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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第49回 移り変わる宇宙の捉え方(5) 科学は宗教なのか 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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科学は宗教なのか
原因と結果は連続的なものでは無いとするなら、最小単位まで分解された原因と結果には、繋がりがないことになります。
つまり『何故かはわからないけれども、この原因の次には、この結果が来るらしい。』という曖昧なところで終わってしまうということです。
科学が、その、『何故か、理由は全くわからないけれども、そうなる』という事を信じる事であるのならば、それは、信仰対象を崇める宗教と何が違うんだという話になってきます。

別の例でいうと、Aさんが、『神さまの声を聴いたんです』と科学者のBさんに言ったとします。これは、幽霊でも悪魔でも天使でも、何でも良いのですが、とにかく、超常的なものの存在を感じたと告白したとします。
それに対してBさんは、『そんなのは科学的じゃない』として、突っぱねたとします。
しかし、科学を信じるBさんは、相対性理論が正しいとするのなら、この世に存在しているはずのダークエネルギーの存在を信じています。

ダークエネルギーというのは、中二病っぽいネーミングなので、ゲームかなんかのエネルギーだと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、科学の説として実際に存在するエネルギーの名前らしいんですね。
私自身も詳しくは知らないので、細かい説明は出来ませんが、宇宙の質量とエネルギーの総量の7割は、このダークエネルギーだと言われています。
ですが、実際に観測した人間はこの世にはいません。 観測されていないのに、何故、7割がこの未知のエネルギーで満たされているという話になっているのかというと、ダークエネルギーという存在がないと、計算が狂ってしまうからです。

ダークエネルギーは、科学の説の中で計算上は存在しますが、人類の中で、まだ誰も、見た事がない、観測されていない存在です。
この、観測された事が無い存在を信じるBさんと、他の人の目には見えていないけれども、Aさんは存在を身近に感じ、声を聞いたから信じているという『神さま』の存在。
乱暴な言い方にはなりますが、どちらの存在も、似たようなものという事になってしまいます。

科学は観測結果と見出された法則に過ぎない
この、科学と神様といった超常的なものが同じだという主張には、違和感を感じる人も多いと思いますし、主張自体に拒絶反応を示してしまう人も、多いと思います。
というのも、科学というのは、論理建てて説明している為に、説得力が有ります。科学的な説明は、その物事を分かった気にさせてくれるので、盲目的に信じてしまうという人も多いと思います。
ただ、科学の基本は起こった事実の中からパターンを見つけ出して、法則化するというものです。

つまり、今まで起こってきた事が全て偶然の産物だったとしたら。 そして、明日から、無秩序に動き出したとしたら、今まで積み上げてきた法則というのは、全て無意味になってしまうという事なんです。

例えば、私達は、地面に足をつけて歩いていますし、木に実ったリンゴは、いずれ、地面に落ちます。
これらの事を観測すれば、地面の方向に物質を引きつける何らかの力が働いている事がわかりますし、様々な物質の『落ちる』パターンを観測して積み上げていけば、その力の詳細が分かってくる事でしょう。
そのうちに、地面の方向に引き付ける力は『重力』と名付けられ、重力は、空間や時間といった、一見関係のなさそうなものにまで影響を及ぼしている事が、観測によって分かってきたとします。

パターンを見つけ出し、そのパターンを導く為の法則を見つけ出し、法則を利用することによって、様々な理論に発展し、世の中が分かった気になったとしても…
ある日、リンゴの木になった果実が空に向かって落ち始めたとしたら、どうでしょう。
今まで、物質が大きな質量の中心に向かって引き寄せられてきたのは、偶然の産物だったとしたら、それを元に作り出した法則は、無意味となってしまいます。

別の例でいうと、ルーレットで赤と黒が交互に出るというのが1億回連続で続いたので、赤と黒は交互に出るという法則があると思い込み、その法則に従って、赤と黒を交互に賭けて、ボロ儲けをした人がいたとしましょう。
その人はその後、長年の研究の末に、赤と黒が交互に出るという法則を元に、更に計算を発展させて、特定の数字が、どのタイミングで出るかまでの法則を導き出して、ルーレットの出目の全てを理解できたと思ったとしましょう。
でも、その幻想は、赤が2回連続して出た時点で、消え失せてしまいます。

