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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第87回【ゴルギアス】まとめ③ 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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目次

周囲の人達

最終目的地である幸福とは、人にとって良い事だと思われますが、では次に、何を持って善しとするのかというのが、問題になってきます。
カリクレスにとっての幸福が、生きている間に自分がどれ程の欲望を満たすことが出来るのかに注目しているのに対し、ソクラテスが重視するのは、世の中の秩序です。
欲望か秩序か、人間に幸福をもたらしてくれるのは、どちらなのかを考えてみましょう。

まず欲望について、わかりやすくするために極端に考えていくと、個人個人がそれぞれ自分の欲望を満たす為に、『多少の不正を行っても構わない』と自由に振る舞ってしまえば、社会はカオスな状態になってしまいます。
国を収める為の分かりやすい秩序として法律がありますが、皆が、自分の利益の為に法律を無視すれば、そこは国ではなく無法地帯となってしまいます。
カリクレスやポロスをはじめとした弁論家の弟子たちは、政治の場でのし上がって権力を手に入れたいと思って弁論術を習っているわけですが…

政治というのは国という組織の中の役割でしか無いわけですから、無法地帯となった場所に政治の権力なんてないことになります。
自分が政治的に上の立場になったとしても、秩序がなければ、下のものに命令を下したとしても、部下は自分自身の欲望を満たすのに必死になって、上司の命令を聞かないでしょう。
政治的な権力というのは、秩序という前提の上で成り立っているのであって、秩序が無くなってしまえば政治的権力も無くなってしまいますが、ポロス達は、政治的に上の立場になって、率先して秩序を破壊しようと主張しています。

また、対話篇の中では、個人の利益を優先する為には上司に取り入る必要があって、上司に気に入られるためには、上司と同じ様な属性だと思われなければならないとしています。
自分の上司が、自分ひとりの利益を追求するために不正を犯して、無実の罪で他人を訴えて命や財産を奪う人間なら、それを肯定するようなイエスマンにならなければ、気に入られて出世する事はありません。
自分自身がその様な人間でなかったとしても、権力を求めようと思うのなら、上司に合わせて不正を肯定するような人間を演じなければなりませんが、そんな立ち振舞を見て近寄ってくる人間も、同じ様に不正を肯定するような人達ばかりとなります。

類は友を呼ぶと言いますが、自分自身が持っていると思い込んでいる権力が、秩序の上に成り立っている砂上の楼閣ということに気が付かない様な人間の周りに集まってくるのは、同じ様な無知な人間ばかりです。
無知で、不正を行い、他人の命や財産を奪っても問題がないと平然と言ってのける人達に囲まれる人生というのは、果たして、幸せなのでしょうか。
おそらくですが、この様な集まりでは水面下では足の引っ張り合いが行われている為に、誰も信用できず、常に緊張した生活を送る必要があると思います。 それが、幸せな生活なんでしょうか。

幸福とは環境

一方でソクラテスが主張するのは、秩序を重視する価値観です。 不正は駄目なものだとされ、不正を行おうとしている人は注意されるし、不正で蓄財をしたとしても軽蔑される。
秩序を守るとは、社会を維持する事を重視するということなので、社会に貢献するような事をすれば尊敬されるし、皆から褒められるような社会です。
この様な社会では、人々は不正を行わずに、むしろ積極的に社会に貢献しようとするので、社会秩序は維持されるし、その共同体に参加する人達は良い人たちが多くなります。

良い人たちに囲まれているということは、近隣住民と信頼関係も築きやすいことになりますし、自分が窮地に追い込まれた際には助けてもらえる可能性も高いので、共同体の中では安心して暮らすことが出来ます。
カリクレスはソクラテスに対して、『正論を言い続けると皆から嫌われて、陥れられるぞ!』と脅しますが、本当に秩序が機能していれば、そんな心配もなくなります。 その心配をしなければならないのは、秩序が保たれていないからです。
この2つの社会を比べた場合、どちらのほうが暮らしやすいのかというと、秩序が重視される社会のほうが暮らしやすいと感じないでしょうか。

ソクラテスは、この様に秩序を重視した社会を作るべきだと主張しますが、この秩序を作るのに必要なのが、『善悪を正しく見極める技術』になります。
他人の行動を咎めようとする場合、自分の考えが正しくて、相手が間違っているということを確信していなければ、相手の行動にとやかくいう事は出来ません。
他人の行動を正し、社会全体を善い方向へと導こうと思う場合、何が正しくて何が悪いのかを正しく認識する為の絶対的な基準が必要で、その基準に辿り着く為の法則や技術が重要になってきます。

