だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast原稿】第90回【メノン】『形』と『色』という概念とは 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

縛りプレイ

この難癖については、さすがのソクラテスも少しカチンときてしまい、『君は、対話に来ているのか、それとも口喧嘩で勝ちたいだけなのかどっちなんだ?』と言ってしまいますが、すぐに冷静さを取り戻して、メノンの要望を聞き入れます。
そして、次は『色』という言葉も使わずに、『形』の説明を行います。

ソクラテスはメノンに対して、『終わり』や『限界』『末端』といった言葉を理解しているかどうかを尋ねて、メノンがこれらの概念を知っている事を確かめます。
そしてその後、『立体における形とは、その立体が終わる所、その立体物の限界を表している』と説明します。

少し分かりにくいかもしれないので、説明を加えると、立体には、立体である部分と立体ではない部分の境目、境界線が存在し、その部分は手で触れることで確かめることが出来ます。
例えば、目の前にサイコロが有ったとして、サイコロである部分と、サイコロの外側の部分には境界線が有って、その部分に手が触れる事で、手はサイコロの感触を得ることが出来ます。
つまり立体における形とは、手で触れて確かめることが出来るものということになります。

今回の質問が『形』全体についての説明なのに、立体物だけに絞って説明しているのは、色という概念を使ってはいけないという縛りがあるためです。
その為、手で触れる感触というのを、立体の限界として説明しています。 ですので、紙に印刷した四角形であったり円形などのプリントされた形というのは、この説明文では除外されています。
何故なら、紙に印刷された形を手で触れることで読み取ることは出来ないからです。 2次元の形を認識するためには、最初の説明文の様に『色』を使わなければなりません。

この説明文も、先程の説明文と同じ様に、説明しようとしている概念が説明文の中に入っていない為、『形』という概念を知らない人が聞いたとしても、『立体物の限界』という言葉が理解できれば、形の概念が理解できることになります。
また、三角形や四角形や、言葉では言い表すことが出来ないような複雑な形なども全て、例外なく、この説明文だけで説明できる事になります。
メノンは、この説明に納得したのかしていないのかは分かりませんが、この答えを聞いてすぐに、『じゃぁ次は、色の説明をしてください。』と言い出します。

物体が存在するとは

順番的には、メノンが説明の仕方を実践してみるターンですが、メノンは『アレテーとは何か』を質問された際の返答で散々ダメ出しをされているので、ソクラテスにも似たような体験をさせたかったのかもしれません。
ソクラテスは文句を言いつつも、次は『色』の説明に入りますが、ただ、先程の説明が思ったよりもウケが良くなかったので、今度はメノンに気を使って、メノンが好きそうな回答を試みます。

『色』を考える前に、先ず、物体の存在について考えます。 物体が存在している状態とはどういう状態なのかというと、その物体とされている物から何らかの情報が常に垂れ流されている状態の事です。
例えば、物体が実態として存在している場合、光がその物体に当たると、特定の色だけが吸収されて、吸収されない光は反射されて、その物体は吸収しない光を反射という形で垂れ流すことになります。
また実態である場合は、観測者が身体で触れるなどして、感触として物体の情報を得ることが出来ます。

その物体が、何らかの物質を発散させることで匂いを放っている場合は、匂いという情報を垂れ流していることになります。
その物体自身が動くことによって、何らかの音を垂れ流す場合もあるでしょう。 

この様に、物体が存在するということは、その物体が何らかの情報を垂れ流しているから存在していることが認識できるわけで、様々なセンサーを使ったとしても情報が得られないものは、存在しているとは断言できません。

観測できないものは存在していない?

例えば、オカルト vs 科学などの番組で、科学サイドが幽霊の存在などを否定するのは、幽霊が客観的な立場から観測できないからですよね。
人間には感知できないような電磁波や音波を感知できるセンサーを使ったとしても、対象となる幽霊を観測できない場合は、それが存在しているとは確定できないから、論争になるわけです。

逆にいえば、存在していると確定しているものは、何らかの方法で存在を認識できるだけの情報が、その物体から垂れ流されているモノのことです。
ですが、情報が垂れ流されているだけでは、感知することは出来ません。 人に、その情報を受け取る為の器官がなければ、人は物体からの情報を得ることが出来ずに、認識することは出来ません。

