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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第80回【ゴルギアス】類は友を呼ぶ 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

コスモス=秩序

人間社会という共同体の中で生きていくために必要なのは、他人から愛されること、必要とされることで、その友愛を勝ち取るためにも、自分の中に潜む独りよがりな欲望を抑え込んで、自分の中に秩序を作り上げないといけません。
生きていくための基本となるのが秩序なので、この世界の総体である宇宙のことを、古代ギリシャでは『コスモス』と呼びます。コスモスは和訳すると秩序です。
力を持つ少数の者が独占をするのではなく、共同体全体で分割することこそが秩序であって、正義となります。

仮に、ゴルギアスやポロスのいうように、弁論家という職業が優れた職業であるなら、身内などの大切な人が罪を犯してしまった場合には、裁判によって裁かれて刑罰を受けるように説得しなければなりません。
例え、罪を犯した親しいものが耳を傾けなかったとしても、魂が悪い方向へといかないように良い道へ戻すためには、根気強く説得する必要があります。 そうでなければ、弁論術は人を善い方向へと導く技術とは言えないことになります。
このような事を適切に行える弁論家は、善悪の区別が付き、他人を思いやることが出来て、避けては通れないことに対して真正面から受け止める勇気を兼ね備えているので、アテレーを宿していると言えます。

また、不正を行うものと不正を受けるものを比べた場合は、不正を行う者のほうが醜く、醜いということは悪い存在といえるので、不正を行う者のほうが不幸になります。
この世で一番の害悪は不正を行う事で、それよりも悪いことがあるとすれば、その害悪が誰の手によっても裁かれないこととなります。 何故なら、仮に身近にアテレーを宿した人間がいれば、その者が説得してくれるはずだからです。
不正を働くという、自分自身を最も不幸にしてしまう過ちを犯した際に、誰も自分のことを心配せずに放置され、正しい道へと修正して導いてくれる人間が居ない状況は最悪で、それに比べれば、不正を受ける方が、まだマシと言えます。

不正から距離をとる方法

ただ、不正を行われるのは不正を行うよりはマシというだけで、不幸であることには変わりがないので、幸福になる為には、犯罪者やその被害者になることを避けるように気をつけなければなりません。
では、不正行為から距離を離すためには、どのようにすればよいのでしょうか。 今までの対話のまとめを1人で話してきたソクラテスでしたが、ここに来てカリクレスに対して質問します。

この、不正行為から距離を離す方法は何か? という質問に対してカリクレスは、『力』をつけることだと答えます。
確かに、誰にも刃向かえないような力を身につけることができれば、不正行為を受けるというのは防ぎやすくなるかもしれません。
これは、肉体的な強さであっても権力や地位と行った政治的な力でも同じで、身につけることで、何もしなくても相手を威嚇して、不正行為を受ける確率を減らすことが出来るでしょう。

しかしこれは、不正を受けないようにする為だけの答えであって、自分が不正を行うのを止める動機にはなりません。というか、誰にも逆らうことが出来ない力を手にしてしまえば、不正を行いやすくなってしまいそうな気すらします。
では、自分が不正を行わないために必要なのは、どんな力なのでしょうか。 他人に対して行使するような力ではなく、意志の力が必要なのでしょうか。
しかし、先ほどのポロスとの対話では、不正を犯す人間は、不正を意図的に望んで行っているわけではなく、自分でも気が付かないうちに、不正に手を染めてしまっているという話でした。

力の傘

自分で不正行為を自覚しておきながら、意志の弱さによって欲望に流されて不正を行う場合は、意志の力を高めることで欲望に流されない力を手に入れることもできそうですが、自分の行動が不正か不正でないかがわからない場合は、どうでしょうか。
肉体的な力や権力を持っていても、揺るがない意思の強さを持っていても、不正だと気が付かないのであれば、それらの力を行使することは出来ません。 力があっても行使できないというのは、持っていても意味がないという事です。
自分自身の主観で気がつくことが出来ない物事については、自分の立ち位置を客観的に見ることが出来て、それを判断できるような物差しが必要となります。 それが、確固たる技術になるわけです。

では、力や技術だけで完全に不正から距離を取ることは可能なのかというと、それは難しいでしょう。 力をつけたとしても、不正を受ける可能性を減らせるだけで、自分以上の力を持つ人に対しては無力です。
この問題を解消して、本当に完全に不正から距離をとろうと思うと、自分が一番力のある人間になるか、一番力のある人間に取り入る必要が出てきます。
ここまでの流れを聞いたカリクレスは、ソクラテスがやっと理解を示してくれたと喜びます。 というのも彼の主張は、大人になったら哲学など意味のない事はやめて、出世の為に社交性を身に着けて、力や金を持つ人間に取り入るべきと主張していたからです。

