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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その8 『欲望を満たし続けることで幸福になれるのか』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com
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カリクレスの乱入

ソクラテスが吟味した所、不正を働くのと不正をされるのとでは、不正を働くほうが醜く悪いこと。
そして、不正がバレた方が良いのか、それとも、不正がばれない方が良いのかを比べた場合は、不正がばれない方が良いことが分かった。

しかしこの理屈に納得できないカリクレスが、議論に乱入してくる。彼も、納得は全てに優先するという考え方なのだろう。
カリクレスの主張としては、ソクラテスの主張が正しいとするならば、私達の普通の感覚とは真逆になってしまうというもの。

普通の人間であれば、権力を振りかざして理不尽な行動を相手に取るのと、その被害を受けるのとでは、被害を受ける法が嫌に決まっている。
同じ様に、仮に自分が自分の環境を有利にするために不正を働いたとしたら、それがバレない方が良いに決まっている。
皆がそう考えているし、そう思うことが当然だが、ソクラテスの主張はその本能や直感に反するもので、受け入れることが出来ない。

では何故、ポロスとの対話を続けた末に、受け入れることが出来ないような結果になってしまったのは何故なのか。
カリクレスによると、それは、人間が考えたり判断を下すは、『自然本来の法則』と『法律習慣上の法則』の2つの考え方があるからだという。
自然本来の法則とは、人間が本来自然に持っている感情や直感的な考えと言ってもよいだろう。 一方で法律習慣上の法則は、知識や経験によって、後から身につけることが出来る理性的な考え。

『本能』と『社会性』

そして、人の直感と論理の世界には隔たりがある。何故なら法律は、大多数の権力も富も持たない市民やそれ以下の者を考慮して作っている。
何故なら、富や権力を持つ支配者層と市民やそれ以下の者の人数を比べた場合、圧倒的に権力者の人数は少ない。
圧倒的に少数の者を優遇するような法律は常識を作ってしまえば、圧倒的多数の者が反乱を企てる可能性も出てくる。

その為、富を必要以上に貯め込む事は悪だとされ、一方で、溜め込んだ富を再分配して分ける行動は良い行動だとされる。
しかしこれは、自然本来の法則には反する事で、人間は、他人に分前なんてやりたくないし、独り占め出来るものならしたいと思うのが当然。
この様に、経験則による社会の常識や論理の世界というのは、人間の直感と反することがよくある。

ソクラテスは、この2つの法則が反することを利用して、ポロスが人間の直感的な感情で答えた事を社会の法則として捉えて、相手の主張を曲解している。
その様な口先の技術で相手をやり込めるのは、恥ずべき行為だと主張する。
ソクラテスは乱入される度に、『恥ずべき行為』だとか『卑怯者』呼ばわりされているが、前にも書いたが、相手は口先の技術だけで他人を支配してやろうと目論む弁論家である。

その弁論家が口喧嘩で負けて『卑怯者』と罵るのは、もう、色んな意味で完敗のような気がする。

おとなになって勉強するのは無駄なこと?

またカリクレスは、ソクラテスがいい年をして哲学にのめり込んでいるのも否定する。
カリクレスによると、哲学というものは社会に出るまでの未成年が行うべきものであって、大人になれば、そんな者にうつつを抜かさずに社会経験を積むべきだという。
哲学は頭の体操として幼年期に行うのは喜ばしいことだし、大いにやればよい。しかし大人になったら、出世するための処世術を身に着けるべき。

このカリクレスの主張は、今現在でも、多くの大人たちによって主張されている。
『三角法やピタゴラスの定理が、社会に出て一体何の役に立つのか?』『社会に出れば、釣り銭の計算をする為の最低限の知識があれば良い。』『学校で勉強することの大半は、社会に出れば無意味た。』
この様な話は、色んな人から度々耳にする。 その一方で、『上司に気に入られて、同期の中で一番に出世する方法』だとか、『社会で役に立つコネの作りかた』なんてものが有難がられたりする。

カリクレスは例を出して説明する、子供が一生懸命片言で話していると、大人はその様子を見て可愛らしいと思って、微笑むだろう。
しかし、小さい子供の内に、やたらとしっかりした受け答えをする子供を観ると、違和感を感じるし、奴隷の子何じゃないかとすら思ってしまう。
逆に、大人になっても片言で喋っているような奴を見かけると、ぶん殴ってやりたくなる。

この例は、子供は子供らしく振る舞うことこそが正しくて、子供らしい振る舞いというのが、座学で一生懸命学ぶ事と言いたいのだろう。
一方で子供にも関わらず、社会で生き抜く処世術を身に着けようとする子供は生意気で、子供らしい振る舞いではない。そんな生意気な子供を見ても、可愛らしいとすら思わない。
逆に、大の大人が、まだ勉強にのめり込んで、社会で生き抜く処世術を身に着けていなければ、そいつは社会人失格となる。

社会人になってもまだ、哲学なんかに没頭している人間は、ぶん殴ってやれば良いと言っている。
カリクレスは、1ページ程の短い間隔の間に2回も『ぶん殴ってやれば良い。』と言っているので、相当、腹立たしく思っているのだろう。

