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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

映画アリータを観て、改めて銃夢を読み返して考察してみた

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少し前に映画館に『アリータ』を鑑賞に行き、先日、その感想をアップロードしました。
kimniy8.hatenablog.com

それを機に、原作の銃夢(無印)をもう一度読み直したので、今回は、それを読んで思った事について書いていきます。
最初に書いておきますが、ネタバレを含んだ形で考察などを書いていきますので、原作を読まれていない方で興味のある方は、先に原作を読まれる事をお勧めします。

サイボーグ作品に共通する哲学的なテーマ

この作品を読んで改めて思った事は、基本的なテーマとしては、哲学的なものが中心なんだなという事です。
個人的な思いになりますが、銃夢と同じ様に高評価されている攻殻機動隊もそうですし、ブレードランナーの原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』もですが、アンドロイドやサイボーグが登場する物語の場合、その存在自体が哲学的なものに成ってしまいがちです。

何故かというと、人の持つ心というのは、何処に宿るのかという話にならざるを得ないからでしょう。
今では、思考の殆どが脳で行われている事になっているので、心は脳にあると思われる方も多いでしょうが、脳の研究が行われる前は、心臓に有ったと思われていたりもしました。
これはおそらく、人間の感情が高ぶった際に、胸が痛くなったり熱くなったりするからでしょう。

心が胸にあるから、ショックを受けた時には、その場所痛くなるし、憧れの存在を目の前にした時には、胸が熱くなる。
腕を怪我した際に腕が痛くなるように、心が傷ついたから心が痛くなる。 結果として胸が締め付けられるように痛くなるなら、心は胸にあるんじゃないか。
脈打つ心臓が心なんじゃないかという結果に落ち着くのは、自然な結果ともいえます。

しかし技術が進化し、脳の方が重要かもしれないという事が分かってくる。
また、心臓移植など、心臓を入れ替えても意識が途切れなかったり人格が入れ替わらないとするなら、心は心臓には無いかもしれないという事になってきます。
ですが、心というのは主観的なものに過ぎないので、心臓移植をした人間の心は、実際には入れ替わっている可能性もあります。 人格が入れ替わっていないように思えるのは、脳に蓄えられている記憶のせいで、主観としての心は心臓が変われば変わるのかもしれませんが…
先程も書きましたが、心は主観的なものに過ぎないので、これは本人にしか分からない事ともいえます。

しかし、これから更に技術が進化し、心臓が人工の機械のもので置き換え可能という事になれば、これは決定的な事となります。
人が部品を組み合わせて作り上げた人工心臓という商品には、おそらく心は宿っていはいないでしょう。 それで代用可能ということになれば、心臓には心が無い可能性がかなり高まります。

では、心は何処に宿るのか。
私の親戚には、交通事故で大量に血を失った叔母がいます。 幸いにも、迅速に病院に運ばれた為に輸血を受けた事で一命をとりとめて、今でも普通に後遺症もなく生きているわけですが、私の父の話によると、叔母は事故後に性格が変わったそうです。
この性格の変化は、心が血に宿っていて、それを入れ替えたから起こったのか。 それとも、事故という強烈なショックを受けたことで、性格そのものに影響が出てしまったのか。
これも主観的なことなので、他人が判断できることではないのですが、同じ様に更に技術が進み、人工血液が出来ればどうなるのか。

この延長線上で考えていくと、全身機械の人間の心は何処に宿っているのかという話になります
サイボークやアンドロイドが登場するような作品では、脳を残して全身機械なんてキャラクターが登場します。 今回取り扱っている銃夢もそうです。
脳しか生身じゃないのにも関わらず、それでも人間らしさを維持しているとするのならば、人間の心や意識といった重要な部分は脳に宿っていると考えても良いでしょう。

ですが、物事はそれほど単純でもないように思えます。
普段おとなしい人間が、自動車に乗ると高圧的な人間になるという事は珍しくありません。同じ様に、銃などの武器を手にする事で自分が強くなったような気になる人もいます。
自分が乗り込んでいるものや所有しているものといった、自分の体の延長線上にあるものも、自分の体の一部と考えてしまい、意識が支配されてしまうという事は日常的に存在します。

こうして考えると、生身の脳で全身サイボーグの人間は、機械で作られた強靭な肉体を自分の体としているわけですから、機械の体の能力に意識が引っ張られるという事もありそうです。
つまり、人間の意識とは『脳』という特定の部分に宿っているわけではなく、自分が置かれている総合的な環境によって発生しているようなものとも考えられます。

