だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

日本人観光客の京都離れについて京都人が考えてみた

外国人観光客数の増加が凄いはずなのに不景気

私は生まれてからずっと京都に住んでいるわけですが、ここ最近感じる事は、景気が悪いということです。
私の仕事は、主に日本人観光客に向けた製造業なのですが、売上は年々減少傾向。

ウチはB to Bの取引がメインなので、取引先の受注が増えなければウチの受注にも結びつかないわけですが、得意先の売上が年々落ちている状態。
得意先は、八ツ橋であったり饅頭といった和菓子を作る会社が多いわけですが、アジア中心の外国人観光客が饅頭を買って帰るわけもなく、必然的に客は日本人観光客になるわけですが、まぁ売れない。

テレビなどでは、『インバウンド需要が旺盛で凄い!』なんて話を聞きますが、そんな実感は全く無い。
私の携わってる事業や、関係がある取引先だけが業績が悪く、他の人達が良いというのであれば、自己責任といわれても仕方の無い事なのかもしれませんが、そういうわけでもなく、観光業界が全体的に悪い。
ウチが原材料の仕入れを行っているところは、もっと広い視野で見れる為、同業他社の動きにも詳しいわけですが、好業績の会社が見当たらないと言っていたり。
京都 鴨川

日本人観光客の京都離れ

京都の観光客は右肩上がりで、使うお金も増えているという話も聴くが、全くと行ってよいほどに実感がない。
というか、どの分野が業績を上げているのか教えて欲しいというぐらいに、周りで好景気だと主張する人が見当たらない。
そんな状態の中で、この様な記事が発表されました。
www.kyoto-np.co.jp

京都で、日本人宿泊客の減少に歯止めがかからないらしいです。
増え続ける外国人観光客のお陰で、各観光地が非常に混在つし、観光どころではない。そもそも、泊まれない。
結果として、日本人観光客が減ってしまい、ウチの様な業種がモロに影響を受けたということでしょう。

この記事は、京都市の統計を見ても分かりますよね。
http://www.pref.kyoto.jp/kanko/news/2017/7/documents/kankoirikomikyaku.htmlwww.pref.kyoto.jp

京都市の外国人宿泊数が10%増えているのに対し、全体の観光入込客数は3%減っている。

このニュースを受けて、主にTwitterでは、『自業自得』といった感じで、京都を避難するようなコメントが相次いだわけですが…
京都に住んでいる人間としては、何処らへんが自業自得なのかが分からなかったりします。 ネットでは、京都の人間は底意地が悪いとされているから、文句を言っても良いと思われているフシがあるので、その延長線上で悪口を言ってるんでしょうけれども…
匿名のネットで、京都が相手だから非難する行為は、底意地が悪い行為ではないのかって感じですよね。

例えば、京都市民が一丸となって、日本人観光客をないがしろにして外国人観光客を増やす為に努力したとかであれば、『自業自得』といわれても仕方のないことかもしれません。
でも別に、京都の人は外国人観光客数を伸ばす為に頑張ったりはしてないわけです。市とか公的な機関が、どんな働きをしたのかは知りませんが、少なくとも市民レベルでは大々的に外国人観光客誘致はしていません。

というか、京都は電車が発達していないので、車や自転車で移動できない場所に行く場合はバスを利用しなければならないわけですが、外国人観光客はバスに大きなスーツケースを持って入る為、日頃バスに乗る人は迷惑をしていたりします。
また、外国人観光客に限らないのですが、観光客はその辺りで買った食べ物のゴミを、そのまま道に捨てて帰ったりするので、観光地近くの人は掃除の手間が増えるなどの被害を受けていたりします。

お金を使わない外国人観光客

ただ、こういう問題も、地域全体で見てお金が落ちているのならば、我慢もできるんだと思いますが…
外国人が増えた事で、京都に住む人達が潤っているわけでもない。
bookstand.webdoku.jp

最初に書いた私の仕事にしてもそうですが、元々は日本人観光客に向けた仕事なので、外国人観光客が増えたとしても、売上にはつながらない。
外国人観光客が増えて日本人観光客が減少すれば、それだけ売り上げは減ってしまいます。
『外国人観光客にも売れるものを作れ!』と上から目線で言う人もいるでしょうが、彼らが土産物屋で買うものってキットカットやポッキーですからね。 ポッキーを買いに来てる人に、どうやって八つ橋を売るのかって問題もあります

外国人観光客の急増は、飲食店の方にも影響が出ていたりします。
日本人観光客が中心だった昔は、東京の富裕層の人達が、年に1~2回ぐらい京都に訪れて、祇園やら木屋町でお金を使って帰るというのが結構あったそうです。
それが結構、バカにならない売上の様で、春秋のシーズンには、かなり当てにしていたそうです。

しかし、外国人観光客が急増してからというもの、ホテルが取れないという理由から、そういった国内富裕層が京都に訪れなくなりました。
代わりに増えたのが外国人ですが、彼らが同じ様にお金をつかうのかといえば、そんな事はありません。
5人できてコーヒー1杯注文して3時間粘るなんて人が結構な頻度で現れた為に、木屋町界隈では一時期、『店内に入店された際には、最低1人1品は注文してください。』という張り紙があちこちで貼られた程です。

