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プラトン著【メノン】の私的解釈 その5 『思い出す為のキッカケ』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com

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目次

『探求のパラドクス』vs『想起説』

前回メノンは、『徳を知らないもの同士で、どうやって徳の本当の意味を知るのか。』といって、ソクラテスに『探求のパラドクス』を突きつけた。
探求のパラドクスとは、無知なもの同士でいくら話し合ったところで、正しい知識は手に入れることができない。何故なら、出てきた答えが正しいかどうかもわからないのだから…というパラドクス。

その『探求のパラドクス』に対してソクラテスは、『想起説』で迎え討つ。
想起説とは、人間が死んで生まれ変わる際には、一度、この世の真理と同化してから再合成されるため、人の魂は真理を体験した状態でこの世に生を受ける。
しかし、魂が受肉した際には、その時の記憶を忘れてしまう為、人は無知な状態で生まれてくる。 しかし、魂の記憶は完全に消え去っているわけではなく忘れているだけなので、きっかけさえ与えてやれば再び思い出すというもの。

想起説は、一見するとトンデモ理論の様にも思えるが、メノンが主張する『探求のパラドクス』が本当に正しいとするのであれば、人間には語り継ぐ知識がないことになってしまう。
というのも、探求のパラドクスによれば、知識を学んで身につけようと思うのであれば、何らかの知識を既に持っている人間が絶対に必要ということになる。
しかし、人間は生まれてくる時は全員が無知な者として生まれてくる為、無知な者として生まれた人間同士で必死に考えたとしても、何の答えも出ないことになる。

だが、実際問題として、人によって様々な科学理論が生み出されている。
では、これらの『知識』とされているものは、本当に『正しい知識』なのだろうか。それとも、知識と思い込んでいるだけの幻想なのだろうか。
もし人間が生み出した知識が全て幻想でしか無いのであれば、人間の世界で知識を学んで賢者と呼ばれている人体は、何を持って賢者と呼ばれているのだろうか。

『知識』とは何なのか

メノンやソクラテスが生きた時代では、この『探求のパラドクス』に対する答えは、神話によって説明されている。
つまり、人間は無知なものとして生まれてきているが、その人間に対して知識を与えたのは神々で、神はこの世界を作った者たちなので、この世界の法則も当然のように知っている。
神々は非力な人間が大自然の中で生き抜けるように、最低限の知識を授けたとしているので、神話によると、『この世の法則を熟知している神々によって、知識が人間に伝えられた。』事になっている。

神々が本当にいるかどうかは置いておいて、無知な人間は、知識を持つ神々から正しい知識を授けてもらったということになっているので、探求のパラドクスの問題は回避できる。
ソクラテスが行ったのは、神話を使わないで探求のパラドクスを回避しようとした答え。

では、今現在の科学ではどの様になっているのかといえば、『本当に正しいと確定している知識』は存在しないことになっている。
科学者達は、今までの科学理論を参考にして新たな理論を見つけ出した場合、学会や論文によってその理論を披露する。
他の科学者達は、披露された学説の矛盾点を探すなど、その理論が間違っている証拠を見つけて批判をする。

理論を発表した学者は、批判を受けた場合は反論をし、批判側はその反論に対してさらなる証拠を突きつける。
このようにして、理論は世の中に出ると同時に批判にさらされて、その批判に耐えて誰も批判できなかった説が、『批判に耐えた理論』として信憑性が高いとされているだけ。
信憑性が高いだけなので、新たな理論や新技術の登場によって批判されてしまうと、その理論は間違っていたことが判明する。

知識は存在するのか

つまり現状の科学では、理論が間違っている事は明らかになるが、それが『本当に正しいのかどうかは分からない。』状態となっている。
ゲームの製作者が、コンピューターの中に世界を作り、その世界に人工知能を備えた仮想生命を作り出したとして、その仮想生命には、その世界の理をほんとうの意味で解明することは出来ない。
それが出来るのは、コンピューターの外側にいて、世界を客観視出来る神のような存在のプログラマーやゲームデザイナーだけ。

しかし、ソクラテスは絶対主義者で、この世には、絶対的な基準となる法則が存在すると思っているので、現在の科学のような割り切り方は出来ていない。
そこで到達したのが、『想起説』なのだろう。

メノンの従者は、幾何学を全く勉強していないにも関わらず、正方形という形を買えずに面積を2倍にするという難問を、誰に教えられることもなく説いてしまった。
従者が教育を受けていないことは、生まれてからずっと一緒にいるメノン自体が証明している。なら、従者は何処から正しい知識を得て、答えにたどり着いたのだろう。
生まれてから教育を受けていないのであれば、従者は生まれる前に知識を得ていたことになる。

そして、この想起説によって、無知な人間同士が考えを巡らせることによって、正しい知識に到達する可能性が得られる。
想起説では、知識を思い出すきっかけさえあれば、正しい知識を思い出すことが出来る。 そして、思い出した知識が呼び水になって、芋づる式に新しい知識を思い出すことになる。
足し算という概念を思い出せば、同じ数字を足し合わすという『かけ算』という概念を思い出す。 知識は知識を呼び、発展していくことになる。