不正の被害を受けないために、自分が一番高い地位を目指すか、それとも、一番高い地位の人間に取り入って気に入られるように振る舞うというのは、カリクレスが主張し続けてきたことなので、この事を理解してくれたことに素直に喜ぶのですが…
ただ、喜ばしておいてなんですが、ソクラテスは別に、カリクレスの意見を聞き入れたから、この様な意見を言ったわけでは無いんですけれどもね。

類は友を呼ぶ

話を続けると、自分がある程度の地位を獲得できたとしても、自分よりも上の立場のものが存在していて、その人間に嫌われてしまったら、何らかの圧力によって陥れられてしまう可能性があります。
罪をでっち上げられたり、暗殺されたりといった具合にです。 この様な不正を行うことこそが一番の不幸なのですが、その被害にあうことも不幸には違いがないので、この様な被害にあう確率を下げるには、一番の権力者に好かれる必要があります。
では、人から好かれるためにはどうすればよいのでしょうか。 日本にも、『類は友を呼ぶ』といった諺がありますが、親しくなろうと思っている人間との考え方差が開きすぎていると、仲良くなることは出来ません。

例えば、政治的な考え方において右翼と左翼は仲良く出来ないでしょうし、不正や暴力を憎む人達と反社会勢力の人達は仲良く出来ないでしょう。
仲良くなるためには、何らかの部分で価値観が一致している必要があって、共通している部分が一切なく価値観が離れている人間とは、普通は仲良くは出来ません。

また、知識や思慮深さによるレベルの違いというのも関係してきます。
王様と国民を比べた時に、王様が先々のことまで考えた上で政策を打ち出したとしても、国民が目先のことしか考えずに文句しか言わなければ、王様は国民のことを見下して、相手にしようと思わないでしょう。
逆に、王様が自分の利益だけを考えて不正を行っていて、国民側が先々のことまで考えているとすれば、国民は愚かな王様を認めないでしょうから、国民と王様の距離は縮まりません。

一方が優秀で、もう一方が遥かに劣っている場合は、そもそも会話も成り立たなくなるので、コミュニケーションも取れず、仲良くなれることはないということです。
では、不正を行ってしまうような無能な独裁者に取り入るためには、どのようにすれば良いのでしょうか。
類は友を呼び、同じ様な人同士が仲良く慣れるのであれば、その無能な独裁者の方に合わせるしか方法はありません。

朱に交われば赤くなる

独裁者が、白いものを観て黒といえば賛同する。
独裁者が、馬を連れてこいと命令したので部下に馬を連れてこさしたとして、独裁者が馬を見て、『馬を連れてこいと言ったのに、なんで鹿を連れてきたの?』と言い出したら、命令通りに馬を連れてきた部下の方を叱らなければなりません。
ドラえもんでいうなら、ガキ大将のジャイアンにいじめられたくないと思ったら、ジャイアンを褒め称えて、いじめられっ子の『のび太』をジャイアンと一緒になっていじめなければなりません。

このようにして、無能な独裁者のレベルまで自分を落とし込むことで、独裁者に気に入られる状態を作り出すことが出来ます。
アテレーを宿さない、不正を働くような劣った独裁者に媚びへつらう事で、独裁者から気に入られることに成功したら、自分だけは独裁者から不正を受けない状態を作り出すことが出来ますし…
独裁者と仲の良い事をアピールすれば、その立場を使って、他人を威嚇することが出来ます。 ドラえもん風にいうなら、のび太が気に入らない態度をとった際に、ジャイアンに言いつけるぞというだけで、スネ夫のび太服従させることが出来ます。

この様な状態を作り出せば、不正を受ける確率はかなり下げられるでしょう。 では、もう一度振り返って、自分が不正を行う点について考えてみましょう。
不正を行うような劣った独裁者と同じレベルまで自分を落として、独裁者が主張する無茶苦茶な理論を全て肯定することで気に入られた者というのは、不正を行う独裁者と同じ様な性質になる為に、不正を犯しやすい人間になるのではないでしょうか。
また、独裁者の周りには、自分と同じ様に独裁者の思考に染まろうとする人達が集まってくるわけですから、誰も、不正はいけないことだと忠告してくれないでしょう。

納得できないカリクレス

先程も言いましたが、自分が不正を行っているにも関わらず、誰も、その事を咎めずに、自分が歩いている道を善い方向へと修正してくれない人間というのは、最も不幸な人間です。
ソクラテスの考察によると、カリクレスが主張するように、出世のために社交性を身に着けて、愚かな人間に取り入るという方法では、最終的に自分がもっとも不幸な状態に陥ってしまうことが判明してしまいました。

しかしカリクレスは、不正を行うものがもっとも不幸な人間だという部分について、どうしても理解が出来ません。
もし、劣った独裁者が不正行為を行って、無実の人間を死刑にした場合、死刑にされた側がもっとも不幸なのであって、死刑をくだした側は不幸ではないのではないかと。

ソクラテスは、このカリクレスの率直な疑問に対して説得を行うのですが、その話はまた、次回にしていこうと思います。