だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第44回 ゼノンのパラドックス 『アキレスと亀』 後編

広告

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
www.youtube.com

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

機械論と決定論永遠回帰

永遠回帰論とは、物理法則に従って物が動き続けて、時間が無限に存在し続けるのなら、この宇宙もビリヤード台のボールと同じ様に、長い目で見ると繰り返しが起こっているという考え方です。
当然ですが、人間の行動も長いサイクルで観ると繰り返しになっている為、この問題は、自由意志の問題と密接に関係してきます。
つまり、宇宙が繰り返すたびに、同じ様な人間が生まれて、その人間は同じ行動を繰り返すということで…
言い換えれば、人間の思考や行動も物理法則と同じ様に動くという考え方なので、、仮に、この考え通りに宇宙が動くなら、そこに自由意志は存在するのかという問題になるということです。

ソクラテスが主張したことは、自分は無知だし、それを知っている存在だけれども、自分に『意思』がある事はわかっているよ。という主張なんでしょう。
確かに、自由意志が存在せずに、自分の『意思』がなく、自動的に物理法則に従って動いているのであれば、今、自分が自分だと認識している『この私』は、何なんだという事になりますよね。
自動で勝手に動くのであれば、変に意識など無いほうが楽かもしれない。なまじ、意識があるから、辛いことが認識できて生きることが辛くなる事もあるでしょうし、答えがあるのか無いのか分からない事柄に対して頭を悩ませることになります。

自分が必死で悩んで、なんとか決断を下した結論も、メカニズムに従って、下す決断が既に決まっているのであれば、悩む必要もなく、感情のない状態で機械的に決断した方が楽かもしれない。
でも実際には、悩み抜いて決断を下した『この私』というものが、実感としては確かに存在します。
この、自分自身が実感している『この私』というのを物理学的に説明することは、果たして出来るんでしょうか?

現実の世界に当てはまらない論理の世界

この他にも、理論上の考えを現実世界に当てはめると、うまく当てはまらないものは多くあります。
例えば数学ですが、計算問題で1+1=と問われれば、多くの人が『2』だと答えると思いますが、現実世界ではそうなんでしょうか?

例えば、車で走っている最中に雨が降ってくると、車のフロントグラスに雨粒がつくという現象は、多くの方が経験したことがあると思います。
この雨粒ですが、一粒の雨粒と一粒の雨粒が重なった場合、何粒の雨粒になるのかというと、1粒の雨粒となります。
雨粒を構成している水の量は2倍になっていますが、『何粒になったのか』と質問されれば、1粒だと答えるしかありません。数式でいうと、1+1=1という事になります。

では逆のケースを考えてみましょう。 夕立などで比較的大粒の雨水の一つがフロントグラスにあたった際に、1粒の雨粒が5つに分かれたとしましょう。
この場合、雨粒の数に焦点を当てると、1÷5=5になってしまいます。

アキレスと亀

この他にも、いろいろなパラドクスが存在します。『アキレスと亀』なんかが有名ですよね。
アキレスと亀』は、アキレスという足の早い英雄でも、事前にハンデを渡してしまうと、のろまな亀を追い抜くことが出来ないというパラドクスです。

このパラドクスについてもう少し詳しく話すと、例えば、100メートルの距離でアキレスと亀とで競争をする際に、アキレスの足が早すぎて勝負にならないので、亀に50メートルのハンデを与えたとします。
この条件で競争をした場合、アキレスはまず、亀が最初にいた場所である50メートルの位置まで数秒かけて到達しなければなりませんが、この数秒の間に、亀は1メートル前に進んでいると、差は縮まるけれども、追い抜けていない状態になります。
次に、アキレスが亀を追い抜こうとした場合、先ほどと同じ様に、アキレスは亀がいた51Mの位置まで到達しなければならないわけですが、その僅かな時間で、亀も僅かに進んでいるため、差は縮まるけれども、追い抜いていない状態は継続することになります。