『想起』の呼び水『仮説』

メノンは想起説に理解を示し、討論を再開することにするが、メノンは『知識に到達する為の呼び水となる、切っ掛けが必要だ。』と訴える。
これに対してソクラテスは、何の手がかりもなく分からない部分は、仮説を立てて考察していけば良いと答える。

『徳は知識のようなもの』であるとするのなら、知識は他人に伝え教えることが出来るため、徳は他人に教えられるものということになる。
そうではなく、『徳は他人には教えられない、感覚的なもの』とするのなら、徳とは他人に伝え教えることが出来ないものということになる。
この様に、『徳とは◯◯のようなもの』という仮説を立てて考えれば、それが正しいのか間違っているのかを考えることが出来、記憶を呼び覚ます呼び水になる可能性がある。

ということで、仮説を立てて考えていく。
まず徳とは、良いものなのか、悪いものなのか。 これに対して両者は、徳とは良いものだとして同意する。
徳が悪いものであれば、それを宿したものを尊敬するなんてことはしないし、徳を宿せば幸せになれるなんて事にもならないだろう。

次に、先ほど仮説を立てた、『徳とは知識なのか、感覚的なものなのか』について考えていく。
徳が宿っていると思われるものから、知識を切り離し、残ったものに良いとされる核のようなものが残れば、徳は知識ではないし、知識を差し引いた時に良いものまで無くなってしまえば、徳は知識のようなものと言える。

徳とは『良い』ものというのが分かっているので、『徳を宿している』とされているものから知識を差し引いた際に、『知識が差し引かれた徳』と『知識』のどちらに『良い』という状態が宿っているのかを考えれば、答えに近づく。
では、徳が宿ったものとはどのようなものなのか。 有名な三段論法を使って考えてみることにする。

『卓越性』とは何かを推測する

私達が徳を意識するのは、優れた人を認識したときで、その様な人を見た際には、『あの人は徳を宿している。』と認識する。
つまり、優れた状態になる事が出来れば、それは『徳を宿した状態』であり、徳を宿した人物は有益であるが故に、他の人達から称賛されて、価値有るものとして迎え入れられる。
であるのなら、徳とは、それを宿すことで優れた存在となれる有益な存在といえる。

この様なアレテーは、日本語訳される際に徳の他に『卓越性』とも訳されるが、では、人間は何を宿している時に『他のものよりも卓越している』と思われるのかを考える。

人間が他人よりも卓越していて優れていると思われる場合、その人物は、健康・強さ・美・富といったものを持っている場合が多い。
しかしこれらは、相対主義的な考えに照らし合わせると、必ずしも良いものとは言えず、これらを有しているから幸福になれるとは言い切れない。
同じものが有益となったり有害になったりする場合、それらの善悪を見極めるための基準は、『目的』となる。

健康や強さや美や富といったものは、何らかの目的を達成するための手段であって、それ自体が目的とはならない。
その手段を使って良い目的を達成する場合には、これらの手段は有益なものとなるが、目的が悪いものであるとするなら、それらの手段は有害なものとなる。
この部分の詳細は、『ゴルギアス』にて語られている。

卓越性から知識を引くと?

健康や美しさや富は現実世界での事柄だが、では、目に見えるものではない魂の分野ではどうだろうか。
魂や精神的と表現される分野にも、それを宿すことで『徳がある』『卓越している』と呼ばれるものがある。それは、『勇気』『節制』『物分りの良さ』『記憶力』『堂々たる器量』など。
これらも、目的の設定によっては善くも悪くもなる事柄だが、良い目的の為に使うという前提をもとに、推論を行っていくことにする。

魂の分野における卓越性から、知識を差し引いた場合。 それでも、それは卓越したものとして存在し続けるのか、それとも、卓越した部分まで差し引かれた絞りカスになるのか。
例えば、勇気は知識を内包している存在なのか。 それとも、知識は内包されていない、元気や意欲といったものと同じものなのだろうか。
この部分に付いては、『プロタゴラス』で詳しく語られているが、勇気は知性が伴っていなければ勇気とは言えないとされている。

例えば、強大な敵に立ち向かっていく時に、相手が強い敵だと認識せず、情報を全く知らない状態で飛びかかっていく行為は勇気とは言えない。
勇気が成立するためには、相手の強さを熟知している必要がある。
節度や物分りの良さも同じで、自分に全く知識がない状態で、自分の知らないことを話し続ける人間のいうことを疑いもせずに信じる行為は良い行動とは言えない。 場合によっては馬鹿にされることもあるだろう。

また、今回の推論では、目的は善いことであると限定したが、その前提を取り払った場合、目的が善い事であるという知識がなければ、勇気や節制といった精神的なものも、健康や美といった現実世界のものも、有益なものとはならない。
先程の三段論法によって導かれた結論では、徳とは有益なものということになっていたが、知性を欠いた徳目は有益とはならないのであれば、徳目は知性なくしては語れないということになる。
目的の善悪を判断しているのは善悪を見分ける知識であり、アレテー(徳・卓越性)の属性は知性によって決定される。

結論として、知性が徳の全体なのか、それとも一部なのかは置いておいて、徳とは知性であるといえる。
(つづく)
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参考書籍