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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第91回【メノン】美しく立派なモノ 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回も前回と同じ様に、プラトンが書いたメノンの読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分に絞って考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

概念の説明

前回の内容を簡単に振り返ると、アレテーを知っているというメノンの主張を深掘りしていくと、メノンはアレテーを知らなかったことが判明し、二人は共にアレテーを探求していくことにしました。
しかし、アレテーについて知らないもの同士で考えていくため、いきなりアレテーについて考え始めても、答えが出そうにありません。
そこで、似たような概念の説明をしてみて、アレテーについて考える取っ掛かりを掴むことにします。

アレテーの代わりに考えることにした概念は、『形』と『色』です。『形』も『色』も、概念としては一つですが、その概念の中には無数のものを含んでいます。
例えば『形』は、その中に円形や三角形や四角形など、様々な形を含んでいて、全ての例を挙げていく事は不可能です。
『色』も同じで、色という概念は一つですが、その概念の中には黒色や赤色や黄色といった様々な色を含んでいます。

『形』や『色』は、概念としては一つだけれども、その中に無数の要素を抱えているという点では、アレテーと似ている部分があります。
アレテーも、概念的には一つだと思われますが、その中には、『美しさ』や『知識』『勇気』『節制』『正義』など、様々な要素を含んでいます。
似たような概念を説明することが出来れば、それと同じ様な説明方法でアレテーも説明できそうですし、メノンが今まで主張してきたアレテーの答えが、どの様に間違っていたのかも分かりやすくなります。

アレテーとは

本来なら、ソクラテスとメノンの2人が、形と色の説明を試みて、どの様に説明すべきかという練習を行うべきなのですが、メノンはソクラテスにさんざん、自分の意見を否定され続けてきたので、この説明をソクラテスだけにやらせます。
メノンとしてみれば、この説明の中で納得出来ないことがあれば、今までの仕返しに指摘してやろうと思っていたのでしょう。

しかしソクラテスは、形を『立体における形とは、立体が終わる所。』と説明し、色の説明を『目によって受け取る情報』と解説して、メノンを納得させてしまいます。
その概念の中に複数の要素を含む、色や形の説明を見事に行ったので、次はメノンが、アレテーの存在を答えなければならないことになりました。

これに対してメノンは、自身の考えではなく、吟遊詩人の歌を引用する形で、『美しく立派なものを欲しいと思い、それを手に入れる力このとだ』と答えます。
この主張は、対話篇のゴルギアスに登場するカリクレスの考えと似た主張となっています。

アレテーは欲望を満たす力

カリクレスの主張は、人間が幸福になるために必要なのは欲望で、欲望を満たした時の満足感が、人を幸福に導いてくれるという主張でした。
その為、人は常に欲望を抱いていないと駄目だし、肥大する欲望はそのままにしておくべきで、決して抑制すべきではない。
欲望を叶えるために動き回る事こそが人生であって、欲望を抑え込んで、何も望まずに静かに暮す人生は、人の人生ではないと言っていました。

メノンとソクラテスが正体を明かそうとしているアレテーも、最終的には、人を幸福へと導いてくれる手段だということは分かっています。
そして、メノンによると、人を幸福へと導いてくれるアレテーとは、『美しくて立派なものを欲しいと思い、それを手に入れる事』のようです。
『美しくて立派なものを欲しいと思う気持ち』は、簡単には手に入らないものを欲しいと望んでいるわけですから、言い換えれば欲望です。

それを手に入れる力をアレテーと呼ぶということは、『欲望を叶える力を手にする事』と言いかえることが出来るので、カリクレスと似たような主張と言えます。
では、この主張は正しいのかについて考えていきます。

美しくて立派なもの

ソクラテスは先ず、メノンの主張は2つに分割できると指摘し、『美しく立派なものを欲する』という部分と、『それを手に入れる力』に分割し、それぞれ1ずつに分けて考えていきます。
まず、『美しく立派なものを欲する』とう行為そのものが、特別なものかどうかについて考えていきます。
『美しく立派なものを欲する』という行為が特別なもので、普通の人間にはなかなか出来ない事柄である場合、大多数の普通と呼ばれる人達は、『醜くて劣ったもの』を欲していることになります。

