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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第48回 移り変わる宇宙の捉え方(4)『神はサイコロを振らない?』前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

科学で真理は得られない?

このコンテンツは、主に哲学について勉強していくコンテンツなんですけれども、ここ数回は、科学的な話が中心になってしまって、これを継続して聞いてくださってる方の中には、混乱されている方もいらっしゃるかもしれませんね。
何故、科学的な話に脱線していったのかを、簡単に整理しておきますと…

キッカケは、ソクラテスでしたよね。
ソクラテスは、周りからは、賢い人、賢人だと言われていたのですが、自らは自分は無知だと主張して、仮に、自分に他の人よりも優れている点があるとするならば、それは、自分が無知だと自覚している事だと言いました。
いわゆる『無知の知』と呼ばれる主張ですが、この主張を聞いて、『無知だと自覚しているのであれば、勉強すれば良いでしょう』と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、ソクラテスの主張する無知の知は、そういう次元の話ではないんです。
ソクラテスは、自らを無知だと主張しているわけですが、無知である状態を放置していたわけではありません。
他の人よりも人一倍、好奇心が強く、賢人だと呼ばれている人には会いに行き、真理を得る為に積極的に討論をしていきました。

偏見を持たず、相手の話をよく聞く姿勢をもち、今の科学の基本となる考え方になっている、イオニア地方の自然学も学びました。
その上で導き出された結論が、『科学では真理は得られない』という一つの答えだったんです。
過去の放送になりますが、44回では、ゼノンのパラドクスなどを使って、理論と現実には乖離がある事を勉強していきました。

ゼノンのパラドクスについては、観点を変えたり固定する事で、現実との差を埋めることも出来るのですが、その様な柔軟な考え方をしたとしても、現実というのは、簡単には分からない。
というか、研究が進めば進む程に、現実というのは難解で、このアプローチでは真理から遠のいていしまっているのではないかという説明を、過去放送の45回と46回の途中までで、相対性理論をつかって。
そして、46回の後半部分から前回にかけては、量子論を使って説明してきました。 今回は、その量子論の続きとなります。

量子論の振り返り

量子論の簡単な振り返りとしては、量子論も相対性理論と同じく、光の性質を研究するところから出発しました。
相対性理論が、光のスピードに注目したのに対し、量子論は、光の正体は、波なのか粒子なのかという研究から始まりました。
当初、ビックネームのニュートンが『光は粒子』と主張していたので、皆が漠然と、光は粒子なんだろうと思っていたのですが… その後、二重スリット実験によって、波にしか表れない干渉という現象が観測できた為に、光は波という説が有力になります。

その一方で、アインシュタインの光電効果の研究によって、『光が粒子でなければ説明がつかない』ような現象が観測されてしまいます。
光電効果というのは、金属板に光を当てた際に、金属の電子が飛び出す様を観察する実験なんですが、光が波だと説明がつかない事実が出てきて、その一方で、光が粒子だと考えると辻褄が合う現象が観測されたんです。
結果として、光は粒子でありながら波で有るという不思議なものとなってしまいました。

これだけであれば、光というのは、どんな状態で観測したとしても常に一定速度で進む上に、粒子であって波という、不思議物体なんだなというので片付いたのかもしれないのですが…
光を当てた事によって、金属板から電子が飛び出たのであれば、飛び出た電子も光と同じ様な性質を持ってるんじゃないかということで、粒子であり物質である電子にも、波の特性があるんじゃないかという話になってきます。
そして、音などの波の運動の計算式を、複雑に加工したシュレディンガー方程式を、電子に当てはめて計算してみると… 電子の動きが説明できてしまうんです。

波の計算をする方程式を当てはめて計算したことで、電子の動きが計算できてしまったことで、電子も、波の性質を持っているんじゃないかという事になってしまいます。
つまり、物質を構成しているものが波である可能性が出てきたわけです。

この世には存在しない数字で構築されている世界

波動関数とも呼べれているシュレディンガー方程式ですが、更にわからないのが、この波動関数には、虚数が使われているという点です。
虚数というのは、2乗すると-1になるという、この世に存在しない、仮定として存在する数字なのですが、その虚数を計算に組み込んだ結果、現実に存在している電子の振る舞いが説明できてしまうという事実が分かってしまったんです。
科学というのは、人間が頭だけで考えた推論よりも、自然を観測した事によって分かった事実を優先するわけで…

