だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

第74回【ゴルギアス】不正行為の加害者と被害者、哀れなのは何方か 後編

広告

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.mu

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com


目次

醜い行為は悪い行為

つまり、美しいとされる肉体は、それぞれの地域の価値観に置いて卓越した肉体だと思われているもので、その肉体は、観るものに快楽を与えるため、目を奪うものでもある。
その真逆に位置するのが醜いという価値観で、劣った肉体は機能的に劣っていて、筋力も持久力も柔軟性もなく生命力も感じられない身体で、観るものを不快にする肉体です。
ここで、結局、見た目じゃないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、厳密には見た目ではなく、その肉体が卓越しているかどうかなので、単純な見た目ではありません。

つまり、美しいものが何故、美しいのかというと、他のものと比べて何らかの点で優れた卓越した部分があるから、第三者から美しいと認識されるので、美しいものは良いものだし優れたものだといえるわけです。
美しいものは、優れて卓越した良いものだし、醜いものは、劣っていて悪いものだから醜いと認識されるんです。
この理屈を、先ほどの『不正を行うのと受けるのとでは、どちらが醜いのか』という質問と『不正を行うのと受けるのとでは、どちらが悪く害があるのか』という質問に当てはめて考えてみましょう。

この質問は、違う種類の2つの質問のように思えますが、違う部分はどちらが『醜いか』と『悪く害があるか』という点だけで、この2つは先ほどの理屈でいうと同じものだとわかったので、実質的には同じ質問だったということがわかります。
ソクラテスに言わせれば、『表現の違う同じ質問を投げかけたのに、何故、答えが違ってしまうのか』という事で、実は2つの質問は同じものだったと説明したわけです。

不正の加害者は被害者より醜く悪い

表現の違う2つの同じ質問をした事によって、ポロスの意見は2つに割れてしまったわけですが、では、不正を行う方と受ける方とでは、どちらが悪くて害があるのでしょうか。
この事について考えていくには、次のテーマである『不正を行っている場合、それがバレた方が良いのか、バレない方が良いのか。』について考えて行くことが近道になるので、まず、そちらから考えていくことにします。

誰かが誰かにアクションを起こす場合、行為を『行う方』と『行われる方』が存在します。 何かを『する方』と『される方』が関わる行為は、全く同じものになります。
例えば、誰かを殴るという行為を例に挙げると、殴る人間が行う殴るという行為と、受け手である殴られる行為は、拳の大きさやスピードや破壊力は、同じです。
殴るほうが弱く殴れば、殴られる方は弱く殴られて、強く殴れば、強く殴られます。

数値を使った別の例でいうと、誰かが100万円を貸すという行為を行った場合、貸すためには借り手が必要なので、借りる人が存在することになり、100万円貸すためには100万円を借りる人が必要になります。
この場合、貸し手が100万を貸したのに、借り手が1000万を借りた事になるといったことはありません。 貸し手が貸した金額と借り手が借りた金額は同じになります。

この理屈を、先ほどの『不正を行うものと不正を行われるものと、どちらが悪く害があるものか。』という話に当てはめてみましょう。
誰かに対して不正を行うということは、不正を行われる人間がいるということになります。 そして、行うものと行われるものが関わるものは同じものという事になります。この場合でいうと、不正という事になりますね。
そして、当然のことですが、不正というのは悪くて醜いものです。

では、悪くて醜い不正を、他人に対して無理やり押し付ける場合は、どちらが悪くて醜いのでしょうか。
もっと分かりやすくいうなら、何の罪もない人間に、一方的に汚物を投げつけるという行為は、投げつける人間が悪くて醜くてどうかしているのか、それとも、投げつけられたほうが悪くて醜いのかということです。
この質問に対してポロスは、『悪くて醜いものを他人に押し付ける側』の方が、悪いし醜いと答えます。

