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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第110回【ソクラテスの弁明】秩序を軽んじた罪 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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kimniy8.hatenablog.com

死とは

おそらくですが、ソクラテスが主張する刑罰として裁判官たちが予想していたのは、国外追放だと指摘します。
多くの人間は死にたくないと思っているし、死ぬということが悪いことだと思い込んでいます。
その最も悪いとされている『死』から逃れるために、そして、死刑に釣り合うほどの刑罰として、国外追放を提案するというのが、これまでの相場、常識とされていたんでしょう。

しかし、死ぬとは、本当に悪いことで、絶対に避けなければならないものなんでしょうか。
仮に、死という現象が最悪なものであるとするのなら、人の人生は最悪なもので閉じられる事となります。
また、この世の中には、一度死んで再びこの世に戻ってきた人間はいません。 その為、死という現象が本当に悪いものなのかを確かめる術がありません。

その為、ソクラテスは『死』という現象については、良いものか悪いものかは知らないというスタンスです。 知らないものに対して一方的な恐怖を感じ、悪だと決めつけるのは、ソクラテスの信条からは外れます。
何故なら、彼は『無知の知』を主張し、知らないものに対しては知らないものとして接することを信条としていたからです。
だとするのなら、その、『良いのか悪いのかも分からない死』というのを避けるために、有りもしない不正行為を認めて罪をでっち上げ、それに相応する刑罰を提案する行為には、意味はあるのでしょうか。

彼は当然、そんな事には意味がないと考えている為、迎賓館での食事を提案しました。
理由はそれだけでなく、国外追放の提案は、根本的な解決になっていないからです。

誰かの機嫌を損ねた罪

ソクラテスが訴えられた今回の裁判は、簡単に言えば、彼が多くの人の機嫌を損ねたという理由で訴えられて有罪判決を受けています。
仮に、ソクラテスが国外追放を提案し、アテナイから離れて別の国に移り住んだ場合、当然、ソクラテスを尊敬して仲間だとし、共に研究を続けていた仲間たちは、一緒に着いてくることになるでしょう。
そして、新たな地でも同じ様に研究を続けていたとすれば、その土地の人達の機嫌を損ねる事になり、同じ様に訴えられることになってしまいます。

それとも彼らは、アテナイの人達は、ソクラテスの態度に腹が立つから、有罪判決を下して国から追い出そうとするのに、ソクラテスが移住した先の人達は、腹を立てずに議論に付き合ってくれると思っているのでしょうか。
そんな事はないはずです。 相手が同じ人間であれば、返ってくる反応も同じ様になるでしょう。

また、ソクラテスが、同じ失敗を繰り返したくないという思いから、仲間との関係を絶って一人で研究を行う道を選んだとしても、次は、関係を絶った仲間たちから訴えられることになります。
何故なら、彼と共に研究をする道を選んだ仲間たちは、誰に強制されるわけでもなく、自分が好きでソクラテスについて行き、生活を共にしているからです。
彼らにとっては、ソクラテスと共に研究をすることが『生きがい』になるわけですが、ソクラテスが一方的に関係を絶ってしまった場合、彼らは機嫌を損ねてしまいます。

今回の裁判は、法を犯したとか、不正行為を働いたという理由で訴えられたのではなく、『誰かの機嫌を損ねた』という一点においてソクラテスが訴えられて、有罪判決を受けています。
ということは、もし、ソクラテスが独学の道を選ぶことで機嫌を損ねる人が出てくれば、その人によって訴えられてしまう事になります。
『誰かの機嫌を損ねた』程度で有罪判決が下るのであれば、どの様な行動をとったとしても、訴えられ、いずれ殺されてしまうことになるでしょう。

命の価値

それを避けるために、誰にも訴えられないように、一人でひっそりと暮らすという方法も、あるかもしれません。
しかしそれは、果たして生きていると呼べるのでしょうか。
ソクラテスにとっての生きがいは、最高善であるアレテーを追求することで、その為には、人々との関わり合いが欠かせません。

