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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第80回【ゴルギアス】類は友を呼ぶ 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

欲望の善悪の見極め

前回の話を簡単に振り返ると、カリクレスを始めとした多くの人が、湧き上がる欲望を満たすことで快楽や満足感を得て、その後により大きな欲望を抱き、再びそれを満たすという繰り返しによって幸福になれると信じていたのですが…
物事はそれ程単純ではありませんでした。  欲望を満たすことによって幸福が訪れるという考え方は、欲望が満たされることによって消え去って、代わりに幸福感がやってくるというイメージですが…
考察を進めていくと、人が快楽を感じるのは、欲望がある時に、それを満たすための行動を行っている間だけで、欲望が消え去ってしまえば快楽も消えてしまうという関係だと分かってきたんです。

つまり、人が幸福を感じるのは、目標に向かって進んでいる最中であって、目標に到達してしまえば一時的な達成感は得られても、幸福感は得られないということです。
まぁそれでも、欲望が大きければ大きいほど、目標に向かってやらなければならない事は大きくなるわけですから、大きい欲望を抱くと幸せになれるという構図そのものは、大きな目でみれば変わらないわけですが…
ただ、この構図でいうと、目標に到達するよりも手段のほうが幸せだと言っているのと同じなので、どちらにしてもおかしな事になってしまいます。

この結末に、カリクレス自身もどう受け入れて良いのか分からなくなったのか、快楽にも善悪があって、その見極めには専門技術が必要だと、テーマを変えます。
ソクラテスとしては、その専門技術をぜひとも教えてもらいたいところですが、カリクレスは知らないようなので、技術という言葉をヒントに、前に議論した技術と迎合の理屈を使って、様々なものを仕分けしていきます。
エンターテイメントという大きな枠組みから、その一分野である音楽、そして音楽からリズムとテンポを除いた歌詞、歌詞よりもよりメッセージ性を高めた、弁論家による街頭演説へと仕分けを進めていった結果…

弁論術には、聴くものを善い方向へと導く良い演説と、耳障りだけが良い中身のない、悪い演説があるという結末になりました。
では、良い演説と悪い演説を仕分けするには、どのようにすれば良いのか。
善悪の仕分け作業が技術であるからには、何らかの法則、ガイドラインがあるはずで、そのガイドラインは欲望に流されることの無い絶対的な基準であるはずだという予測から、秩序ではないかという結論に達しました。

低きに流れる

人間は心地よい方向に流されやすい性質を持っているので、放って置くと楽な方 楽な方に流されていきます。楽な方とは、快楽を求める方向へ向かいやすいということです。
例えば、身体が病気になった際に、技術を持つ医者を頼らずに、身体が求める事をそのまま行い続けると、身体はどうなるでしょうか。
風邪を引いて食欲が無いからと、何も食べずに寝続けていると、衰弱するかもしれません。 糖尿病になって体がだるいけれども、食欲はあるからと暴飲暴食を繰り返しても、糖尿病は治らないでしょう。

病気を治すためには、楽な方に流されることのない絶対的な基準にしたがって、自分の行動を律して正しい方向へと導いてやる必要があります。
これは体に関してだけでなく、魂にもいえることで、欲望に流されずに秩序に従って欲望を制することで、良い方向に行けるのではないかという答えにソクラテスは辿り着くわけですが…
この答えに納得がいかない、けれども、有効な反論が出来ないカリクレスは、ソクラテスに一人で考えるように突っぱねます。

教えを請う態度

このカリクレスの態度も、なんとなく理解できるような気もします。 ソクラテスは、無知な自分に対して教えて欲しいといって、ゴルギアスやポロスやカリクレスと対話をしたわけですが…
彼らの言うことに納得することなく、なんならそれに反論し、素直に聞き入れるということをしません。 そういう態度の人間と話ていたくはないと思うのが普通の感覚だと思うので、一人で『何とかしろ』と言いたくなる気持ちもわかります。
しかしソクラテスは、自分ひとりで考えても答えが出ないから、自分たちよりも知識を持っている賢いとされている人に意見を聞きに来たのです。

