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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その4

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com

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良い人になる事と良い人である事

対話をするためのルールを定め、プロタゴラスソクラテスはシモニデスの詩の解釈についての対話を行います。
プロタゴラスはシモニデスの詩を一つ取り上げ、その詩に対してソクラテスが良い評価をしている事を聞き出した上で、『同じ作品内で矛盾していることを主張している作品は、良い作品とは言えないのではないか?』と聞き返します。
これは、いわゆるダブルスタンダードというやつで、その時々の自分の状態によって意見をコロコロ変えるのは、一貫性が無く信用出来ない態度だからです。

当然、ソクラテスはこの意見に同意しますが、その直後に、プロタゴラスは詩の中の矛盾点を指摘しだします。
先程、対話と論争は違うという話をしたばかりなのに、プロタゴラスは定めたルールの中で勝利することに夢中になっているのかもしれません。

ここで、市の全文を紹介できれば良いのですが、資料が破損しているようで、その全文はわからないとされている為、ここでは、矛盾点のみを取り出して見ていくことにします。
プロタゴラスが指摘したのは、詩の前半部分で『本当に立派な人になる事こそ、困難だ。』と書かれているのですが、後半部分では『立派な人である事は困難だ』と主張している点です。
後半部分では、『立派な人である事は困難だ。』と書いていますが、立派な人である為には、立派な人になる必要が出てきます。 しかし、前半部分で『立派な人になる事こそ、困難だ。』と書かれています。

本当に難しく困難な事は、立派な人になる事であるのなら、立派な人になれる人は極少数ということになります。
しかし、後半部分では立派な人である事はこんなんだというのは、立派な人になるのは容易いけれども、それを維持する事は難しいと読み取れます。
プロタゴラスの指摘とは、前半部分では立派な人になる事はこんなんだとしておきながら、後半部分では立派な人になることは容易いが、それを維持する事は難しいと読み取れる為、矛盾しているということです。

そして、先程の同意に基づけば、自己矛盾を抱えた作品は優れた作品ではない事になり、優れていない作品を褒め称えたソクラテスは間違っているという事です。
この辺りのやり取りを見ても、プロタゴラスの執念が読み取れます。 優れていないとされる作品を褒めた事が証明されても、それは、その作品に対しての見る目がなかっただけなのですが、プロタゴラスはここから考えを飛躍させて、自己矛盾を抱えるものを褒め称えるような人間が賢いはずがないと、ソクラテスを攻撃しているわけですが…
先程からも書いている通り、ソクラテスは最初から自分を無知だと認めていますし賢者だとも主張していません。 ここで改めてソクラテスを無知だと主張しても、プロタゴラスが徳を知っている事を証明する事にはならないのですが、弟子の前で恥をかかされたと思ったのか、なんとかしてソクラテスを任したい様子が伝わってきます。

ソクラテスの詭弁

指摘を受けたソクラテスは、ここから反撃にでます。
プロタゴラスの弟子の中から、シモニデスと同じ出身者の人を指名して、『困難な』という言葉の意味について問いただし、シモニデスの出身地では『困難な』という言葉を『悪い』という意味で使うという事を聞き出します。
この解釈を詩に当てはめると、『本当に良い人になる事こそは悪いことだ』という事になる。 では、良い人になることが何故、悪い事につながるのかというと、絶対的な善は神だけに許される事だからで、人がそれに成り代わるというのは、良い事とは言えないからだという解釈を展開します。

その後、スパルタという国の捉え方について話し出します。
ソクラテス達が暮らすアテナイが、議論する事が重要視され、議論を有利に進める為の知識や弁論術が重宝されたのに対し、スパルタは、市民として生まれた子供は健全かどうかを詳しく調べられた後に、市民は全て職業軍人となる事が強制された為に、体の強靭さなどが重要視され、知識は軽視されてきたと言われてきました。
つまり、アテナイ人はガリ勉タイプで、スパルタ人は体育会系というレッテルが貼られ、それが常識とされてきたわけです。

スパルタは市民を全員職業軍人にする事で武力を増強し、周辺国を圧倒する力を手に入れたと思われてきたけれども、実際にはそれは間違いで、スパルタは知識の重要性を十分に理解し、実際には武力ではなく、知識によって他国を圧倒していたと主張します。
体だけが自慢の人達を、よく、脳まで筋肉を略して脳筋や、体力バカなんて表現したりもしますが、では何故、スパルタは脳筋を装うようなことをしたのでしょうか。
それは、他国を圧倒する力が武力ではなく知力だとバレてしまうと、他の国が真似をして知力を高める努力をしてしまうからです。 皆が知識を身に着けて賢くなってしまうと、他国を圧倒するのが容易ではなくなってしまう為、新たなライバルを産まない為にも、体しか取り柄がない事を目立たせて強調し、その一方で知識を身に着けていることを隠したんです。

この事は、スパルタ人と対話する事でよく理解できるようです。 スパルタ人の中でも、特に優れたところのない平凡な人間を連れてきて議論をした場合、通常時のスパルタ人の返答は平凡なものが返ってくるだけだが、議論が重要な部分に差し掛かると、短く鋭い言葉でもって核心をついてくるそうです。
議論を長々と引き伸ばして、今現在、何の議論をしているのかもわからないようにして煙に巻く事もなく、短く、力強く、誰にでも分かるような言葉で核心をついてくる。
この様な返答ができるのは、本当の意味で立派な教育を受けた人間だけで、このスパルタ式の教育を受けた人間の中には、ミレトスのタレスやピッタコスがいて、そのピッタコスが生み出した言葉の中に『立派な人である事は困難だ』という言葉が有り、シモニデスは、この言葉を引用したと主張します。

ただ、この引用も、尊敬を込めての引用ではなく、この言葉を生み出したピッタコスへの挑戦の意味を込めて引用したと主張します。
詩の解釈とは直接関係のない話が続き、やっと、シモニデスの名前が出てきたわけですが、ソクラテスは、一番最初に主張した『困難』という言葉の解釈を『悪い』というものから通常で使う困難へと戻します。

では、今までの長い話は何だったのかというと、プロタゴラスに対して、ソクラテスなりの反撃だったのかもしれません。
というのも、他人の書いた詩の解釈によって、徳や、その事柄が教えられるのかといった説明はできないからです。
先程も書いた通り、プロタゴラスの目的はソクラテスに勝利することで、その為に、矛盾を孕んだ詩をテーマに選んで弁論術を使った攻撃を行ってきた訳ですが、それに対してソクラテスは、プロタゴラスの主張する相対主義を使って反撃します。

言葉というのは、人間同士がコミュニケーションをとる為に生み出された道具ですが、当然のことながら、地域が変われば意味も変わってきます。
言葉には絶対的な意味がなく、その地域で意味が通じるなら、同じ単語であっても意味が変わる場合はあります。 これを利用してソクラテスは、現在議論している詩の意味そのものを変えてしまうます。

脳あるたかは爪がミサイル

その後、話はスパルタの教育方針へと変わります。
一見すると関係のない話のように聞こえますが、話の内容を聞いていくと、プロタゴラスなどを始めとしたソフィスト達の行動への強烈な批判が含まれています。

内容としては、『スパルタ人の中で最も凡庸な人間と議論をしたとしても、アテナイ人のソフィスト達よりも優れている。 何故なら彼らは、長い言葉を使って議論を長引かせたり、相手の集中力を削いだり、議論を煙に巻くといった事をしないからです。
誰にでも分かるような言葉を使い、短く鋭い言葉で核心を突くという行為は、本当に賢い者にしか出来ないといっているわけで、暗に、小難しい長い言葉を並べて自分の優位な状況を作り出そうと小細工するソフィストたちを、彼らの手法を用いながら責めているのでしょう。

立派な状態を維持する事は難しい

この後、ソクラテスは、『本当に立派な人間になる事こそ難しい。』という言葉の中の、『こそ』という言葉を取り上げ、重要なものだと言います。
というのも、先ほど名前を出したピッタコスが作った言葉の中には、この『こそ』という言葉は入っていなかったからです。
シモニデスが詩を通して伝えたい事は、『立派な人間になる事が難しい。』と単に主張しているわけではなく、『何の欠点もない完璧超人の様な立派な人間になる事、こそは、難しい。』と主張しているという解釈をします。

この2つの表現の仕方にどの様な違いがあるのかというと、立派な人間になる事、それ自体は、それほど難しくはないという事です。
前に、概念は単独で存在できるものではなく、対になるものと同時に生まれるという話を書いたと思いますが、立派という概念は、それ単体では存在することが出来ず、必ず、その反対の概念が存在します。
仮に、立派という概念と対になる概念が悪いという概念であるなら、常に立派ではない人間というのは、常に悪い人間ともいえますが… 常に悪い状態で有り続ける事は可能なのでしょうか。

また、立派になるという表現があるという事は、悪くなるという表現も存在するということです。
元から悪い状態ものが、何らかの原因で悪くなるというのは、既に転んでいる人間が、何かにつまずいて更に転ぶ事が出来ないぐらい、不可能なことです。
転ぶというのは、立っている人間に可能な事と同じ様に、悪い状態になるというのは、良い状態の人間でなければ無理なことです。

つまり人間は、悪い状態になり続ける事は出来ない為に、悪い状態と良い状態の間を揺れ動くような存在といえます。
善悪の間を揺れ動くということは、人は、例え短い間であれ、良い状態になることが出来るということで、単に良い状態に成るという現象自体は、珍しい事でもなんでもないという事なんです。

どんな凶悪な犯罪者であっても、生きている間中、誰かに迷惑をかけ続けて悪を体現し続けることは出来ません。何らかの拍子に、良い事をする事もあるでしょう。
全体として悪い人間でも、良いとされている行動をとっているその瞬間は良い人である為、どんな人間であれ、良い人間に成る瞬間はあるという事です。

ただ、悪い状態をキープし続けるのが無理なように、良い状態を生涯に渡って良い状態をキープし続けることは出来ません。
多くの人から善人と言われている人であっても、ある瞬間を切り取れば、悪人にも成るでしょう。
もし仮に、存在し続けている間、ずっと良いという状態をキープできるような存在があるとするなら、それは神と呼ばれるような概念的な存在だろうと主張しているわけです。

他人の作品の考察は議論にふさわしくない

一連の主張が終わったところで、ソクラテスは他人が書いた詩に対する解釈をやめようと言い出します。
というのも、ソクラテスプロタゴラスが、自分が考え出したそれぞれの主張をブツケて対話を行う場合、自分が疑問に思ったことは、その疑問を相手にぶつけることで解消することが出来るかもしれません。
仮に相手が、その答えを持っていなかったとしても、一緒に考えるという事が出来るでしょう。

しかし、他人が書いた詩を、外野が解釈合戦するという行為は、その真偽を確かめることが出来ません。
というのも、実際に詩を書いたシモニデスが同席していない為、外野であるソクラテスプロタゴラスの主張は、憶測の域を出ることが出来ないからです。
仮に、シモニデスが同席している場合は、シモニデスに対して『どの様な気持ちを込めて書いたのですか?』と聞けば良いわけですが、本人が居ない状態ではそれも出来ない為、シモニデスの気持ちを確かめようがない為です。

ソクラテス自身が本を書き残さなかったのも、この気持が大きかったからでしょう。
ソクラテス自身は、自分は無知だと公言しているわけですが、それでも、様々な賢者に話を聞いたり、自分自身で考えた理論はあるでしょうから、それを書き残せば、後世に対して何らかの貢献は出来るはずです。
しかし、仮に書き残したとしても、その本を読んだ人間が解釈を間違っては意味がありません。 読み手の解釈が正しいのか間違っているのかは、結局、書き手であるソクラテスが対話によって確かめなければならない為、意味がない行為だと思ったのでしょう。

その様な意味を込めて、ソクラテスは詩の解釈を巡る議論を終了し、その場にいるソクラテスプロタゴラス自身が考え出した言葉によって対話を行おうと提案します。
そして、『相手を打ち負かす為の議論』ではなく、共に協力し、真理に到達しようと主張します。
(つづく)
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参考文献

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その3

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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反対の性質を持つものは一つしか無い

概念は単独で存在しているわけではなく、常に相反する性質を持つものと同時に存在しています。
例えば、表という概念は裏という概念がなければ存在できませんし、明るいという概念は暗いという概念抜きには存在することは出来ません。
美しいという概念は、見にくいという概念があって初めて存在できる概念で、仮に、この世から醜いという概念がなくなって美しいものしか無い世界になれば、美しいという概念は無くなって、美しいことが当然で普通になってしまいます。

この様に、価値観や概念といったものが存在する為には、相反する概念とセットでなければならないわけですが、この『反対の性質を持つもの』というのは、表に対して裏というように、1つしかありません。
ソクラテスはこの主張を行った後で、プロタゴラスから同意を得ます。

そして、この考え方を、徳の考え方にも当てはめて考えてみることにします。

まず、無分別という存在について考えます。 この無分別の正反対の言葉は、知恵があることではないかとソクラテスプロタゴラスに訪ねたところ、『そうだ』と同意をします。
ですが、『無分別』とは、分別を行わ『無い』と書くため、無分別の正反対の言葉は、分別とも考えられます。
先程の理論に当てはめると、正反対の概念は1つしか無いとのことでしたが、無分別の反対の意味として、知恵と分別という2つの候補が上がってしまいました。

これは、無分別の対義語としてどちらかが間違っているか、それとも、分別と知恵が全く同じ概念となるかの何方かということを意味します。
無分別は分別が無いと書くために、一見するとこちらが反対の意味のようにも思えます。 しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。
概念は、相反する2つの状態を同時に宿すことは出来ないと考えます。 つまり、美しく有りながら醜いとか、裏でありながら表という状態は無いということです。これを念頭に置いて、考えを進めていきます。

次に、不正を行うような人物について考えていきます。
分別とは、事の善悪や損得を考える能力のことなので、分別がない人間は、何が悪い事なのかが分からずに、欲望に任せて不正を行うことは珍しいことではないでしょう。
しかし、不正行為は無分別の人間だけが無意識に行ってしまうようなものなのでしょうか。
分別が有り、何が良いのか悪いのかを熟知していて、それでも尚、自分の欲望を満たす為に、悪いと知りながら不正に手を染める人間というのは存在しないのでしょうか。

現実の世界を見てみれば分かりますが、そんな人間は腐る程います。
脱税するのが悪いと分かっていながら行うものや、脅しや詐欺が悪いと分かっていながら、お金欲しさに実行する者は、日々のニュースを観るに珍しい存在ではありません。

では、これまでの事をまとめてみると、どうなるのでしょうか。
概念は単独で存在する事は無く、存在する場合は正反対の性質を持つものと対になって生まれます。反対の性質を持つものは1つしか無く、正反対の性質は同時に宿ることはありません。
この前提を置いて、分別の対義語を考えてみると、『知恵の無いもの』と『無分別』の2つの対義語が候補に上がってしまいました。 先程の前提を満たそうと思うのであれば、『知恵が無い状態』と『無分別』は同じものと考えるか、対義語として何方かが間違っていることになります。

次に、不正を行う人間というのは、分別がない人間と言われているので、ここでは、『不正を行うもの = 無分別』とします。
先程、『無分別』と『知恵』は同一のものかもしれないという可能性が上がったので、ここでは一旦、『不正を行うもの = 知恵のないもの』も成り立つものとします。

『概念の前提条件』としては、他に、正反対の性質は同時に宿ることが無いとのことでしたが、『不正を行う』という行為と、知恵や分別が有るという状態は、同時には成り立たないのかを考えてみます。
不正を行う行為は、無分別と知恵の無い状態と等しいという事が分かったので、当然のことながら、不正を行うような人物は『知恵』も『分別』も持っていては駄目だということになります。
しかし実際には、分別がある状態で、悪い事と知りつつ、知恵を働かせて不正を働く人間というものが存在します。 悪いと知りつつ、自分の利益の為に知恵を働かせて脱税行為をするのが、これにあたります。

この状態は、不正を行うような分別も知恵もない人間が、分別と知恵を働かせて不正を行って利益を得た事になるわけで… かなり矛盾した事になります。
また、分別と知恵を働かせて不正を行う人間は、徳の一部である『分別』と『知恵』を持っていることになるので、この不正を働いた人物は、徳を持つ人間という事にもなってしまいます。

当然のことながら、分別をわきまえて知恵を働かせて、自分の利益の為に不正を働くような人間は他人から尊敬ませんし、他の人間と比べて卓越した人間でもありません。
徳を構成するものを備えた行動を行ったのにも関わらず、何故、不正を働いた人間は尊敬されず、何なら見下されることになるのかというと、不正を働く行為は『善い行い』ではないからです。

善い行為とは何なのか

先程の考察により、徳というものは、それを構成しているものを宿しているだけでは徳ではない事が分かり、それと同時に、『善』を宿していなければならない事が分かりました。
では、『善い』とは何なのでしょうか。

ソクラテスは、『善い』の定義をはっきりさせる為に、『善いとは、人間にとって有益なものだけを、善いというのですか?』と訪ねます。
これに対してソクラテスは、同意しつつも、『それだけではなく、人間にとって有益とは言えないものも、善い場合もある。』と付け加えます。
プロタゴラスソクラテスに、散々、揚げ足を取られ続けている為、『善い』がカバーする範囲を広げて防衛戦をはったのでしょう。

ソクラテスは、いつもの調子で『では、全人類にとって有益とはいえない、有害となるものも、善いものもあると主張するのですね?』と確認する。
プロタゴラスは苛立ち始め、少し興奮した様子で『善い』の定義について話し出す。

例えば、人間が食べることで健康になるような植物は、人間にとって善い存在と言えるだろう。 だからといって、人間が食べられるものだけが善い存在だとは言い切れない。
人間にとっては害になったとしても、例えば馬にとっては善い植物かもしれないし、他の動物が食べると毒になるようなユーカリのような植物でも、コアラにとっては善い植物かもしれない。

動物が食事をした後に残す糞尿も、人間にとっては臭いだけで役に立たないかもしれないけれども、植物の根にとっては善いものとなる場合もある。
植物の根にとって善いものであったとしても、それが枝につくと、枝を痛めてしまうようなものも有る。

例えばオリーブオイルは、人間の体にとっては有益なものだけれども、その他の植物にとっては有害で、水の変わりいオリーブオイルを与えたりすると枯れてしまう。
また人にとっても、体に塗るといった使用方法では有益だけれども、これを水のように飲んでしまうと害が出てしまう。
摂取する場合は少量に抑えなければならず、大量に取ると害になってしまう。  つまり、同じものであっても摂取する量によって、有害にも有益にもなるので、一概に善いとは言えないと答える。

ソクラテスメソッド

相対主義者であるプロタゴラスらしい切り返しで、尚且、説得力の有る主張ですが、この主張を前にソクラテスは、対話のルールを決めましょうと提案してきます。
それが、後にソクラテスメソッドやソクラテス式問答法と呼ばれる対話方法で、テーマを明確にして、出来るだけ主張を短く、且つ、分かりやすくし、主張を聞いた側は、納得できなければその部分について短く簡潔に質問をし、その回答に納得ができなければ出来るまで質問を繰り返し、相手から答えが聞けない場合には、自身が短くわかり易い言葉で主張を使用というルールです。

つまり、先程のプロタゴラスの『善の定義について』の話は長すぎるので、もっと短く話してくれという要望です。
これに対してプロタゴラスは反対します。 その様なルールを一方的に押し付けられれば、勝てる議論も勝てなくなってしまうと。

