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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第86回【ゴルギアス】まとめ② 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

前回は、ポロスの幸福論が間違っているとして、ソクラテスが説得を試みるところまで話しました。 今回は、その続きから話していきます。

ポロスの幸福論

ポロスの主張としては、快楽を満たすという満足感こそが幸福の源で、幸福になりたいと思うのであれば、幸福を満たせるだけの力を手に入れるべきだと言います。
その権力が絶対的なもので、仮に不正を犯したとしても、捕まることがないほどの権力を手に入れることができれば最高で、そうなったとしたら、好き放題出来る。
金が欲しいと思えば他人から奪い取れるし、気に入らない人物が現れれば、適当な罪をでっち上げて裁判にかけて、その裁判にも圧力をかけて国外追放や死刑にしてしまえば良い。

欲しいものを自由に手に入れることが出来て、気に入らないものは排除したり叩き潰したり出来る地位こそが、人を幸せにしてくれると信じ込んでいます。
しかしソクラテスに言わせれば、お金を手に入れるのも、それを手に入れることを可能にする権力も、目的ではなく手段に過ぎません。 他人からお金を奪い取るには権力という手段が必要になります。
では、お金は何のために必要なのでしょうか。 お金は、紙や金属に数字が書かれただけのものですが、それを大量に集める事に何の意味があるのでしょうか。

お金自身も手段にしか過ぎず、お金は何かしらの物と交換することによって、その真価を発揮します。 ただ貯め込んでいたとしても、何の意味もありません。
つまり権力を使って手に入れたお金も、何かしらのものを手に入れる為の手段でしか無いということです。
権力もお金も、最終的に欲しいものを手に入れる為の手段でしかありませんが、その手段を目的化してしまうと、本来の目標を見失ってしまいます。 現にポロスは、お金を得ることに熱心で、それを使って何をしたいのかを何一つ言っていません。

独りよがりの幸福

ポロスは、最終的には幸福を手に入れたいと思っていて、その為には不正を行うことも辞さないと主張しますが、幸福とは不正を行って手に入れることが出来るようなものなのでしょうか。
ソクラテスは、逆らえないような権力や武力を背景にして他人の命や財産を奪う行為は、盗賊と同じ行為だと主張しますが、盗賊の人生は幸福な人生なのでしょうか。

しかしポロスは、『他の国には、王様が奴隷と関係を持って生まれた子供なのに、他の王位継承権を持つ人間を不正な手段で全て殺したことによって、王になった者がいる。』と主張して、ソクラテスの意見を頑なに聞き入れません。
奴隷として生まれた子供は、何の不正も犯さずに普通に暮らしていれば、一生を奴隷の子供として蔑まされて生きるはずだったのに、不正を犯したことによって一国の主に成れたんだから、不正行為で幸福は手に入れられるんじゃないのかと主張します。

このポロスの意見に賛同する方は、今の世の中でも少なくない割合でおられると思います、」しかし、この様な形で権力を手に入れた人間は、本当に幸福を手に入れているのでしょうか。
現在の会社組織でも、口先の技術を使って上司に取り入ったり、他人を陥れたりして出世して、権力を手に入れる人間というのは少なからず存在します。
その様な人間は善悪の区別がつかない為に、高い地位を手に入れると、それを利用してパワハラやセクハラを行うということもするでしょう。 だって、そうすることで優越感や満足感を感じますし、それを持って幸福だとしているんですから。

でも、冷静になって考えると、そんな人間が出世できる組織ってのは、当然ですが、優秀な人材が辞めていきますので、組織として持たないですよね。
また、会社内で出世して権力を手に入れて、それを自分の力だと勘違いして威張り散らしている人間は、定年などで会社という枠組みから排除されてしまうと、誰からも見向きされません。
だって、会社内の人達がその人の言うことを聞いていたのは、会社内での権力があったからで、その人自身の力ではなく会社の力に依存していたわけです。 その会社から弾き出されるなり、会社が潰れるなりした場合は、誰も相手にしてくれません。

安心できる生活

何故なら、その人物は不正行為を行って他人を蹴落としたり、口先だけの技術で実力以上の評価をされていた人なので、人間的魅力はゼロです。
人間として何の魅力もない人物に関わろうとする人は、余程の物好きでもない限りは存在しません。 世の中から無視されて、孤独な人生を歩むことになります。
これは、ポロスが例として出した王様も同じです。 王位継承権を持つものを皆殺しにして王座に着いたのであれば、その王様は常に、『自分も他の人間によって暗殺されるかもしれない。』という恐怖と共に生きなければなりません。