その人達から突き放されては、この場にいる意味が無くなるので、ソクラテスは帰ろうとするのですが、『もっとソクラテスの話を聞いていたい。』と、それをゴルギアスが止めます。
ソクラテスは、自分の意見が求められているのならと、考え直して一人で考えて、それを披露することにします。
自分が意見を主張することで、周りの人間が思ったことを自分にぶつけてくれる可能性もありますし、それによって対話が再開するかもしれませんからね。

という事で一人で考えながら話すことになったソクラテスですが、考え始める前に、まず、これまでの流れを振り返ることにします。

快楽と善

まず、快楽と善は同じものではありません。 これは、カリクレス自身の口から、快楽にも善と悪が存在すると語られているからです。
そして、快楽という手段は善という目的の為に行われるのであって、快楽という手段が目的化することは、あってはいけないことです。 何故なら、快楽には善悪があるので、快楽を目標に据えると、悪の道を進んでしまう可能性があるからです。
快楽という概念が人に宿ったときに人は心地よくなり、善いという概念が宿った状態の人間を、善人と呼びます。 常に善人で有り続けることは出来ず、善い行動を取っている間の人間を善人と呼びます。

そして善さとは、規律や秩序からなる技術によって生まれるもので、心地よいと思う方向に思いつきで進んで行って到達できるようなものではありません。
膨れ上がる欲望をそのままにして、自分の欲望にしたがって忠実に生きて、心地よいと思う方向に流されるような生き方では絶対に到達できないもので、秩序を守って悪い欲望を抑え込める人間にだけに、善が宿ります。

まとめると、善人とは、自分の中に生まれる悪い欲望を、秩序を守る為に抑え込んで、自分の行動を律する事が出来る人間だということになります。
秩序に従って、自分の欲望をうまくコントロールできる人間は、傲慢にならず、他人に接する時には礼儀正しい態度を取るし、神、これは、自分の想像を超えるような事態と言い換えても良いかもしれませんが…
そのようなものを前にした際にも、自分の力を過信せずに、敬う様な態度を取ります。

節制できる精神に宿る勇気

そして、善悪を正しく理解して秩序を守る人間は、勇気を兼ね備えています。
何故なら、欲望をうまくコントロール出来ているために、悪へ導く快楽など、追求してはならないものは追求しませんし、自分をコントロールできているので、避けては通れないものに対しては、恐怖に屈せず、迎え討つ覚悟を持っているからです。

これらの事を前提とした良い人、善人は、目標を正しく設定して、道を見失うことなくその方向へと向かっていくために、その人の人生は幸せなものとなりますが…
自分の欲望を抑えることが出来ずに流されてしまう人間は、欲望の善悪を見分けることが出来ずに、楽な方に流されて道を誤ってしまい、悪い方向へと進んでしまう。結果として、その人は最終的に不幸へと辿り着く事になります。
人の最終目標を幸福とするなら、人は自分から湧き出る欲望を抑えて、不正を起こさないようにする必要があります。 何故なら、不正は自分の魂、これは精神と言い換えても良いかもしれませんが、それを汚染して悪くするからです。

もし、抑制が効かなくて不正を犯してしまったとしたら、精神汚染を除染する為にも、出来るだけ早く法のもとで裁かれて刑罰を受ける必要があります。
そうする事によって、自分がどれだけのことをしてきたのかを振り返ることが出来て、過ちを反省することが出来て、魂を善い方向へと修正することが出来るからです。

無限に沸き起こる欲望に身を任せて、手に入れた権力を用いて他人の命や財産を奪い、その不正が問題にならないように願うような人生は、盗賊の人生と同じで、その道を極めたとしても幸福に辿り着くことはありません。
何故なら、人は1人で生きているわけではなく、1人1人が他人とつながることで社会を形成し共同で生きている社会的な動物だからです。
独りよがりな欲望に従って、他人のものまで好き勝手に奪うような人間は、誰からも必要とされず、愛されることも無いので、社会からはじき出されてしまいます。