この反論からも分かる通り、プロタゴラスソクラテスとの対話を言葉による勝負だと捉えていて、その勝ち負けにしか興味が無いことが分かります。
ですが、この議論の最初を振り返ってみると、そもそも勝負ではなく、ソクラテスは『ソフィストとは何を教えているのかがわからないから、教えてもらう。』というスタンスでした。
つまり、この討論は最初から勝負をつける論争ではなく、プロタゴラスソクラテスが分からないことを教えるレクチャーだったわけです。
しかし、ソクラテスの鋭い質問に窮地に立たされるプロタゴラスは、ソクラテスが賢者である自分を打ち負かしに来ているのではないかと思い込み、いつの間にか勝負をしている気になっていたわけです。

この主張に対してソクラテスは、あくまでも下手に出て、自分が無知であり、物事がわからないからこそ、それを知っている人物に教えを頼んでいるだけだということを改めて伝えます。
その上で、自分は記憶力が弱く、一方的な長い主張を聞いていると、自分が今、何を相手に聞いているのか、論点を見失ってしまうことを伝えます。
私自身が、私の能力が劣っている事を認めている一方で、貴方の方は自分が優れた人だと主張して、人から授業料を受け取って物を教えるという職業の人ではないですか。
それなら、能力の高い貴方の方が、私に合わせてくれてもよいのではないですか? と答えます。

例えるなら、全くの初心者がギター教師にギターの演奏方法を習いに行った際に、講師の人が、『上手くなる為には、演奏が上手い人間とセッションするのが一番なんだよ!』と言い出し、イングヴェイの曲をライトハンド奏法で弾きだして、『さぁ! いつでも入ってきて!』と言い出したとしたらどうでしょう。
コードの抑え方もわからないような初心者が、そんな授業について行けるはずがありません。
その一方で、それのどの技術を備えている講師の方は、初心者の方に合わせる形で、どの指を使ってコードを押さえれば良いのかといったレベルまで授業内容を引き下げることが出来ます。

つまり、能力が高い人間は低い人間に合わせることは出来るが、能力の低い人間は高い人間に合わせることが出来ないという事です。
ソクラテスは、自らがムチで能力が低いことを認めた上で、プロタゴラスに対し、『貴方のほうが優れているのだから、劣っている私の方に合わせてください。 私には、あなたのレベルに合わせる能力がないのですから。』と堂々と言い放ちます。
それが出来ないのであれば、また、討論の勝敗にこだわる喧嘩腰の討論を続けるというのであれば、この対話は打ち切って終わりにしましょうと提案します。

これを聞いたプロタゴラスの弟子たちは、2人の対話をもっと聞きたいという思いから、プロタゴラスに対し『優秀な貴方の方が、ソクラテスに合わせるべきでは?』と提案し、プロタゴラスは渋々受け入れることになります。

私がこの部分を最初に読んだときは、ソクラテス自身も詭弁を使って議論に勝とうとしているのではないかと思い、少し嫌な気分になりました。
この対話編に登場しているプロタゴラス自身も、私と同じ様な誤解をし、怒りを顕にする場面などが登場するので、プラトン自身が、その様に誤解させるような書き方をあえてしているのでしょう。
その為、ソクラテスが真理を得る為に対話相手に行う質問と、ソフィスト達が議論に勝つ為に使う詭弁が、判断がつかない紛らわしい感じで使われています。

しかし、ソクラテスが登場する対話編を複数読み込んでいくと、それは誤解だった事に気付かされます。
ソクラテスは最初から、自分が無知であることを認めた上で、自分が分からないことや納得が出来ない点について質問をしているだけだと主張しています。
わからない事について、詳しい人に教えてもらおうと授業をお願いしたとしても、相手の主張が本当に正しいかどうかは分かりません。

その為、理解できない点や納得できない点について質問をするのですが、その質問を受けた教師側は、『侮辱された』『喧嘩を売られている』と勘違いし、気分を害してしまいます。
これは現在でも同じで、仮に、学校の教師に対して教師が答えられないような事、又は、教師自身が理解していると思いこんでいたけれども、実際には理解していなかった事が暴露されてしまうような質問をした場合、大抵の教師は生徒に対して怒り狂うでしょう。
質問が相手の専門分野であれば有るほど、相手はムキになって『オレの言ってることを信じろ。』と連呼することしかできなくなるでしょう。

結果として生徒は萎縮してしまい、学問に対する興味を失い、真理を追求することもなく、上の者が主張した事を盲信させられます。

ですが、ソクラテスにとってこの様な権威主義は、一番避けたいものであり、最も忌み嫌う行為です。
知らないことを知った気になっているかもしれないだけの人間の主張する事を、正しい事だと思い込んで信じる行為は、真理に近づく行為ではなく、その道を断ってしまう行為だからです。
ソクラテスが望んでいることは真理への到達。アレテーを知る事なので、擬物の真理で満足できるはずがありません。

当然のように、ソクラテスは議論に勝ちたいわけでもありません。
ソクラテスが望んでいることは、自分が正しいと思いこんでいるけれども、実際には間違っているかもしれない事柄については、指摘して欲しいと願っています。
指摘をされる事で、自分が歩んできた道が間違っていたことが判明しますし、別の正しい道を探せるきっかけにもなります。

ソクラテスにとって対話相手は、打ち負かすべき敵では無く、共に真実へと近づく為の味方なのです。
(づづく)
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参考文献

sake x 婚活 x 国際交流イベントに参加した感想を書いてみた

昨日のことですが、運営側に知り合いが絡んでいる婚活イベントに参加してきました。
今回は、この体験を書いていきます。

sake x 婚活 + 国際交流イベント

今回、参加したのは、日本酒の知識を深めつつ、異性とも知り合いつつ、国際交流まで出来てしまうという、何とも盛りだくさんのイベントでした。
これだけ盛りだくさんにも関わらず、お値段が2000円と、かなりReasonable!
また帰る際には、梅酒のお土産までくれるという事で、コスパ最強な感じで、それなりに満足して返ってきました。
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参加したイベントが特定されない程度に、もう少し具体的に書きますと、今回のイベントは国際交流を行っている施設が主催しているイベントなので、参加者も日本人だけだとは限らず、様々な国の方が参加する可能性があるイベントでした。
私が観た範囲だと、2~3人が見るからに外国の方でしたが、見た目ではわからないアジアの人達も参加されていたので、2割ぐらいは外国の方だったんだと思います。
4人がけのテーブル席が8席ぐらい有り、そこに自由に座っていく感じでしたが、途中からスタッフが席を誘導しだしたのか、テーブルには男女が混合で座る感じになりました。

日本酒の講義

人も揃い、開始時刻になったので、『日本酒を軽く勉強し、その後は、日本酒を呑みながら交流を深めたりしていくのかな…』と何となく想像していたのですが…
実際には少し違い、伏見から酒蔵の方がゲストで来られ、30~40分程度のガッチリとした講義が始まりました。

何故、伏見という土地で酒づくりが盛んになったのかを、京都の地面の高さを反映させた地図を用意して説明をしだす講師。
京都の、特に伏見よりも南側の岩盤層はかなりの盆地になっており、その地下には、琵琶湖と同じ量の水分が蓄えられているとか、その水質はどうなのかとか、ミネラル分はどれほど含まれているのかといった事や、水道水との飲み比べなどが行われました。

その後は、利き酒クイズ。
1番から5番まで番号が振られた酒を呑み、その特徴を理解した上で、A~Eに置かれている酒を飲み、A~Eの酒は1~5番の度の酒と同じなのかを当てるクイズです。
このクイズは、テーブルの皆とワイワイ話しながら行うことが出来たので、結構、楽しい時間を過ごせました。
お酒というテーマで集まり、同じクイズを解くという経験を通して、徐々に仲良くなっていく感じ。

参加する前は不安でしたが、共通の話題や体験を与えてくれた事で、コミュニケーションも取りやすく、非常によく考えられたイベントだなと感心しました。
このクイズの時間が、体感で大体30分ぐらい。 この時点で、開始から1時間程度経過しているような状態だったと思います。
ちなみにですが、このイベントは19時開始で20時半終了の予定です。 

えぇ~と。。 僕は何しに来たんでしたっけ? 日本酒の授業を受けに? それとも、婚活とか出会いを求めて?

婚活パート?

楽しいクイズの時間も終わり、同じ経験を経たことで少し仲良くなり、喋りやすい雰囲気も整い、これから仲良くなって連絡先を交換する機会を伺うぞ!と思っていたところ、クイズ終了と同時に司会の人がマイクを握り…
『席替えターイム!!』の声。。

『え???  クイズで仲良くなって、これからが本番なのに??? 今までの関係構築、全部チャラ??』
席替えといわれても、どの席に行って良いのが会場内の人間全員がわからない状態になっていると、司会の人が『とりあえず、男性だけが隣の席に行きましょうか。』と支持をする。
何方の隣かわからないままに、とりあえず移動し、そこからまた自己紹介して、探り探りの会話のスタート。

とはいっても、30~40代限定の企画なので、皆それなりに社会経験があり、社交辞令などはわきまえていて、上辺だけの探り合いを出来るぐらいのコミュニケーションは取れる。
『私は、婚活とかではなくて、日本酒が好きで知識を深めたいと思って来た』といった感じの分厚い鎧を着込み、踏み込みすぎない感じで腰の入らない牽制突きを繰り返すようなコミュニケーションでも、数分続けていれば徐々に慣れてくるもので、双方の努力の結果、それなりの会話が成立するようになってくるも、ここで司会の

『席替えターイム!!』
『え?? 何分でとか告知なしで? 会話が盛り上がり始めたこのタイミングで?』

次は、女性が今まで話していない人の席に移動するという事で、2人の女性が僕が座るテーブルにやってきました。
ここで、一人の女性が衝撃発言。
『わたし、盛り上げるために参加してるので、がんばります!』
よく見ると、受付でコートを預かってくれたスタッフの人で、婚活パートがスムーズに行く為に、サクラとして参加しているようです。

それにしても、サクラって、最初に自分で言っちゃうんだね。
まぁでも、ノリの良い人ですし、頑張って盛り上げると言ってくれてるんだから、婚活パートで成果が出るように盛り上げてくれるんでしょう!

少し期待して、盛り上げるために一生懸命に話すという彼女の話に耳を傾けていると…
室町時代に作られていた製法を再現している酒蔵があるんですよ!
 ビールは、エジプトとかそこら辺が発祥という節があって、京大では、ナイルの名前がついたビールをお土産用に販売してるんですよ!』
など、様々な酒に関する情報を、マシンガントークで話してくれる。

他にも、彼女は大学院に通っている学生らしく、同僚の研究生が、自分の専門分野のことをWikipediaに書いて情報発信しているなど、他には聞けない話をずっとしてくれる。
ところで、僕は何のイベントに参加したんだっけか…  婚活とは…

そうこうしている間に、終了の合図などは無し、スタッフが会場の片付けを始まる。
酒の歴史を語ってくれた彼女によると、会場自体が21時に閉まるようで… スタッフ達からそろそろ帰れオーラが伝わってくる。

一緒に同席していた女性が、『結構短いんですね…』とサクラの彼女に話しかけると、『だから皆、二次会行くんじゃないですか!』と言っていたが、誰かが先導する様子もない。
しかも場所的に、周囲には飲食店が無い。 出口の方を観ると、チラホラ帰っていく人が目立ち始める。
女性の人がサクラの人に『帰っていってる人も居ますが、これからどうしたら?』と聞くも、『どうしたら良いんでしょうかね。。』 と言い残し、スタッフの仕事の方に向かい始めたので、ここで私は帰りました。

出口付近では、日本酒の講義をしてくれた酒蔵の方が、参加者全員に梅酒を手渡しでプレゼントしてくれて、結果として、物凄くコスパの良い、日本酒の公開授業を楽しめました!

イベントを振り返って

少し茶化した感じで書いてしまいましたが、イベント自体は非常に良いものだったと思います。
参加費2000円で、日本酒を呑めて、酒蔵が独自開発をした酒粕を使った『おかき』も食べ放題で、帰る際には瓶詰めの梅酒もお土産でもらえたので、日本酒の勉強会としてのコスパは最高でした。
利き酒クイズを通して、テーブルの人とも和気あいあいと話せましたし、少しドキドキもさせてもらったので、これで文句を言う方が間違っているのかもしれません。

ただ、婚活イベントとしてはどうだったんだと思ってしまいました。
色んな人と交流してもらいたいと思い、席替えをさせたいという気持ちはわかるんですが、せめて、席替えアナウンス1分前に『1分後に席替えをしますので、連絡先交換をする方は、今のうちにしてくださいね。』のアナウンスが欲しかった。

私は、純粋な婚活イベントには参加経験が殆ど無いので、参加される方がどの様なスタンスで参加されてるかは分からないのですが、今回の様に、『日本酒セミナーも開きます!』という名目のイベントの場合は、『私は、婚活とか興味ないけれども、日本酒の知識が欲しいから来ただけだから。』と格好をつけることも出来るんです。
こういう場では、『どうしても出会いが欲しかったから来た!』とか宣言してしまうと、下手をするとドン引きされてしまう可能性すらあるわけです。

皆が仮面をつけて下心を隠した状態で、社交辞令で牽制しあってる状態なので、ここで積極的なアプローチをさせる為には、参加者たちに何らかの言い訳を与える必要があると思うんです。
その言い訳というのが、司会による、連絡先交換の誘導です。

この様な誘導があれば、『私は、日本酒に興味があったから来たんですよ。 出会いとかそんなんじゃないですから。 でも、司会がいうなら、とりあえず交換しときます?』という空気が出来るので、非常にスムーズに連絡先交換が行えると思うんですよ。
連絡先さえ交換してしまえば、イベント時間なんて問題ではありません。 だって、別の日に連絡をとって呑みに行くなり遊びに行くなりすれば良いだけなんですから。
生理的に嫌な人間から連絡が来ても、無視すれば良いだけですし、連絡して無視されたらあきらめも付くと思うんです。

でも、今回の様な流れだと、そもそも連絡先の交換自体が至難の業。
ここまで読んで『子供じゃないんだから、セッティングされただけでも、ありがたいと思えば?』という意見もあるでしょう。
しかし、私から言わせてもらえれば、異性との交流に置いては子供並みの知識と精神しか無いから、この年まで独り身なんじゃ!としか言いようがありません。

何のアシストもなく、ホイホイ連絡先を聞けるような性格をしているのなら、イベントに参加せずとも、とっくの昔に結婚しとるわい!と言いたい。

何度も書きますが、イベント自体は素晴らしかったんですよ。 あの値段で、こんなイベントを開くなんて、利益を追求していたら、とても出来ません。
運営していたスタッフも、講師としてきた酒蔵の方も、ほぼボランティアで参加してるんじゃないかって程に原価がかかっているイベントで、これで文句をいうとバチが当たるようなイベントだったんです。

だからこそ、惜しいと思うんです。。
席替えの1分前に、『連絡先を交換してくださいね。』と運営が強制するように促すだけで、このイベントで人間関係が広がった人って沢山出たと思うんですよね。

まぁ、何度も書きますが、ほぼボランティアのようなイベントで、苦情とも取れる事をいう方、がどうかしてるんですけれどもね。

会田誠氏の公開講義がセクハラだと訴えられた件について考えてみた

昨日の事ですが、Twitterを眺めていると、『会田誠さんの公開講義がセクハラで訴えられる』といった記事の紹介がタイムラインに上がってきました。
www.bengo4.com

この記事を呼んで、いろいろと思うところが有ったので、今回はこの事についての考えを書いていきます。

出来事の要約

事の発端は、原告の京都造形大出身で美術モデルをされている大原直美さんが、卒業後に京都造形芸術大の東京キャンパスで行われた、『芸術の永遠のテーマ『ヌード』を通して美術史を知る 人はなぜヌードを描くのか、見たいのか。』というテーマの公開講座を受講したところ、その内容にセクシャルな表現が含まれていて、精神的苦痛を受けたようです。
記事内で、問題がある講義を行ったとして名前が出ているのは、会田誠さんと鷹野隆大さんの二人。

原告の大原直美さんは、全5回講座の第3回の時点で会田誠さんの講義で精神的苦痛を受け、動悸や吐き気、不眠の症状がつづき、急性ストレス障害の診断を受け、大学側に苦情を入れたようです。
しかしその後、第五回の講義にも参加して、また不快な物を見せられた為に、堪忍袋の緒が切れてしまったようです。

当然のように大学側に講義をし、大学側はセクハラを認めて示談になると思いきや、大学側が、『もう貴方とは関わり合いになりたくないから、一切の関係を切りたい。 また、今回の件は公にしないように。すれば名誉毀損だから』と言い出した事で腹を立て、今回の訴えに発展したようです。
具体的な訴えの内容を、先程のリンクから一部を引用しますと
代理人の宮腰直子弁護士は「大学は、セクハラ禁止のガイドラインをもうけており、公開講座を運営するにあたっても、セクハラ対策をすべきだった。作家の作品の是非や、セクハラ言動そのものでなく、そうした環境を作り出したことに問題があった」
とのことです。

ちなみにですが、公開講座の受付ページはこちらになっています。
air-u.kyoto-art.ac.jp

会田誠が参加する部分の内容の紹介文として、『たぶん芸術と対立概念になりがちなポルノの話や、第二次性徴期の話、フェミニズムの話なども避けては通れないでしょうね。』と、そして、第5回のテーマの紹介文には『ヌード表現とセクシュアリティの関係を歴史を振り返りながら再考します。』と書かれています。
原告の大原さんは、この部分の説明文を読まずに参加したか、もしくは、読んだけれども、内容がそれ以上だった為に精神的ショックを受けたのでしょう。

ネットの意見

この話題が出だした当初に私がTwitterで検索した限りでのネットの反応としては、『ヌードがテーマで会田誠さんが講師なら、そんな内容になるよね? 事前に調べてなかったの?』という意見が8割ぐらいの印象です。
私自身は会田誠さんの事を知っていて、画集も持っているので、最初に印象を抱いたのもこれ。わざわざ大学の公開講義を探し出してきて応募する人が、それに携わる講師も検索しないのかというのか?と疑問に思いました。

この他には、少ないながらも、『会田誠さんは誰でも知ってるような人物じゃない。』といった感じで、会田誠さんを知ってる前提で議論している人たちに対して『マウントをとっている』と避難している人達。
この主張も分からなくはありません。 私は、美大出身でも何でも無い高卒ですが、少し美術に興味が有って、美術系の手例番組を観る習慣が有ったので知ってましたが、知らない人も大勢いるとは思います。
原告の方は京都造形大学出身で美術モデルをされている方のようですが、絵画とかインスタレーションには全く興味がなく、会田誠さんを知らなかったという可能性もあるでしょう。

しかしその後、記事をもう一度読み込んで疑問に思ったのは、第3回で精神的ショックを受けて大学側にクレーム入れた人が、その1ヶ月後に開かれた第5回の講義に参加し、全く同じ被害を訴えている点です。
何をもって普通というかは置いていて、自分が受け入れられない強烈なショックを受けたテーマの講義を、もう一度受けようと思う場合、次は失敗しないように講師を検索すると思うんですよ。
その講師がどんな人となりで、どんな思想を持っていて、作品を発表しているのかを調べる時間は十分あったと思うんです。 というか、有名講師を呼んでの公開講義は、まず講師がどんな人物か知ってる人が行くもんだと思うんですが、テーマに惹かれて参加しただけの人でも、1回失敗したら、次は慎重になるはずですよね。

それもせずに参加して、またセクハラ被害を訴えているのが疑問です。

ネットの意見の中には、『講義内容が自分に合わなければ、退出すれば良いじゃないか。』といった意見も有りましたが、私自身が気が弱いので、『合わないから出る。』といった選択肢が取れない人の気持ちは理解できます。
でも、私のような弱い人間は、自分の判断で退出できない気の弱さが有るからこそ、自衛の為にも、同じ失敗は繰り返さないように気をつけます。
それをしていない部分については、ちょっと理解が出来ないです。

自分がクレームを入れたんだから、次は講義内容が修正されるはずと思ったのでしょうか。
でも、それってどうなんでしょう。 表現の自由を突き詰める美大で、クレームが有ったから表現を変えますって事をするのでしょうか。

名前を出された会田誠さんは、『表現の不自由』というテーマで自身の考えを発表していますが、クレーム対応で表現を変えるというのは、その考えと対立する考えのように思えます。

施設はどこまで告知するのか

今回の事ですが、会田誠さんの名前とセクハラという言葉が全面的に出てはいますが、訴えの内容としては、芸術家の表現を規制しろと主張しているわけではなく、大学側の対応が悪いという主張です。
表現の自由には口を出さないが、今回の原告の様な被害者を出さない為の対策が足りないと主張しているわけで、つまりは、ひと目で講義内容が分かるように注意喚起すべきだという主張なのでしょう。

でも、告知ってどこまですれば良いのでしょうかね。
今回の公開講義も、第3回と第5回のテーマは、アートとエロスの境界線を探るという事で、セクシャルな表現を話すと告知されていますが、それでは足らないという事なのでしょうか。
ということは、講師の方にはフリートーク的な講義は止めてもらって、話す内容を1度原稿に起こして、どんなセクシャルな表現をするのかを細かく書かなければならないという事になります。

でもこれって、公開講義だけの話で収まるんでしょうかね。
例えば映画の場合、自分が想像していた話ではなかったり、不快な映像が流れる場合もありますが、その場合に備えて、映画館は注意書きを書いて、同意した人だけ観られるような体勢を整えないと駄目なんでしょうかね。
例えば、『この作品には、キスシーンがあります。』『この作品には、直接的な性の描写があります。』『この作品には、男女の性交を匂わせる表現があります。』『この作品には、直接的な性描写はありませんが、男女がダンスを踊ることによって、性描写を表現しています。』といった事を全部明記した上、同意した人のみ入れるようにするべききなのでしょうか。

仮に、こんな事をすれば、ネタバレ警察が殴り込んでくることでしょう。

そもそも美とは何なのか

原告の方は、アートに美しさだけを求めている為に、それ以外の表現が受け入れられないのかもしれません。
美しい裸体を美しく描くことが美術だというのは、文章で書くと簡単なことですが、では、『美』とは何なのでしょうか?

