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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第95回【メノン】アレテーは後天的なもの? 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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目次

アレテーが才能であるのなら

想起説の理屈では、人が自分の中にある知識を思い出すには呼び水となる知識が必要で、順番にしか思い出すことが出来ないということでした。
その呼び水となる行為が、教育であったり、自分自身で経験を重ねることによって発見するといった事になります。

仮に、アレテーが持って生まれた体格や運動神経のような才能であるとするなら、人類はアレテーを持つものと持たないものに二分されることになります。
アレテーを持つものは、卓越した優秀な存在ですから、国を更に発展させて繁栄させる為には、絶対に必要な人材となります。
この様な人達は国にとっての宝のような存在なので、最も厳重に、そして丁重に扱わなければなりません。

『知らず知らずのうちに、戦場の最前線に送り込んでいた』なんて事になれば、国家としては大損失ですからね。
その為、生まれた子供にアレテーが宿っているのか、それとも宿っていないのかを、検査して仕分ける職業なんてものも出来るでしょう。
スパルタでは、市民は職業軍人となる為、身体に障害を抱えている子供は崖から突き落として殺していたようですが、それとは逆に、アレテーが宿る子供を見つけたら、他の子供よりも丁重に扱える様に仕分けするという事です。

仕分けられた子供は、国を良い方へと導くための人材なので、他国に奪われたり殺されたりしないように、必死に守るというシステムが出来上がっているはずです。
しかし実際には、その様なシステムは出来上がっていません。

アレテーは後天的に身につくもの

何故なら、先ほどの推測によると、アレテーとは知識のようなもので、知識とは才能ではなく、教育や学習によって後から身につけるものだからです。
生まれながらにして卓越した存在はおらず、優れた人間になれるかなれないかは、どの様な環境で育ったかや、学習してきたかによって決まる。 というのが、先ほどの推測から分かることです。

この推測は、それなりに筋も通ってそうですが… 疑うことが仕事であるソクラテスは、自分達が推測を行って出てきた答えに対しても、疑いを持ちます。
何故かというと、人間にはバイアスがかかっていて、『わからないものに対して真摯に向かい合おう』と思っていても、無意識のうちに、『こういう結論であって欲しい。』という願望を抱いてしまい、その答えに誘導してしまうからです。

これを聞かれている皆さんにも心当たりがあると思いますが… 『自分自身は、こういう考えだ!』というように思い込んでいる事って有ると思います。
これは、『政治的な事』でも『ちょっとしたトラブル』でも何でも良いのですが、その意見が、正しいのか間違っているのかを確かめる為に第三者の意見を聞こうと、ネット検索をするといったことは、現在では珍しいことではありません。
この際に、自分が受け入れがたい意見がヒットした場合、どの様な行動を取るでしょうか。

『その意見はなかった事にする。』とか、そういう意見を言っている人に悪態をついたりして、自分と同じ様な考えをしている人が出てくるまで検索し続けて、その意見を見て安心するといった行動をとったりしないでしょうか。
この行動は、ネット検索する前に自分の中に『こうあって欲しい』という意見がある為に、それ以外の意見が出てくる事を無意識で拒絶しているから起こることです。
人間が行う推測も同じで、『世の中はこうあって欲しい』という思いがあれば、無意識のうちに答えを誘導してしまうというのは良くある事です。

哲学者のソクラテスは、この事をよく知っているので、自分たちが行った推測によって出てきた答えも、そのまま信じるという事はせずに、それが本当に正しいのかを吟味する作業に入ります。

アレテー=知識なら他人に伝えられる

もし、先ほどの『アレテーとは知識のようなものである』という仮説に基づく推測が正しいとするならば、人は様々な経験や学習を通してアレテーを知識の様に学ぶ事が可能になるわけですが…
知識のように学べるということは、知識の様に他人に教える存在もいるという事になります。

アレテー以外の他の分野で考えてみると、例えば学校で数学を学んで、それなりの知識を身に着けた人間は、その知識を他人に伝えることで数学を教えることが出来ます。
家を建てる大工のような技術職でも同じで、身体の動かし方などを実際に相手に見せたり、口で説明したり注意することで、他人の動きを正しい方向へ誘導したりする事が出来ます。
『知識として他人に伝えられる』から、『学べる』という事は、言い換えるなら、アレテーを他人に教えるような職業が存在すると言い換えることも出来ます。

学校と呼ばれるところは、まさに、『他人にモノを教える』という職業である教師が働く場所ですよね。
学校には、数学や国語などの座学を学ぶ為の、一般的な学校がありますし、職業訓練校や各種専門学校のように、仕事に役立つ技術を教えてくれる学校なども存在しますが…
その全てに、生徒に知識を授ける教師という人たちがいて、給料をもらって働いています。

アレテーもこれらと同じ様に、他人に教え伝える事が可能であるならば、アレテーを教える学校や、アレテーを専門に取り扱う教師のような存在がいて然るべきです。
アレテーを学びたいと思ったものは、その学校に行くなり、家庭教師を雇うなりして、直接、教えてもらえば、アレテーを身につけることが出来て幸福になれるはずです。
人間の最大の目標が幸福になる事だとするなら、この目標を叶えてくれる教師に対して『金を惜しまない』という人は大勢いるはずです。

徳の教師

以上のことを考えると、アレテーを専門に取り扱う教師というものが存在するはずで、職業が存在するという事は、その人達はお金を稼ぐためにも、幅広く生徒を募集しているはずなので、簡単に見つけられるはずです。
しかしソクラテスは、今まで人生を歩んできた中で、そんな人物には会ったことがないと主張します。
ここで重要となってくるのが、ソクラテスは会った事が無いと証言しているだけという点です。

世間一般では、ソフィストと呼ばれる人たちがアレテーの教師だと言われていましたし、ソフィスト自身も、その様に自分たちを宣伝することで、生徒を集めていました。
また、ゴルギアスを始めとする弁論家も、アレテーを教えていると言っていますし、メノンはその言葉を信じ、実際に解説を聞いて納得しているので、自称教師というわけではなく、一部では、世間からもアレテーの教師と認められていました。
つまり、世間一般ではアレテーの教師は存在したわけですが…

ソクラテスは、その中でもトップの実力を持つと言われているプロタゴラスと対話をし、彼がアレテーを知っていると思い込んでいるだけの人物だったという事を知ってしまいました。
プロタゴラスは、ギリシャの人達なら誰でも認めるトップといっても良い賢者ですが、彼が分からないものを、それ以下の実力しか無いソフィストや弁論家達に分かるはずありません。
その意味を込める形で、『アレテーの教師には会ったことがない』と答えているのでしょう。

答えを見失う二人

これまでの流れをまとめると、アレテーとは、それを宿すことで幸福になれる『善い』もので、知識のように教えられる様なものという推測が成り立ちました。
もし、本当にこの推測が正しく、アレテーが、知識のように教えられるようなものであるのなら、それを職業としている人達が存在していても良さそうなものなのに、実際にはそんな人達を見つけ出すことは出来ません。
仮説を立てて推測し、正しいと思われる答えに辿り着いたのに、それをいざ吟味してみると、間違っているかもしれない状態になってしまい、ソクラテス達は進むべき道を見失った状態になってしまいました。

しかし、二人が対話をしている近くには、この問題を解決できそうなアニュトスという政治家がいました。 そこでソクラテスは、アニュトスに質問することで、答えを見つけ出そうとしますが…
この話は、また、次回にしていこうと思います。