人には、自分の外側の世界からの情報を受け取れるように、様々な器官が備わっています。
例えば、耳は音を感知しますし、鼻は匂いを感知します。 口は味を感じることが出来ますし、肌は振れた感触を感じることが出来ます。
そして、目が感じることが出来る情報が、色です。 人は、目から入った光を色として処理して、光の違いを色の違いだと認識しする。 つまり色とは、目から入った情報を認識するものとして説明できます。

難しい説明を好む人達

メノンは、ソクラテスが行った小難しい説明を聞いてテンションが上り、目を輝かせながら『こういう説明が聞きたかった!』といった感じで感心します。
人間は誰しも、その分野に入りたての頃は、専門用語を多用する、一般人には伝わりづらい表現のことを、格好良いと思いがちですし、他人が理解できない言葉や文章を理解できると、優越感を感じたりもします。
もっと簡単な説明ができるにも関わらず、敢えて難しい言葉づかいをすることで、自分がすごい人間であることを演出する人もいます。

ここで取り扱っているメインテーマの哲学も同じで、日本の哲学書は、本当に日本語で書かれているのかと思ってしまう程に、難しい言い回しで書かれています。
まるで哲学書を読む目的が、本を読んで内容を理解することではなく、小難しい本を読んでいる自分は格好良いと思わせるためだけに書かれているんじゃないかと思うほどに、よくわからない書き方がされています。
哲学書というのがあまり読まれず、哲学という分野がマイナーになっているのは、哲学書全般が難しく書かれすぎているというのも、それなりに大きな原因なんじゃないかとすら思ってしまいますが…

その一方で、この様な難しい書き方を好む人達も一定数存在します。 現代に発行されている哲学書も、資本主義経済の下で執筆されているので、需要がなければ、敢えて難しく書くなんてことはしないでしょう。
おそらくですが、哲学書はその様な層に向けて書かれているので、無駄に難しくなっているようにも思えてしまいます。

誤解のないように付け加えておくと、自分の言いたいことを正確に伝える為に言葉を厳選した結果、回りくどい言い回しになったり、専門用語を使った結果として、難しくなってしまうというケースもあります。
これは仕方のないことで、その様な本を読むためには、その本を理解するための前提の知識を手に入れるために、前提として読んでおかないといけないと言われている本を順を追って読むことが必要になってくるというのは、仕方のないことなのですが…
そういった理由だけで、難しく書かれているとは思えないんですね。

簡単な説明こそ価値がある

というのも、今回取り扱っている『メノン』にしてもそうですが、プラトンが初期に書いた対話篇というのは、哲学の専門家に向けて書いているというよりも、哲学に馴染みがない人たちに向けて書かれているように思えるからです。
『メノン』や『ゴルギアス』や『プロタゴラス』などの対話篇にはストーリーが有り、その中の登場人物たちが対話をするという形式で書かれています。
登場人物の中には、市民が常日頃から思っていることを言語化して、討論に挑んでくるキャラクターも登場します。

ゴルギアスに登場したポロスやカリクレスの主張は、世間一般の人達の感覚に近いものですが、その感覚からでてきた理論をソクラテスにぶつけることで、本当の正義や勇気や幸福について考えるように誘導しています。
この様な構造になっているために、プラトンがこの作品を書いた時に想定していた読者というのは、哲学者や研究者ではなく、普段は哲学に興味を持たずに生活しているような一般人だったと思われます。
一般人に向けて書かれている本なので、小難しい単語も使わずに、出来るだけ簡単な言葉で説明しようとしていることが、内容を通して伝わってくるのですが…

それが日本語訳されると、人によっては読む気が失せてしまう程に難しくなってしまいます。
何故この様になるかというと、先程も言ったように、この様な難しい書き方を好む人達が一定数いて、その人に向けて書かれているからなんでしょう。

若くしてゴルギアスの弟子になって勉強してきたメノンもこれと同じで、同じ様な説明である場合は、より難しい説明の方が格好が良いと思っているし、その会話に参加している自分自身も格好いいと思い込んでいるんでしょう
しかしソクラテスは、説明としては、誰が聞いてもすぐに分かるような簡単な説明のほうが優れているとして、形を説明した際の『色を伴って現れるもの』という説明のほうが優れているとします。

話がそれてしまいましたが… この、『色』と『形』の説明の仕方によって、概念をどの様に説明すればよいのかがわかったので、次からは再び、『アレテーとは何か』の説明に取り組んでいくことになります。