美しいヌードとは、顔のパーツの配置のされ方が絶妙で、プロポーションが最高な人を最高の技術で描く事が、『究極の美』なのでしょうか?
そもそも、何を持って美しい。美のイデアとはどんなものなのかといった事は、二千年以上考えられてきたのに答えが出て無いものです。

現状で美しいとされている人を美しく描いたところで、そこに普遍的な美のイデアが確実に宿るとはいえません。 逆に、美しくないとされているプロポーションをしている人を描いたとしても、そこに美が宿る場合もあります。
美とは造形美なのか、演出できるものなのか、本能的なエロスを含むものなのか。それとも、それを超越した何かなのか。
芸術家と呼ばれる人は、美のイデアが何に宿るのかを追求するのが使命だったりします。

その為には、余計なものをドンドンと削除していき、最終的に根本的なものだけを残そうとするミニマル的なアプローチも有るでしょうし、逆に、美しいとされているものに対して、残虐性や痛さといった要素を付け加えていき、どこまでが美しいと言えるのかといった挑戦方法もあるでしょう。
いろんなアプローチで美に関する作品を生み出し、それを一般公開する事で社会の反応を感じ、普遍的な美を解明しようというのが美術の役割ともいえます。
当然のことながら、この様な作業の大きな障害となるのが、表現規制です。 表現が規制されてしまえば、普遍的な美に対する追求の手を緩めざるをえません。
その為、一部の人達は表現規制と戦いながら、ギリギリのラインを攻めていくわけです。

つまり、『美しいものを美しく書くだけで良い。』と言葉では簡単に書けますが、それを実行する為には普遍的な美を追求しなければならず、普遍的な美を追求する為には、エロ・グロ・ナンセンスというものも手法として使われる。
今回行われた公開講座には私は参加していない為、講義内容は想像することしか出来ませんが、美とエロ・グロ・ナンセンスの関わり合い方などを考えていくような内容だったのではないでしょうか。

講師の方々は、普遍的な美のイデアが分からないが為に、社会実験的に様々な作品を生み出しては社会の評価にさらしてきて、今尚、美について考えているのでしょう。
その思考方法が受け入れられないというのは人それぞれなので、悪い事とも良い事ともいえませんが、アプローチそのものを否定するというのはどうなんだろうとは思ってしまいます。

大学側の対応

今回の争点となっているのは、芸術家の活動云々ではなく、大学側の対応のようです。
公開講義の内容について抗議したところ、大学側はセクハラを認め、示談になる直前までいったそうなのですが、その際に大学側が、『今回の件を公表しないこと。』と『二度と大学側にかかわらない事。』を条件として出した事が原因で、訴えに発展したようです。

原告側だけの主張で、双方の意見がわからない為に、想像でしか書くことは出来ませんが、個人的には大学側の言っている点も理解できます。
というのも、原告の方は、今回の件を公表しないことの理由として、有名人を保護する為に生徒を切り捨てたと主張していますが、本当にそうなのでしょうか。

例えば、真面目な紳士キャラで売っている作家がセクハラをし、それを口止めした場合は、イメージが崩れる事を恐れて口止めと言われても仕方のないことかもしれません。
しかし会田誠さんは、過去の自分のエロ・グロ・ナンセンスな作品を通して、自分のキャラを公開しています。
Twitterの反応も、『あの有名な芸術家の会田誠さんが、セクハラしたなんて!!!』といった反応は、私が検索した範囲では見つけられませんでした。

主な反応といえば、『会田誠さんを呼んでヌードを語ったら、そんな内容になる事は想像できるよね。』といった反応ばかり。
今回のことが公になったことで、会田誠さんがダメージを受けたのかというと、全くといって良いほど受けてはおらず、逆にTwitterで多くの人がつぶやいた事により、今まで会田誠さんを知らなかった人間に知ってもらえた為、利益のほうが大きい。
大学側が原告の言う通り、有名人を守る為に口止めをしたとは考えにくいです。

では何故、大学側は口止めをしたのでしょうか。
これは、情報不足の為に憶測になりますが、仮に、この示談で示談金が支払われる予定だった場合。 この事が公になると、二匹目のドジョウを狙って他の人間が示談金目当てに公開講義に殺到するなんて事も考えられます。
大学側としては、そのような事が起こると困る為に、示談にするなら、事を大きくしないようにしたかったとも考えられます。

『二度と大学側にかかわらない事。』という条件をつけたのも、個人的には理解できます。
私が仮に飲食店を経営はじめたとして、その店の客が『この料理は口に合わない!』とクレームをつけてきたとしましょう。
こちらが必死に謝って、何とかその日はやり過ごし、一安心していたところ、翌日、またその客がやってきて、全く同じ料理を注文し、『この料理は口に合わないぞ! 前に言ったよね?』とクレームを付けてきたとしたら?

私なら、『うちの料理はこの味なんです。合わないというのなら、料理の料金はいらないから二度と来ないでくれますか?』と言ってしまうでしょう。正直、関わり合いになりたくないですし、その為に時間を割きたいとも思いません。

やり取りが詳しくは公開されていませんし、これは私の想像でしかありませんので、実際には大学側が想像を絶するほど高圧的な態度をとってきた可能性も否定はできません。
ただ、既に公開されている情報だけを読み込むと、この様に感じてしまいました。

まぁ、セクハラというのは、本人の主観的なものなので、原告の方がどれ程のショックを受けたのかを私達が完璧に理解することは出来ません。
当然のように、他人が『大した事がない。』と決めつけられるようなものでも無いでしょう。
なので、この訴えをもって『大袈裟だ!』なんて事は言えません。

結果は見守ることしか出来ませんが、これを機に、表現規制が強化されたり、必要以上のゾーニングやネタバレ強制なんて事になると、住みにくい世の中になりそうだなとは思いました。

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その2

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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Podcastはこちら

徳は教えられるもの

前回の投稿はこちら
kimniy8.hatenablog.com

プロタゴラスの主張としては、徳とは他人に教えられるものというものだったが、ソクラテスは、徳が教えられるものであるなら、徳が高い人間の子供は徳が高いはずだが、現実を見るとそうとは限らないといって、その主張に反対する。
この主張に対してプロタゴラスは、『才能』の有無で説明をしだす。

プロタゴラスの主張では、全ての人間は徳を備えているとのことだったけれども、完全に平等に備えているのかといえば、そうとは言えないと主張します。
ゼウスは、人類に対して徳を授ける時に、全ての人に行き渡るように配分をした為に、人類は徳の核のようなものは平等に授かったけれども、それを応用発展させる力そのものは、個人の才能によるという事です。

例えば、運動神経の良い人は、スポーツのコーチから同じ様に指導を受けたとしても、才能のない人に比べて上達も早く、トレーニングを積み重ねることで、常人には追いつけないような場所にまで到達することが出来ます。
これは学問などの知識の分野でも同じで、同じ様に授業を受けているのに、僅かなヒントで問題を解く方法を思いついて発展させていく人もいれば、落ちこぼれる人もいます。
徳も同じで、全ての人が徳という概念や核の様なものを持ってはいるけれども、才能がない人間は、徳を伸ばすことが出来ないという事です。

共同体を作る人間にとっては、徳が高い人達が増えれば増える程に、その共同体は住みやすくなるわけなので、全ての人間は他人に徳を教えようとするが、才能がない人間は、それを吸収することも発展させることも出来ないということ。
では、才能のない人間は諦めるしか無いのかというと、そうではなく、才能がなければ無いなりに、徳を学習する方法はあると主張します。
この徳の学習方法というのが、前回にも書いた、習いたくない分野は習わせず、興味のある分野だけに特化して学習するという勉強方法なのでしょう。

このプロタゴラスの主張は、それなりに納得できるものがあります。
というのも、どんな分野であれ、極める為には他の知識が必要になってくる為、結局の所、総合的な勉強をしなければならないからです。

教える才能がない教師は、『将来必要になるから!』という漠然とした言葉で、算数嫌いの人間に無理やり算数ドリルをやらせたりするわけですが、本人が興味がない状態で勉強をさせたとしても、それは身につきません。
しかし、その人物が建築に興味を持ち、大工に弟子入りした場合はどうでしょう。 最初こそ、道具の手入れの仕方や材料の加工の仕方などの勉強しかしませんが、建築全般に興味を持ち、建築士を目指すようになると、建物の耐久性を計算する為にも数学に興味をもつことになるでしょう。
建築は建物の外観も重要ですから、デザインにも興味が湧くでしょうし、歴史的建造物のデザインの背景を探るためには、歴史も勉強しなければならないでしょう。

勉強をする目的がはっきりする事で、学問に対する捉え方が変わります。
これは徳も同じで、共同体のあり方などを勉強していくと、自分ひとりのワガママを通すことが、結果的に自分の損失につながる事が理解できるようにもなるかもしれません。
能力を伸ばす力は才能に依存しているため、全ての人間が同じ様に徳を高めることが出来ないですが、才能がないからといっても全く身につかないわけではなく、才能が無いなら無いなりに身に着けることは出来るというのが、即れてすの反論に対しる返しとなります。

徳とは何なのか

プロタゴラスの主張によると、徳とは教えられるものという事らしいですが、では、その徳の本質とは何なのでしょうか。 プロタゴラスは、何を教えるのでしょうか。
彼に言わせれば、それは『正義』『節制』『敬虔(けいけん)深く敬って態度を慎む様』からなるものだそうです。
人間が持つ徳とは、人間が共同生活を円滑に送るためにゼウスが人間に授けたもので、それを達成するのに必要不可欠なのが、この3つというわけです。

確かに、正義がなければ秩序が保てませんし、皆が欲しいだけ欲しいと欲望を丸出しにすれば、これまた社会は保てません。
皆が、この共同体の中では自分が一番だと思って行動すれば、色々な軋轢が生まれるでしょうから、安定した社会を保つためにも、この3つは必須と言えるかもしれません。

ですが、ここで問題が出てくるのが、徳とは、その3つが揃ったときなのか、それとも、その3つそれぞれが徳というものなのかという事です。
それぞれが徳というものであるなら、徳という一つのものが、『正義』『節制』『敬虔』という3つのものに分裂したことになります。
3つ揃った時とするならば、では、その1つが欠けた行動。例えば、正義も節制も備えているけれども、敬虔だけが抜けた行動を取った場合、その行動は徳とは言えないのかという疑問です。

プロタゴラスの主張としては、徳というのは1つのものであるけれども、様々な側面を持っている。例えば、サイコロというのは1つのものだけれども、サイコロには6つの面が存在するということです。
正義・節制・敬虔などは、徳が持つその1面であって、それぞれが徳そのものというわけではないという事。
では、正義・節制・敬虔の中の1つのものを手に入れれば、他の全てのものが手に入るのかというと、これはそうでもないらしいです。勇気を持っていても、知恵が無いものも存在するからです。

ここで、新たに『勇気』と『知恵』というものも、徳の側面の1つだと追加されてしまいました。
徳という、ただ1つのものの正体を聞いただけなのに、その正体はドンドン増えていきますし、また、それらが正体なのかというと厳密にはそうではなく、それらはただの側面でしか無いという状態になってしまいました。

ソクラテスが、何故、このような質問を投げかけたのかというと、日常での徳の使われ方とのギャップを感じたからでしょう。
現実世界では、正義に則った行動をすれば、徳の高い行動だという事で他人から尊敬をされます。 その他にも、美しいふるまいをすれば、同じ様に尊敬や憧れを獲得することが出来るでしょう。
節制や慎み深さも同じで、それぞれ単独の徳目が宿った行動をしただけでも、徳の高い行為として尊敬や憧れを得ることが出来ました。

つまり、日常的な使われ方としては、『正義』『節制』『敬虔』それに、『正義』や『誠実』が単独で宿った行動は、全て徳が高い行為だと認識されているという現状が有りました。
その為、これらそれぞれが単独で徳と呼ばれる存在なのか、それとも、全て揃わなければ徳とは言わないのかという疑問が出てきたのでしょう。
また、それぞれが徳で有るなら、三段論法によって、正義や節制などの徳目は、全て同じものということになり、1つを手に入れる事で全てを手に入れる事も、理論上は可能になります。

これに対してプロタゴラスは、正義や節制などは、同じものでは無く、徳の1面に過ぎないと主張します。
同じものではない上に、徳という1つのものの1面とはどういう事なのでしょうか。
先程は、分かりやすくサイコロに例えましたが、サイコロの目が無い、ただの六面体で考えた場合、それぞれの面に違いはなく、側面や上面の様に見方が変わるだけ、本質的には同じものです。

しかし、プロタゴラスの主張によると、それぞれの徳目は同じものでは無く、徳の部分を表すものだと答える。
この説明を聞いたソクラテスは、『徳とは、目や口や鼻といった、それぞれ別の働きをする器官がついている、顔のような存在なのですか?』と質問をすると、プロタゴラスは、これに同意する。

徳とは性質の違う徳目で構成されるものなのか

先程の話をまとめると、徳というのは、正義・節制… といった感じで、複数の徳目によって構成されていて、その徳目は、同じ性質を持つものではなく、全く違った声質を持つものだということになりました。
しかし、果たしてこれは正しいのでしょうか。

例えば、正義という言葉は正しいという言葉が入っている為、意味合いとしては正しい行動という性質を持っています。 では、他の徳目は、正しいという性質を備えていないのでしょうか。
節制は正しくないことなのでしょうか。 勇気ある行動とは、正しい行動とは言えないのでしょうか。
一般的な感覚としては、勇気には正義が伴っていなければならないでしょう。 例えば、『自分の利益の為に勇気を出して弱者から搾取するという』という行動には、違和感を感じてしまいます。

その他の徳目も同じで、悪いことに知恵が使われれば悪知恵となり、他人を貶める悪い行動となってしまいます。 知恵は正しいことに使われなければ、徳とは言えないでしょう。
つまり、これらの徳目というものは、それぞれ単独で存在しているものではなく、相互に関係し合って切り離せないような関係にあるわけです。 それぞれの徳目の中には、他の徳目が内包されている状態で、全く違ったものではなく、限りなく近いものだということが分かります。

これは、先程のプロタゴラスの主張とは異なります。
というもの彼は、それぞれの徳目は違った性質を持つものだと主張していたからです。 ソクラテスが、徳における徳目とは、1つのものの六面体のように、基本的には同じだけれども、見方を買えているだけなのかというと、それを否定し、プロタゴラスは顔のようなものだと答えました。
目や口や耳といった、全く別の働きを持つ器官で構成されていると主張していたのですが、先程の考察によると、それぞれの徳目は他の徳目の特徴を内包している、かなり似通ったものだという事になってしまいました。

この主張を聞いたプロタゴラスは、『正義と敬虔には似ている部分や共通する部分があるけれども、だからといって同じというわけではない。 でも、ソクラテスがそう思いたいんであれば、それで良いよ。』と諦めムードに入ります。
しかし、ソクラテスは妥協を許さない男なので、そんな忖度は許しません。 ソクラテスの主張に対して納得がいかない部分があるなら、納得はせずに十分に吟味をして欲しいと要求します。

これに対してプロタゴラスは、『全く違うもの』とされているものであっても、共通点を探そうと思えば探せることを指摘します。
例えば、黒と白は正反対の色のように思えますが、色という点では共通していますし、互いに色という枠組みの中に入っています。 黒が色だからといって、その真逆に位置する正反対の白は色ではないとは言えないわけです。
硬いものと柔らかいものは正反対だが、互いに触った際に感触が有るものという点では共通している。 これと同じ様に、正義と敬虔は、全く違うものでは有るけれども、その中に共通点が全く無いかと言われれば、そんな事は無いと答えるしかないだろうと答えます。

これを聞いたソクラテスは、『正義と敬虔には、その程度の差しかないのですか?』と驚いた様子で質問仕返すも、プロタゴラスのやる気が削がれている状態なので、この議論を辞めてテーマを移すことにします。

この部分のパートは、ソクラテスが議論に勝つ為に詭弁を使って相手を陥れているようにも捉えられますが、実際にはそういう事ではないのでしょう。
プロタゴラスが、議論にやる気を無くし、『君がそう思いたいんであれば、そうなんじゃない? 君の頭の中ではね。』といった投げやりな態度をとった際にも、自分の発言で疑問に思う点が有るなら指摘して欲しいと懇願しています。
ソクラテスが議論において目指している事は、議論に置いて相手を打ち負かすことではなく、真実に到達する事です。 この目的を果たす為に必要なのは、自分が正しいと思いこんでいる考えを、それ以上の正しい指摘によって打ち砕いてもらうというのを延々と繰り返していくしかありません。

ソクラテスは、プロタゴラスの主張に対して疑問に思った点について質問をぶつけたので、プロタゴラスに対しても同じ様に、自分の主張に間違った点があれば指摘して欲しいと主張しているわけです。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考文献

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その1

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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プロタゴラス

この作品は、ギリシャ内でもかなり有名な賢者であるプロタゴラスが、ソクラテスが住むアテナイに訪れ、それをソクラテスの友人が知るところから始まる。
ソクラテスの友人であり、裕福な家庭に育ったヒッポクラテスは野心溢れる若者で、プロタゴラスが教えているというアレテー(徳・卓越性)を知りたいと思い、授業料をかき集めてプロタゴラスに会いに行こうとする。
その行為に対してソクラテスは、『そこまでの高額な授業料を用意してでも教えて欲しいと思うのは、一体、どんな技術や知識なのか?』と訪ねるも、なかなか要領を得ない。

そこでソクラテスは、質問を軽くするために複数の例を出して聴いてみることにする。
医者に教えを頼む場合は、将来医師になるために医学生になるんだよね? 大工に弟子入りする場合は、大工の技術を身に着けて、いずれは棟梁になるわけだ。
ウメハラに弟子入りする場合は、ストⅡの立ち回りを勉強する為に弟子入りするんだろう? じゃぁ、ソフィストに教えを請う場合には、将来、何になりたいと思って弟子入りするのかな?

