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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第85回【ゴルギアス】まとめ 前編 ①

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

弁論家とは

第67回~85回までの18回で、プラトンが書いた『ゴルギアス』を読み解いていきました。 かなり長くなってしまったので、今回から、3回ほどに分けて、内容の振り返りを行なっていきます。
ゴルギアスの前に取り扱ったのが『プロタゴラス』でしたが、プロタゴラスの職業がアテレーを他人に教えるソフィストだったのに対し、今回の対話相手となるゴルギアスの職業は弁論家でした。
この対話編は、ゴルギアスに対して職業を聴くというところから始まるのですが、何故、そんな根本的なところから尋ねるのかというと、ギリシャの一般市民にとっては、ソフィストも弁論家も同じ様なものだと捉えられていたからかもしれません。

ソフィストは、アテレーという、それが宿ることで優れた存在になると言われているものを研究し、それを生徒に教えることで生徒を優れた存在にする職業で、弁論家は、それを身につけることで、自分を優れた存在へと演出する技術です。
アテレーの存在をよく分かっていない一般人の目から観れば、相手が本当に優れた人物なのか、それとも、優秀さを演出しているだけなのかは、見破ることが出来ません。
そんな一般人から見れば、ソフィストも弁論家も同じ様にしか観えないので、両者の違いというのを冒頭部分でさぐって明確にしようとしたのかもしれません。

ただ、この対話編に限らず哲学全般にいえることですが、弁論家とソフィストの違いを明確にしようとして深く考えていけばいくほど、両者にさほど違いがないように思えてくるのが、面白さの一つとなっていますよね。
プロタゴラスの例でいえば、プロタゴラスは優れた人間になるためだからといって、生徒が嫌がる分野の勉強をムリヤリさせることはしないと断言していますし、ゴルギアスでいうなら、弁論術に専門知識は一切必要がないと言います。
両者とも、優秀になるための必須の科目はないと断言してるわけですが、最終的には、人生において成功する事を約束しています。

ゴルギアス・ポロス・カリクレス

では、人生において成功する為に必要なことは何なのかというと、結局は『アテレーを宿す事』という事になり、その議論になると、『アテレーとは、教えられるようなものなのか。』という疑問に行き着いてしまいます。
成功するためには、優れた人になる必要があるけれども、何を持って『優れた人』というのかは、分からない。 この部分が、2つの作品に共通している部分だと思います。

ゴルギアス』単体の話に移ると、前回のプロタゴラスが、ほぼプロタゴラスとの1対1の対話だったのに対し、今回のゴルギアスでは3人の登場人物が代わる代わる出てきて、ソクラテスと対話を行います。
一人はタイトルにもなっているゴルギアスで、次に弟子のポロス。 そして最期は、対話の場となる家を提供している政治家のカリクレスです。
なぜ、3人も登場させる必要があったのかというと、弁論術を使う側の3人の意見が違っているからです。

3人に共通している点としては、弁論術を使うことによって、注目を浴びて出世が出来るという点だけのように思えます。
意見の違いとして一番大きいのは、弁論術の教師であるゴルギアスが、弁論術は強力な武器になりうる技術だけれども、それ故に、悪用すれば不正が行えてしまうと主張していますが…
一方でカリクレスは、自分の幸福のためなら、不正を行うのも仕方がないことだと割り切った考え方をしています。

プロタゴラスとの差

冒頭の話に少し戻すと、ソフィストと弁論家の違いを挙げるとするならば、弁論家が用いる弁論術というのは、便利な道具である為に、使う人間次第で善くも悪くもなってしまうといわれています。
一方で、ソフィストが研究するアテレーは、それを宿すことで優れた存在となるものですが、優れているという状態の中には『善』であるという状態も含まれているので、悪と対立するという立場が明確になっています。
この為、ソクラテスは、ソフィストの技術と弁論術は似たような技術では有るけれども、『善』というものに対して真摯に向き合っているソフィストの方がマシだと主張しています。

なので、前回取り扱ったプロタゴラスとの対話篇では、結構な論戦を繰り広げている感じにはなっていますが、ソクラテスにとってプロタゴラスは、尊敬すべき人の1人となっていたりもしますし、事あるごとに名前が出てきます。
とはいっても、この対話篇自体が弟子のプラトンが書いた対話篇という作品なので、何処までがソクラテスの本当の意見で、何処からがプラトンの意見かというのは分からなかったりはするんですが…
少なくともプラトンは、プロタゴラスという人物を尊敬している一方で、彼が支持している相対主義を崩そうと頑張っていることが伝わってきます。

『善い』人間が悪を成すのか

話をゴルギアスに戻すと、ゴルギアスの教える弁論術は、自分の意見を良い優れたものとして演出して説得を生み出すものですが、良い様に演出をしようと思うと、何が良いのかというのを知っていなければなりません。
ものまね芸人が対象となる人物のことを知らなければ『ものまね』が出来ないように、何が良いのかを知らない状態では、演出することが出来ないというわけです。
そこでソクラテスは、弁論術を学ぶ生徒は、既にアテレーを身に着けているのか、それとも、弁論家が教えるのかといった質問をします。

