしても、その使い方を間違って破滅の方向へと進んでいくのであれば、そんな道具は無い方がマシです。
ソクラテスは、快楽やそれを手に入れる為の権力などは、幸福という結果を手に入れる為の手段でしか無く、快楽や権力そのものを目的に据えてしまうと、道を誤ってしまうと主張します。

この辺のやり取りというのは、多くの方が、理屈では分かるけれども、感情的には理解できないと思われる方も多いと思います。
この対話編を書いているプラトンも同じ様に思ったのか、この部分の説明は特に丁寧に行っていて、ポロスという人物を相当なわからず屋に仕立て上げて、ソクラテスを通して何度も説明しています。
ということで、このコンテンツでももう少し、この部分の説明をしていこうと思うのですが、結構な時間になってきましたので、続きは次回にしたいと思います。