プラトン著【メノン】の私的解釈 その6 『徳の教師は存在するのか』
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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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目次
『徳』は才能ではない
前回、『徳とは何か』というのを仮定を置いて推論した所、『徳』の最も重要な部分には知性が関連していることが分かった。徳が知識である以上、これを生まれながらに有しているものは居ないことになる。
厳密には、ソクラテスの主張する『想起説』では全員が徳を含めたこの宇宙の法則を知っていることにはなるが、全ての人間は生まれる際にそれらの記憶を忘れるため、知っているとは認識していない。
徳を知っている状態として認識するためには、教師などから教えてもらうなどしてきっかけを与えてもらう必要がある。
仮に、徳が教えられるようなものではなく、生まれつきの先天的なものでしか無いのであれば、赤ん坊の状態で徳を持っているか持っていないかを選別するような職業の人がいるはずで、徳を持っているとされた子供は、国によって厳重に管理されているはず。
何故なら、優れていて卓越した、存在するだけで有益となるような人物は国の宝となので、採掘すれば手に入る金銀財宝よりも貴重なものだから。
しかし『徳』は、経験や教育によって後天的に身につけるものなので、その様な事にはなっていない。
徳が、この仮説の通りのものであるのなら、徳は知識のようなもので、他人に伝えられるし教えられるものとなる。
バイアス
仮説を立てて推論した結果、『徳とは知識のようなものである』という一応の結論は出たが、ソクラテスは、自分たちが討論してでてきた結果を信用しない。人が何かの問題の答えを探す際、『そうであって欲しい』と思う答えを想定して、その方向へ誘導するケースが多々ある。
自分が何らかの説を思いついた際に、それを確かめるためにネット検索する時、自分の説を後押しする記事だけピックアップし、否定する記事は無視するのと同じ。
人は、『世の中は、自分が考える理想的な世の中であって欲しい』と思い込むフシがあり、ソクラテス自身も人間である為、知らず知らずにこの衝動に負けてしまい、答えを誘導させてしまっている可能性がある。
その為、ソクラテスは、『徳とは知識のようなものである』という結論を、もう一度、吟味することにする。
『徳』の教師
人に何かを伝え教えるという場合には、教育を行う者と受ける者の2つの立場が存在する。 数学を教えるのであれば、数学の教師と授業を受ける生徒という2つの立場に分かれる。学問に限らず、例えば将来、医者になりたいと思うのであれば、医大に行くなどして生徒に成れば良い。 大工になりたいのであれば、大工仕事を身に着けている人の弟子に成れば良い。
靴職人を目指すなら、その職人の元へ弟子入りに行けば良い。 自分のも煮付けたいと思っている技術を既に習得している人を教師とし、その人の元で学べば、自分も同じ様な技術が身につけられる可能性が有る。
これを徳に当てはめると、『徳』を教える教師のような存在がいて、その授業を受ける生徒が存在し、今現在も徳の授業が行われていることになる。
しかしソクラテスは、今まで生きてきた中で『徳の教師』と呼ばれる存在には会ったことがないと言い出す。
ソクラテスは過去に、プロタゴラスやゴルギアスと会っているが、この両者はソクラテスと対話した際に、シビレエイの毒にやられたメノンの様に、『徳』を見失ってしまっている。
両者ともに徳が分からない状態なので、当然、その様な人物が他人に徳を教えられるわけがない。
つまり、徳の教師ではない。
『徳』は人に教えることが出来るのか
ここまで話したところで、政治家のアニュトスが現れる。(アニュトスは、後にソクラテスを不正な手段を使って無実の罪で裁判にかけて、殺してしまう人物。)アニュトスの父親であるアンテミオンは相当な資産家で、その資産は偶然によってではなく実力で手に入れたとされている。
普通の人間では築き上げる事が出来ないような地位や富を手に入れているアンテミオンは、他の人よりも卓越していると思われる。
その卓越した徳を宿したアンテミオンは、自分の子供であるアニュトスを可愛いと思っているのであれば、我が子であるアニュトスにも自身の徳・卓越性を教えているはず。
眼の前にいるアニュトスは、父親から教えられている徳を宿している可能性が有るので、アニュトスを対話に加えて『徳とは教えられるものなのか』を考えていくことにする。
ソクラテスはアニュトスに対し、早速、徳を教えてもらうには、どの様な人の元へ行けば良いのかを聴く。
今までの議論からすると、徳とは教えられるものなので、徳を教える事で金銭を受け取って生活している『徳の教師』が存在するはず。
その『徳の教師』の中でも、『自分は特に優れている教師なので、高い授業料がかかるけれども、それ相応の知識を提供するので、損はさせない。』といって宣伝している人間は、他の教師より優れているはず。
私達が住む現在でも同じで、優れているとされている人の下で学んだり、家庭教師として雇う場合は、それ相応のお金がかかってしまう。
逆に、自分自身は大したことがない存在だと主張し、生徒も取らず、人に何かを教えることでお金をとっていないような人に、弟子入りをする人は少ないだろうと主張する。
(この部分に関しては、必ずしもそうとは言えない。 物事を熟知していると大声で叫ぶ人間よりも、黙って物事に打ち込んでいる方が物事を良く知っているという事は良くある。
ゲームの世界では、カネ目当てのプロよりも、趣味で打ち込んでいる素人の方が実力が上ということも珍しくない。)
『優秀で有名な教師は、多額の金を請求し、それ程優秀ではない教師は、少ない金しか請求しない。』というソクラテスの主張に、アニュトスは同意する。