この質問も、選択肢があるようで、実は1択の質問です。 なぜなら、既にアテレーを宿して優れた人間であるのなら、その人物は皆から求められて充実した人生を送っているので、新たに弁論術を学ぶ必要はないからです。
弁論術を学ぼうと門を叩く人間は、今現在の自分に不満を持っているから出世をしたいと思い、その為に弁論術を学びに来るわけですから、新規で入ってくる弟子はアテレーは宿していません。
この質問に対してゴルギアスは、『アテレーを宿していない人間が弁論術を習いに来た場合は、アテレーを教える。』と回答するのですが、これが、先程の自身の発言と矛盾してしまいます

先程の発言とは、『弁論術は強力な武器になりうるので、使い方によっては悪用することも出来る。』という発言です。 アテレーを宿したものは『善』を宿しているわけですから、悪の道に進むことはありません。
にも関わらず、弁論術を悪用するというのは、教師である弁論家が、アテレーを正しく教えることが出来ていないという事になり、ゴルギアスは、教師として未熟だという事実を突きつけられてしまいます

技術と迎合

そこに割って入ったのが、弟子のポロスです。 彼は、尊敬する師匠が負けてしまうのが耐えられなかったのか、ソクラテスを『人の揚げ足を取る卑怯なやつだ!』として、乱入してきます。
そして今度はソクラテスに対して、『アナタが思う弁論術とは何なのか』と質問してきます。
この質問に対してソクラテスは、『弁論術は技術とは言えないようなもので、迎合でしかない。 醜いものだ。』と、更に煽った答えをしてきます。

ここで、技術と迎合という言葉が出てくるわけですが、この言葉の説明をすると、技術というのは扱う対象の研究を行うことで、それに対して熟知していて、対処法が決まっているもののことです。
自分の感情や、その場の雰囲気によって態度や答えが変わるものではなく、自分以外のところに確固たる基準があって、その基準に沿って機械的に行っていくものが技術です。
具体例を出すと、医者が持つ医学の知識や医術などがこれに当たります。 医者は、患者の態度によって対処法を変えようとは思いません。 体を善い方向へと治すという目標に向かって行動するだけです。

一方で迎合には、確固たる基準といったものは存在しません。 その場の雰囲気や、相手の反応を見ながら対応を変化させるものです。
具体例を出すと、料理などがこれに当たります。 料理には、確固たる基準というものが存在せずに、食べる人間の好みによって対応を変化させます。
辛いものが苦手だという人と、好だという人に対する料理の味付けは変わりますし、料理の食材選びや調理方法そのものも、食べる人の好みによって変わってきます。

そして、技術と迎合で決定的に違うのが、技術は『善い』とされているゴールに向かってブレることなく進んでいくのに対して、迎合は、目先の快楽に向かって進んでいくという点です。

快楽を追求する迎合

医術や建築技術のような技術の場合は、『人間を健康な体にする』であるとか、『倒壊しない優れた建物を立てる』といった確固たる目的があって、ブレることはありません。
例えば、建築現場で大工が『こんな多くの柱を立てるのは面倒くさいから、柱の量を減らしてくれ。』と設計士に訴えたとしても、その柱がなければ強度が保てなければ、設計士はその要望を絶対に聞き入れないでしょう。

提案したのが大工ではなく、自分の雇い主であったとしても結果は同じで、強度も満たせない中途半端な建築は出来ないと突っぱねるのが、建築技術を正しく収めたものの取る行動です。
医者も同じで、患者がどれだけ『注射はやめて。』だとか『痛い治療はしない欲しい』と訴えたとしても、それをしなければ直せないのであれば、患者を説得して正しい処置を行うのが医者です。

しかし、迎合に分類される料理は違います。 料理は、基本的には食べる人間の価値観が第一であって、好き嫌いの多い子供に対して親が無理やり食べさせると言った場合を除いて、料理人は食べる人の価値観に合う料理を出そうとします。
稀に、自分の価値観を客に押し付けるような、ガンコ親父がやっている店があったりしますが、その店が成立するのは料理が美味しい場合のみで、不味ければ廃業に追い込まれます。
では、美味しい料理というのは絶対的な価値観としてあるのかといえば、そんなものは無く、その料理を気にっている人がその地域内で多いのか少ないのかといったことしかありません。

この様に、技術が常に善い方向へ目指すのに対して、迎合は快楽しか目指しません。 そして弁論術は、快楽のみを追求する迎合であって、技術ではないと、ソクラテスは言ってるわけです。
そして、自分自身に沸き起こる欲望に忠実に従って生きた場合は、大抵の場合は、人は悪い方向へと進んでしまうと主張します。
現に、ポロスが追い求めているものは、絶対的な権力です。 それも、仮に不正をしても誰にも捕まえられないような権力を欲しています。