それと同じで、科学の基本としている前提のものが、間違っていたとわかった段階で、今までの物は無かった事になってしまうという事なんです。
その状態になったとしても、まだ、『これまでに積み上げて来たもの』を盲信するのであれば、それはもう、宗教と何ら変わりがありませんよね。

現に、科学というのは新たな説が生まれる度に、それまでの説を残骸に変えていったわけですが、それまでの説を信じていた人達は、新しい説を受け入れずに否定してきたりしてきたんですね。
他にも、偉い学者が主張した説だからと、ろくに調べもせずに、その主張がそのまま信じ続けられてきたなんて事もありました。
こうなってくると、宗教との違いというのが、本当にわからなくなってきます。

私達は本当の世界を感じているのだろうか
また、根本的な話に戻ると、私達が感じている世界というのは、本当に、そのままの世界として存在しているのかという問題もあります。
先程から何度もいっていますが、科学というのは、起こった事実を観測して、その事実の中にパターンを見つけ出して、法則化したものです。
ですが、私達が事実と受け取っている物は、私達の五感を通して受け取った認識でしかありません。

人間の目は、可視光線と呼ばれる範囲の電磁波しか捉えることが出来ません。 これは、音やモノに触れるといった事も同じで、人間に備わっている器官そのものに限界があります。
機械を使えば良いという意見も有るでしょうが、機械そのものにも限界は有ります。
また、人間に備わっている五感から得た情報は、一度電気信号に変換されてから、脳でイメージとして再変換され、再変換されたものを、私達は事実として受け取っているわけです。

これは、テレビカメラを通して撮られた映像を、テレビ画面越しに見ているような状態で、本当の現実の世界を感じれているわけではありません。
こういった状況で、自分の外側の世界を観察したところで、真理は得られるのでしょうか。

『真理』は自分の内に有る
科学系の話で、過去数回に渡って脱線してきたので、この話の大元の部分を忘れられている方もいらっしゃるかと思いますので、もう一度振り返ると、ソクラテスは、若い時にイオニア自然学を勉強したのですが、それを途中でやめています。
その理由は、人間の外側にある、『世界』の観察をしたところで、真理は得られないと思ったからです。

自然学は、宇宙の成り立ちを神々という存在抜きで説明しようとして生まれた学問で、その延長線上に、今の物理学などが有ると思っても良いのですが、自然学の行き着く先も、結局は確認できない想像のものでしかありません。
原子論という説を生み出したとしても、物質の最小単位を観察することは不可能ですし、宇宙の起源を考えて、ビッグバン理論を考えたとしても、それを確認する術はありません。

後に、ソクラテスと対話するプロタゴラスという人物は、神々についてこの様な事を言っています。
『神々については、それが存在するのかしないのか、また、どの様な容姿をしているのか、確実に知ることは出来ない。事柄自体の曖昧さに加えて、人生の短さといった多くの事情が、それを許さないのである。』
このセリフの『神々』の部分を、物質や宇宙に変えたとしても、このプロタゴラスの主張はそのまま当てはまってしまいます。

しかし、自然学者は、物質や宇宙の成り立ちを、まるで観てきたかのように論理建てて話します。
そしてそれが否定されると、今まで自分が信じていた科学理論が、如何に正しいのかを、熱心に語って説き伏せようとしてきます。
これは、神を信仰するのか、それとも、科学を信仰しているのかという差しか無く、その行為によって、真理を得られることは無い。 もっというのなら、真理を得るのに役には立たないと考えたんです。

重要なのは認識すること
では、真理を得るために必要な物はなんなのかというと、『認識』です。
何をもって『良い』と考えるのか。 何をもって『美しい』と考えるのか。
国家運営を正しく行うには、何が『正しい』のかを知らなければならないですし、システムが上手く機能するためには、システムの穴を突いて利用しよう等とは思わない、『美徳』が必要となる。

では、『徳』とはなんなのか。 という事に重点を置いて考えたのが、ソクラテスです。
宇宙の成り立ちを考えるというのは、結局の所、目線を過去へと向ける行為になります。 しかし、過去そのものは、変更する事が出来ません。
変更不可能な過去へ考えを働かせるのではなく、『人は、何故、生きるのか。』『人生における究極の目標は何なのか』という、未来への思考こそが、重要だと考えたようなんですね。

という事で、次回以降は、徳について、考えていこうと思います。
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