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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第81回【ゴルギアス】幸福という絶対的な価値観 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

秩序

前回までの話を簡単に振り返ると、ソクラテスの、弁論術を極めることによって最終的にどの様な場所に到達することが出来るのかという質問に対して…
ゴルギアスやポロスやカリクレスが、『欲望を叶える力が手に入って、欲望の赴くままに生きることが出来る。』と答えて理由を説明するのですが、ソクラテスは全く納得しません。
その態度に説得を諦めたカリクレスが、『ソクラテス一人で考えればよいよ』と突き放し、ソクラテスは一人で考えるためにも、これまでの流れを整理するために振り返りました。

まず、確認の為に数々の前提条件を並べ上げ、その結果として、物事を良い方向へ導くために必要なのは、秩序だと仮定しました。
人は楽な方に流れていく習性があるので、思いつきで行動した場合は、確実に楽な方や心地よい方、快楽が得られる選択肢を選んでしまいます。
しかし、カリクレスの主張によると快楽には善悪があるそうなので、快楽を目的に据えて行動した場合には、悪の道を進んでしまう可能性があります。

悪い快楽を目的に据えると、当然ですが、目的は悪いものとなる為、その道を進み続けると不幸になってしまいます。
それを避ける為に必要なのが善悪を見極める基準で、その基準を、主観に頼らない『秩序』と仮定して考えを進めていくことにしました。

不正行為を遠ざける力

善悪を見極める基準を秩序とした場合、最も行ってはいけないとされるのは、秩序を乱す行為。つまり不正行為となります。
不正行為を行うものは、最も不幸な存在となりますが、その不正に巻き込まれる人間も不幸になります。では、不正行為を行わないように、また、不正行為の犠牲者にならないためにはどうすれば良いのでしょうか。
それは、力をつける事です。 他人に迷惑をかける不正行為は、力のあるものが力のないものに対して行います。 なら、自分がトップレベルの力をつけてしまえば、不正による被害は受けないで済みます。

ですが、これだけでは完全とは言えません。 というのも、力のあるものが力のないものに対して不正を行うのであれば、被害を最小限にするためには、国で一番の権力者になる必要があるからです。
この条件は国で1人しか手に入れることができないポジションなので、非常にハードルが高いです。 その為、そこそこの地位で不正を受けないようにする為には、一番の権力者に気に入られる必要があります。
人に気に入られるために必要なのは、その人間と同じレベルに合わせることです。 価値観が同じであれば、意思疎通がしやすくなり、親密になれます。

しかし、上のものに不正行為を行われるのが心配だから仲良くなりたい状況というのは、上のものが秩序を守らない独裁者だからです。
秩序を守らない独裁者と同じレベルにまで自分を落とし込んで、同じ価値観になろうと努力する行為は、自分自身が、不正を働いてしまうような人間になろうとする行為です。
この様な行動を取れば、自分が不正の被害者になることは防げるかもしれませんが、加害者になる可能性は増えてしまうことになります。

不幸なのは加害者ではなく被害者

ここまでの話を聞いたカリクレスは、自分が不正の被害にあうことがないのであれば、それで問題はないのではないかと切り込みます。
何故ならカリクレスの考えでは、この世で一番の不幸は、不正を行うことではなく、不正の被害者になることだからです。
不正を行える様な大きな力を持つ者には、自分が敵だと認定した人間を排除することが出来るので、自分が惨めな思いをする事はありません。
しかし、その力がなく、不正の被害者として無実の罪で殺されてしまう事は不幸なので、絶対に避けなければならないことだと考えているからです。

その為、カリクレスは、ソクラテスが主張する不正の被害を受けるよりも不正を行うほうが不幸に成るという理屈が、どうしても理解することが出来ません。
ドラえもんの例えでいうのなら、のび太に対してジャイアンが暴力という不正行為を行う場合、暴力を振るわれた側ののび太よりも、ジャイアンの方が不幸だという理屈がわからないんです。
どう考えても、一方的に暴力を振るわれる側ののび太の方が可哀想だと思ってしまいます。

人生の目的

これに対してソクラテスは、普通に考えると、暴力を振るわれる側の『のび太』の方が可愛そうだと思ってしまうのは仕方ないが、物の道理が分かってくると、考え方が変わるとして、説明を続けます。
ソクラテスは、不正行為を働く人間がもっとも不幸だという意見に賛同できない人間は、人生の目的が分かっていないと主張します。
この様に考える人の多くが、長生きがしたいだとか、他人の興味を引いてモテたいだとか、多くの金を得て散財して遊びたいといった感じの行為の中に幸せがあると思いこんでいて、快楽を得ることが最優先すべき目標だと定めています。