絶対的な正解は見つかっていない

そして、この対話篇を読み解く上で一番重要な事は、それらの技術や法則や絶対的な基準は、まだ見つかっていない為に、誰も知らないという事です。
前に扱ったプロタゴラスでもそうですし、今回のゴルギアスでもそうですが、絶対的に良い、優れているとされているアレテーと言う存在を、誰も明確に定義できていません。
ということは、明確なゴールも定まっていないということになるので、眼の前に選択肢を提示されたとしても、正解を見極める術はないということです。 何故なら、向かうべき方向が定まっていないからです。

また、この、ソクラテスの答弁が『善悪を見極める技術は、まだ発見されていない』ということを前提にしているという事を忘れてしまうと、大変な誤解を生んでしまったりします。
どの部分で誤解してしまうのかというと、人が悪い行動をした際には、それを見つけて、行動を正すために罰を与えるのは良い行為だという部分です。

ソクラテスは、不正を行うのと不正の被害者になるのとでは、不正を行う方が醜くくて悪い状態だとし、そして、その不正はバレないよりもバレた方が本人の為だと言います。
不正がバレた際には、不正を行ったことを後悔し、二度と行わないような罰を受けるのが本人の救済につながるし、矯正が不可能な程に魂が歪みきっているのであれば、他の者の見せしめとして、酷い苦痛を与えるべきだと主張しています。
何度も言いますが、この話は、絶対的な善と、それを見極める技術が発見されたとしたら、この様になるのが良いと主張しているだけで、発見されていない時には、善悪とは何かというのを考え続けなければなりません。

正義の固定

しかし、絶対的な善が発見されたと誤解されてしまったとすれば、自分たちの意見に背く人間を拷問にかけたり殺すことが、良い行動だと誤解されてしまいます。
例えば、漫画でいうとベルセルクという中世ヨーロッパをベースにしたファンタジー作品がありますが、この世界には、大きな勢力を持っている宗教が存在します。
この宗教は、自分の命も顧みずに宗教組織に全てを捧げる人間は肯定されますが、教義に少しでも疑問を持ったり反抗する人間は。捉えられて拷問にかけられますし、時には殺されたりもします。

その拷問はエゲツなく、焼きごてを当てたり、ハンマーで手足を砕いて車輪に固定したりとするわけですが、刑の執行は、聖職者が行います。
神に仕える聖職者が、何故、この様なひどい拷問を平然と行うのかというと、神という絶対的な『善』に対して疑問を持ったり反抗するのは悪なので、本人たちの為を思って、悪を浄化する為に拷問という良い行為を行っていると思い込んでいるからです。
これは、漫画のようなフィクションの世界だけでなく、実際問題として、この様な行為を行っていた宗教団体は過去の歴史に存在しましたし、今も、一部の過激な宗教組織がテロなどを通じて行っていたりします。

宗教だけに限らず、これは現在の国という枠組みでも行われていたりします。
人権上の問題から、酷い拷問は表面上はされなくなっているようですが、法律という『善』とされているものに逆らうものは、罰金や刑務所に入れられるといった行為を強制させられますし、死刑が廃止になっていない国では見せしめの為に殺されます。
この現状は、多くの人が『法律に逆らったんだから酷い目にあっても仕方がない』とか『秩序を乱したんだから当然だ』として肯定するかもしれませんが、それは、法律が本当に『善』であるということが大前提となります。

もし仮に、法律に不備があったり、そもそも間違っていたりする場合は、その法律に従って刑を執行しているものが、不当な扱いをしているということにもなります。
ソクラテスが『見つけなければならない』と言った、善悪を正しく見極める技術というのは、ソクラテスの死後2500年程経った現在でも、まだ見つかってはいません。 これから先、見つかるかどうかもわかりません。
だからこそ、考え続けることが重要だと訴えているわけですが、宗教の教義や国の法律が『絶対的な善』だと信じ込んでしまえば、その時点で思考停止してしまい、どんな酷い仕打ちであっても、良いことだと肯定されてしまいます。

ソクラテスは、『無知の知』という言葉でも有名ですが、争いやイザコザは『善い』という定義を知っていると思い込む事ところから始まります。
何を持って善しとするのかは分からず、善悪を見極める技術を人類は持っていないと認識するところから始めることが重要だということでしょうね。

ということで、今回でゴルギアスは終わります。 次回からは、メノンを読み解いていこうと思います。