続いてソクラテスは、メノンが求めているものは『徳』で、将来は徳を宿した他人に比べて卓越した存在になりががっていることを告げ、どの様な人物の下へ行けば『徳』を学ぶことが出来るのかという質問をする。
ソクラテスが生きた時代には、人に徳を教える事で大金を稼いでいるソフィストと呼ばれる徳の教師が存在するが、彼らの下へメノンを送り出すべきなのだろうか。
ソフィストは『徳』の教師ではない
この質問に対してアニュトスは『ソフィストと関わってはいけない』と、ソフィストの存在を否定する。何故なら、ソフィストは関わるものに良からぬも事を吹き込んで人を堕落させる存在なので、そんな者の授業を受けても害にしかならないからだという。
アニュトスにとってのソフィストとは、今現在で例えるなら、オンラインサロンを開いてほうぼうから金を集めている炎上芸人のようなもので、そんなものに関わったとしても何も得るものはない。
何も学ぶことがないだけなら、金を損するだけで済むけれども、彼らは生徒が興味を引きそうな、だけど中身のない適当な事を吹き込んで、人を不幸な道へと追いやってしまう。
しかしソクラテスは、このアニュトスの意見に反発する。
もし、ソフィストがそれ程の害悪を巻き散らかすような存在であれば、何故、ソフィスト達の下には生徒が集まり、生徒は進んで月謝を支払おうとするのだろうか。
ソフィストで有名なプロタゴラスは公演を1回開くだけで、素晴らしい技術を持つその道では有名な彫刻家よりも遥かに高額の金を稼ぎ出す。
しかもそれは、一時的なものではない。ソフィストという職業は40年に渡って存在し続けている。
本当にソフィストが有害なものであるのなら、その40年の間にソフィストに対する悪評が広まって、その様な職業はとっくに駆逐されているのではないか。
にも関わらず無くなっていないということは、これは世間一般の人達は、ソフィストは素晴らしいく有益なことを教えてくれると思っているからではないのか。
また、ソフィストが生徒に教えていることが、本当に害悪であるとするのなら、ソフィスト自身が自分の教えが害悪であることを理解しているはずだ。(ソフィストは徳の教師だから)
他人に徳を教えられる程に徳を熟知しているソフィストは、金を持ってきてくれている生徒に対して、わざと害悪を与えるような事をするのだろうか。
ソフィストは街のある存在なのか
この部分に関しては、もう一度、ソフィストたちを現在の『炎上芸で名前を売ってネットサロンで稼いでいる人たち』に当てはめて考えてみると分かりやすいかもしれない。その人たちが主催するネットサロンが何の役にも立たず害悪を巻き散らかすような存在であれば、彼らの評判は地に落ちているはずなので、新規で入会しようと思うものはいないことになる。
そこで、現状の彼らの様子を見ていると、ネットの炎上芸で名前を売っているネットサロン主催者は、かなりの多くの人たちから『害悪を撒き散らしているだけだ』と否定的な目で観られているし、ネットで検索してもアンチの意見がすぐに見つかる状態になっている。
しかし、一般に漏れ出てくる彼ら彼女らの私生活をみてみると、どう考えても、真面目にコツコツ働いているサラリーマンよりも良い生活をしている。
では、普通の人達以上の生活水準というだけで、彼らは有益だし、立派な存在といえるのだろうか。
サロンを運営している人は少数ではなく、沢山存在する為、その中には有益な情報を伝えて適正なお金を貰っているサロン運営者も少なからずいるでしょう。
しかし、大抵のネットサロンは、情報弱者を相手にし、その人達の不安を煽って精神を追い込んでいき、『その解決法を教えます』といった具合に勧誘してくる。
相手は情報弱者なので、何かを主張しているように見せかけて、何も内容がないことを話し続けたり、更に有益な情報がほしければ、もっと会費を払って上のクラスを受けましょうなどと勧誘してくる。
情報弱者は、自分から情報を取りに行かないから情報弱者になっているので、金を払えば有益な情報を与えてあげると言われれば、騙されてしまう。
与えられた情報が正しいのか正しくないのか、有益なのか害をもたらすのかは、何らかの情報と照らし合わせて見比べなければ判断できないが、情報弱者はそもそも比べるべき情報を持ってないので、与えられた情報を信じるしか無い。
結果、この様な集まりはカルト化し、その組織に残るのは熱心な信者だけになる。
この熱心な信者が教祖に対してせっせと献金をするという構図になるので、教祖は普通以上の豪華な暮らしが出来るが、教祖は信者に、実際には何も与えてはいないという状況が生まれる。
つまり、アニュトスの言う通り、害悪を撒き散らしながら、多額の金を得ることは可能ともいえる。
『徳』の教師が不正を行うのか
これをソフィストに当てはめても同じような事が言えそうだが… しかし、よくよく考えてみると、情弱を騙して大金をせしめるという行為は不正行為である。不正行為を行うものは徳を宿したものではなく、単に、演出によって自分が優れているかのように見せているだけなので、これらのカルト教祖は厳密に言えばソフィストではない。
ソクラテスの前提では、ソフィストは徳を宿した徳の教師なので、他人を悪い方向へ引きずり込むようなことはしないはず。
アニュトスとソクラテスとでは、ソフィストに対する前提が食い違っているので、議論も当然食い違う。
ソクラテスは、『徳を宿したソフィストが、金を支払って学びに来る生徒に嘘を教え、悪い方向へ引きずり込むなんてことは、本来であれば行うはずがない。 彼らは、正気を失っているのだろうか?』と聴く。
それに対してアニュトスは、ソフィストが徳を宿しているとは思っていないので、『狂っているのはソフィストではなく、そんな奴らのいうことを真に受けたり、学ばせに活かせる親のほうだ』と主張する。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com