これに対してヒッポクラテスは、『これまでの話からすると、ソフィストということになるんだろうね。』とフワフワした返答をする。
ソクラテスは、『じゃぁ、ソフィストが何をする職業か知ってるの?』と聞いてみるも、ヒッポクラテスは上手く答えられない。

ソクラテスヒッポクラテスが心配になったからか、それとも、プロタゴラス自身に興味が湧いたのか。一緒について行って、彼が教えるアレテーが何なのかを見極めようとするところから、物語は始まります。
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ソフィストとは情報商材詐欺なのか?

世の中には、この様な出来事って身近に存在しますよね。
この物語でプロタゴラスが教えると主張しているのは、アレテーと呼ばれる『徳』とか『卓越性』と呼ばれるもので、それを手に入れることによって、他人よりも優れた存在になれると信じられてきたものですが…
これは、『教えるもの』を別のものに変えると、現代でも十分に有り得る話です。

例えば、不動産投資や自己啓発などのセミナーや、オンラインサロン。ネットワークビジネスなどにテーマを変えれば、多くの割合の人が、『自身や友達が勧誘されたり興味を持った』なんて事は、1度は経験したことが有るのではないでしょうか。
ここに挙げたテーマに共通する事は、『楽して金持ちになる方法』なのですが、そんな物が存在するのであれば、何故、彼らは大掛かりな手間を掛けてセミナーを開いたり、自分の自由な時間を潰してサロンを開くのでしょうか。
答えは簡単で、そうする事で、セミナーに参加しに来た人達ではなく、主催者である彼ら自身が儲けることが出来るからです。

身近な人間が、この様なセミナーやサロンや勉強会に参加すると言い出したら、誰でも心配になって、興奮している友達を冷静にしようと思うのではないでしょうか。
ソクラテスも同じ様に、友達のヒッポクラテスを冷静にするために、『プロタゴラスに会って、何を教えてもらいたいのか』を問いただします。

例えば、家を建てる勉強をしたいと思う人間であれば、建築学校に通うとか、大工の元で修業をすると行った方法で、知識や技術を習得することが可能です。
これは他のことにも当てはまり、絵を書きたいと思うのであれば、絵画教室に通ったり、既に技術がある人の絵を模写して真似するといった行為によって、思い通りの技術を身に着けることが出来ます。
しかし、『それ』を勉強することによって、他の人間よりも卓越した優れた人間になれる『アレテー』という存在は、定義自体が漠然としすぎていますし、どんな勉強をしたり行動を起こせば、技術や知識が身につくのかも意味不明です。

また、漠然と『良い人になる』方法が、言葉や行動によって伝達可能なのかも分かりません。
ソクラテスは、冷静になって考えさせる為に質問を投げかけた上で、自分の一緒について行って、その正体を確かめると言い出します。

ちなみにですが、先程は不動産投資や自己啓発やオンラインサロンといった、胡散臭い例を挙げて例えてしまったプロタゴラスさんですが、この人物は、アテナイの将軍で代表的な立場であるペリクレスと知り合いで、彼から、憲法の草案を考えて欲しいと依頼を受けるほどの人物です。
また、『万物の尺度は人間である。』といった言葉を残し、この世に相対主義という考え方を確立させた人物でもあります。

プロタゴラスとの邂逅

プロタゴラスと対面したソクラテスは、さっそく、『徳とは何なのでしょうか。 あなたは、それを教えることが出来ると主張していますが、そもそも、他人に教えられるような知識なのでしょうか?』と質問をぶつけます。
これに対してプロタゴラスは、『自己啓発セミナーに参加されたお客様の声』の様な感じで、『自分から教えを受けた人間は、皆、私の元に来る前よりも成長して帰っていくし、感謝もされてるよ。』と返します。
そして、『もし、私が教えたことに納得がいかないのであれば、お金を払わなくて良いし、いつでも私の元から去っても良いです。』とクーリングオフの説明までします。

常人であれば納得してしまいそうな返答ですが、ソクラテスは、これに対して鋭い切り返しをします。
『例えば、貴方が笛の吹き方を教える教師だったとして、貴方の元へ笛を吹けない客が訪れたとする。 貴方は彼を指導して、笛を吹けるようになった場合、彼は、笛をふけるという点に置いて、貴方の元を訪れる前よりも優れた人間になったと言える。
これは、全ての事に当てはまってしまう。 計算ができない人間に足し算を教えて、九九を覚えさせれば、その人物は、それを学習する前よりも優れた人間になったと言える。
あなたの授業を受けなかったとしても、人が日々勉強を重ねさえすれば、勉強をしていなかった頃と比べて優れた人間になるのではないでしょうか?』

この質問を言い換えるなら、『具体的には何を教えているのですか?』と聴いているのと同じです。
大工に対してこの質問をするなら、『家の部品の加工の仕方と組み立て方。』と答えるでしょうし、音楽家に質問をするなら、『楽器の演奏の仕方。』と答えるでしょう。

これに対してプロタゴラスは『良い質問ですねぇ!』と言い、持論を展開する。
『私の元に駆け込んでくる人の多くが、自分がやりたくない学問から逃げてきたような人達だ。
しかし、他のソフィスト達は、そんな人に対して『数学を勉強しろ!音楽もだ!体育も出来るようになっておきなさい!』と、本人が欲しいと思わないものまで詰め込み教育をしようとする。
だが私はそんな事はしない。 私は、本人が学びたいことだけを学ばせる。 私の元で学ぶことで、身近な話だと家庭内がうまくいくし、政治に関していえば、権力者の右腕になることだって出来る。』

これを聴いたソクラテスは、自信なさげに、『つまりまとめると、生徒を『優れた人間』にするということですか?』と聞き返すと、プロタゴラスは調子よく『そうだ!』と応える。

これまでをまとめると、プロタゴラスは本人が望む知識を惜しみなく与える一方で、嫌な授業は行わず、その結果として、何事も上手く行うことが出来るような『優れた人間』を作れると主張している。
しかも、本人が学んだ上で『自分には合わないな。』とか『この内容でこの授業料は高いな。。』と思えば、申し出ればいつでも自分が納得した金額だけを支払って弟子を止めることが出来る。
金を払う価値もないと思えば、何も払わずに帰ってもよいというクーリングオフ制度付きという、非常にお得な内容となってはいるが、『優れた人間』になる為には何を勉強すればよいのかといった具体的な事は、何一つ教えてはくれないという状態。

アレテーとは教えることが出来ない?

ソクラテスは、それを知ることで『優れた人間』になれるような知識のようなモノは存在するのか?という疑問が解決しないので、質問を続ける。
というのもソクラテスは、人を優れたものにすると言われているアレテー(徳や卓越性と約されることが多い、日本語には直訳がない表現)を研究しまくった結果、それが分からない。つまりは、教えることが出来るような存在ではないと思っていたからです。
ソクラテスプロタゴラスにその事を告げ、その理由を主張します。

先程も書きましたが、知識や技術を他人に伝えることは可能です。
画家は、テクニックや知識を他人に教えることで、絵の上達を助けることが出来ますし、数学の教師は、その知識を授業によって伝え、自身で考えて発展できるようにさせることが出来ます。
大工のような職人も、その他の学問も、知識や技能を伝達する事で弟子にその知識を伝えることが可能です。

しかし、アレテーというものは、他人に伝達が可能なのでしょうか。 仮に、アレテーと呼べれるものが伝達も学習も出来るようなものなのであれば、徳が高いと言われている人間力の高い優れた人の子供は、親からアレテーを教えてもらっているはずということになる。
つまり、善人でカリスマ性が有り、人々を先導できるような優秀な人の子孫というのは、その優秀な親からレクチャーを受けているので、同じ様に善人でカリスマ性が有ってリーダーの素質を備えた人間ということになります。
しかし実際にどうかというと、親は優れていて立派な人間であったとしても、その子供がクズという事は、結構あることで珍しいことではありません。

その一方で、鳶が鷹を生むといった具合に、両親がクズなのに、その子供が優秀な人物であるといった事もありえます。 その子供は、おそらくですが、両親からはアレテーと呼ばれるものは教えられてはいないはずです。
何故なら、両親が子供に教えるべきアレテーを備えているのであれば、その両親がクズという事はなく、他の親と比べて卓越した親になっているはずだからです。

この他には、政治の議論をする際のケースで考えると、公共事業で大きな建物を建てる場合は、建築の専門家を議会や予算会議に呼んで、参考意見を聴くといったことをします。
仮に音楽祭のようなものを開く場合には、音楽家や、そういった興行を生業としている人間に、どれぐらいの規模の予算がかかるのかや、実施する際の注意点を聴くのは当たり前のことです。
そういった人間を排除して、何も知らない政治家だけで議論を行った場合、正しい成果が得られず、こんな失敗をした政治家は、『何故専門家に意見を求めなかったの?』と非難されるでしょう。

政府には、専門家から話を聞いて学習し、政策や予算案に活かすという選択肢が有るわけですが、それを怠ったとすれば、不満が爆発するのは確実です。

しかし、これが国家のより良い将来であるだとか。人の上に立つべき優秀なリーダーを育成するといった、漠然とした『良い』事を目指す為の話であれば、そういった専門家を招かなかったとしても、文句は出ないでしょう。
何故、文句が出ないのかというと、市民の多くが、『良い』事へ導く為の専門家などは居ないと思い込んでいるからです。

徳とは教えられる

このソクラテスの主張に対してプロタゴラスは、『アレテー(徳)とは教えられるものだ』と主張します。
この主張は当然といえば当然で、仮にソクラテスの言う通りにアレテーというものが、他人には教えることが出来ないようなものであった場合は、プロタゴラス本来なら教えることが出来ないような事を、教えるといって生徒と金を集めている嘘つきになってしまいます。
プロタゴラスの職業はソフィストで、ソフィストとは『アレテーの教師』なのですから、教えられるものでなければ困ってしまいます。

プロタゴラスは、プロメテウスの神話になぞらえて、『全ての人は徳を備えている。』と主張します。
プロメテウスの神話とは、何の特別な能力も持たない人間に対してゼウスが憐れみを抱いて、神から卓越した力を与えられた獣や自然災害から身を守る為、皆で集まって共同生活が出来るように、慎みや節度といった徳目を与えたという神話です。
ゼウスが人間に徳目を授ける際に、特定の人物にだけ授けたのではなく、全人類に平等に授けたとされているので、全ての人間は徳、つまりはアレテーを持って生まれているという話です。

神話という説明では、馴染みの薄い人間では理解が出来ないからか、プロタゴラスは具体的な例もあげます。
全ての人間がアレテー(以下、徳で統一)を持つ理由としては、徳に反した行動を取る場合に、人々は怒るという反応をみせるからです。

例えば、皆で共同生活を送る場合に、皆の迷惑になるけれども自分の欲望を満たしたいという行動は制限されなくてはなりません。
仮に、自分の欲望を優先した結果、他人から物を盗んだり騙し取ったりした場合、それが発覚した際には人々は怒ったり気分を害したりします。
この『怒る基準』は、誰かから教えられたわけでもなく、有る一定以上の迷惑に対しては誰だって怒ります。何故、怒るのかというと、徳というのは勉強すれば誰にでも身に着けられる行為なのに、しないというのは本人の努力不足だからです。

本人の努力不足、つまりは、その人間が怠けていたから、やって良い事と悪い事の区別がつかない。
もしこれが仮に、努力ではどうにもならないようなことであれば、人々は怒りで反応するのではなく、哀れみなどで反応するはずです。

例えば、生まれながらに体の不自由な人間が、それが原因で他人に迷惑をかけてしまった場合、それを怒るような人間はおらず、その人物に対して哀れみの感情を抱くはず。
仮に体の欠損によって人にぶつかったとして、それを『本人の努力不足』として目くじら立てて怒るような事はしないでしょう。

また、怒るという反応は、悪いことをした際に、それ相応の罰を与えるべきだという感情でもあります。
何故、罰を与えるのが必要なのかというと、犯罪を犯したものに『それは悪い事だ』と教育し、二度と同じ過ちを犯さないようにする為です。
どのような罰を与えたとしても、善悪の区別がつかないとするのなら、税金を使って牢屋に入れるといった行為は無駄になってしまう。 学習するという前提で、鞭打ちや罰金などの罰を与えたり投獄するといった行動を犯罪者にさせるのだ。

以上が、プロタゴラスの主張です。

一見すると、筋の通った話のように思えるプロタゴラスの主張ですが、深く考えると、よくわからない点が複数出てくる事に気が付きます。
というのも、全ての人間に徳が備わっているのであれば、そもそも、悪い人間というのは存在しないことになります。 仮に存在する場合は、悪い事と知りつつ敢えて行っているという事になる。
悪いことと知りつつ、敢えて悪い事を行っている人間に対して、何らかの罰を与えて『これは悪いことなのですよ。』と改めて教える行為に意味はあるのんでしょうか。

また、人が他人に対して怒りをあらわにするのは、徳に反した行為をしたときではなく、単純に自分に不利益が起こる場合とも考えられます。
例えば、東京の南青山に児童相談所が建てられるといった際に、住民は怒りを全面に出して反対運動を行いました。
東京にある既存の施設では対応が出来ないということで、東京内に施設を作るというのは悪徳な判断では無く、当然とも言える判断ですが、それに対して住民が怒りをあらわにしたのは、それが徳に反した行為だからではなく、その施設が経つことで地域の土地の価格が下がる可能性が有り、自分の損失につながるからです。

別の例で言えば、町中で大声で喚いている人をたまに見かけます。
例えば、不良であったり反社会勢力の人達は、事ある毎に大声をあげているイメージがありますが、彼らは徳が高く、他の人よりも細かい部分で善悪が分かる為に、他の人間よりも頻繁に起こっているのでしょうか。
パワハラ上司は、他の人間よりも卓越しているが故に、少しのミスが目について怒ってしまうのでしょうか。それとも、怒る事で自分自身に何らかのメリットが有るからでしょうか。

一方で、徳を備えたカリスマ性が高い人間は、余程の事でも無い限り、怒る事はありません。 共同体の利害に反した事を目撃した場合も、冷静に注意するでしょう。
私は日本から出たことがないので、もしかすると、これらの行動は日本特有の事なのかもしれませんが、想像するに、どこの世界であっても、常に怒っている人が徳が高く良い人間とは思わないのではないでしょうか。
どんな場面であっても、感情に任せて暴走してしまう人よりも、冷静になって話し合える人が、人格的に優れているのではないでしょうか。

両者の意見が出揃ったところで、本当はどちらが正しいのかを、対話を行う事で解き明かしていきます。

(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考文献

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第46回 移り変わる宇宙の捉え方(2)『見かけの重力・量子論』 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
www.youtube.com

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

光は粒子なのか波なのか

これだけでは意味がわからないと思うので、順を追って説明していきます。
くどい様ですが、私は科学者でもなければ専門家でもないので、理解不足のところや間違って認識している部分もあると思います。
これを聞いて興味を持たれた方は、自分自身で調べてみることをお勧めします。

という事で、量子論について簡単に話していきます。
相対性理論が光の特性を研究したところから始まったように、量子論も、光とは何なのかという光の観測から始まります。 光の正体は、『波』なのか『粒子』なのか、どちらなんだろうという疑問ですね。
科学者として有名なニュートンは、光は粒子だと主張しました。 例えば、物体に強い光を当てた場合、その物体の影は、くっきりと境界線を持って映し出されますよね。

しかし、波の場合はその様に、くっきりとした影が浮かび上がるのでしょうか?
想像してみてください。 皆さんの前に水槽を用意して、水を張り、水面から飛び出すような大きさの物体を水槽の真ん中に置きます。
そして、その物体に対して波を起こしたと想像してみてください。 その波は、物体にぶつかると、どうなるのでしょうか。 物体にあたった波だけきれいに反射して、物体の反対側は一切波が起こっていない状態になるでしょうか?
そうはなら無いですよね。 波は物体の側面を回り込み、波の動きは水槽全てに伝達されますよね。

でも、光が物体である『粒子』であるとすれば、どうでしょう?
光が物体であれば、物にあたった際には物理法則に従って反射するので、物体には影の部分が出来ます。 つまり、辻褄が合うということです。

しかし、光は『波』だと主張する人達から、反論も出てきます。
その反論は、『仮に、光が物体である粒子であるのなら、光と光をぶつければ、粒子同士がぶつかって軌道が変わるのではないか?』という反論です。
その一方で、波の場合は、衝突したとしても軌道が変わる事もないし、干渉することは有っても、そのまますり抜けることが可能です。
つまり、光を波だと考えれば、光を衝突させた時の現象は、辻褄が合って説明できるというわけです。

二重スリット実験

この様な感じで、『粒子派』と『波派』に分かれて対立が起こっていたのですが、どちらの方が強かったのかといえば、『粒子派』のほうが優勢だったようです。
なぜなら、粒子派の代表格がニュートンというビッグネームだったので、『ニュートンさんがいうから間違い無いだろう』と納得する人が多かったからだそうです。
この様な現象は、今でも見られますよね。 有名な人物がお墨付きを与えているから信じるという風潮。 そういったモノを利用するのが、ステルスマーケティングだったりしますよね。

話を戻しますと、最初は劣勢に立たされていた『光は波派』の人達ですが、二重スリット実験によって光が干渉する事を発見したことで、形成が逆転します。
干渉というのは、波が持つ独特の性質で、2つの波をぶつけた際に起こる現象の事です。
水面にたつ波を想像してもらえれば解りますが、波というのは、高い部分の山となる部分と低い部分の谷という部分が交互に連続する構造になっています。

この波が衝突すると、先程言ったようにすり抜けるのですが、その際に、山と山が重なると、更に高い山になり、谷と谷がぶつかると、更に低い谷へとなり、谷と山がぶつかると、その部分は打ち消し合って波の無い状態になるんです。
これを波の干渉というようなのですが、これが光でも起こることがわかったんです。
実験方法としては、まず光を置いて、それを遮る形で1枚の壁を置いて、その壁に、2つの穴を空けて、その先にスクリーンを置きます。

こうすると、一つの光源から出た光は、2つの穴を通ってスクリーンにぶつかるわけですが、この際に、2つの光が干渉し合います。
イメージとしては、一切、波がたってない池の中に、2つの小石を投げ入れるようなイメージです。そうする事で、2つの波紋が出来て、その波紋同士が鑑賞し合いますよね。
光の場合も同じで、2つのスリットをすり抜けた光は、その後、一部が重なり合って、干渉することになります。

波の山の部分が重なって、より山が高くなった部分と、谷同士が重なり合って、谷が深くなった部分、また、谷と山とがぶつかって凪になった部分が出来ます。
その結果として、光が、より強くなる部分や光が消える部分などに分かれて、それが、スクリーン上に縞模様を描き出すことになります。
この様な縞模様の事を干渉縞といって、この現象は、光が波でなければ説明がつかない為、光は波だという主張が勢力を伸ばしていき、その後行われる実験なども、光が波だという前提で行われていきます。

最小単位の波?

