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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第86回【ゴルギアス】まとめ② 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

人生の歩み方

そのカリクレスが行っている基本的な主張としては、欲望が無い人生には意味があるのかという事です。
ソクラテスの主張というのは、物事の判断材料を直感や感情に委ねてしまうと、ほぼ確実に判断を誤ってしまうので、そういったあやふやな物に判断を委ねずに、確固たる絶対的な基準に判断を任せるべきだと主張しているわけです。
その絶対的な基準というのは、人間のように揺れ動いているものの中には宿っておらず、人間とは別に法則として存在している。 だから、その法則、この対話篇の中では技術と呼んでいますが、判断は技術的に行うべきだと言っているわけです。

カリクレスは知識や知恵を持つ人物なので、ソクラテスの主張は理屈では分かるけれども、ソクラテスが主張するような人生というのは、人の生きる道である人生と呼ぶのかと疑問を持っているわけです。
というのも、ソクラテスの言う通りの世の中になってしまえば、人間というのは考える必要がなくなります。
価値基準を自分以外の絶対的な法則として持っているわけですから、何か困ったことがあれば、自分で考えずに法則に当てはめれば、自ずと答えが出ることになります。

どんな問題が立ちはだかろうとも、自分で判断すること無く、条件を法則に当てはめた結果、出てきた答えを実行していくだけの存在。
果たしてこれが、人が生きる道なのかということです。
この考えを究極的に発展させていくと、人間には自由意志というものは必要なく、この世を動かすシステムの歯車として無心で回り続けていれば善いことになります。

攻略本を読みながらの人生

そんな人生を歩むぐらいなら、例え間違った道になるとしても、自分自身で考えて行動し、仮に間違っていたら全力で後悔し、正解を選べたとしたら全力で喜ぶ。
それこそが、人としての幸せであり人生なんじゃないかというのが、カリクレスの意見でしょう。

もっと具体的に例を交えて考えてみると、仮に、人工知能の研究が更に進んで、常にAIが絶対的な正解を教えてくれるような未来が来たとします。
ソクラテスの主張をそのまま鵜呑みにするのなら、未完成で無知な人間が、無い知恵を振り絞って必死に考えるよりも、絶対的な正解を出してくれるAIのいう通りに動いた方が良いことになります。
AIの支持に従うというのが想像しにくい方は、親が敷いたレールの上を無心で歩き続ける子供を想像してもらうと、分かりやすいかもしれませんね。

親というのは、絶対に正しいというわけではなく、時には感情に支配されて無茶苦茶なことを言ったりしますが、自分のことしか考えないサイコパスでもない限り、基本的には子供の為を思って様々な事を言います。
『宿題をしろ』だとか『勉強をしろ』とか、『ゲームは1日1時間でやめろ』とか、子供に対してイチイチ小言を言ってきます。
これがエスカレートした親などは、『高校は、この学校に行け』とか、『大学はここに入って好成績を出して、この企業に入れ』といった事まで指定してくるでしょう。

ソクラテスの言い分に従うのであれば、親は客観的な目で子供を観て、良い方向に誘導しようとしているのだから、子供は感情に流されずに、親の言うことに反発せずに素直に聞けと言うことになります。
誤解のないように何度も言いますが、このケースの場合は、親が善悪を見極める技術を身に着けている優れた人間であることが前提です。
親の方がダメ親で、善悪を見極める技術も身に着けておらず、自分のことしか考えないサイコパスで、感情に流されて指示だけだしてくるようなヤツだった場合というのは、当てはまりませんからね。

そうではなく、もし、親が善悪を見極める技術を持っていて、その技術を使って子供を善い方向へと導こうとしている場合、子供は一つも文句を言わずに命令を聞き続けるべきで、そうすることで善い方向へと進んでいけると主張してるわけです。
この理屈というのは、確かに、その通りといえばその通りで、絶対的に正しいとされる意見があるのであれば、自分が考えること無く、それを盲信していれば良いということになります。

