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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast原稿】第76回【ゴルギアス】負けた奴が悪 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

少数と多数の力

前回を簡単に振り返ると、ゴルギアスの弟子のポロスが、不本意な形でソクラテスに言い負けてしまったので、その議論を横で聞いていたカリクレスが乱入してきました。
カリクレスによると、人間の思考には、本能的な考え方と社会的な考え方の2つがあり、その2つの考えは反対の結果を生むことが有ると言います。
ソクラテスは、それを利用する事で、ポロスが本能的な考えで答えたことを社会的な考えの結果だと意図的に取り違えて受け取って、ポロスが矛盾していると演出したと難癖をつけます。

そして、人が幸せを目指すのであれば、人間社会を維持するための社会的な考え方ではなく、自分の欲望に従って生きる本能的な考えを追求するほうが良いと主張しました。

それに対してソクラテスは、1人の権力者の力よりも、団結した大勢の大衆の力の方が大きいのではないかと指摘します。
もし、団結した大衆の力が1人の権力者の力を上回るのなら、団結した民衆は非力な権力者から、欲望に任せて財産を奪い取って、それを皆で分け合っても良いことになってしまいます。
カリクレスの言葉を借りるのであれば、それこそが正義だし、その道の先に幸福が有る事になってしまいます。

そして実際問題として、権力者は大衆に対して気を使って、法律を作る際には、富が再分配されるように配慮しているので、結果として、社会秩序を維持することが正義となり、幸福に繋がる道なんじゃないのかと主張します。

しかしカリクレスは、この主張に納得しません。 カリクレスが主張する『力』とは、喧嘩の際に使う単純な筋力などではないからです。
では、カリクレスが主張する力とは、どの様なものなのでしょうか。 それは、『立派さ』です。

立派さとは何なのか

ここで再び、『立派さ』という様な曖昧な言葉が出てきました。
一番最初の対戦相手であるゴルギアスも、その次に割って入った弟子のポロスも、そして今回のカリクレスも、いざ、弁論術によって得られる力の正体を聞くと、抽象的すぎる表現で逃げようとします。
しかし立派さというだけでは、抽象的過ぎて力の意味が理解できません。 カリクレスが否定した筋力だって、立派か立派でないかで言えば立派なものですからね。 立派とは何なのか、何を習得すれば立派な状態になるのか、謎は全く解明されません。

カリクレスが主張する力の内容が全く判らないので、ソクラテスは『力があるとは、思慮が有ることですか。』と質問をすると、カリクレスはこれに同意してくれます。力の謎を解く糸口が見つかったので、ソクラテスはここから力の解明を行うことにします。
カリクレスによると、力を持つ者は他人から財産や命を奪っても良いとのことでしたが、その力が『思慮』なのであれば、思慮深いものは他人から財産や命を奪ってもよいということになってしまいますが、それで良いのかと確認すると、コクリと頷きます。

しかし、この返答は矛盾があるようにも思えます。 思慮深い人とは、周りの環境も踏まえた上で、深く考えて気遣いが出来る様な人物のことを指すと思うのですが…
思慮深い人が、他人が自分よりも劣っているというだけで、自分の欲望に身を任せて他人の財産や命を奪おうとするのでしょうか。 それとも、カリクレスが主張する思慮とは、単純に知識を多く持っている状態のことなのでしょうか。
この事を確かめるために、ソクラテスは例を出して、思慮深い人間は弱者を押しのけて、ものを独占しても良いのかどうかを探ります。

まず、何処かの地域で大規模な災害があって、地域住民が学校の体育館などの指定避難所に非難してきたという状態を想像してみてください。そこには幸いにも、非常事態に備えて数週間分の食料が備蓄されているとします。
避難所には、さまざまな人達が非難して来ましたが、その中にたった一人だけ栄養士がいて、避難民の中で彼だけが、食べ物に関するずば抜けた知識を持っていたとします。
この栄養士は、食べ物に関する知識を持っているという理由で、避難所に有る食べ物を独占してもよいのでしょうか。それとも、その知識を生かして、その場にいる皆に適切な量を分配するほうが良いのでしょうか。

この例え話を聞いたカリクレスは、『私が言っている知識とは、そういう知識ではないでしょ』と怒り出します。
『じゃぁ、どの様な知識なんですか?』と尋ねると、国を運営する為に必要な知識で、その知識を持っていると、政治家として出世も出来るし指導的立場にも付くことが出来て、権力を得ることが出来ると言います。
そして、知識だけではなく、勇気も持ち合わせていなければならないと、新たに条件を追加してきます。

都合が悪くなると意見を変える人たち

しかしこの態度に、今度はソクラテスが気分を悪くします。 というのもカリクレスは、ソクラテスが何かを言った際に、自分の思い通りの答えでなければ、『いや、そういう意味じゃない』といった感じで、その都度、条件を変えてきます。
こういう人って、現在の社会でも結構いて、Twitterなどでタイムラインを眺めていると、そういう人に対する苦言のようなものが流れてきたりもしますよね。