この様な環境で行われたのが、プランクという人物が行った、黒体放射の観察を行う実験です。
この実験が行われた当時なんですが、鉄の精錬が盛んな時期だったようなのですが、その精錬方法が、職人の勘によるところが多かったようなんです。
鉄を熱し続けると、鉄が赤く光を放つようになり、高温になると、その光は強くなっていくわけですが… その光具合などを職人が目で観て、鉄の温度の状態などを見極めて、様々な作業を行っていたそうなんですが…

その様な方法では、鉄の性格な温度が分かるはずもなく、品質にバラつきなどが出ていたようなんですね。鉄というのは、建設や車のフレームなどに使われるので、品質にばらつきがあると、強度計算なども狂ってくるので、かなり問題が出てきます。
それを解消する為に、物体を熱する事で出た光を計測したり、プリズムなどの光を分ける分光器を使って分析して、物体の温度を正確に知ろうという研究や実験が行われたんです。

ただ、この実験によって、おかしな現象が観測されてしまうんです。
従来の物理学の考え方では、物体の温度が上昇すればするほど、比例して、光のエネルギーも増えていくという推測が成り立ったので、それを期待して、実験が行われたのです。まぁ、この推測自体にも無理があったようなんですけれどもね。
というのも、温度に比例して光のエネルギーが上昇していくと、理論上は、光のエネルギーは無限にもなり得るからです。

これは、以前に出てきた『アキレスと亀』のパラドクスと同じで、仮に、物体に熱を加え続けることが可能であるなら、物質は無限の光を放つ事になリ、溶鉱炉という限定された空間に無限の光を収めることになるからです。
ただ、推測はどうであれ、実験が可能であれば、実験して確かめてみなければ話は進みません。という事で実験した結果、事前に経てていた予測とは全く違ったものになってしまったんです。
この実験結果のグラフを音声だけで正確に伝えるのは無理が有るので、興味の有る方は、黒体放射などで検索してみてくださいね。

実験結果を受けてプランクさんは、一つの仮説を立てるんです。それは、光には最小単位が有るのではないのかという考えです。
この考え方は、物理の世界ではかなり画期的な考えだったようです。というのも、今までは、波のようなエネルギーは連続的な動きをすると思われていたんです。
しかし実際には、最小単位というものが存在して、連続的だと思われていたものが、実は、不連続なものだったという可能性がでてきたからです。

この後、この考え方を利用して、アインシュタインが光の性質について新たな主張をするわけですが、それはまた、次回にしようと思います。
kimniy8.hatenablog.com

【映画感想】緊急検証!THE MOVIE ネッシーvsノストラダムスvsユリ・ゲラー

もう、2月も中旬になりましたが、今年はじめての映画鑑賞に行ってきました。
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見に行った作品のタイトルは『緊急検証!THE MOVIE ネッシーvsノストラダムスvsユリ・ゲラー
この作品はもともと、ファミリー劇場という衛星放送内の番組の一つのようで、それが、クラウドファウンディングによって資金を集めて映画化した作品のようです。

最初に書いておきますが、ネタバレ情報を含んだ形での感想になりますので、映画館に観に行く予定の方は、これを読まずに観てから読まれることをオススメします。

作品を観に行ったきっかけ

まず最初に、何故、この作品を観に行ったのかを書いておきますと、去年の年末辺りから、この作品に関する情報を聞き続けるという環境に、私が置かれていたからです。
私は、ここ数年、Podcastというネットラジオをよく聴いています。
それなりの数を聴いているので、ここで、聴いている番組を全て書いたりはしないのですが、その中で特にお気に入りで、更新されると直ぐに聞く番組が幾つかあります。

その中の一部が、これらの番組です。

とうもろこしの会presents僕は怖くない 新館

とうもろこしの会presents僕は怖くない 新館

  • とうもろこしの会presents僕は怖くない 新館
  • 宗教/スピリチュアル
  • ¥0
中沢・穂積のピータン通信

中沢・穂積のピータン通信

  • 中沢健・穂積昭雪
  • テレビ番組/映画
  • ¥0
大宇宙の王者 タケシ&タカシ

大宇宙の王者 タケシ&タカシ

  • 中沢健・飯塚貴士
  • テレビ番組/映画
  • ¥0

ここに挙げたポッドキャストの話し手の方が、番組関係者で、実際にこの作品に出演されている方々の様で、この映画作品の宣伝やら制作秘話などを結構な頻度で聴く環境に置かれていたんです。
一つの作品の制作秘話などを頻繁に聞いていると、観たくなってしまうのが人情というもので、さっそく、京都での公開日を調べてみると、2月16日から出町座で公開する事がわかり、出町座にも興味があったという事も有り、公開日に見に行くことを決めました。

出町座

出町座というのは、京都の出町柳に有る商店街の中に最近できた小さな映画館です。
元々は、京都の木屋町という呑み屋街のど真ん中にそびえ立つ『立誠小学校』という元小学校の建物の教室の一室で、『立誠シネマ』として営業していたのが、小学校を再開発するということで、出町柳に移転してきた映画館です。
立誠シネマ時代には、何回か訪れたことが有ったのですが、出町に移ってからは行ったことがなく、行く機会を伺っていた映画館です。

この映画館ですが、先程も書きましたが、商店街の中にあるわけですが、その商店街自体が『たまこマーケット』というタイトルで、京アニによってアニメ化された事でも有名な商店街だったりします。
tamakomarket.com


(画像クリックはAmazonリンクです)

初めての訪問だったので、どんな感じになっているのかが楽しみだったわけですが、行ってみると、一階部分に結構な書籍が置いてあり『本屋か?』と思いきや、中央にはカウンターが有ってカフェになっていて、上映までの待ち時間を有意義に過ごせるおしゃれなスペースになっていたりします。
私は、上映ギリギリに出町座に入ったので、そのスペースでくつろいだりは出来ませんでしたが、次回に機会があれば、コーヒーでも飲んでみたいと思います。
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オカルトについて

映画の感想を書く前に、長々と映画以外のことを書いてきましたが、もう少しだけ、私とオカルトについて書いていきます。
というのも、取り扱う作品がオカルト作品で、登場する人達も日本のオカルトスターの方々なので、もしかすると、ゴリゴリのオカルトファンがこの記事を読んでいるかもしれないので、最初に言い訳をしておきたいからです。

最初にハッキリさせておきますと、私はオカルトにそこまで詳しくはありません。

小学生や中学生の頃は、ビートたけしさんの『TVタックル』でたまに行われていた超常現象バトルや、『特命リサーチ200X』などを観ていました。
しかし、高校ぐらいになると、その様な番組を積極的には観なくなり、今では、『やりすぎコージー』の都市伝説スペシャルなども、偶然、テレビを付けた際に放映していれば観るけれども、わざわざ録画をしてまでは観ないという程度にまでなってしまいました。
この様な感じなので、興味が全く無いかと聞かれれば否定しますが、積極的に情報を取りに行くオカルトファンかと聞かれれば、それも否定する程度にオカルトと付き合っている感じです。

映画のネタバレ感想

冒頭でも書きましたが、ネタバレ要素ありで感想を書いていきますので、まだ観ていない方で、これから見る予定の有る方は注意してください。


この作品ですが、まず、始まる前なのか、それとも、既に始まっていたのか…厳密にはわからないのですが、とにかく、最初の1分で大爆笑させてもらいました。
『始まっているのか、始まっていないのかが分からない。』と書いたのは、笑わせてもらった部分が本編ではなく、映画館で最初に行われる、マナー啓発の映像だったからです。
映画館といえば映画を上映する前に、『携帯の電源を切れ』だとか、『映画泥棒はやめよう』『前の座席を蹴らない』といった、マナーを伝える動画が流れますよね。
大抵の場合、『そんなのは、分かってるよ!』という気にしかならない映像なのですが、あの部分がかなり面白い作りになっています。 あれを観るだけでも、1800円中で500円ぐらいの価値が有ったのではないかと思わせる程でした。

そして、いざ本編が始まったわけですが、この作品のテーマというのが、1970年代に起こったオカルトブームを緊急検証!し、あわよくば、ブームをもう一度と行った感じのものでした。
これを書いている私自身は、1970年代後半に生まれなのですが、物心がついた頃には80年代ということで、これ以降のことしか経験していませんが、80~90年代という残り香程度でも、結構な頻度でオカルト番組が制作されていたように記憶しているので、70年代のオカルトブームというのが本当に凄かったというのが想像できますね。

取り扱うテーマは、タイトルにもなっている『ネッシー』『ノストラダムス』『超能力』という事で、30半ばより上の人はほぼ確実に知っているテーマを、今の時代に再検証しようという話です。
この3大テーマが、どの様なものだったのかを、当時を知る人にインタビューして軽く説明をした後に、オカルト三銃士に依頼しに行くという進行でしたが、この部分で、私が一番『おぉ!』と思ったのが、虚業化の康芳夫さんの登場。
私はこの人物の事に詳しいわけではないのですが、ジョジョの奇妙な冒険が大好きで、その作者である荒木飛呂彦氏が書いた『変人偏屈列伝 』で、人と猿の中韓の存在であるオリバー君を日本に連れてくるというエピソードが紹介されていた為、興味を持っていたんです。

(画像クリックはAmazonリンクです)

生で動いている康芳夫さんを観れたというのも印象的でしたが、2億円かけて石原慎太郎らと共にネッシーを探しに行ったという話にも度肝を抜かれました。
2億円あれば、この『緊急検証!』の映画が何本取れるんでしょうね。。。

テーマの紹介とオカルト三銃士への調査依頼が終わると、番組はプレゼンコーナーに移るのですが… このプレゼンコーナーのネタバレは、自粛しようと思います。
気になる方は、映画館に行くか、DVDの発売を待って、自身で検証されることをオススメします。

このプレゼンコーナーですが、私の印象では、かなりアッサリと終わった印象でした。
というのも私は、この映画は取材映像とプレゼンで2時間の映像に仕上がっていると思いこんでいたわけですが、体感で1時間もしない間に、取材とプレゼンが終了してしまったからです。

しかし映画は、ここから後編に入ます。

ということで、ここまでの前半部分での感想ですが、プレゼン部分は置いておいて、それ以外で一番印象に残っているのが、大槻ケンヂさんという存在ですね。
私の認識では、筋肉少女帯というバンドの人という印象だったのですが、オカルト関係の仕事もされていたんですね。
そういえば、Amazonの広告か何かで、山口敏太郎さんと対談本を出されているのを見たことがありますが… ここまでガッチリとオカルトの方だったというのは、個人的には意外でした。

(画像クリックはAmazonリンクです)

この大槻ケンヂさんのコメントというのが、普段、緊急検証!シリーズを見ていない私には、非常に助かりました。
というのも、映画で初めて『緊急検証!』を観た方の立場に立ってコメントされている為、私のようなニワカでも置いてけぼりをくらわなかったのは、大槻ケンヂさんのお陰です。
その他の出演者も、辛酸なめ子さんは、VTRやプレゼント直接関係がない、印象深いコメントをされていたり、オカルト研究家の吉田悠軌さんは、オカルトの専門家としてのコメントをしっかりされていて、それぞれの役割がハッキリしている点が、楽しみやすかったです。

前半と後半で全く違った作品になる

この作品は、映画の前半と後半部分で、全く違った作品になる映画です。
前半部分は先程も書いた通り、3つのテーマをオカルトを通して面白おかしくプレゼンし、それにコメンテーターがツッコミを入れるという作りになっているのですが、後半部分は、一気にシリアスな展開になります。
個人的には、この部分が非情に面白かったし、胸を打たれた部分でもあります。 この、後半部分を見るためだけに、映画館に行って1800円支払う価値があるんじゃないかと思わせる程でした。

この後半部分がどの様な作りになっていたのかというと、前半部分でプレゼンをしていたオカルト三銃士である『飛鳥昭雄』さん『山口敏太郎』さん『中沢健』さんの3人が、オカルトとどの様に向き合っているのかというのを視聴者に伝えるドキュメンタリーとなっています。
このパートで、一番印象に残ったのは、山口敏太郎さんのオカルトとの向き合い方です。

私自身は、山口敏太郎さんが番組に登場するのを数える程しか知らないのですが、その際の印象としては、オカルト関係の方なのに物凄い理論的な話をされる方で、説得力が有る方という印象でした。
何でもかんでも超常現象につなげるわけではなく、科学で説明できる部分は科学的に説明し、オカルトを使わないと説明できない部分だけ、推論という形で説明されている感じで、かなり信頼できる印象を持っていました。

この方が、何故、この様なスタンスになったのかというのが、ドキュメントパートによって明らかになったのですが、この部分が非情に感情移入して観れました。
というのも、この方は敵味方をハッキリと分けて考える性格の方の様なのですが、何故、その様な性格になったのかというのが、オカルトが好きすぎるからといった理由でした。
オカルトが好きであるが故に、何でもかんでもオカルトと結びつけて、お笑いのネタにしたり金を稼ぐ道具にしか思っていないような人が許せない。

この方にとっての敵は、オカルト否定派の科学者ではなく、むしろ、オカルトを軽んじているオカルト研究家。
オカルトというのを、自身の欲望の為に適当に消費し、オカルトから信用をなくしていっている人達に敵意が向けられている。逆の言い方をすれば、オカルトという現象に真摯に向き合っているのであれば、科学サイドの否定派の意見の方が重要だと考えるタイプの人なのでしょう。
オカルトに限らず、どの分野でもそうだとは思うのですが、一番厄介な人というのは、反対意見を主張する人ではなく、無茶苦茶な主張や適当な事を主張したり行動に移す身内だったりするもんですからね。
過去には、ヒッピーなど沢山のカウンターカルチャーや社会現象が生まれましたが、結局の所、質の悪い人間が大量に流入してくることにより、それは沈静化してしまいます。大切に思っているからこそ、クオリティを大切にしたいと思う気持ちは、非常に好感が持てました。
その態度が、私が現在勉強中のソクラテスと重なって見えて、非情に興味深かったです。

これは私事になるのですが、この記事の冒頭部分ではポッドキャストの話題を出しましたが、私自身も哲学をテーマにしたポッドキャストを配信していて、ここ最近では、その配信の為に古代ギリシャの哲学者の勉強をしているのですが…

プレトンが描くソクラテスという人物も、アレテーと呼ばれる人間の卓越性の研究をし、それを知っていると吹聴している賢者を訪れては、対話を行うというのを繰り返していましたが、このソクラテスが一番忌み嫌ったのが、『知らない事を知っていると思い込んで、探求をやめた人間』でした。
誤解しないで欲しいのは、ソクラテスは馬鹿な人間が嫌いというわけではありません。 知らないものに対しては『知らない。』と自覚し、真摯な態度で探求していこうという人に出会った場合は、『私も、その事については知りませんが、興味があるので、共に探求しましょう。』という態度で接しました。
山口さんも同様に、例え、雑誌に投稿する2~3行程の原稿であっても、日本全国を飛び回って、知らないことや分からないことに対しては徹底的に調査をされている。 だからこそ、適当なことをして足を引っ張る身内が許せないというのは、非常によく伝わってきました。

後半のドキュメント部分で、他にも興味深かったパートとしては、中沢さんの普段の格好についての解説です。
この方は、普段から画用紙を身に着けて生活をされているようなのですが、何故、その様な格好をされているのかの理由が、大変興味深く聞くことが出来ました。
その格好をすることで、主に人間関係などで結構なデメリットも有るようなのですが、それに対しても『自分が好きな人に嫌われなければ、それが良い』と言われていた部分に、胸を打たれました。

よくよく考えてみると、私達は小学校に入学する頃から『友達100人できるかな!』なんて洗脳を受けて、友だちが多い=人間性が高いと思わされてきたわけですが、そもそも、人間関係というものが数値で表せるものなのかも不明ですし、友達が多いということが人間性の高さにも、自身の幸福にも直結はしませんよね。
人間関係を広げる方法としては、自身の自我を閉じ込めて他人に迎合して生きていけば、表面上の人間関係を広げることは出来ますが、それが自分自身にとって良いことなのかと問われれば、そうではないように思えます。
地球には70億人を超える人類がいるようですが、その人達全員と仲良くすることは不可能ですし、どれだけ取り繕ったとしても、嫌われる人には嫌われる。
そうであるなら、無理をして自分が嫌いな人に調子を合わせて友達の人数を確保するよりも、自分の全てを晒け出して、それでも自分に対して行為を持ってくれる人間と深い付き合いをする方が、自分の人生にとっては良い事なのではないだろうか?といった態度は、非情に共感できました。

飛鳥昭雄さんのパートに関しては… 飛鳥さんが物凄く明るい方である為に、根暗な僕は共感することが出来ませんでしたが、『あの様に振る舞えたらな…』という憧れを少し感じました。

この作品は2回観たほうが良い?

この様に、この作品は、前半部分では、オカルトを少しバカバカしい感じのバラエティー番組に仕上げて放送し、その後に、プレゼンターがオカルトに対してどの様に接してきたのかをシリアスに伝えるという作りになっている為、後半部分を見た上で前半部分を見ると、全く違った印象が得られるように思えます。
そういった意味では、2回観る事で、本当に楽しめる作品なのかもしれません。
この作品は1週間ぐらいの公開が多いようなので、短い期間に2回行くというのは結構厳し目なので、NetflixAmazonビデオでの配信があれば、有り難いかなと思ったり。

とはいっても、1度は映画館で観たほうが良いのではないかと思います。
というのも、この作品自体は、TV番組のような作りをしている為に、映像的には映画館で観なければならないというわけではないのですが、大槻ケンヂさんのコメントなどを含めると、映画で見る事で楽しみが付加される作りになっているからです。

最期に感想をまとめると、想像していたよりも、かなり楽しめた作品でした。

寝ながら読書をする環境を整えてみた

少し前にサーキュレーターの紹介記事を書きましたが…
kimniy8.hatenablog.com
今回も、買い物ブログを書いてみようと思います。
今回紹介するのは、本を楽な姿勢で読む為のツールです。

本を読むのも結構辛い

私は数年前から本を読む習慣をつけようと、週に5日、1日1時間程度は本を読む時間を作ろうと、頑張ってきました。
その甲斐あってか、徐々に本を読むことにも慣れ、活字を読む習慣がついてきた訳ですが…

そんな私を悩ませる唯一のことが、本を読む姿勢です。

椅子と机を使うような生活の方であれば、椅子に座り、本を机の上に置いて読むというスタンダードな読み方をすれば、徳に疲れることもなく、長時間の読書が可能だと思います。
しかし、私のライフスタイルはというと、絨毯を敷いた床に直に座るというライフスタイル。
クッションはありますが、座椅子なども無い為、本を長い間読む姿勢というのが、なかなか安定しませんでした。

ベッドの上で三角座りの様な姿勢をとって読んだり、寝転がってうつ伏せで読んだりしたのですが、これらの姿勢を長時間行うのが結構な苦痛。
三角座りの場合は、背中を壁に押し当てる感じで座るのですが、そうすると、全ての圧力がお尻にかかって痛くなってくる。
また、姿勢も徐々に寝た形になり、不自然な体勢になってきて、1時間もすると、今度は首やら肩やらが痛くなってくる。

ベッドにうつ伏せに寝て枕の前に本を設置して読んだ場合は、脇と胸のあたりが圧迫されて、十数分もすれば腕の感覚がなくなってくる。
また、微妙に上体反らしを行い続ける姿勢は、結構、腰に来る。

どちらにしても、本を読むという行為よりも、その姿勢を維持する事が辛くなって、本を読むのが長く続かないという状態に悩まされていました。

寝ながら本が読めるツール

思いつく限りのどんな姿勢をとったとしても、結構、体に負担がかかってしまう。
自分の工夫だけでは限界が来ている感じになった為、解消できる道具がないのかを検索した結果…
理想的な道具が見つかりました!!

