だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【原稿】第75回【ゴルギアス】勉強は社会に出ると無意味になるのか 前編

広告

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.mu

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

不正を犯すのは魂の病気

前回の話では、不正を行うのと行われるのとでは、不正を行うほうが悪く、不正がバレるのとばれないのとでは、不正がバレた方が良いという事がわかりました。
不正を行うという行為は下劣で醜いもので、その下劣で醜い行動で無実のものを巻き込んで被害に遭わせるというのは、更に醜い行為で悪いものです。
そのような不正を働く人間というのは、魂が病気になっているので、一刻も早く治す必要があるので、出来るだけ早く不正を暴いて、裁判で罪の重さを明らかにし、刑罰をくだして真っ当な人間にしてあげるのが、その人のために成るという話でした。

逆に、敵を陥れたいのであれば、敵に甘い言葉を囁いて不正を行わせる必要があるし、その不正がバレ無いように全力で偽装する必要があるし…
万が一バレた場合は、裁判の場で有る事無い事をでっち上げて敵をかばい、刑罰を出来るだけ少なくするようにしなければならないというのが、ソクラテスの言い分でした。

しかし、この意見に対して対話を見学していたカリクレスが物言いを付けます。 何故ならソクラテスの主張は、世間一般の常識から言えば、真逆の主張になるからです。
一般的な感覚からすれば、敵を陥れる為に、不正を犯して有る事無い事をでっち上げて無実の敵を逮捕させて、裁判の場では不利な証言を行って重罪にして、重い刑罰を与えるのが、敵に対する態度のはずです。
ですが、ソクラテスの意見は、この一般的な価値観とは真逆です。まるで、友達に取るような態度を敵に対して取れと言っています。

これらの意見を横で聞いていたカリクレスは、『それでは世間の一般常識とは真逆になってしまう。』と反論しだします。
そしてこの後、ポロスに変わってカリクレスとの対話に移ります。

相対主義と絶対主義

カリクレスは、普通の感覚であれば、権力を握ってそれを振りかざして理不尽な行為を行うのと、その被害にあうのとでは、どちらが嫌かといえば、被害にあうほうが嫌なのに決まっていると主張します。
ポロスもそうですし、このカリクレスも、そして、これを聞かれている多くの方も同じように思われると思いますが… では何故、順を追って一つ一つ考えていくとソクラテスの言っていることが分かるのに、全体としてみると納得ができないのか。
それは、カリクレスやポロスや多くの人が相対主義なのに対し、ソクラテスは絶対主義だからです。 この主義の違いによって、意見が受け入れにくい状態になっています。

相対主義者が考える、善悪の基準は人の立場によって変わる一方で、ソクラテスの主張する絶対主義では、善悪の基準は1つしかありません。
善悪の基準が人の立場によって変わるのであれば、権力者の理不尽に耐えなければならない状態も悪いといえますし、不正を行って、捕まれば悪いけれども捕まらなければ良いといった感じで、状況に応じて善悪の基準を変えることが出来ます。
しかし、ソクラテスの主張する絶対主義では、善悪の基準は固定されます。 一方を良いとした場合は、反対側にあるもう一方は自動的に悪いとされます。

相対主義では、権力を振りかざして不正を行って理不尽を押し付けて、権力者が捕まった場合、捕まった権力者が悪いとされますが、反対側の理不尽を押し付けられた被害者も被害を受けたから悪い状態といえてしまいます。
何故、このようなことになるのかといえば、権力を持つ側の視点と被害を受ける側の視点の2つの観点から物事を考えるので、視点ごとに価値観が生まれてしまいます。
しかしソクラテスが主張する絶対主義では、価値観は1つしか無いため、不正を押し付ける側を悪い側だとした場合は、押し付けられた側は自動的に悪い状態ではないことになってしまいます。

『本能的な考え』と『社会的な考え』

カリクレスとの対話に話を戻すと、ポロスがソクラテスとの対話に負けてしまった理由は、人には『本能的な考え』と『社会的な考え』の、反発する2つの考え方があるからだと言います。
本能的な考えとは、『他人を支配出来るような巨大な力がほしい』とか『美味しいものを食べたい』とか『人の注目を浴びたい』とか『恐怖や痛い思いをしたくない』など、人が生きていると自然に抱く本能的な考えのことです。
社会的な考えとは、人間社会をうまい具合に持続するために必要な秩序に則った考え方のことです。 人がそれぞれの欲望だけに従って生きてしまうと社会は簡単に壊れてしまうので、社会を持続させるために後から取り入れた考え方です。

そして、秩序を守るために作られる法律は、皆が納得できるように論理的に作られているわけですが、人が本来持つ本能と論理の世界には隔たりがあります。
何故なら社会を維持する為の法律には、権力者の横暴や必要以上の権力の集中を食い止めるという役割もあるために、大多数の力も資産も持たない人間のことを考慮して作られているからです。
富や権力を持つ一部の人だけを優遇するような社会を前提に法律を作ってしまうと、大多数の市民の同意が得られないために、法律は守られることはなく、社会を安定的に維持する事はできません。

その為、権力が一部に集中しすぎないように、そして、富が一部に集中しすぎないように、権力や富は分散させるような法律が作られることになります。
このようにしなければ、国民は反乱を起こしてしまうでしょうから、社会を継続的に維持することが出来ません。
法律がこのような価値観のもとに制定されて運用されると、大多数の一般市民は、稼いだ富を分配する人間が良い人で、独り占めする人間が悪い人だという価値観に染まっていきます。

国の大多数の人間は富も権力も持たない市民なので、大多数の人間が、独り占めが悪で分配する人間が良い人だと思い込めば、国としての価値観もその様に染まっていきます。
しかし、人間の本能としては、稼いだ金は独り占めしたいし、手柄を立てたら一人の功績にしたい。 権力を握ったら、より大きな権力が欲しくなるし、全てを思い通りに動かす独裁者になりたいと思う。
この様に、人間が本来持つ本能的な考えと、社会を安定的に維持する考え方との間には隔たりがあって、価値観が逆転してしまいます。 カリクレスは、ソクラテスはこの2つの考え方を利用してポロスをハメたと言いがかりをつけます。

議論そっちのけで人格否定?

ソクラテスが行ったことは問いかけを行って、ポロスが本能的に答えた答えを社会的な考え方として取り扱う。 しかし先ほども言いましたが、本能的な考えと社会的な考えは、答えが正反対になる事があります。
この特徴を利用して、ポロスの答えが矛盾しているように演出をして討論に勝った卑怯者だと罵ります。

…ただ… ソクラテスは新たな人物が乱入するたびに、『恥ずべき行為』だとか『卑怯者』呼ばわりされているわけですが…
そもそも、ソクラテスが戦っている相手というのが、ギリシャの中でもトップレベルの弁論家や、その弟子だったりするわけです。
弁論家は、人を説得することが仕事なんですから、自分が培った口先の技術を使って、自分の意見を正論のように飾り立てて、ソクラテスを説得してしまえばよいだけです。

それが出来ずに、逆にソクラテスに説得されてしまって、その言い訳が『卑怯者!』っていうのは、色んな意味で弁論家として終わってる感じもするんですけれどもね。

またカリクレスは、ソクラテスがいい年をして哲学にのめり込んでいるのも否定します。ここでいう哲学とは、学問全般の勉強のことだと思っても大丈夫でしょう。
彼の主張としては、哲学というのは成人をむかえる前の子供が打ち込むものであって、大人になれば、お金の稼ぎ方であるとか権力を手に入れる方法など、社会で成功する方法を考えるべきだと主張します。