もし、この奴隷出身の王様が、独裁者となって好き勝手し放題の人生を歩めば、それによって国民は苦しめられることになるわけですから、あっという間に王政は国民によって打倒されるでしょうし…
仮にクーデターが起こっても、味方してくれる人間はいなくなります。 つまり、無能な王として自分自身も排除されてしまうということです。

王様が殺されないようにする為には、身内の暗殺によって成り上がったことを正当化する必要が出てきます。 つまり、国や国民にとって良い政治を行う必要があり、善い王として振る舞う必要が出てくるわけです。
善い王として振る舞おうと思うと、当然のことですが、ポロスがいうように他人の財産や命を自由に奪うなんてことは出来ません。 そんな事をしてしまえば、暴君として自分自身の命を危険に晒してしまうことになります。
自分のことよりも国民のことを優先し、国民から支持されるような王にならなければならないので、知識や知恵を付ける必要もあるでしょうし、優秀な人間からの信頼も勝ち取らなければなりません。

どちらにしても、ポロスの主張するような『欲望を満たし続ける幸福な生活』は出来そうもありません。
でも、ポロスに限らず、現代でも出世欲にまみれた人間などは、浅はかな考えの為にこの事に気が付かず、自ら、破滅の道を全力疾走していきます。

客観的に観る不正の加害者と被害者

次にソクラテスは、不正を行う者と不正の被害にあう者を比べると、不正を行う者の方が不幸だし、不正がバレる場合とバレない場合を比べるなら、不正がバレ無い方が不幸だと主張します。
この意見に、ポロスはますます混乱していきます。 何故なら、ポロスにとっては不正を行って金銭を手に入れて、それがバレなければ最高だと考えているからです。
簡単にいえば、オレオレ詐欺を行って多額のカネを手に入れて、それが警察にバレ無いのであれば最高で、オレオレ詐欺は金儲けの手段として最高だと言ってるのと同じです。

何度も言いますが、ポロスの意見は基本的には浅はかなんですが、ポロスの意見を理解できるという方は、かなり多いと思います。
ただ、ポロスの意見は突き詰めると危険なので、ここでは、何故ダメなのかというのを説明していきます。

まず、『不正を行う者』と『不正の被害に遭う者』とを比べた場合で不幸なのは、『不正の被害に遭う者』ではなく『不正を行う者』だという点ですが、ポロスが理解できないのは、この関係性を『その瞬間』だけ切り取って観ているからかもしれません。
自分が不正を行うのと、自分が不正の被害に遭うのとでは、被害に遭う事の方が嫌だと思う方も多いと思います。 しかし、もっと引いた目で、この関係性を観てみるとどうでしょうか。

不正を行う者の末路

例えば、アナタが『不正を行う人』と『不正の被害に遭っている人』を観た場合、不正を行っている人と仲良くなりたいと思うかというと、多くの人が、関わり合いになりたくないと思うはずです。
一方で、不正の被害に遭っている人に対しては同情し、助けたいという気持ちが沸き上がってきたりもします。
この二人が、数十年に及ぶ人生を歩んでいくと、不正を行って平然としている人間には、その人間性に惹かれて寄ってくる人はおらず、不正をして手に入れた権力や金に引き寄せられる人しか集まってきません。

一方で不正の被害に遭う人には、自分を救おうしてくれる人達が集まってくることになります。 この両者を比べた場合、どちらが幸せといえるのでしょうか。
不正を平然と行うものは、その対価として手に入れた権力や財産が無くなると同時に、自分の周りから人はいなくなりますが、不正の被害に遭っている人は、そうではありませんよね。何故なら、集まってくる人は助けようとしてくれる善人達なんですから。
不正を行う者に集まってくるのは、不正を悪だと思わないような無知なものや悪人だけで、逆に、不正行為の被害に遭う者の周りに集まってくるのは善人ばかりだとすると…

善人に囲まれて暮らす一生と、悪人に囲まれて暮らす一生とでは、どちらが幸せなんでしょうか。
この事は、この次に登場するカリクレスとの対話でも、引き続き話されます。
このカリクレスとソクラテスの対話ですが、カリクレスの主張は一見するとポロスと同じような事を繰り返しているだけのようにも思えますが、カリクレスの主張のほうが、より突っ込んだ深い内容となっています。