それがこちらです。

(写真クリックで商品ページ)

この商品は何かというと、簡単に言えば、タブレットを空中に固定する為の道具です。
自分の好きな位置にタブレットが固定できるという事は、仰向けに寝ながら電子書籍を読むことが可能になるという事。
仰向けに寝るという姿勢は、普段、寝る時に取っている時の行動なので、不自然な体の動きは一切なく、体にストレスが掛かることもない。

私は、2017年のAmazonのサーバーマンデーセールで、Fire HDの10インチを購入し、購入する本も電書に移行している最中だった為、『これだ!』と思い、即座に購入してみました。
ちなみに、 Fire HD 10インチはこちら。

(写真クリックで商品ページ)

Amazon primeメンバーであれば、1台目は割引適用の上、サイバーマンデー等のセールでは更に割引が行われ、10インチタブレットなのに1万円程度で変えてしまうという超高コスパ商品だったりします。
画面がかなり綺麗で、文字の潰れもほぼ無い。 タブレットを横にして、ファミ通を2p分表示させたとしても、文字が読めてしまうというスペックなのに1万円で買えてしまうというのは、顧客囲い込みの為に原価で売ってるんじゃないかと思わせる程。
まぁ、安いのには安いなりの理由も有り、Amazonが提供するサービスを利用するだけなら、この上なく使いやすいタブレットだったりするのですが、アンドロイド端末として使おうと思うと、結構問題が合ったりもします。

一番の問題としては、googleのアプリストアが使えない点です。
この端末には、Amazonが別にAmazon製のアプリストアを用意しているのですが、google playなら無料で売ってるソフトが、Amazonアプリストアだと有料になっていたりもします。
他にも、各出版社が出している無料漫画アプリや、dマガジンなどの定額読み放題サービスも締め出されていて、ダウンロードそのものが出来なかったりするので、アンドロイド端末として買う場合は注意が必要だったりします。
google playをインストールする方法もあるようですが、合法なのかわからない為、それはここでは書きませんので、各自で調べて自己責任で行ってください。)

このタブレットを、先ほど紹介した製品と組み合わせると、こんな感じになります。

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茶色いのが枕ですが、その枕の少し上にタブレットが固定できているのが分かりますね。
この環境により、仰向けにネタ状態で手で支えること無く、本を読むことが出来るという環境ができあがりました!!
素晴らしいですね!!!

人間はどこまでも堕落していく

この様に、見事に楽に本を読む姿勢を獲得したわけですが、人間は一度楽を覚えると、『もっと楽できる方法はないか…』と思い出すものです。
先程作った環境により、私は今までにないほどの環境を手にすることが出来たのですが、それでも、『ページめくりが面倒くさい。』という新たな贅沢な悩みが出てきてしまいました。
今の時期だと、ページめくりをする度に布団から手を出して、タブレットをタップしてページをめくるというのが面倒くさいんです。 また、タップをした事で画面が少し揺れたりもしますしね。

そこで、それを改善するための道具も購入しました。
それがこちら!

(写真クリックで商品ページ)

この商品は何かというと、ブルートゥースリモコンです。 タブレットスマホなど、Bluetooth接続出来る機器で利用できるもので、これを購入すると、リモコン経由でページめくりなどが出来るようなんです。

ということで、さっそく購入してみました。
この商品ですが、Amazonで検索したところ、全く同じ商品にもかかわらず、名前や値段違いのものが沢山出品されていて、最安値が330円で高いものだと1000円を超えた値段で販売されていたりもする商品。
私がどの商品を購入したのかというと、一番安い値段で出品されていた330円のものを購入しました。
海外からの発送のようで、到着には2週間かかると書かれていましたが、実際に到着したのは3週間後と、かなり待たされましたが…
無事に商品が到着しました! 大きさは、こんな感じ。
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この商品ですが、他のBluetoothリモコンが乾電池式なのに対し、Micro usb で充電ができるようになっているので、かなり便利です。
Bluetoothなので、範囲内であれば障害物が合っても反応する為、手を布団の中に入れていても反応してくれる優れもの。
この製品が、本体価格330円の送料無料って… 1個売ってどれぐらいの利益があるんでしょうかね。

実際に試してみた結果ですが、使い方としては少し分かりにくい。
というのも、ホーム画面とアプリ内とで、リモコンの操作方法が変わったり、リモコンに全く対応していないアプリが有ったりと、ややこしいうえ、説明書が英語と中国語にしか対応していない。
ただ、このリモコンを購入した最大の理由は、寝ながらKindle本のページめくりがしたいだけなので、それが出来れば問題はない。 ということで、キンドル本を立ち上げて操作してみたところ、特に設定をしなくても、方向キーの上を入力したら次頁に行き、下を入力するとページが戻りました!
この機能だけでも、購入したかいが有ったというものです。

その他にも色々と使えないかを試してみたところ、PCのリモートコントロールの際に、マウスとして利用できることが分かりました。
私のPCはwindows 10 pro なので、リモートコントロールが公式アプリで利用できるわけですが、そのアプリを利用中にマウスポインターを表示させて、リモコンの入力モードを gameからkeyに変えることで、方向キーでポインターを動かし、ボタンで右クリックと左クリックが行えました。
この機能を利用すれば、アドベンチャーゲームの様にマウスで選択肢を選ぶだけのゲームであれば、ベッドの上で寝ながらプレイすることも可能!

(この他にも、色々な使い方ができる様ですが、その説明は、ここでは致しません。
この製品は、Bluetoothリモコンの代名詞的な製品のようで、『タブレット リモコン』で検索すると、高確率でこのリモコンの説明ブログがヒットするので、使い方に困った方がいれば、検索してみてください。)

どれだけ堕落していくんだって感じですが、この環境が1500円程度で作れるというのは、結構すごい事ですよね。
同じ様な悩みを抱えている方は、一度、試してみてはどうでしょうか。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第46回 移り変わる宇宙の捉え方(2)『見かけの重力・量子論』 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

科学も信仰

前回までの話は、科学もそんなには信用できないよ。というのを理解してもらうために、科学理論がどのように変化してきたのかについて説明してきました。
科学理論の変化について話すキッカケとしては、ソクラテスが活躍した古代ギリシャ時代から、理論の話を実際の世の中に持ってくる、または、その逆を行った場合、うまくいかないケースが出てくる…
例えば、『アキレスと亀』や『飛んでいる矢は止まっている』といったパラドクスが存在してしまうという話から派生して、現在の科学も同じで、現実の世界を完璧に表現できているわけではないという話をしてきました。

絶対的と相対的

その例として、ニュートンが考える宇宙とアインシュタインが考える宇宙が違うという話をしたのが前回でした。
ニュートンが考える宇宙は、絶対時間や絶対空間という物が存在する、分かりやすい宇宙でした。
分かりやすくいうと、時間は何処でどんな状態で測っても、1秒は1秒だし、空間も同じで、1立方メートルという空間は、どの場所でどんな状態で測っても、1立方メートルだという事です。
規則正しく線が引かれた方眼紙の上に存在しているような宇宙で、この宇宙では、様々な計算も比較的楽だし、素人目に観ても理解しやすい理論でした。

ですが、アインシュタインが考えた宇宙は違いました。
アインシュタインの考えた宇宙は、観測する他人毎に時間や空間が変わるというもので、時間や空間は相対的なものだというものでした。
簡単に振り返ると、光の速度は、どの状態で観測したとしても常に同じ速度という原理を元に作られた考え方で、物体が光の速度に近づけば近づく程、その物体が感じる時間はゆっくりになっていき、進行方向の空間は縮むというものでした。

詳しい話は前回に話していますので、まだ聴かれていない方は、そちらの方からお聞きください。

重力とスピード

この、物体が加速すると、移動している物体の時間が遅くなったり、目的地までの距離が縮まったりというのは、頭で理解できたとしても、信じられない人って多いと思います。
というのも、私達の感覚から、かなりずれた考え方ですからね。 ですが、この相対性理論は、これだけでは終わりません。
スピードを得るための加速と重力が同じものだという話も出てくるんですよ。

漫画でいうと、ジョジョの奇妙な冒険の第3部で、Dioは重力を操作することによって時間を止めますが、対する承太郎は速度の限界を超えることで時間を止めますよね。
速度と重力は同じと考えると、重力使いとスピードキャラの能力が同じというのも理解しやすいですよね。

重力と加速

これがどういう事なのかを簡単にいうと…というか、私自身の理解が追いついていないので、簡単にしか説明できないんですが…
電車や車などの乗り物に乗って、椅子に座るとしますよね。 この状態で乗り物が動き出すと、体が椅子に押し付けられるような感覚があると思います。
この感覚と重力は、同じものだということらしいんです。

例えば、外側が見えない箱があったとして、そこに人を入れて、無重力状態の宇宙まで持ち上げるとします。
この状態では、当然ですが、箱の中に入った人も無重力の状態になり、どちらが上なのか下なのかがわからない状態になります。

この、人が入った無重力状態の箱を、一方方向に加速しながら引っ張るとすると、どうなるのかというと、進行方向と逆の方向に押し付けられることになります。
これは、停車している電車の椅子に座っていいる状態で、電車が加速しながら走り出すと、座席の背もたれに押し付けられるのと同じ事ですね。

では次に、無重力状態の人が入った箱を、重力がある星に近づけていくとどうなるでしょうか。
この場合は、星の重力方向に引っ張られるように、箱の中に入っている人は、重力が引っ張る方向の壁に押し付けられる事になります。

この様に、2つの方法で、箱の中に入っている人を一方の壁に押し付けることが出来るわけですが、2つの方法だと分かるのは、その箱を外から観察している人だけなんです。
箱の中に入っている人にとっては、外を確認する手段が無い為、箱が加速したことで壁に押し付けられたのか、それとも、重力のある星に近づいたから、その方向の壁に押し付けられたのかが、判断がつきません。
この、物体が加速することによって生まれる『見かけの重力』と、質量が持つ『重力』は、同じだという考え方なんです。

等価原理

この主張のことを、等価原理というそうです。
ただ、これも、よくよく考えると、疑問が出てきますよね。

というのも、たしかに、外を確認することが出来ない箱の中に入っている人にとっては、加速で生まれた『見かけの重力』なのか、大きな質量を持つ物体が近づいた事によって発生した重力なのかは、判断が出来ません。
でも、外から見ている人にとっては、どちらの方法で、壁に押し付ける力が働いたのかというのは、一目瞭然なので、2つの力は違ったもののように思えてしまいますが…同じと考えるらしいんですね。
これが、相対性理論の考え方のようです。

この考えを発展させていくと、重力が強くなれば強くなるほど、時間の流れは遅くなっていきます。
何故、時間の流れが遅くなってしまうのかというのは、前回にも説明しましたが、時間というのは、光の速度に近づけば近づく程にゆっくりとなっていき、光の速度と同じ状態では、時間は止まってしまうからです。
そして、今回。 等価原理によって、加速と重力が同じだと説明しました。 重力が強くなるということは、それだけ速いスピードで加速するという事と同じなので、強い重力の下では時間は遅れてしまいますし…
ブラックホールの様な光をも飲み込んでしまう強い重力に呑み込まれると、時間は停止してしまいます。

絶対的と相対的

つまり、この理論が生まれる前に、いままで考えられていた世界というのは、まず、世界というものがあって、そこに私達が存在しているという世界観でした。
絶対的な世界。そこには、絶対的な時間があり、絶対的な空間があって、その中に、私達が存在しているという、分かりやすい世界観だったわけですが、相対性理論はそうは考えないんです。

例えば、これを聞いている皆さんが、今からスタミナが続く限り、全力疾走をしたとします。
そうすると、それを傍からみている人間にとっては、あなたが走っているように見えますが、実際に走っている『あなた』から観ると、あなた自身は止まっていて、世界の方が動いているように見えます。
この時、走っている『あなた』が観る世界と、走っている『あなた』を観ている人とでは、時間も空間も違っているという事です。

世界は、先程言ったような絶対的な空間や時間が有るものではなく、相対的なもので、観察している人間によって変わるという事なんです。
時間と空間というのは全く別の存在ではなく、それぞれに関係しあっているということです。
この話は、私達が感じる実感とはかけ離れている為に、いまいち『ピン!』と来ないと思います。 話している私自身も、いまいち分かって無いので、これを聞かれている方が、理解できていなかったとしても当然だとは思います。

言葉で説明しても、イマイチイメージがつかめないと思うので、今回話した重力と時間の関係について興味を持たれた方は、映画のインターステラーを観ると、イメージがつかみやすいかもしれません。

絶対的な世界を更に揺るがす量子論

相対性理論を簡単に観てきたわけですが、これだけでも分かりにくい『世界』というものなんですが、量子論という存在によって、更に分からなくなります。
単純に、量子論の考え方が難しいという事もあるのですが、今までの常識を塗り替えた相対性理論の世界を更に塗り替えるような考え方なので、私達の常識というものが、更に通用しなくなるんです。

ということで、これから分かる範囲で、量子論の説明をしていこうと思いますが、繰り返しになりますが、私は専門家ではありません。 理解不足の部分もかなり有るので、興味が有る方は、自身で調べてみてくださいね。
量子論とは、ものすごく簡単にいうと、ミクロの世界について考えて、それを発展させる学問です。
この宇宙に存在しているものは、人間であったり、星であったり、銀河であったり、どんな大きなものであったとしても、小さなミクロの積み重ねによって出来ています。
この考え方は、以前にイオニア自然学の話をした際に、アナクサゴラスの主張として紹介しましたよね。

古代ギリシャのアナクサゴラスの時代には、観測する為の装置なども無かったので、机上の空論でしか無かったわけですが、1900年代に入って技術が追いついたことで、このミクロの分野の研究も進んでいくことになります。
この量子論が生まれた時期としては、前回から紹介している相対性理論と同じ様な時期となっています。
その為、この量子論が生まれた当時は、まだ、アインシュタインも生きていたので、この今までに無い理論の、納得できない点について、様々な批判的な意見を言っていたりもしました。

では、アインシュタインがそこまで批判的な意見をいってしまう、この量子論という考え方は、どのようなものなのでしょうか。
どのようなものかを、物凄く簡単に、ざっくりと言ってしまうと、『物質は、確率の波として存在している』という理論です。
確率の波として存在しているので、観測して初めて、状態が確定するという事らしいのです。

(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

サーキュレーターの購入で生活環境が変わった話

今日は珍しく、私が購入した商品についての紹介ブログを書いてみようと思います。
今の時代、こういう記事を書くと、ステマとか疑われそうで嫌なのですが・・・
書かずにはいられない商品を購入したので、記事にしてみようと思います。

この記事を読まれている方は、タイトルを読んだ上で訪問されていると思いますので、買った商品を勿体を付けても仕方がないので最初に書いておきますと、サーキュレーターです。

扇風機との違い

写真を見てもらうと、扇風機っぽい構造をしているけれども、微妙に違う感じがする商品ですよね。
では、サーキュレーターとは何ぞや?というと、英語の【circulate】が『流す』とか『循環する』という意味で、それに『~するもの』という意味の【er】が就いているので、循環させるものといった意味合いがある商品です。
『循環させるもの』って、何を?というと、空気を循環させるものです。

扇風機とは何が違うのかというと、扇風機の用途は、基本的には人間を冷やすものです。
夏など、汗ばむ季節に扇風機を回して風に当たると、体から出た汗が蒸発し、その気化熱によって涼しくなることを目的としたのが、扇風機ですね。
一方でサーキュレーターは先程も書きましたが、部屋の空気を循環させる事が最大の目的としています。

同じ様にプロペラを回して風を出すだけの機械なのに用途が違うために、若干、違った形状になっていたりもします。
扇風機は人の体に風を当てる為、体に全体的に風を送るのに対し、サーキュレーターは部屋の空気をかき乱す為に存在するので、風の影響を遠くまで届ける作りとなっています。

冬に活躍! サーキュレーター

先程も書きましたが、サーキュレーターと扇風機は似て非なるもの。
その為、当然といった良いのか、活躍する季節も違います。
扇風機は基本的に涼む為の道具なので、汗ばむ季節に活躍するわけですが、サーキュレーターは逆に冬に活躍します。

サーキュレーターが特に役立つ家庭というのは、暖房器具に石油ストーブを使用している家庭になると思います。
一方で、暖房器具に最新の省エネ エアコンを使用しているような家庭では、恩恵は少ないと思いますので、予めご了承ください。

先程も書きましたが、私の家では、主に石油ストーブで暖を取っているわけですが、単純にストーブを灯けているだけでは、それほど暖まらない。
何故なら、空気は温度によって重さが変わり、ストーブによって熱く熱せられた空気は上昇して天井付近にたまり、一方で、冷たく冷えている空気は床付近に溜まる。
気密性の高いマンションのような場合だと、これも軽減されるのかもしれませんが、一軒家の場合だと、外気が入り込む隙間が多く、外の冷えた空気が床付近に溜まり、いつまで経っても暖かくならないという状態になってしまいます。
また、座った状態から立ち上がると、部屋の上の部分だけが暖かくなっていて、少し気持ちが悪くなったりもします。

この他にも、皆さんもご存知のとおり、石油ストーブというのは石油が燃えた際に水蒸気を出すという特徴がある為、ストーブを灯けていると部屋の湿度が上昇し続けます。
この湿度ですが、部屋全体に均一に広がってくれていれば良いのですが、そう上手くはいきません。
ストーブから出た水蒸気は、ストーブから出る上昇気流によって天井付近に行くわけですが、それが壁などに到達すると冷やされて、徐々に壁に沿って下の方に降りてきます。
これによって、壁と家具との間の隙間に湿気がたまり、ひどい場合には結露になって壁に付いたりもします。

この結露や湿気が慢性的にたまった状態になると、それが元で壁紙が剥がれてきたり、カビが生えてしまったりもします。
壁紙の剥がれやカビは、家の寿命も縮めるでしょうし、カビがずっと生えている状態は衛生的ともいえませんし、健康状態にも影響が出てくるかもしれません。

この様に、石油ストーブにはそれなりに難点が有るわけですが、この難点を解決してくれるのが、サーキュレーターだったりします。
先程も説明しましたが、サーキュレーターの役割は空気をかき乱すことです。

湿気が特定の場所に留まり続けて、結露やカビの繁殖の原因になるのも、人が居ない部屋の上の部分だけが暑くなり、人が生活している部屋の下部分がいつまで経っても暖まらないのも、理由は簡単で、空気の流れがほぼ無いために、湿度や温度差に強弱が生まれてしまっているのです。
これを解決する為に必要なことは一つで、空気の流れを人工的に作ってやればよいわけです。
その為には何が必要なのかというと、今回のテーマであるサーキュレーターだったりします。

サーキュレーターによって強制的に空気の流れを作って循環させることにより、様々な問題がかなり軽減されます。
部屋の大きさに合ったサーキュレーターを購入することで、部屋の空気はきれいに循環し、温度差や湿度の問題も、かなりマシになるでしょう。
サーキュレーターを買う前は、数時間、ストーブをつけていただけで窓は結露し、外の景色が見えない状態になっていました。