この様に、追い抜こうとする際には、まず、相手がいた場所まで到達しなければならないわけですが、その場所に到達するのにわずかでも時間がかかる為、その時間を使って相手はわずかに先に移動する…
これを無限に繰り返していくと、アキレスはいつまで経っても、亀に追いつくことが出来ないというのが、『アキレスと亀』というぱらどくすです。
ここで、よく勘違いされているのが、『アキレスと亀』というパラドクスは、現実世界では、アキレスは亀を追い抜かすことが出来るけれども、理論的な世界では、亀を追い越せずに、アキレスは亀に負けると思っておられる方もいらしゃるかもしれませんが…

このパラドクスは、そういう事ではありません。
アキレスと亀』が抱えている最大の矛盾は、アキレスが亀を追い抜くまでの秒数という、限られた有限の時間を、無限分割することが出来るという矛盾です。
言い換えるなら、有限という限界が限られている条件の中に、無限が存在することが出来るのかというパラドクスです。

有限の中に無限を収める事は出来るのか

この、分割という考え方でいえば、以前に勉強したイオニア自然学の原子論という考え方がありましたよね。
原子論は、物質を構成する最小単位があるという理論でしたが、この理論は見方を変えれば、有限のものを無限分割することは出来ないという理論とも考えられます。
つまり、物質という有限のものを分解していくと、最終的には『それ以上分解できない最小単位』に到達するという考え方です。

実際に見て触れる事が出来る物質の場合は、分解していくことで最小単位に突き当たるというのは、この理論が実際問題として正しいのかは置いておいて、理解がしやすいと思います。
ですが、時間という、観ることも触れることも出来ないモノの場合はどうなんでしょうか。
時間というのは実態が存在するわけではないので、表現する場合も数値で表す事になりますが、数値で表すということは、無限に分割が出来てしまいます。

『飛んでいる矢は止まっている』

また、人が抱くイメージとしても、最小単位があるとは考えにくいですよね。
仮に最小単位があったとすると、最小単位の時間まで分割して物質の移動を観察した場合、動画でコマ送りするような感じで、飛び飛びで物質が移動しているのかという話にもなります。
この、時間に最小単位があって、空間を移動する物質はコマ送りで移動しているというのは、『飛んでいる矢は止まっている』という別のパラドクスを生み出すことになります。

『飛んでいる矢は止まっている』というパラドクスは、先程いった、時間に最小単位があったとして、その最小単位に瞬間という名前を付けるとするなら、その瞬間の中では、放たれた矢は静止しているという事です。
つまり、時間に最小単位があるのであれば、移動とは静止している瞬間の連続という事になってしまうという事です。
ですが、静止しているものを寄せ集めたとして、それは移動しているとこになるのだろうかというのが、このパラドクスです。

ゼノンのパラドックス

そうではなく、時間は何処まで分割したとしても、移動する物体は飛び飛びのコマ送りにならず、なめらかに動くとするなら、時間は無限分割が可能ということになる為、有限という限られた時間を無限に分割することが出来ることになってしまいます。
この、『アキレスと亀』と『飛んでいる矢は止まっている』というのは、ゼノンのパラドクスと言われていて、時間が無限分割可能であっても不可能であっても、矛盾が起こってしまいますよねという話です。

何故、理論の世界のものを現実世界に当てはめると、この様に変なことが起こってしまうのかというと、現実世界には様々な観点があるからです。
最初の雨粒の足し算、割り算でいえば、水の量という観点から見れば、数学的な見方でも問題は起こりませんが、個数という観点から観ると、途端に計算が合わなくなります。
時間の無限分割の話も、時間という長さの尺度に対して、無限の『位置』『ポイント』を置く事は可能なのですが、『長さ』と『位置』という違った観点のものを組み合わせる事で、パラドクスが起こります。

この様に、理論の世界を現実世界に当てはめるというのは、間違った解釈を生んでしまう可能性があります。
これらの例とは別に、そもそも、科学者が発見した法則そのものが信用できないという考えもあるのですが、その話は、また次回にしていこうと思います。

つづく
kimniy8.hatenablog.com