もし、財産や長生きや性的な快楽だけを求めて人生を生きているのであれば、自分の考えを押し殺して、時の権力者の価値観に摺り合わせて頭を下げる人生を歩めば、その願いの多くは達成できるかもしれません。
権力者の威光を笠に着て、自分も力があるように振る舞えば金も稼げるでしょうし、権力や金を手に入れることが出来たら、同じ様に権力や金を求める人間が自分にすり寄ってくれるわけですから、優越感なども味わうことが出来るでしょう。
そうやって、上の者にゴマを擦り続ける事でより大きな権力やカネを手に入れたら、それに群がってくる人間は増えるわけですが、その状態こそが幸せだと思うのであれば、そうすれば良いのかもしれません。

しかしそれは、本当の意味で良い人生といえるのでしょうか。
ソクラテスが何故、この様な疑問をいだいてしまうのかというと、彼が相対主義者ではなく、絶対主義者だからです。
弁論家やソフィスト達が支持する相対主義であれば、幸福は人それぞれの価値観の数だけあるわけですから、自分が満足できる良いと思える人生を歩めば、その人の中では良い人生となるし、自分が満足できて不満がなければ、それで良いことになります。

絶対主義的な幸福

しかし、ソクラテスが支持しているのは相対主義ではなく、絶対主義なので、幸福という価値観はこの世に1つしかありません。
例え本人が満足できる納得のゆく人生を歩んでいると思いこんでいても、第三者の目から観て『惨めだ』と思えるような人生は幸福な人生とは呼べません。
絶対的な価値観は1つなので、絶対主義の中で幸福な生き方というのは、誰の目から見ても幸福だと思える人生で、その人生はみんなが憧れるものでなければなりません。

自分の考えを押し殺して、自分よりも愚かだと思っている独裁者に気に入られる為に、自分自身も愚かな人間になって頭を下げてゴマをすり続ける人生というのは、誰の目から見ても誇らしくて憧れるような人生なんでしょうか。
自分よりも上のものに対してだけ媚びへつらって、自分よりも下だと思う人間に対してはデカイ態度を取る人間を観て軽蔑する人がいれば、その人の人生は惨めなものだし、誇れるものでもないというのが絶対主義的な考え方です。
では、誇れるような人生というのはどの様な人生なのでしょうか。 弁論家以外の他の仕事に焦点を当てることで、浮き彫りにしていこうと思います。

命を永らえる技術

単純に長生きしたいと思うだけであれば、弁論術や社交術を習うよりも、もっと良い技術が沢山あります。
例えば、単純に泳ぐという技術は、船に乗っていて何らかの拍子に海に落ちてしまった場合、財産や権力よりも、確実に自分の命を守ってくれる技術といえます。
どれだけ沢山の財産を持っていても、強大な権力を持っていたとしても、助けが来る前に溺れ死んでしまえば、金や権力に意味はありません。 それに比べれば、海に落ちたという条件に限定すれば、泳ぎの技術は命を守るのに役に立つといえます。

泳ぐよりも優れた技術としては、船を操縦する技術もあります。 ギリシャ大陸国家ではなく、小さな島が点在している国ですが、船や、それを操縦する技術がなければ、他のポリスにいくのに泳いでいかなければなりません。
泳ぎが達者なものでも、島と島との間を泳いで渡るのは命がけになりますが、船と、それを操縦する技術があれば、安全に海をわたることが出来ますし、船の場合は自分ひとりだけではなく、客として他の人を乗せることで、大勢を運ぶことも出来ます。
海で溺れている人間がいれば、船を使って助けに行くことも出来るでしょう。 船の操縦技術は、自分だけでなく、他人の命も救える、とても役立つ技術と言えます。

この様な感じで、航海術は自分を含めた多くの命を救える可能性がある優れた技術であるわけですが、では、この人達は優れた技術を持っているという理由で、他人にマウントをとったりするんでしょうか。
同じ職業の船長同士だと、互いの技術を競い合うために、自分のほうが優れていると言い争うこともあるかもしれませんが、彼等は、船乗りではない人間に対して、船を操縦できるからとマウントをとったりはしません。
仕事で船渡しをしている人は客から適正な運賃をもらうだけで、目的地に着いたことを、偉業を達成したかのような恩着せがましい態度で自慢したりはしません。

その一方で、弁論家はどうなんでしょうか。 弁論家の仕事は他人を説得することで、その能力は権力者に取り入る為に使われることもありますが、裁判などで他人の弁護をする際にも使われます。
この際に弁護士は、明らかに客よりも上の立場から物を言いますし、自分のしている職業は凄いものだとマウントをとったりします、また、弁護に成功した際には偉業を成し遂げたかのように振る舞い、恩着せがましい態度も取ります。
この対話の一番最初に、ゴルギアスやポロスに『弁論術とは何か』と聞いた際にも、この世で一番すごい、優れた技術だと言ってました。 では弁論家には、本当に彼らがいうほどの価値があるものなんでしょうか。