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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第50回 『哲学の起こり』 絶対的な基準 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

前回までの科学回まとめ

前回までの話しでは、ソクラテスが何故、徳、またはアレテーと呼ばれるものの存在に拘ったのかについて、その理由を語っていきました。
数回に渡って話しましたので、それを全て振り返って話してしまうと、まるまる1回使うことになってしまうので、簡単にまとめると…

神という存在を中心にして世界を説明する神話も、神々という存在を排除した形で世界を説明しようとする自然学や、そこから派生した物理学も、結局の所は、決定論的な考え方です。
宗教の場合は、神という、全知全能の基準となる存在によって世界の命運は決定することになりますし、物理学の場合も、物理法則によって、過去も未来も決定していることになります。

決定論とは、この世で起こる出来事は全て必然で、物事が起こった際には、ある法則に従って、決まった結果が引き起こされるという考え方です。
そして、決まった結果は、新たな起点、きっかけとなって、同じ様に法則に従って、次の、決まった結果を引き起こしていく。
この様に、法則によって決まった結果が引き起こされて、それが次の起点になって… という連鎖によって、この宇宙は出来ているという考え方が、決定論です。

決まった結果を導き出す法則というのが、物理法則だとすれば、それは物理学的な考え方になりますし…
神という存在によって、決まった結果が導き出されるとするならば、それは、宗教になります。

法則と神

例えば、数年前に、社会現象を引き起こした『魔法少女まどか☆マギカ』という作品があります。これから、この作品のネタバレをするので、まだ観てない方は、この部分を飛ばしてくださいね。
いいでしょうか。

この『魔法少女まどか☆マギカ』という作品では、そのタイトル通り、魔法少女という存在が出てくるのですが、この存在は、インキュベーターと呼ばれる存在が、少女の夢を叶えることで、その代償として、少女が魔法少女となります。
魔法少女となった少女は、新たに得た力をを使って、魔女と呼ばれる災と、命をかけて戦うわけですが、魔法少女は、力を使えば使うほど、心に闇を抱えていくようになり、最終的には、魔女へと変化します。
主人公の『まどか』は、この不幸な連鎖を断ち切るために、全ての時空と平行世界に存在する魔法少女を救いたいという願いを、インキュベーターに告げることで、最強の魔法少女となるわけですが…

この時の『まどか』の状態が、法則であったり、神といった存在で語られています。
現在・過去・未来の全ての場所と、可能性の数だけ存在する全ての平行世界に同時に存在しながら、救済される魔法少女以外には誰にも観測されない存在は、円環の理という法則とも言えますが、『女神まどか』の誕生とも言えます。
この存在の誕生によって、魔法少女の成れの果ては、『まどか』の救済という形で固定される事になります。

どの様な形であれ、宇宙の流れというものが決定論によって固定されているのであれば、そもそも、人間は悩む必要も考える必要もなく、自由な意思を持っている必要すらも無い事になります。
そして、神であれ、物理法則であれ、何らかの外側の力によって、成るようにしかならない人生を、機械的に歩んでゆくことになります。
しかし、物事は本当に、そのような形で決定しているのでしょうか。

科学者は宇宙の成り立ちを、まるで自分の目で観てきたかの様に語りますが、実際には、その主張が正しいのかどうかを確かめる術はありません。
宗教家は、宇宙の成り立ち等、全ての事を神の御業だと言いますが、神の存在を確認したことはなく、存在を疑うことすらを禁じて、盲信しています。

ここで、一応、注意として言っておきますと、ソクラテスの主張から始まった、ここ数回の科学批判というのは、別に、科学技術全般を否定しているわけではありません。
今もそうですし、ソクラテスが生きていた2000年以上前もそうですが、家を建てるなど、生活の役に立つ技術や法則そのものを否定して、全てにおいて『役に立たない』と言っているわけではありません。
ただ、原子で有るとか、宇宙の成り立ちといった、確かめようがない事柄について考える事が、『真理を得る』という目的に置いては役には立たないと思い、ソクラテスは、その分野から背を向けたようです。

決定論と自由意志

話を戻すと、神であれ、物理法則であれ、何らかの形で全てが決定していると言っていながら、私達は、物事を認識する事で、何かを感じで、何かを思い、考えて行動を起こしますよね。
そして、行動を起こす起点となる決断の部分では、何らかの『思い』という存在が重要になってきます。