脳を機械化した人間は人間なのか

先程少し名前を出した攻殻機動隊という作品の主人公である草薙素子もそうですが、脳を電脳という機械に改造した人間は、果たして人間なのでしょうか。
意識は他人からは観測不可能なので、本人が『意識がある』と言い張れば、それを完全に否定することは不可能です。
脳を徐々に改造していき、完全に機械化を終えたとして、その期間を通して意識が途切れずに存在し続ければ、その本人にとっては『この私は、今も変わらず私であり続けている』という事になるのでしょう

では、もっと過激な考え方をしてみましょう。
銃夢の世界に出てくるザレム人は、聖人を向かえると頭に刻印を刻むという儀式を行います。 その刻印を持って正式なザレム人といえるので、ザレム市民は自ら進んで、このイニシエーションを受けることになります。
しかしその儀式の実態は、人間の脳を取り出して、脳と同じ役割をするチップに置き換えることです。

そのチップには、脳に蓄えられていた情報を全てコピペされている為、当の本人は、自分の脳が取り出されたという事に気が付かずに、儀式を終えることになります。
その後も、今までと同じ様に暮らしていくわけですが…  彼らは果たして人間なのでしょうか?

脳を徐々に改造していき、自分の意識を保った状態で電脳に変える場合とは違い、脳から情報を吸い上げてチップにコピペし、チップの方だけを脳に戻した場合、脳は相変わらず存在し続けるわけです。
その脳を、クズ鉄街に持って行ってボディを与えれば、その脳は人間として普通に生きるわけです。
仮に、脳の代わりを務めるチップが完全に脳の役割をこなすことが出来たとしても、この状態を持ってコピーされた者は人間と呼べるのでしょうか。

クズ鉄街の人間は、体は機械で脳だけ生身ですが、ザレム人は、体が生身で脳だけ機械。 果たして、どちらが人間なのか、それとも、どちらも人間なのか、そうではないのか。
体の何%を機械に置き換えれば人間ではなくロボットなのか。 それとも、置き換えるパーツが重要なのか。
これを考えるのって、人間にとって最も重要なものは、何処に宿っているのかを考えることになる為、かなり哲学的だと思います。

狂気のディスティ・ノヴァ

映画版では分かりやすい悪役として描かれていたノヴァ教授ですが、ノヴァが狂った実験を繰り返す理由が、このザレム人に対して行われる儀式です。
ノヴァは、自分の脳が人口のチップだという事を知ってしまったが故に、カルマの研究に没頭します。

カルマとは、自分が行ってきた事であり、自分が歩んできた人生が、下す決断に影響を与えるという理論です。
決定論的な世界は、キッカケが有って結果が生まれ、結果がキッカケとなって更なる結果を生むという、縁起の法則や因果律と呼ばれる法則によって動いています。

脳を人口チップに置き換えることが可能ということは、それを発明した者は、人の意識が下す決定プロセスを解明したということであり、それは、人の心や意識も、物理法則と同じ様に決まった法則で動いている事を突き止めたということでもあります。
人の意識が下す決断が、特定の環境下では決まっていて固定されているものであるのならば、人の意識には自由意志はなく、固定された因果の中を歩いているだけという事になります。

『人間の意識は、決まった法則のもとで固定された決断をしているだけなのか。』『自由意志は存在しないのか。』
ノヴァは、人間に自由意志が存在することを証明するために、精神的質量が高い人間に理想の体を与え、自由に行動させることによって、カルマを克服させようとします。
自分自身が起こした行動に縛られずに、本当の意味で自由に歩くことが出来て初めて、人類はカルマの鎖から解き放たれて、本当の意味で自由になれる。

人間が作る機械には、様々な限界が設定されているわけですが、それでも脳の代用品である脳チップが完成したという事は、人間の意思決定プロセスには限界があって、決まった行動しか取れないという前提のものであって、もし、生身の脳を所有する何者かが、カルマの鎖を断ち切ることが出来れば、限界はないことになる。
自然から生まれた人間という神秘性は保たれる事にもなる。

これは同時に、脳チップ人間であるノヴァ自身の否定にも繋がりますが、それでも、人間の中に可能性を見出したいというのが、ノヴァの研究動機だったんでしょう。
この問は、突き詰めれば『人間とは何か。』という問いに繋がり、SFの王道ともいえるテーマになっているわけですが、これを物語の中に自然に盛り込んでいる辺りが、何度読み返しても関心してしまいますね。

改めて読み返すと、銃夢(無印)の最終巻が発売されたのが1995年。。 windows95が発売した年に書かれた作品なのに、ハッキング戦とかやってて、やっぱり凄いなと思う作品でした。