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【Podcast原稿】第63回【プロタゴラス】快楽が続く人生は良い人生なのだろうか 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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目次

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
いつものように、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一部内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回の簡単な内容を振り返ると、プロタゴラによると、アテレーは、それぞれ別の役割を果たす徳目によって構成しているという話でした。
徳目というのは、『正義』とか『節制』『知恵』『勇気』などのことですね。この徳目ですが、それぞれが似たような性質を持ち合わせているけれども、『勇気』だけは、全く違った性質を持つというのが、プロタゴラスの主張です。
何故、勇気だけは違うのかというと、知識や知恵がないのに、勇気だけは持ち合わせているような人間が存在するからです。

ソクラテスは、この意見を聞いた上で、本当に勇気だけは違った性質を持つのかを吟味していきますが、その結果として、知恵と勇気は同じものであるという可能性に辿り着いてしまいました。
プロタゴラスの主張では、勇気だけは全く違った性質を持つはずだったのに、ソクラテスが考えを巡らせた結果、勇気と知識は全く違うどころか、同じものになってしまったというのが前回でした。

知識と勇気が同じなら 全てのものは知識と同じになる

しかしプロタゴラスは、このソクラテスの主張を認めません。
というのも、これと同じ様な考え方をしてしまえば、例えば、『強さ』や『力』といった、一見すると知恵とは全く違う様なことも、実は知恵の一種だったということになるからです。

例えば、柔道の知識を持たない人間よりも、その知識を十分過ぎるほど持っている人間の方が、戦った際には有利でしょう。
柔道に限らず、ボクシングや剣道など、格闘技や武術の知識を持った状態で訓練をした人間の方が、知識を持たないで訓練している人間よりも『強い』といえるでしょう。
もし、『知恵』や『知識』を持っていなければ、正しい技術が身に着けられないわけですから、全ての技術を伴うものの優劣は、知識の有無によって決まってしまうと言ってしまっても、間違いではありません。

力や技術は、それを効率的に使う知識とも言い変えることが出来るわけですから、力や技術が単独で存在するわけではありません。 それを習得する際にも使用する際にも、知識や知恵が必要になります。
ということは、家を建てるのも、車の運転をするのも、料理をつくるのも、全ては『知恵』や『知識』の有無によって決定すると言えるので、あらゆる事柄を知識や知恵に集約させてしまうことが出来てしまうというわけです。

必要条件と十分条件

しかし、プロタゴラスはそうとは考えず、この様に主張します。
例えば、有能で優れた人間は強さや強靭さを持っているかと聞かれれば、私は持っていると答えるだろう。しかし、強さや強靭さを持つもの全てが有能で優れた人間かと聞かれれば、私は同意しないだろう。
これと同じで、先程は、勇気のある人間は、物事を怖がらない大胆さを備えているかと聞かれたから、私は同意したに過ぎず、仮に、質問が逆だったとしたら、私は同意しなかっただろう。

これはつまり、物事を怖がらない大胆さを備えている人間は、全て、勇気のある人間かと問われていたならば、私は否定しただろうという事です。
何故なら、知識や経験や深く考える能力などが欠如していて、自分がどれほどの窮地に立たされているかを知らない人間は、その者の能力が低いが故に、怖がるという事をしないからです。
無知であるが故に怖がらない人間が、勇気のある人間かと問われれば、そうではないと答えていたと主張します。

プロタゴラスは、勇気が成立する為には、当人の精神的な素質と育成が不可欠だと考えていますが、単純な知識や知恵にはそれが無いから、同じものではないと主張します。
もし仮に、知恵や知識と勇気が同じものであるとするならば、勇気は勉強すれば身に着けることが出来ることになります。
しかし、本当に勉強によって勇気は生まれるのでしょうか。 自分の身が危険に晒されたとしても、何かを守らなければならない場面に直面した時、体が動くのは、よく勉強をした人間なのかと聞かれれば、疑問ですよね。

勇気には『優れた精神力』とう才能が必要

私の偏ったイメージでは、勉強だけを頑張った人間は、いざという時に体が動かないようなイメージすらあります。
プロタゴラスは、勇気を得る為に必要なのは、当人の精神的な素質と育成が不可欠だと主張しますが、この主張には納得できる部分が多いです。
勇気を備える人間が窮地に立たされた際に起こす行動は、自分の命も含めた上で、その場で一番守らなければならないものを優先する訳ですが、この行動を起こすために必要なのは、先程も言いましたが、自分の命も含めた上で、平等に価値を測ることです。

普段から自分の命を特別視せずに、何が一番重要なのかを考え続ける姿勢が重要な訳ですが… しかし、それを理解したからと言って、必ずしも勇気が身につくというわけではありません。
映画や小説などの物語には、重要なものを守るために、今こそ、敵に向かって行かなければならないという時に、頭では理解しているけれども、体が動かずに行動できないといったキャラクターが数多く登場します。
そういった人は、物事を冷静に判断する能力があり、一番大切なものを知り、どの様な行動を起こさなければならないのかを知識として知ってはいますが、体が動きません。

この体を動かす為には、持って生まれた精神的な素質と、それを伸ばすための訓練が必要だというのが、プロタゴラスの主張したい事なのでしょう。
この考え方は、前回にも紹介した『ジョジョの奇妙な冒険』のツェペリ男爵の勇気の話とも合致する部分が多いですし、勇気を出すという事が覚悟を決めるという事に言い換えられるのであれば…
漫画作品の『覚悟のススメ』に出てきた覚悟の解釈である、『覚悟とは、苦痛を回避しようとする本能にも勝る精神力のこと』とも合致するので、何となくですが、世間一般で捉えられている勇気の概念に近づいているようにも思えます。

ただ、この勇気の定義は、プロタゴラスが今まで主張していた事と違ってきているのではないかという、新たな疑念が生まれてしまいますけれどもね。

快楽とは良いものなのだろうか

この疑問は残したままで、少し話題を変えて、別のテーマに移ります。
一応言っておきますと、今までもそうでしたが、この対話篇では、テーマがコロコロ変わっていきますが、最終的には全ての話がつながってきますので、これまでの話を頭に残した状態で聞いてもらった方が良いです。
別のテーマに移る前に、ソクラテスはいつものように前提条件を確かめ合います。
その前提条件とは、苦痛に満ちた人生を送る事は悪い事で、心地よい人生を歩む事は良い事かという質問で、プロタゴラスはこれに同意します。

続いて、ソクラテスは、快く生きて人生を全うする場合は、良い人生かという質問をプロタゴラスに対して行って、同意を得ようとするのですが…
プロタゴラスはこれに対して同意はするのですが、『自分が行った立派な事に対して、気持ちよさを感じる人間であれば、良いと言える。』という前提条件をつけます。
このプロタゴラスの態度は、ここまで散々、ソクラテスに揚げ足を取られた感じになっている為に、警戒し、注意深く言葉を選んでいることがよく伝わってくる返答ですよね。

この返答に対してソクラテスは、気持ち良いことの中に、善悪があるとか、大衆みたいなこと言わないで、快い、苦しいと感じた後に、どのようなことが訪れるかはひとまず置いておいて、そう感じる事柄一点だけに絞って考えてみて欲しいと頼みます。
しかしプロタゴラスは、この質問に対して警戒して『そんな単純な事柄ではない。』と主張し、ソクラテスの口車には乗りません。
ソクラテスのこの辺りの言い回しは、プロタゴラスの意見を誘導させようとする意思があるようにも読み取れるので、彼が警戒心を持つのも分かるような気がします。
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