理屈をこねても現実は変わらない

ソクラテスがどの様に主張しようと、今現在、権力者が実権を握って、彼らが好きに権力を振るう事が出来る事実は揺るがない。
彼らはその気にさえなれば何時だって、罪をでっち上げてソクラテスを裁判にかけることが可能。
一方でソクラテスは、今まで哲学に没頭して社会経験を積んでこなかたのだから、社会的な地位もないし、政治的な太いパイプも持っていない。その様な状態で、どうやって自分を弁護するというのだ。

社会的地位もなく、社会に何の訳にも立っていない哲学者のソクラテスを庇うものはいないし、その様な経歴では、誰も説得できないだろう。
結局、ソクラテスは自分自身を弁護することすら出来ずに、極刑を言い渡されて死ぬだろう。

もし、その様な結末を望まないのであれば、今すぐにでも意味のない勉強やバカ話は止めて、世渡り上手になる為に処世術を身につけるべきだ。
そして、富や権力を手に入れる為に努力するべきだと主張する。

カリクレスは何故、この様な事を言ってソクラテスを非難するのかというと、ソクラテスのことを友達として大切に思っているから。
大切に思っているからこそ、ソクラテスには幸せになって欲しいし、その為にも、富や権力を手に入れる技術を習得して欲しいという思いがあったからだろう。

真理への到達に必要なもの

この批判を聞いて、ソクラテスは大喜びをする。 カリクレス、君こそが、私を真理に導いてくれる試金石になるかもしれないと。
人の魂の価値を測るのに必要なのは、知識と好意と率直さだが、カリクレスは、この全てを備えている。
もし、試金石であるカリクレスの考えと自分の考えが一致することが出来れば、自分の主張は真理に到達したと証明できるだろう。

そして今度は、カリクレスとの対話が始まる。
カリクレスの主張としては、知識などの後天的に手に入れた常識などは軽視して、人間が自然に備えている直感や本能を優先した方が良いし、その行動こそが正義。
もし、大量の富を稼ぎ出すことが出来れば、自分の本能に従って自分ができるだけ多く手に入れようと画策すべきだし、独り占めできるものなら独り占めすべきという弱肉強食の考え。

当然のように、自分よりも力のない人間が財産を保有していたりすれば、力のあるものは欲望に従って、それを奪おうと考える。
この考えに沿って考えれば、力を持つペルシャの権力者ががギリシャの土地や財産を狙って攻め込んできた理由もわかる。
人間からは欲望が生み出され、その欲望を満たすことによって満足感を得て幸福になる。 つまり、欲望を満たし続ける状態が幸福な状態といえる。

カリクレスによると、力を持つ人間が力を行使する事は正義であり、その正義によって欲望を満たし続けるのは幸福への道となるようだ。
では、力のある状態は、優れた状態と言い変えることが出来るのだろうか。
力を持つとは、優れていることなのだろうか。 このソクラテスの質問に対してカリクレスは、言い変えることができると答える。

権力者と民衆はどちらが強いのか

では、力がある1人の人間と、そこまで力を持たない10人の集団が喧嘩をした場合は、どちらが強く力がある状態といえるのだろうか。
どれ程、1人の人間が力を持っているとしても、1人が保つ力の上限はたかがしれている。 10人の人間を相手にして無双できる人間はそうそういないだろう。
それでも力を持つ1人が勝てるというのであれば、1人 対 1万人の軍勢で考えても良いかもしれない。 1人で1万人を倒せる人間は、漫画の中ぐらいにしか登場しない。

金銭や財産も同じで、この地球上で一番の金持ちよりも、その他の70億人の財産の合計値の方が資産の量は確実に多い。
カリクレスは先程、優れたものが多く持つのが当然だし、優れた力のあるものは力の無いものから欲望に任せて奪い取るのが正義と主張していた。
それと同時に、権力を持つものは人数が少ないから、大多数の市民や平民以下の人間に合わせて法律が作られているとも主張している。

しかし先ほどの話に当てはめると、大多数の人間の力を足し合わせれば、大衆の力は権力者よりも力が強くなり、富の量も上回る。
カリクレスの言葉を借りれば、法律というのは弱者のために作られているそうだが、そうではなく、強者のために作られているのではないか。
強者は、力で持って弱者の命や財産を欲望のままに奪って良く、それが正義だというのであれば、権力者よりも力の大きな大衆は、弱者である権力者から財産を奪って、皆で分けることは正義ではないのか。

カリクレスはソクラテスに対し、自然の法則と法律習慣上の考えを混同して曲解したと非難したが、この両者の考えは同じではないのか。

この投げかけにカリクレスは、自分が主張している力とは、身体の頑丈さだとか筋力だとか、そういったものではないと主張する。
まともな教育も受けていない奴隷や、取るに足らない一般市民が持っている筋力や体力が、人を支配するという事において、どれほどの意味があるのか。
確かに、数の上では彼らのほうが多いし、肉体労働を引き受けている彼らを足し合わせれば、単純な筋力や物量という面では権力者を圧倒するだろう。

だが、そんな取るに足らない頭数だけを揃えた人間を寄せ集めたからといって、それがそのまま法律になるわけがない。
法律を考えて制定するのは、あくまでも権力を持った人間で、彼らは支配している多数の人間にフラストレーションが貯まらないように少し気を使って作っているに過ぎないと答える。

ソクラテスは、カリクレスが主張する力というのが単純な筋力ではない事に薄々気がついていたとして、では、『力』とは何を持って力と呼び、何が備わって入れば優れていることになるのかと質問をする。


参考書籍