例えば、医者になって体が悪い人を助けようという未来に到達したい場合は、そう決断した時点で、やるべき事は決定します。
医者になる為には医大に通わなくてはなりませんし、医大に通うためには受験に受かる必要が有ります。 受験をパスする為には、それまでに、それ相応の学力が必要となります。
必要な学力を身につける為には、環境も整えないと駄目でしょうから、通うべき高校のレベルも限定されてきます。

この様な形で逆算することで、今、何をしなければならないのかは決定するので、後は、何も考えずに、その流れに沿って人生を歩めば、医者になる事は出来るのでしょう。
一度、目標を持てば、後は機械的に物事が進んでいき、他に良いと思うことが出てこない限り、事が成し遂げられる事なります。
もし、目標が達成出来ないとするなら、そこには、もちろん、身体的な限界も有るでしょうけれども、おそらく、『本当に、この未来で良いのだろうか』といった『迷い』が有るからでしょう。

医者になった後も、患者に対して『この人は、治療すべきなんだろうか。それとも、今、死んだ方が良いのだろうか。』なんて事は考えずに、病院に来た人間には治療を施します。

では、医者を目指した人間は、一番最初に、何故、医者になりたいと思ったのでしょう。 何故、体の悪い人を助けようと思ったのでしょう。
それが、『良い』事だからと思ったとして、では、何を持って『良い』とするのか。 そもそも、『良い』とは何なのか。
人は何故、自分が『良い』と思った事をするのか。

ソクラテスは、自分という殻の外側に対して注意を払う自然学よりも、自分の内側。自分自身に対して、この根本的な問いを投げかける方が重要だと考えたようです。

自分が本当に望むものは何なのか

自分自身に対して、根本的な疑問を問い続けることで、自分が本当にやりたいこと。なすべき事。進むべき、到達すべき最終目標を見つけることが出来る。
宇宙の起源といった、誰も観測することが出来ず、結論が出たとしても確かめることが出来ないような過去に意識を向けるのではなく、それぞれの人の未来に意識を向ける方が重要だと考えたようですね。

人が、自分が『良い』と認識している行動を取るのは、『幸せ』になる為だとした場合、では、何を持って幸せと呼べる状態と呼ぶのでしょうか。
資本主義の世の中では、皆がお金を追い求めますが、では、お金を手に入れることが出来れば、それは幸せな状態なのでしょうか。
お金というのは、数字が書かれた紙切れであったり、金属の塊でしか無いものですが、それをコレクションする事が、幸福な状態なのでしょうか。

おそらくですが、多額のお金を持っている資産家に意見を聴いたとしても、『お金そのものを手に入れることが、幸福な状態である』とは答えないでしょう。
お金とは、自分が望んでいる『何か』を手に入れる為の対価として支払うもので、本当に欲しいのは、お金を支払ってでも欲しい、その『何か』のはずです。
では、その『何か』とは何なのでしょうか。

その『何か』を手に入れる為には、どれ程の資産が必要なのか。そして、その『何か』はお金を積み上げるだけで、本当に、買えてしまうようなものなのか。
根本的な疑問を投げ続けることで、自分が目指すべきゴールが明確になり、『今、何をすべきか』とか『ゴールまでの道のりは、どれほどのものなのか』といったことが分かってきます。

魂の世話・魂の完成

では、そうしてまで到達すべき『幸福』とは何なのでしょうか。それをソクラテスに言わせるなら、それこそが、『魂の完成』と呼ばれる状態だと主張します。
人は人生の中で、経験を通して多くのことを学んでいきますが、そういった事で知恵を身に着けていく行為を、『魂の世話』として、魂の世話を根気よく続けていくことで、魂を完成させるという考え方です。
魂の完成とは、精神的な成長とか、そういった意味合いとして理解してもらっても良いと思います。

今では、『哲学』という分野は、この様な根本的な疑問について考えるという事だというイメージを、お持ちの方も多いと思いますが…
初めに、この様な、物事の根本的な事を考えようと主張したのは、ソクラテスで、それ以前には無かった発想の様です。
ソクラテスが、哲学の祖といった呼ばれ方をしているのも、現代における哲学の基本を作ったのが、ソクラテスだからなのかもしれません。

ソクラテスは、自身の魂の世話をする為にも、自分自身に根本的な問いかけを行い続け、それを知る賢者がいると聞くと、積極的に面会に行って、教えを請いに行ったようです。
当時は、その他の人達からは、ソクラテスそのものが賢人だという扱いを受けていたようなので、賢人であるソクラテスが、教えを請いに自分のところに来たということで、多くの人が面会に応じたようです。
しかし、対話が続くに連れて分かってくるのは、賢人だと周りから もてはやされて いた人達が、根本的なことは、何も知らなかったという事です。