幸福とは満足感

一方でカリクレスは、『そんな人生が楽しいといえるのか?』と疑問を投げかけているわけです。
ソクラテスが提唱する人生というのは、言ってしまえば、自分以外のものが敷いたレールの上を脱線せずに進み続けるだけの人生です。
そのレールの最終目的地が『幸福』であるのなら、そのレールを踏み外さない限り、確実に『幸福』な状態にたどり着けることになります。

しかし、そのようにして到達したところは、本当に幸福と呼べるものなのでしょうか。
カリクレスに言わせれば、『自分がそうしたい!』と欲望を抱いて、その欲望を満たす為に行動を起こし、結果として成功した時に達成感や満足感が得られて幸福を感じるのであって、それこそが人生だと主張しているように思えます。
判断の基準を自分の外側に置いて自分の感情を一切無視する生活は、道端に転がっている小石と何ら変わらない人生であって、そんなものには何の意味もないと、何度も繰り返します。

カリクレスのこの主張に関しては、納得される方も多いと思います。
他人を観て羨ましく思ったり、自分に足りないものに気がついた時に、自分に無いものを手に入れたいと思う欲望によって、人間は行動する原動力を得ます。
そして、自分に足りないものを手に入れる為には、どうすれば良いのか、どの行動が効率が良いのかを試行錯誤して手に入れる行為が、まるでゲームのように楽しく、結果として手に入れることに成功した時は、達成感や満足感を得て幸せになれる。

これこそが人生で、この環境の中で成功する事こそが幸福だと主張します。
ソクラテスが言うように、自分の欲望を捨ててシステムの一部になってしまえば、確かに、大きな失敗はしないかもしれないけれども、思いがけないような成功をすることもないでしょう。
ゴールも、それにつながる経路も全て予め決まっているわけですから、予定通りの道を通って予定通りのゴールを迎えます。 決められた道を辿ったという達成感は得るかもしれませんが、それが幸福なのかと問われれば、返答に困ってしまいます。

幸福に自由は必要か

この2つの人生を他のものに例えて考えてみるのなら、ソクラテスが提唱する人生がマラソンを走らされるような人生なのに対し、カリクレスの提唱する人生は、地図の無い無人島を探検するような楽しさがあります。
自分が興味のある方向へ行ってみて、思いもよらない絶景が広がっていたら、それに感動する。 しかしその一方で、間違って危険な道に迷い込んでしまう事もある。
道を自分で切り開いて行かなければならないために、それに伴う困難もありますが、困難を乗り越えた先には、思いもよらない物が手に入れることができる可能性もある。

何が手に入るのかが分からないということは、選択によっては何でも手に入れることができる可能性が広がっているという観方も出来るわけで、この世界は可能性で満ちているようにも感じられます。
一方で、ソクラテスが提示する人生は、ゴールも経路も予め決められているわけですから、予想外のものを発見できる楽しみや、自分の力で到達したという満足感は得られないのかもしれません。

また、カリクレスとソクラテスの対話篇では、2人の討論する際の温度差も書き分けられています。
カリクレスが、人の感情に訴えるような話し方で勧めていくのに対して、ソクラテスは、どこか機械的な話し方をしています。
これは、言わばAIと人間の会話のような構造になっているとも読み取れるので、人間味あふれる言葉で訴えるカリクレスの意見に耳を傾けたくなります。

似通った両者の意見

それだけでなく、ソクラテスの主張は結論だけを聴いたとしても理解しにくい主張です。 おそらく、プラトンは敢えてソクラテスの主張を分かりにくく突拍子もない様に紹介して、読者の注意をひこうとしてると思うのですが…
その解説も、読む人によっては理解しにくい形で書かれているので、カリクレスの意見を支持してしまうという人も結構多いと思います。
ソクラテスの主張を分かりにくく、そして、世間一般の感覚と近いカリクレスの主張を感情に訴える形で分かりやすく描き、プラトンは二人の対話を対立する構造のように演出しているわけですが…

この二人の意見というのは、実際にはそれ程かけ離れているわけではなく、割と近い考え方だったりするんです。
ただ、議論の前提条件が違うために、二人の意見がまるで対立しているように感じてしまうんだと思います。
ただ、このあたりの考察について今回語ると長くなってしまうので、続きはまた、次回に話していこうと思います。