この世に存在しない虚数を使って作られた方程式を当てはめた事によって、電子の振る舞いとしての正しい答えが出るのであれば、その方程式は、『何か』を表していると言わざるをえません。
まぁ、具体的に何を表しているのかは、私には分かりませんが、もしかしたら、この世の真理は、虚数という意味不明な数字を含んだ法則なのかもしれません。

この世に存在しない数で構築される世界

ここまでが、前回までで話した内容だったのですが… このままでも十分に、この世界が訳がわからないという事が分かっていただけたと思うのですが、この後、波動関数の確率解釈とかコペンハーゲン解釈などが出てきて、更に分けがわからなくなっていきます。
波動関数の確率解釈というのは、簡単にいうと、電子の波は確率の波だという考え方です。 波には波長や振動数と、振幅が有ると前に言いましたが、特定の場所の振幅の絶対値が、その場所に電子が存在している確率になるというものです。
音声メディアなので伝えにくいですが、波は、山や谷の繰り返しによって形作られていますが、その山の頂上や谷底の部分になればなる程、電子が存在する確率が上がるというものです。

コペンハーゲン解釈というのは、電子は粒子であるという事実と、一定の範囲に広がる波であるという事実と、計算上、辻褄が合っている確率解釈という3つの事実を全て認めて、合わせた解釈のことのようです。
つまり、観測が行われる前は、一定の範囲に確率の波として広がっているが、観測が行われると、波の状態になっている確率が収束して、ある一点に集まり、粒子として観測されるという事なんです。
これは、何度も言いますが、粒子というものが何処かには存在しているけれども、何処に存在しているのかがわからないから、確率という概念を使っているわけではなく、観測するまでは粒子は存在せずに、確率の波としてだけ存在しているという事のようです。

この確率解釈やコペンハーゲン解釈というものに、アインシュタインは『神はサイコロを振らない』と猛烈に反対したようです。 
ここでいう神というのは、宗教的な意味合いでの神というわけではなく、今までに発見された法則や、未発見の法則などを全て含む、物理法則の根底に流れているものを総称して、神と呼んでいるだけなので…
アインシュタイン、神秘的なものを持ち出してきて批判しているというわけではないので、注意してくださいね。

神はサイコロを振らない

『神はサイコロを振らない』というのは、言い換えると、この世の全ては物理学的に説明できるという意味で、いわゆる決定論的な考えを主張しているという事です。
決定論は、例えば、サイコロを振るという場面を想像した際に、サイコロが自分の手から離れた瞬間に、サイコロの出目は、物理学的に決定されているという事です。
手から離れたサイコロは、サイコロに加わっている回転や、地面までの高さによって、地面に落ちる角度が既に決定されていますし、地面に落ちた角度によって、その後、どの方向にどのように転がるかは物理学的に決まっています。

サイコロの出目を人間が予測できないのは、それらの計算を瞬間的に出来ないから、予測が出来ず、予測が出来ないから、出目を確率でしか予測できないだけで…
物理法則的には、サイコロが手から離れた瞬間に決定している。 簡単に言えば、このような考え方が決定論です。物理学は、同じ条件では常に同じ動きをすると主張しているので、手から離れたサイコロは、その法則に従って機械的な運動を行います。
物理のメカニズムに則って物体が動く為、最初の条件を与えた状態で結果は決定している。ちなみに、この決定論を人の行動に当てはめると、運命というものになります。

しかし、ここでいう確率解釈というのは、観測していない状態では、電子の位置は確定しておらず、確率の波として存在しているだけだという考え方で、観測するまでは電子の位置が確定していないので、この考え方が正しいとすると…
今まで物理学の常識とされていた、決定論が崩れてしまう事になりかねないんです。
決定論が崩れてしまうのであれば、物理学の考え方が根本的に変わってしまう可能性もある為、この結果に対して慎重な態度をとってしまうという人間が出てくるのも、当然といえば当然なのかもしれません。
(つづく)
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