その最大の生きがいを禁じてまで、この世にしがみつく意味はあるのでしょうか。

この様に、ソクラテスの言い分は理屈が通っているのですが、罪が確定している状態で『迎賓館の食事』に投票するというのは、それはそれで、裁判官の職務を全うしているのか?という疑問も湧いてきます。
彼の有罪は満場一致で決まったわけではなく、僅差で決まっている為、彼に無罪を投票した人達もかなり存在します。
その人達に対しても、『自分の意志で人を殺させる』という重責を負わせるのは、また、選び辛い選択肢を提示するというのは酷だと思ったのか、彼は別の刑罰を提案します。

その罪は、罰金刑です。
ただソクラテスは、ソフィストたちのように授業を行ってお金を取ると言った活動はしておらず、極貧生活を送っていて、自身の生活の面倒を共に研究している人達に助けてもらっている状態です。
当然のことながら、多額のお金を支払うなんてことは出来ません。 ただ、もしかしたら、自分と共に研究していた人達が、彼のことを哀れに思って、お金を立て替えてくれるかもしれないとして、罰金刑を主張します。

この投票の結果、今度は更に80票の差が開いて、ソクラテスに死刑が言い渡されることになります。
この結果も、ソクラテスの思惑通りだったと思われます。

揺るがない基準

彼は、この裁判中もそうですが、過去の対話篇でも一貫して、感情に流されてはいけないと主張していました。
普段の生活でもそうですが、裁判中の裁判官ならなおさらです。何故なら、裁判とは、国の秩序を司るシステムで、裁判官は、その秩序の番人だからです。
その裁判官が感情的になり、裁判結果に私情を挟むというのは、それこそが秩序の崩壊と言えるでしょう。

対話篇のゴルギアスでも話されていましたが、人が判断を下す際には、感情ではなく、自分の感情の外にガイドラインを用意して、それに沿った判断を下していかなければ間違いを犯すと語られていました。
裁判でいうのであれば、そのガイドラインは法律です。 裁判官が法律を無視し、感情論で有罪無罪を判断し、刑罰を決めるとすれば、その基準は裁判官たちの機嫌によって揺れ動くことになります。
裁判官が機嫌が良いときには刑が軽くなり、逆に機嫌が悪い時には刑が重くなる…

この様な裁判が、正当な裁判と言えるでしょうか。
もし、この様な状態を許すというのであれば、裁判官に金品などを送ってご機嫌取りをすれば、どんな凶悪な犯罪を犯したとしても、その罪は裁かれない事になります。
そんな状態になれば、裁判官という立場その者が特権階級となり、既得権益へと変わっていきます。

そうなれば、富や権力を持つ一部も人間だけが好き勝手に振る舞える為、国家の秩序は崩壊し、国は乱れ、その国に属する人たちの大半は、不幸になってしまいます。
そうならない為にも、裁判には私情を挟まず、自分の感情がどの様な状態であれ、法律に則って判決を下さなければなりません。
それが秩序を守るということです。 不正行為を罰する機関で不正が行われるというのは、一番避けなければならないことです。

命をかけた訴え

ソクラテスは、自分が暮らすアテナイという国が、不正行為を認めない立派な国であるように、敢えて、裁判官を挑発し、感情的にさせたんでしょう。
もし仮に、それでもソクラテスが無罪になるというのであれば、この国の秩序が保たれている証拠となります。
しかし、仮に自分が有罪判決を受けて、ひどい刑罰を受けることになるとすれば、それは、この国のシステムが腐敗している証拠となるので、自らの命を生贄にすることで、彼らの目を覚まさせようとしたのでしょう。

ただ、先程も言いましたが、ソクラテスがとったこの様な態度で、ソクラテスの真意がわかるような人々であれば、そもそも、裁判は開かれていないでしょうし、開かれたとしても、冷静な裁判官達によって、彼は無罪になっているはずです。
そこでソクラテスは、自身の口から、この裁判の総括を行い、この裁判の何処に問題があったのかを語るのですが、その話は次回にしていこうと思います。

参考文献