例えば、デザイナーがクライアントの意見を聞いてデザインを行って製品を提出したら、『そうじゃないんだよ。』と否定して、作り直しをさせるって事がありますよね。
まぁ、他人同士なので意思の疎通が1度で出来るわけはないので、細かい修正などであれば問題は無いんでしょうが、要求が徐々にエスカレートしてきて、最初の要望とは全く違った内容に変わっていくと、最初の意見の摺り合わせは何だったんだとなりますよね。
そして、その条件も聞き入れて、修正をしてデザインを提出すると、そこでまた、全く違った追加の要望を入れられたりすると、『考えがまとまってから依頼しろよ。』って思いますよね。 それと同じ様な状況と思ってもらって良いです。

カリクレスは、最初は力があるものが優れたものだといって、その次は、知識を持つものだといい、次は、その知識は国家運営のための知識で、知識に加えて勇気もないといけないと、ソクラテスが質問をするたびに答えを変えます。
ソクラテスが何かを発言するたびに答えを変えられるのでは議論にならないので、カリクレスが主張する、他人の命や財産を自由に奪っても良いとされる『優れた者』の定義を教えて欲しいと詰め寄ります。
そして、カリクレスが思い描く『優れた者』とは、他人だけではなく、自分自身も支配することが出来るのか。つまり、行き過ぎた欲望を理性によって抑えられるような人間なのかと質問をします。

欲望を抑える力

この質問に対してカリクレスは、当然のように否定します。 当然といえば当然ですよね。
カリクレスは、権力さえ手に入れてしまえば、他人の命や財産を自由に奪ってもよいし、その力が強大であれば、他国に侵略しても良いといっていたわけですから、欲望を抑え込むなんてことに同意はしませんよね。
彼の主張は一貫して、欲望に身を委ねて、欲望の赴くままに欲して奪い続けて、満足感を得続けることこそが、幸福へと続く道だといっていました。

カリクレスがいうには、力のある人間は欲望を抑える必要などはないし、『抑えろ』と忠告してくる人間は、自分には欲望を満たすだけの能力がなく、満たしたくても満たせない状況だから、嫉妬して、他人に抑えろと言っているだけだそうです。
力を持たない劣った人間は、優れた人間の能力に嫉妬しているから、力を持って自由に振る舞う事を、まるで悪い事のように主張すると言います。 出る杭は打たれるって感じですかね。
力を持つものは極一部で、大半の人間が力を持たない嫉妬しか出来ないようなやつだから、自由に振る舞ったり、富を分配せずに独り占めすることを悪い事のように吹聴し、その思想を学校などで子供に教え込むことで、一般常識化してしまったと主張します。

子ども達は幼い頃から、負け組が考え出した価値観を教え込まれるし、世の中の大半の人間が負け組だということは、その子供の周りの大人も負け組となるので、学校で教わった知識は正しい知識だと思い込まされます。
この様な環境で、仮に、才能に恵まれた子供が生まれたとしても、その子供は、本来なら満たすことが出来る欲望を我慢させられてしまうけれども、それは本来の在り方ではなく、やりたい事をやらせてもらえない奴隷の人生と同じだと訴えます。
力や才能を持つものは、自分には欲望を満たす力があるのだから、それを我慢する必要はなく、本能の赴くままに欲望を満たすべきだし、それを我慢することでストレスがたまるのは、それこそが不幸だと言います。

欲望を満たす能力のない劣った人間に足を引っ張られて不幸になるのはバカバカしいので、欲望を抑え込むなんて無駄なことはやめたほうが良い。
力や才能があるのなら、その能力は自分が満足感を得る為だけに使って自由奔放に贅沢に生きるべきで、それこそが幸福であり正義であり、アレテーだと言います。
人生の幸福は、欲望を満たすという行動の中だけにあり、欲望を抑制することでその人生を放棄するのは、生きている意味を無くしてしまう。

何も欲しいと思わず、欲望を満たす満足感も得ることのない、凪のような人生は、道端に転がっている小石のような人生で、その様な一切 起伏のない人生を送ることに、何の意味があるのかと訴えます。
『足るを知る』という言葉がありますが、そのようにして手に入れられるものも手に入れようとせずに、欲望を抑え込んで生きることに意味はあるんでしょうか。
幸福とは、欲望を満たした後に訪れる満足感の中にある。 その幸福の源泉とも言える欲望を抑え込んでしまって、幸福が訪れることがないような人生には、意味もない。

何の喜びも得られない人生は、道端に転がっている小石の様な人生であって、喜ぶことも悲しむこともない、そんな感情の起伏が一切ない人生を送ることに何の意味があるのかと訴えます。