不正はバレない方が良いのか

では同じ様に、不正を行っている場合に、バレた方が良いのか、それとも、バレずに逃げ切るほうが良いのかについて考えていきます。
不正がバレるためには、誰かが不正を見破って暴く必要があるわけですが、不正を暴くという行為そのものは、良いことなのでしょうか、それとも、悪いことなのでしょうか。

人は社会を作ることで共存しているわけですが、人が共存するために必要なのが秩序で、その秩序を生み出すために作られたのが法律です。
その法律を自分の利益のためだけに破ることが不正ですが、その不正が横行してしまうと、人間社会は崩壊してしまいますし、人は生きていくことが出来ません。その不正を明らかにする行為は、良い行為といえるでしょう。
では、刑罰の方はどうなんでしょうか。 不正などの罪を犯したものに対して、何故、刑罰が与えられるのかというと、犯した罪の重さを身をもって感じることで、次も同じような過ちを犯さないようにするためです。

自分が悪いことをしたということを再確認して反省する機会を与えることで、人間を良い方向へ導こうとするものが刑罰なので、刑罰も良いものと考えられます。
前に、人間は魂と肉体の2つに分けて考えられるという話をしましたが、不正を行い、それがバレないように願う状態というのは、魂が病気に犯されて悪くなっている状態とも考えられます。
理解しやすいように、肉体が病気や怪我をして悪くなっている状態に例えて考えると、病気や怪我をして身体を悪くしてしまった際に行うことは、医者にかかることです。

医者は、病気を治すために薬を調合してくれたり、傷を治すために傷口を縫ってくれたりしますが、その治療は、患者にとっては苦痛を伴う場合もあります。
医者が調合する薬は苦くて、飲むのが苦痛な場合もありますし、傷口を縫うのは痛いかもしれません。 しかし、医者は患者の身体を治す為に治療を行っているわけで、その治療は、身体にとっては良い事のはずです。
しかし、それを理解できない子供のような無知な人間は、医者が行う苦痛を伴う行為を嫌がって、時には医者と反発したりもします。

ですが、病気の状態を放っておいて良いはずはなく、何の処置もせずに放置しておくと、病気や怪我は更に悪化して、取り返しのつかない事態を招いたりもします。
これは、肉体に限らず魂も同じだというのが、ソクラテスの考えです。
自分の欲望を満たしたり楽をする為だけに不正を行うというのは、魂が悪い病気の状態になっているのと同じなので、身体の怪我や病気がそうであるように、悪いと分かったら出来るだけ早く対処すべきだと主張します。

不正を犯す悪い魂には治療が必要

悪い体を治す際には、診断をして治療をするように、悪い魂を治療する場合には、どのような不正を働いたのかを裁判で明らかにして、罪の重さに応じた刑罰を与えることで、罪が浄化されて良い魂へと矯正されると考えます。
つまり、不正がバレるというのは、不正を行った者が悪いことが発覚することで、体の例で言うなら、診断がされた状態。そして、刑罰が下されるというのは治療が行われた状態なので、不正がバレるというのは当人にとっては良いことだということになります。

また、この理屈でいうなら、弁論術というものが討論の場に置いて、口先によってその場を支配して、相手を陥れる事で自分にとって良い状態を作り出す技術であるなら、相手が不正を行うように誘導しなければならないことになります。
そして、相手が不正を行ったとしても、それがバレ無いようにするべきだし、刑罰が下される際には、敵を全力で弁護することで、刑罰を軽くしてやるべきだと主張します。
そうすることによって討論相手は、不正を行って魂が悪い状態になったにも関わらず、正確な診断がされず、治療もされていない状態を作り出すことが出来て、相手を不幸にする事が出来るからです。

しかし、この理屈を横で聞いていたカリクレスが議論に割って入って、『その理屈はおかしい。』と主張します。 もし、ソクラテスの主張が正しいのであれば、私達の生活は全て真逆になってしまうと反発します。
そしてこれ以降、ソクラテスとカリクレスの間で討論が行われるのですが、その話はまた、次回にしようと思います。