これを解決する為に、窓を少しだけ開けるという事で対処してましたが、温めるためにストーブをつけているのに、それが原因で結露になって、それを解決する為に窓を開けるというのは、かなり効率が悪いような気もします。
また、窓を開けたことで入ってきた冷気は、当然のように地を這うようにやって来るので、椅子ではなく地面に座るタイプの生活スタイルだと、冷気が直でやって来る状態になり、何のためにストーブを付けているのかが分からなくなる。
ですが、サーキュレーターの導入により、壁際や窓周辺に湿気を多く含んだ空気が溜まりにくくなった結果、結露が起こりにくい状態を作り出すことが出来ました。

結露がなくなるということは、窓を少し開けるという対処法も行わなくて良くなる為、ストーブの暖房効率も上昇する。
当然ですが、部屋全体の空気を循環させているため、上だけ暑くて下が冷えているなんて状況も生まれない。
買ってから数日は、『なんで、もっと早く買って置かなかったんだ!』って感じで感動をしていました。
まぁ流石に、家具と壁の隙間までは空気の循環が起こりにくいですので、隙間に向けてサーキュレーターの風を定期的に送り込む必要はあるのでしょうけれども。

扇風機で代用できないのか

最初の方にも書きましたが、サーキュレーターと扇風機は構造が似ているので、扇風機で代用ができないのかとお考えの方も多いと思います。
結論から書くと、出来なくはありませんが、効率は落ちます。

先程、石油ストーブをつけた環境でサーキュレーターがどれほど役に立つのかというのを書きましたが、基本的に冷たい空気は下の方に溜まります。
しかし、人の体を冷やすことが目的で作られた扇風機は、基本的にはネック部分が長く作られている為、部屋の下の空気を拾い上げて上に循環させるという事が行いにくいです。
それを無理やりしようと思うと、扇風機を寝かした状態で運転させなければなりませんが、余程広い部屋でもない限り、寝かせた扇風機は邪魔になります。
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一方でサーキュレーターは、空気を循環させる目的で作られている為、プロペラ部分がかなり下についていて、床に近い空気を吸い上げる構造になっています。
また、扇風機は人に当てる為に作られているため、ネックの可動域も低いですが、サーキュレーターはプロペラが真上に向けることが出来たりもします。
他にも、扇風機は風を人の全面に当てる構造になっている為、空気が拡散して出る作りになっていますが、サーキュレーターの場合は、風を狭い範囲で出来るだけ遠くに送る設計になっている為、効果が全く違います。
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私が以前使用していた扇風機は、デザイン重視で購入した為か、回すと非情に音が大きく、テレビの音も聞こえないほどなのですが、一方で風の強さはというと、床近辺に寝かせた状態で起動させた場合、風が天井までぎりぎり届くか届かないかぐらいでした…
効果がまったくなかったわけではありませんが、うるさい割には効果が低いという印象でしたが、今回購入したサーキュレーターは、かなり静かだったのにも関わらず、『静音』『中』『強』の3段階の『中』で起動させても、天井に届いた風が跳ね返って降りてくる程のパワーが有りました。
ただ、風が拡散したい為、扇風機の用途として使えるのかというと、微妙かもしれませんが。

ちなみにですが、私が購入したのは、日本ではコスパ最強なんじゃないかと名高い、アイリスオーヤマの製品です。
私は首振り機能有りの製品を選んだ為に、3000円近い金額でしたが、首振り機能なしを選べば、2500円で買えるというのは、かなりコスパが良いと思いました。

私と同じ様な悩みをお持ちの方で、解決法を探しておられる方は、一度試しに購入してみてはいかがでしょうか。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第45回 移り変わる宇宙の捉え方(1)『相対性理論』 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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今までの法則に矛盾する光の速度

ですから、今までの速度に関する法則も、この『光の速度は変わらない』という前提で、再度、考えなくてはなりません。速度に関する法則は、時間と距離が分かれば、速度がわかるという、『はじきの法則』と呼ばれるモノの事だと思ってください。
距離が100キロで、そこまでの移動時間が1時間であるなら、100キロを1時間で割ると、時速100キロとなります。
距離を速さで割ると、その地点までの到達時間が解りますし、速さと到達時間をかけると、目的地までの距離がわかります。

この法則は、例えば、徒歩や自動車や電車を使うと言った程度の速度では、今までどおり問題なく使えるわけですが、これが光の速度になると、話が変わってきます。
というのも、光の速度は常に一定であるわけですから、光の速度が絡んだ計算においては、『はじきの法則』の速さの部分は、常に30万キロで固定されてしまうわけです。
速さが常に30万キロで固定されるということは、計算式を合わせるためには、残りの距離と時間の方を調整せざるをえない状態になってしまいます。

観測者の速度によって変化する時間

では、具体的にはどんな現象が起こるのかというと…限りなく光の速度に近い宇宙船が開発されたとして、そのロケットに乗っている人の時間はどうなるのかというと、高速に近づけば近づく程、時間は徐々にゆっくり流れていくようになります。
私は科学の専門家ではないので、この解釈があっているのかどうかは分からないという前置きをして、先程の例についての自分なりの解釈を言わせてもらうと、光の速度は秒速30万キロで、この速度は、どの状態で観測しても同じということは確定しているわけです。
この前提で、光の速度まで加速できるロケットに乗って光と競争すると考えると、ロケットは最終的に光の速度まで加速して、光と並走する事が出来るはずなんですが…

実際には並走できず、高速に近い加速をしたとしても、窓から見える光は秒速30万キロで、ロケットを追い抜いて行くことになります。
この辻褄を合わせるためには、ロケットの時間がゆっくりになっていって、光の速度に到達した時に、ロケットの時間が止まってしまえば、辻褄は合うことになりますよね。
動画の再生をイメージしてもらえれば分かりやすいかもしれませんが、新幹線が走っている姿を間近で撮った動画を、そのままのスピードで再生すると、早すぎて、何がなにか分かりませんよね。

でも、再生速度をゆっくりにしていくと、新幹線のスピードはドンドン落ちていって、一時停止をすると、新幹線は完全に止まって静止してしまいますよね。
この再生速度の低下を、時間がゆっくり流れていくという現象に、そして、ロケットの速度が光の速度と同じになった時に、時間が停止する。 動画でいうと、一時停止状態に置き換えてみると、分かりやすいかもしれません。
ロケットが光の速度と同じ、秒速30万キロの速度が出ていたとしても、そのロケットの時間が停止してしまうと、そのロケットは動かないわけですから、止まっている状態となります。

時間が止まってロケットが静止している状態で、競争している光を観測すると、光は秒速30万キロでロケットを追い抜かしているように見える為、辻褄は合いますよね。
今回の例では分かりやすいように、ロケットのスピードが光と同じ速度まで出ているとしましたが、原則としては、光速と同じ秒速30万キロに到達する事は無いようなので…
どれだけ技術が進んだとしても、光の速度と同じスピードのロケットは作ることは出来ません。

ですが仮に、光の速度の99%の速さで進むロケットが開発された場合は、そのロケット内の時間は、かなりゆっくりと動くことになります。
ここで注意が必要なのは、時間がゆっくり流れているからといって、宇宙船の中の人は、全てのものがスローに見えていたり、ゆっくりしか動けないというような状態に成るわけではないという事です。
宇宙船の中でも、時計は1秒を普通の感覚と同じ様に刻み続けますし、宇宙船の中の人は、普段と同じ様なスピードで動けます。

伸び縮みする空間

宇宙船の中の人は、時間の流れの変化は感じないわけですが、実際のロケットは、時間経過がゆっくりになるということです。ただ、ロケットの時間が遅くなるとすると、おかしな状態になってしまいますよね。
どれだけ早い乗り物を作ったとしても、その乗り物が加速すればする程、その割合に従って時間がゆっくりになっていくのであれば、早い乗り物を作ったとしても、意味がなくなりますよね。
先程の動画の例を思い出してもらえれば解りますが、時間経過がゆっくりになれば、それに応じて乗り物のスピードもゆっくりになってしまうわけですから、速い乗り物を作る意味がなくなります。

また、現実の世界とも矛盾しますよね。
頑張っても時速30キロしか出ない自転車と、時速100キロでる自動車とが競争すれば、当然、時速100キロでる自動車の方が競争に勝つことが出来ます。
当然のように、時速100キロの自動車と、限りなく光の速度に近いスピードが出るロケットが競争すると、ぶっちぎりでロケットが勝つでしょう。

仮に、光の速度で1年かかる距離、つまり1光年先にある目標に、この限りなく光の速度に近いロケットで向かったとすると、そのロケットは1年ちょっとで目標地点まで到達できるはずです。
しかし、先程も言いましたが、光の速度に近づけば近づく程、ロケットの時間は限りなく停止していくわけで、時間停止に伴ってロケットの速度も停止していくはずなので、目的地には、いつまで経っても着かないはずです。
でも実際には、1年ちょっとで目的地には着くんです。 この辻褄を合わせる為には、どうしたら良いかというと… 光の速度に近づくほど、空間の方が縮んでいる事になれば、辻褄は合いますよね。

仮の話ですが、光の速度と全く同じスピードでるロケットが作れた場合、そのロケットが加速して光の速度に到達した時点で、ロケットの時間は停止するわけですが、それと同時に、目的地までの空間が縮んで、距離がゼロになるとします。
ロケットの時間が停止して、乗り物自体が移動することができなくなっても、目的地までの距離がゼロになれば、ロケットは目的地に到達していることになるので、矛盾はなくなるということなんでしょう。
何度も言いますが、私は科学の専門家ではないので、このあたりの解釈は間違っているかもしれないので、気になる方は自分自身で調べてみてくださいね。

観測者ごとに違って見える世界

つまり物体というのは、光の速度に近づけば近づくほど、その物体の時間は遅くなっていくわけですが、それと同時に、進行方向の空間も縮んでいくという事です。
光の速度に近い速度が出る乗り物に乗った場合、そのロケットに乗っている人の時間はゆっくり進んで、その上、目標地点までの距離は縮むので、光の速度で1年かかる距離にある地点には、体感では1年かからずに到達します。
ロケットが、光に対してどれぐらいの速度が出るかにもよるのでしょうが、光の速度に限りなく近い速度が出せるのであれば、1光年先にも、体感時間としては、数分で着くという事です。

ただ、そのロケットに乗り込まず、外から観察している人、例えば、地球の地面の上でロケットを観測している人がいたとすると、そのロケットは、1年以上かけて目的地に到達することになります。
つまり、時間や空間というのは、光速に近い速度が出るロケットに乗っている人や、地面に座って動かない人など、人それぞれの状態によって変わってしまうという事のようなんです。
当然の事ですが、人それぞれの状態によって、体感時間の差も生じてしまいます。

先程の、光の速度に近いロケットで1光年先まで行く例でいうなら、ロケットに乗っている人にとっては数分の時間しか経過していない事になりますが、地球で観測している人からすると、ロケットの到達時間は1年以上かかっている事になります。
この体感時間の差の事を、浦島太郎のおとぎ話と同じ様な出来事ということで、ウラシマ効果といったりもします。

これは、言葉だけで聞いていても分かりにくいと思うので、映像などで観てみると良いかもしれませんね。
ウラシマ効果は、SF作品で結構使われていたりもしますが、個人的には、『トップをねらえ!』というアニメ作品をお勧めしたいですね。
このアニメでは、スピードを加速して光の速度に近づけば近づくほど、地球のカレンダーが高速で進んでいくという表現で、ウラシマ効果を表現していて、分かりやすいと思います。

相対性理論は、この他にも、重力とスピードが同じといった話もあるのですが… 結構長くなってきましたので、その話は次回にしようと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第45回 移り変わる宇宙の捉え方(1)『相対性理論』 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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前回の振り返り

前回は、科学では真理を見つけ出すことが出来なというソクラテスの主張を説明する為に、ゼノンのパラドクスなどを持ち出して、理論の話を現実世界に持ち込むと、不具合が出るという話をしていきました。
今回は、科学の理論そのものも、そこまで信用できるものではないのかもしれないということについて話していきます。

一応言っておきますと、今から、科学の例を出しますが、私は科学の専門家ではないので、理解が不足していたり解釈が違っていたりするところも多いと思います。
気になるところがあれば、自分自身で調べられることをお勧めします。

ニュートンが考えた宇宙

気を取り直して続けましょう、宇宙の構造や法則についてですが、例えば、ニュートンが思い描いていた宇宙は、もっとシンプルな構造をしていました。
規則正しく線が引かれた方眼紙の上に、星々が配置されている様なイメージといえばよいのでしょうか…
昔考えられていた宇宙空間では、平行線も交わることがない、計算しやすいものとして、宇宙空間というものがもっとシンプルに捉えられていました。

時間も同じで、絶対的な時間というものが存在していて、どの環境にいようが、全ての場所で同じ時間が経過していると考えられていました。
この考え方というのは、特殊な考え方でも何でも無く、普通の感覚… 何を持って普通というのかは、ひとまず置いておいて、多くの人がイメージしやすい考え方だと思います。
今、私達が感じている5分という時間は、エベレストの頂上でお同じ5分で、地球の周りを高速で回転している衛生の中でも、同じ5分。

場所や環境が変わったところで、5分間という時間そのものは変わることはなく、時間は一定のスピードで、全ての空間で等しく流れている…
そう考えるのが、わかりやすいですし、自然な考えではないでしょうか。
もし、人によって時間が変わるのであれば、人と待ち合わせるといった事も出来なくなりますよね 『10分後に集合しよう』と決めて、その10分が条件によって変わるのであれば、集合しようという取り決めは意味がなくなります。

歪む空間と時間

ですが、アインシュタインの登場によって、この科学的な常識が破壊されます。
空間というのは、重力によって捻じ曲げられるという事が分かってしまいました。 これは、分厚いスポンジの上にボーリングの玉を置くと、スポンジが大きく沈むこむような感じで、空間そのものが重力の影響を受けて歪んでしまうということです。
スポンジの上に置く物体が重ければ重いほど、スポンジはより深く、広範囲に沈み込むことになりますが、空間のゆがみ方もそれと同じ様に、重力の強さによって、歪み方も影響範囲も変わります。

つまり空間というのは、私達が思っている程、単純なものではなかったということです。
私達が存在している宇宙は、規則正しく線が引かれた方眼紙のようなモノの上に成り立っているのではなく、物が、ただ存在しているだけで、空間そのものが歪んでしまう複雑なものだとうことが解ります。

これは時間も同じで、この世には絶対的な時間というものは存在せず、時間そのものが相対的なものである事が分かってきました。
この事が何故わかったのかというと、光の速度がどの時間、どの状態で観測したとしても、同じ、秒速30万キロだったからなんです。でも、これって、かなりおかしい事ですよね?

地球上で光を観測する

例えば、地球というのは、音速並みのスピードで自転しています。これは、飛行機のフライト時間で考えると分かりやすいかもしれません。
日本の裏側にある国はブラジルと言われていますが、日本からだと地球の半周に当たるブラジルまで飛行機で行くとすると、24時間以上かかってしまうのに、地球は1周回るのに24時間しかかかりません。
つまり簡単にいえば、地球の地面のスピードは、飛行機の速度の倍ということになります。地球の赤道の長さが4万キロなので、それを24時間で割ると速度が出せるわけですが、計算すると地面の速度は時速1,666キロ。1秒間で約500M進む事が分かると思います。

朝、太陽が東から登ってくるという事は、地球の自転によって、地面が太陽の方向に向かって動いているわけですから、普通に考えれば、太陽の光を観測した場合、太陽光の速度は地球の自転のスピードを足した数字になるはずです。
逆に、夕日を観測した場合は、地面は太陽から離れる方向に動いているわけですから、太陽光の速度は、地球の自転を引いた数字にならないとおかしいですよね。
少しわかりにくいかもしれないので、自動車の例を出して説明してみましょう

相対速度

これは、相対速度という考え方なのですが、例えば、自動車が2台あって、1台が止まっていて、もう一台の車が時速100キロで止まっている車を横切ったとしましょう。
この時、お互いの車に乗っている人は、車に乗っている観測者が時速100キロですれ違った事を観測する事ができます。
次に、時速100キロで走る車に並走する形で、もう一台の車が時速100キロで走ったとすると、車に乗っている人達は、互いの車を見ても止まっているように見えます。

実際には、タイヤは回っていますし地面も景色も動いていますから、止まっているとは思わずに並走していると思うんでしょうが、車に乗っている観測者だけに焦点を当てると、常に自分の隣りにいて動いていないわけですから、止まっているように見えます。
次に、片方の車が時速100キロで走り、もう一方の車が時速70キロで走ったとすると、時速100キロで走っている車に乗っている観測者から見れば、もう一方の車の観測者は時速30キロで後退しているように見えますし…
逆に、時速70キロで走っている車に乗っている観測者から見れば、もう一方の車の観測者は時速30キロで進んでいっているように見えます。

また、2台の車が時速100キロで、お互いの車に向かうような形で進んだ場合。 仮に、左からA地点B地点C地点として、車がA地点とC地点にあって、お互いの車が時速100キロでB地点ですれ違うという場合ですね。
この場合は、お互いの観測者は、時速200キロですれ違っているように見えます。

光速度不変の原理

この、相対速度という考え方を、先程の太陽から出る光に当てはめると、理解がしやすいと思います。
太陽に向かって進んでいる状態で太陽光を観測すれば、太陽光の速度は時速30万キロという速度にプラスして、地球の自転スピードの時速、約1700キロを足した数字で計測されるはずです。
逆に、太陽から遠ざかる時間帯に太陽光を観測すれば、太陽光の速度は時速30万キロから地球の自転スピードを引いた数字で計測されるはずですよね。

他の例でも説明してみると、車のヘッドライトを付けた状態で前進した場合、ヘッドライトから出ている光のスピードは、車の速度+光の速度になるはずです。
逆にバックをした場合、光のスピードは車の速度を引いた速度になるはずですよね。

しかし実際に計測してみると、光の速度はどちらも同じ、秒速30万キロだったんです。 これを、『光速度不変の原理』、つまり、光の速度はどの状態で観測しても、同じ速度ですよという原理なんですが…
でもこれって、かなりおかしな事ですよね? 今までの普通の物理の法則から考えても、かなり常識から外れているように思えます。

仮に、光が右から左に秒速30万キロで動いているとして、光と同じ速度が出る乗り物で、同じ様に右から左に移動した場合、普通なら、光の速度に追いついて、止まっている状態の光を観測できるはずですよね。
でも、この『光速度不変の原理』では、仮に、秒速30万キロで動く乗り物が完成したとして、光と同じ速度で並走したとしても、その乗り物から観測した光は止まっているように見えず、秒速30万キロで同じ方向に進んでいるように見えるということです。
秒速30万キロの乗り物を、光が秒速30万キロで追い抜いているなら、では、光の速度は秒速60万キロに加速しているのかといえば、そうではありません。
秒速30万キロの乗り物と光との競争を、少し離れた位置で地面に座ってみている人がいた場合、その人が光の速度を観測した場合、光の速度は30万キロしか出ていないんです。

これって、かなりの矛盾ですよね。ですが、どんなにオカシクても、今までの考え方に矛盾したことであっても、観測結果によって『そういう事実があるらしい』という事が分かれば、それを踏まえた上で仮説を積み重ねていくのが科学です。