しかし、少し考えてみれば分かりますが、世の中の大半の人は、『美しくて立派なもの』が欲しいと思っているはずです。

では、『醜くて劣ったもの』を欲しいと思う人は全くいないのかというと、そうではなく、そういった人たちも探せばいます。
例えば、テーブルやイスなどの家具を買う場合、全ての人が、新品の新しいデザインの物を買うわけではないでしょう。 古くて、機能的にも耐久的にも劣っているものを、好んで買う人達がいます。
地震が少ないヨーロッパなどでは、家なども同じ様に、新しく機能的なものではなく、古く劣化しているものを好んで買う人達も多く、そういった物件は数も限られているため、新築よりも高い場合もあるそうです。

では、彼らは、敢えて『醜くて劣ったもの』を購入しているのでしょうか。

相対的なモノの見方

おそらく、古い家具や家を割高な値段で購入している人たちは、古い事を劣っているとは考えておらず、むしろ、そこに価値を見出していると思われます。
製造から長い年月が経って古びたものを、経年劣化したと考えずに、味わい深くなったと解釈して、新たな価値を見出しているのでしょう。
ビンテージの市場というのは家具だけに限らず、車や服など、様々な分野に存在します。 私のような無知な人間からしてみればガラクタにしか見えないものにも、価値を見出す人たちは沢山います。

これは、物以外の人間関係でも、同じことが言えます。 人間には、関わり合いになるだけで被害を受けたり、自分自身が相手の考えに汚染されて悪くなってしまう様な人間がいます。
例えば、反社会的と呼ばれる組織の人たちが、これに当たるわけですが、では彼らは、皆から無視されて完全に孤立しているのかといえば、そんな事はありませんよね。
彼らに自ら近寄っていく人達は少なからす存在するわけですが、その人達は、彼らのことを悪いものだと思って近づいていくのでしょうか。

実際にはそんなことはなくて、反社会的な人たちに近づいていく人は、彼らの背景にある暴力だとか、お金だとか、様々なものに魅力を感じて近づいていくわけです。
暴力を背景に他人を脅して、自分の意のままに動かすことを格好良いことだと思っているし、お金にしても、どんな手段で得られたものかは関係なく、金は金だと思っている。
反社会勢力に自ら近づいていく人は、彼らが持つ暴力性やお金に惹かれ、例え彼らが秩序を乱す者達であったとしても、関わり合いになることで自分には利益がある必要悪と思いこんでいるから、近づいていくわけです。

自分には利益があると思っているわけですから、そんな人達から見れば、反社会的勢力の人たちが持つ暴力や人脈や金は、格好良いもので立派なものに見えているのでしょう。

悪いものを良いものと錯覚する

この他にも、反社会勢力ではなく、体制側にも汚職をする警官や政治家などが存在します。
これまでに、対話篇の『ゴルギアス』や『プロタゴラス』で勉強してきた内容を踏まえると、彼らは、汚職をしているという点に置いて悪であり、醜い存在といえますが、そんな彼らに近づいていく人達も存在します。
善悪を見分ける能力があり、理性を宿している人間であれば、醜くて劣っている彼らには近づかないはずですが、警察官にしても政治家にしても、汚職が成立するということは、彼らに近づいてお金を渡して仕事をさせる人たちがいるわけです。

では、汚職警官や政治家に近づいていって金を渡し、関わり合いを持とうとする人たちは、何故、わざわざ『醜くて劣ったもの』に近づくのかというと、そうする事が自分の利益になるからです。
人に近づいていって汚職をさせようとする人間は、どの様な手段であっても金が稼げたり、自分が有利な状態になれればそれで良いと考えているような人たちです。
彼らからしてみれば、自分ができないようなことをやってくれる汚職警官や政治家の力は素晴らしいものだし、立派なものだと考えているでしょう。

これは、犯罪者達にも当てはまります。 老人宅に電話をかけてオレオレ詐欺をする若者たちは、どんな願いでも叶えてくれる『お金』そのものを、『美しく立派なもの』だと思いこんでいます。
その『美しく立派なもの』はどの様な手段で手に入れても良いと思っている。 だから、他人を騙して奪い取ろうとするわけです。
何なら、高度成長時代やバブル期に現役時代を過ごし、労せず大金を手に入れた彼らから、恵まれない世代の自分たちが金を奪うことは、良い事だとすら思っているかもしれません。