つづく

明石市長の件を機に パワハラについて考えてみた

先日、明石市長のパワハラ発言が問題になりました。
https://abematimes.com/posts/5640899abematimes.com

私としては、市長の主張の全てに同意できるものではありませんが、カッとなってしまったことに関しては、自分の立場も踏まえると共感できる部分があったので、これを気に今回は、パワハラについて考えていこうと思います。
誤解のないように最初に書いておきますが、私は市長の発言を正当化するつもりもありませんし、問題は有ると思っています。
この市長は、職員に対して犯罪行為を進めるような言動をしている為、それはどんな事情があったとしても許される発言ではなかったと思っていますので、ご了承ください。

私が視聴に対して同情をしている部分は、『中間管理職』という、置かれている境遇です。
市長が中間管理職?と思われる方も多いと思いますが、私としては、実質的には市の責任者であっても、選挙で選ばれる市長は絶えず市民の方を向いて仕事をしなければならない為、立場的には、『市民』という数多くの上司を抱えている中間管理職と同じようなものだと認識しています。

結論から書いてしまうと、この、中間管理職という立場が、パワハラを生み出しているように思えます。
パワハラをしている人間は、一方的な加害者というわけではなく、ある意味では、被害者なのではないか。
つまり、パワハラをする個人だけに原因が有るわけではな無く、社会システムに不具合の為に、パワハラた生み出されているのではないかという主張です。

社会システムの不具合

人が作り出す社会というのは、多くの場合がピラミッド高層になっていき、少ない上層部が多くの人間を支配できる作りになっています。
人はピラミッドの様に階層分けされ、裾野の広い下層部分は、グループや班といった具合に分けられて、班長などが決められる。
上から降りてきた指示は、それぞれのグループの体表を通して末端まで伝えられ、組織全体が動くような仕組みになっています。

中間管理職とは、自分自身が携わっている現場と、トップをつなぐ役割の人と認識してください。
組織が大きくなればなる程、この中間管理職の数は多くなり、トップからの指令は伝言ゲームの様に数多くの人間を通して伝えられることになります。

この中間管理職ですが、何が辛いのかというと、上から現場の責任は押し付けられるが、自分には裁量が与えられていない事だったりします。
つまり、自分が管理するグループに、誰の目から見ても明らかにやる気がなく、仕事をサボることしか考えていないような人間が配属されたとしても、その人間を自分の権限では解雇することが出来ないんです。
組織が大きくなればなるほど、その権限を持つような上司に相談しようにも、何人もの上司に話を通さなければならなかったり、仮に、権限を持つ人間に辿り着けたとしても、『そのような人材を使える人間にするのが、君の仕事じゃないか。』と言われて終了ということも有る。

上から成果を出すように圧力がかけられている状態で、全くやる気がない人間が目につくと、思わずカッとなってしまうのは、人間としては仕方のない事のようにも思えてしまいます。

全くやる気がない人間

パワハラの議論がされるときというのは、大抵の場合が、一生懸命やってる人間に対して上司が、職場で上の立場だということを利用して虐めるといったケースが紹介されます。
上司や経営者がサイコパスで、部下を虐めたり、長い拘束時間を課す事で優越感に浸ったり、ストレス発散の為に怒鳴り散らしたりするケースのことですが、これらのケースでパワハラ加害者やその行為の正当化をするつもりはありませんし、同情する余地もないと思っています。
しかし、この様な分かりやすいパワハラは、全体のどれ位の割合を占めているのでしょうか。 そうでないケースは無いのでしょうか。

これは私事になるのですが、私も中間管理職の様な立ち位置だったりします。
私の職場は人数そのものが少ないので、私が指示を出す人間は1人だけなのですが、この人物。 仕事に対してのやる気がまったくない。

仕事の時間中、ずっと考えていることは『いかにしてサボるか。』ということで、労働時間中、サボればサボるだけ、自分が得をすると思いこんでいる。
頭の中は常に、怒られないギリギリラインでサボるには、どの様に振る舞えばよいのかといった事を考えている為か、指示したことも上の空だし、仕事のやり方を教えても全く覚えませんし、仮に覚えても3日後には綺麗サッパリ忘れます。

こういったことを書くと、『何故、他人の考えていることが分かるの?超能力者なの?』『その人はその人なりに一生懸命やってるはずだよ。』といった反論をしたい気持ちになる方もいらっしゃると思います。
しかし、私はこの人物、仮にAさんとしましょう。Aさんと昨日今日、仕事を共にしているわけではないのです。 もう20年近く一緒にいて、そばで仕事のやり方を見ているので、行動で分かるのです。
これだけでは抽象的なので、具体的な例を書いてみましょう。

その人物は、20年仕事をしていますが、20年間仕事のやり方を教えたけれども、1つの仕事しか覚えることが出来ませんでした。
まぁ、これはこれで良いでしょう 1つの仕事でも真面目にしてくれるのであれば、こちらとしては助かります。

その仕事とは、昔は内職に出していた簡単な製造の仕事で、一人で完結させることが出来る仕事です。
この仕事を、私も同じ作業部屋で一緒に行った場合は、Aさんは1時間で100個の商品を完成させます。
しかし、私が離れた場所にある倉庫整理などの仕事をする為に、作業部屋を3時間ほど離れ、Aさんが部屋で一人で仕事を行う状態になると、3時間かかって100個しか完成することが出来ません。

部屋に誰もおらず、注意されないという状況下では、作業効率が3分の1になるんです。

私としては、私が同じ空間に居ても居なくても、同じ効率で作業をして欲しいと思っていたところ、ある日、就業時間の3時間前に、私だけが作業部屋以外での仕事が指示されました。
作業部屋にはAさん一人なので、またサボられるわけですが、作業部屋には300個の商品が完成できる材料があった為、私はAさんに同じスピードで作業をしてほしいという思いを込めて、『その材料を全て完成させられたら、今日は帰って良いです。』といって、作業部屋をさりました。
私が一緒に作業している時のAさんの作業スピードは、1時間で100個の完成なので、就業時間終了まで残すところ3時間でのこの指示は、実質、就業時間が来たら帰って良いという指示と同じです。

その言葉を伝え、私は倉庫の方で別の作業をしていたところ、1時間もしない内にAさんが倉庫の方にやってきて、『作業終わったので帰りますね。』といって去っていきました。
半信半疑で作業場に戻ってみると、そこには300個の完成された製品が置かれていました。 たった1時間の出来事です。
つまりAさんは、本気を出せば1時間で300個完成させる能力が有りながら、就業時間まで帰れないと分かっている時には、1時間で100個のペースに落とし、誰にも注意されない1人の環境だと、更に作業スピードを3分の1に落としていたわけです。

当然ですが、翌日、『もっと、速いペースで仕事できるよね?』と訪ねるも、Aさんは『すみません』としか言いません。ペースは当然、1時間で100個ペースです。 私が居ない時には3分の1にペースが落ちます。
厳密にいうと、『もっと早く出来るよね?』と私が行った瞬間、15秒程だけ作業スピードが3倍ぐらいになり、その後15秒かけてゆっくりになり、私が急かしてから30秒も経つと、ペースは元に戻ります。

他の例も出すと…
Aさんは、基本的に上の空なので、仕事上の注意や作業のやり方を教えても覚えません。 仮に覚えても、3日も経つと同じ失敗を繰り返します。
この様な状態でも、注意しないと失敗を繰り返され、商品が駄目になってしまう為、間違ったことをされると注意せざるを得ません。
その時のやり取りが、この様な感じです。

私『この作業で、◯◯をやったら駄目だって言いましたよね。』
A『すみません。』
私『これ、3日前にも言ったけれども、覚えてますか?』
A『すみません。』

私『すみませんだけでは、こちらは貴方が分かったのか分かってないのかが判らないので、他の言葉で答えてもらって良いですか?』
A『すみません。』
私『だから、すみませんじゃ分からないんですけれども…』
A『すみません。』

私『この作業の時、何をしたら駄目なんでしたっけ?』
A『すみません。』
私『今までの話、聞いてましたか?』
A『すみません。』

私『聞いていたか、聞いていなかったのかの、どちらかで答えてもらって良いですか?』
A『すみません。』
私『もしかして、からかってます?』
A『すみません。』
・・・

就業時間が迫っていた為、私はAさんに帰るようにいうと、Aさんは急に笑顔になり、鼻歌を歌いながら帰り支度をして帰っていきました。
そして翌日、全く同じ失敗をしました。 私が、『昨日、帰る前にした注意を覚えてますか?』といった質問に対しても、当然、『すみません。』しか言いません。

このAさんは、Aさんなりにサボること無く、一生懸命頑張っているのでしょうか? やる気があるのでしょうか?
私も人間なので、この様な態度を何年にも渡って取られ続けると、気分は良くありません。 しかし、この態度を受けて怒ってしまうとパワハラ認定されてしまいます。
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権限のない中間管理職

このようなことが長年続くと、私も精神を病んできますので、解雇できる権限がある人間に『あの人は、辞めてもらった方が良いのではないか。』と進言したことがあります。
しかし、権限の持つ人間は、『そういう人間に、やる気を出させるのがお前の仕事だろ。』と言った感じの事を言ってきます。
私の職場の場合は、私自身にノルマを課したり、過剰な成果を求めたりはしない為、私はAさんが存在しないものとして、出来るだけ関わらずに仕事をすることで、精神を安定させる事が出来ましたが…

これが、もっと大きな組織で、中間管理職に成果を求めるような職場だったらどうでしょう。
例えば、10人のグループをまとめる立場に居て、その内の9人は積極的に仕事をこなして真面目にしているけれども、1人がAさんのような人だった場合。しかも、作業が先程のような1人で完結する仕事ではなく、複数人の連携が必要な仕事だった場合。
グループ内の9人の人達からは、『Aさんがサボってるので、作業が遅れてます。なんとかしてください!』と、まとめ役である人物は迫られるでしょう。

成果を求める組織の場合、上司からは『なんで成果が出てないの? ちゃんと10人で連携してる?』と圧力をかけられるでしょう。
この様な状態で、『Aさんが仕事をしなくて… 解雇して、代わりの人を用意してもらって良いですか?』と進言しても、『Aさんの やる気を出させるのも君の仕事だろ!』と言われたとしたら?
これを読んでいる貴方は、普通の精神状態でいられるでしょうか。 

ここでカッとなってAさんを怒ってしまうと、貴方はパワハラ野郎になってしまいます。
現状のこの様なシステムを変えず、ただ闇雲に『パワハラは駄目だ!』というのは、中間管理職に全責任を押し付けて、追い込むことにしかならないと思うんです。

では、システムを変える場合、どの様に変えれば良いのでしょうか。
1つは、現場に権限を与えることでしょう。 この場合で言えば、10人のグループをまとめているリーダーに、人を解雇したり他の部署の人間と配置転換出来るような権限を与えるだけで、だいぶ変わるように思えます。
リーダーに権限を集中させるのが駄目であれば、グループ10人の多数決。もしくは、何割以上の賛成が得られればグループから解雇できるといった感じで、現場にある程度の権限を移譲することで、中間管理職のストレスも軽減できるでしょう。

他の方法としては、タスク一つ一つに値段をつけてしまうという案もあります。
先程の私の職場の例でいえば、月給や日給という時間給ではなく、単純作業で製品を作るという仕事を、製品1個あたりの完成につき5円の報酬が得られますとしてしまうことです。
この場合は、仮にAさんの様に誰も見ていないところでサボった場合は、Aさんの給料が減るだけです。
Aさんが1時間で100個製造をした場合は時給が500円になるわけですが、Aさんがやる気を出して1時間で300個製造すると、時給は1500円に上昇します。 逆にサボれば、3時間で500円しか貰えません。

このシステムを導入すると、作業員がサボろうがサボるまいが、製品における人件費が変動しない為、『サボるな!』と注意する必要もありません。 製造が間に合わなくなれば、追加で人を補充すれば良いだけです。

こういったシステムの変更無しに、現状でただ『部下にに圧力をかけるな!』というのは、中間管理職の人全員に、『感情を捨てろ!』だとか『悟りを開け!』と言っているようなもので、かなり無茶だと思ってしまいます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第44回 ゼノンのパラドックス 『アキレスと亀』 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
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機械論と決定論永遠回帰

永遠回帰論とは、物理法則に従って物が動き続けて、時間が無限に存在し続けるのなら、この宇宙もビリヤード台のボールと同じ様に、長い目で見ると繰り返しが起こっているという考え方です。
当然ですが、人間の行動も長いサイクルで観ると繰り返しになっている為、この問題は、自由意志の問題と密接に関係してきます。
つまり、宇宙が繰り返すたびに、同じ様な人間が生まれて、その人間は同じ行動を繰り返すということで…
言い換えれば、人間の思考や行動も物理法則と同じ様に動くという考え方なので、、仮に、この考え通りに宇宙が動くなら、そこに自由意志は存在するのかという問題になるということです。

ソクラテスが主張したことは、自分は無知だし、それを知っている存在だけれども、自分に『意思』がある事はわかっているよ。という主張なんでしょう。
確かに、自由意志が存在せずに、自分の『意思』がなく、自動的に物理法則に従って動いているのであれば、今、自分が自分だと認識している『この私』は、何なんだという事になりますよね。
自動で勝手に動くのであれば、変に意識など無いほうが楽かもしれない。なまじ、意識があるから、辛いことが認識できて生きることが辛くなる事もあるでしょうし、答えがあるのか無いのか分からない事柄に対して頭を悩ませることになります。

自分が必死で悩んで、なんとか決断を下した結論も、メカニズムに従って、下す決断が既に決まっているのであれば、悩む必要もなく、感情のない状態で機械的に決断した方が楽かもしれない。
でも実際には、悩み抜いて決断を下した『この私』というものが、実感としては確かに存在します。
この、自分自身が実感している『この私』というのを物理学的に説明することは、果たして出来るんでしょうか?

現実の世界に当てはまらない論理の世界

この他にも、理論上の考えを現実世界に当てはめると、うまく当てはまらないものは多くあります。
例えば数学ですが、計算問題で1+1=と問われれば、多くの人が『2』だと答えると思いますが、現実世界ではそうなんでしょうか?

例えば、車で走っている最中に雨が降ってくると、車のフロントグラスに雨粒がつくという現象は、多くの方が経験したことがあると思います。
この雨粒ですが、一粒の雨粒と一粒の雨粒が重なった場合、何粒の雨粒になるのかというと、1粒の雨粒となります。
雨粒を構成している水の量は2倍になっていますが、『何粒になったのか』と質問されれば、1粒だと答えるしかありません。数式でいうと、1+1=1という事になります。

では逆のケースを考えてみましょう。 夕立などで比較的大粒の雨水の一つがフロントグラスにあたった際に、1粒の雨粒が5つに分かれたとしましょう。
この場合、雨粒の数に焦点を当てると、1÷5=5になってしまいます。

アキレスと亀

この他にも、いろいろなパラドクスが存在します。『アキレスと亀』なんかが有名ですよね。
アキレスと亀』は、アキレスという足の早い英雄でも、事前にハンデを渡してしまうと、のろまな亀を追い抜くことが出来ないというパラドクスです。

このパラドクスについてもう少し詳しく話すと、例えば、100メートルの距離でアキレスと亀とで競争をする際に、アキレスの足が早すぎて勝負にならないので、亀に50メートルのハンデを与えたとします。
この条件で競争をした場合、アキレスはまず、亀が最初にいた場所である50メートルの位置まで数秒かけて到達しなければなりませんが、この数秒の間に、亀は1メートル前に進んでいると、差は縮まるけれども、追い抜けていない状態になります。
次に、アキレスが亀を追い抜こうとした場合、先ほどと同じ様に、アキレスは亀がいた51Mの位置まで到達しなければならないわけですが、その僅かな時間で、亀も僅かに進んでいるため、差は縮まるけれども、追い抜いていない状態は継続することになります。

この様に、追い抜こうとする際には、まず、相手がいた場所まで到達しなければならないわけですが、その場所に到達するのにわずかでも時間がかかる為、その時間を使って相手はわずかに先に移動する…
これを無限に繰り返していくと、アキレスはいつまで経っても、亀に追いつくことが出来ないというのが、『アキレスと亀』というぱらどくすです。
ここで、よく勘違いされているのが、『アキレスと亀』というパラドクスは、現実世界では、アキレスは亀を追い抜かすことが出来るけれども、理論的な世界では、亀を追い越せずに、アキレスは亀に負けると思っておられる方もいらしゃるかもしれませんが…

このパラドクスは、そういう事ではありません。
アキレスと亀』が抱えている最大の矛盾は、アキレスが亀を追い抜くまでの秒数という、限られた有限の時間を、無限分割することが出来るという矛盾です。
言い換えるなら、有限という限界が限られている条件の中に、無限が存在することが出来るのかというパラドクスです。

有限の中に無限を収める事は出来るのか

この、分割という考え方でいえば、以前に勉強したイオニア自然学の原子論という考え方がありましたよね。
原子論は、物質を構成する最小単位があるという理論でしたが、この理論は見方を変えれば、有限のものを無限分割することは出来ないという理論とも考えられます。
つまり、物質という有限のものを分解していくと、最終的には『それ以上分解できない最小単位』に到達するという考え方です。

実際に見て触れる事が出来る物質の場合は、分解していくことで最小単位に突き当たるというのは、この理論が実際問題として正しいのかは置いておいて、理解がしやすいと思います。
ですが、時間という、観ることも触れることも出来ないモノの場合はどうなんでしょうか。
時間というのは実態が存在するわけではないので、表現する場合も数値で表す事になりますが、数値で表すということは、無限に分割が出来てしまいます。

『飛んでいる矢は止まっている』

また、人が抱くイメージとしても、最小単位があるとは考えにくいですよね。
仮に最小単位があったとすると、最小単位の時間まで分割して物質の移動を観察した場合、動画でコマ送りするような感じで、飛び飛びで物質が移動しているのかという話にもなります。
この、時間に最小単位があって、空間を移動する物質はコマ送りで移動しているというのは、『飛んでいる矢は止まっている』という別のパラドクスを生み出すことになります。

『飛んでいる矢は止まっている』というパラドクスは、先程いった、時間に最小単位があったとして、その最小単位に瞬間という名前を付けるとするなら、その瞬間の中では、放たれた矢は静止しているという事です。
つまり、時間に最小単位があるのであれば、移動とは静止している瞬間の連続という事になってしまうという事です。
ですが、静止しているものを寄せ集めたとして、それは移動しているとこになるのだろうかというのが、このパラドクスです。

ゼノンのパラドックス

そうではなく、時間は何処まで分割したとしても、移動する物体は飛び飛びのコマ送りにならず、なめらかに動くとするなら、時間は無限分割が可能ということになる為、有限という限られた時間を無限に分割することが出来ることになってしまいます。
この、『アキレスと亀』と『飛んでいる矢は止まっている』というのは、ゼノンのパラドクスと言われていて、時間が無限分割可能であっても不可能であっても、矛盾が起こってしまいますよねという話です。

何故、理論の世界のものを現実世界に当てはめると、この様に変なことが起こってしまうのかというと、現実世界には様々な観点があるからです。
最初の雨粒の足し算、割り算でいえば、水の量という観点から見れば、数学的な見方でも問題は起こりませんが、個数という観点から観ると、途端に計算が合わなくなります。
時間の無限分割の話も、時間という長さの尺度に対して、無限の『位置』『ポイント』を置く事は可能なのですが、『長さ』と『位置』という違った観点のものを組み合わせる事で、パラドクスが起こります。

この様に、理論の世界を現実世界に当てはめるというのは、間違った解釈を生んでしまう可能性があります。
これらの例とは別に、そもそも、科学者が発見した法則そのものが信用できないという考えもあるのですが、その話は、また次回にしていこうと思います。

つづく
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