外国人観光客の増加は、もともと、京都の人も手放しで歓迎しているわけではないんですよ。
Twitterなどで京都の非難をしていた人達は、外国人観光客を大切にして日本人をないがしろにしたから、自業自得だという主張なんでしょうが、京都の人からすれば、勝手の来て、お金を使わずに雰囲気だけを消費されてる状態なんです。

高さ制限でホテルの客室数を稼げない京都

では何故、他府県の人が京都の自業自得だと決めつけるのかというと、ホテルが取れないからだと思います。 仮に取れても高いから。
ただこれは、仕方のない部分の方が大きい。 理由としては2つです。
1つは、外国人の方が正規の方法で予約を入れてきた場合、外国人だからという理由だけで予約を受け付けないなんて事は出来ませんよね?仮にそんな事をすれば、レイシストと呼ばれることでしょう。
どんな人であれ、ルールに則って予約を入れてきた場合は、受け入れるのが商売です。

もう1つは、京都はホテルがそもそも少ないからです。
京都には、五山の送り火を誰にでも見れるようにするためか、建物の高さ制限があります。 この規制があるからこそ、何処に居ても山が見える状態を保てるわけです。

この高さ制限ですが、当然のように、ホテルなどの宿泊施設を作る場合には、マイナスに働きます。
立地が良くて便利な土地を購入した場合、他の都道府県であれば、上方向に伸ばせば客室数は確保できますが、京都の場合は高さ制限があるために、10階前後しか建てることが出来ません。
当然のように客室数も減る為、土地の購入費用をpayしようとすれば、部屋の価格は高くなります。

京都以外の人が起こした土地バブル

この土地の件でいえば、高さ制限の他に足を引っ張っているのが、京都の土地バブルです。
日銀が異次元緩和と呼ばれる量的金融緩和を行った辺りから、御所南や御池といった地域の土地のマンションを、東京の富裕層や中国マネーが買い漁り、局地的なバブルを起こしています。
このバブルに乗る形で不動産開発が行われ、土地価格は高値で売買され、余計に宿泊施設が立ちにくい状態を生んでいます。

https://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20150329/ecn1503290830002-n1.htmwww.zakzak.co.jp
ddnavi.com

というのも、京都の観光は春と秋のシーズンに客が集中する一方、夏と冬は客が激減します。
高さ制限によって、土地あたりで作れる客室数の上限が低いうえ、稼げる時期が限られている為、土地の取得に多額の資金を投入してしまうと、その後の運営が厳しくなるという事情もあります。

ちなみにですが、東京の富裕層や中国の人は、投資目的で購入している為に、京都に移住してくるわけではありません。
その為、先程の地域に建つマンションでは、完売しているけれども電気がついていない部屋が多いマンションが乱立しているという、良くわからない状態になっていたりします。
この局地的な土地バブルも、正直言って京都の人が起こしたものではないし、これによる恩恵が受けれたわけでもありません。

京都以外の地域の富裕層同士の空中戦が行われているだけで、現地に住んでいる人間からすれば関係がない事。
投資目的で買って無人の空き室で放置されてるぐらいなら、宿泊施設や遊べる施設を作ってくれた方が、なんぼかマシだったりします。

この様な感じで、京都という土地の経済は、京都以外の人達の動きによって翻弄されている状態だったりします。
そして、観光客が増えたからといって、京都がそれに比例して潤っているのかといえば、とてもそうとは言えなかったりします。

私が携わっている日本人観光客相手の仕事でいえば、外国人観光客数の増加に比例するような形で、売上が減少していってるのが現状です。
個人的な意見でいえば、10年ほど前の状態に戻ってほしいというのが、本音だったりします。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第47回 移り変わる宇宙の捉え方(3)『光は粒子であり波』 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

光が波の場合 媒質は何なのか

また、光が粒子であるという事にしてしまえば、光についての他の謎も解決します。
それは、光の媒質は何なのかという事です。 媒質というのは、海の波の場合は海水がそれに当たりますし、音の波の場合は、空気がそれに当たります。
波というのは、それ単体で存在しているわけではなく、何かを揺れ動かすエネルギーです。

池に石を投げ入れると、水が揺れ動いて波が出来ますし、石が水に着水すると、その衝撃が空気に伝わって揺れ動かして、音となります。
光を波と考えた場合、真空状態を飛んでくる太陽光は、何を揺れ動かしているんだろうという疑問が残ってしまうわけですが、光が粒子だと考えると、太陽から小さな粒が飛んでくることになるので、その疑問も解消します。
アインシュタインは、この光量子仮説による光電効果の説明によってノーベル賞を取り、これで、全て上手く行ったように思えるのですが… この理論は、新たな疑問を生み出します。

光は波であり粒子?

というのも、『光量子仮説』は、光電効果の説明を見事に行って、光は粒子だという証拠を見つけたわけですが、光が粒子であれば、二重スリット実験で観測された、光の干渉が説明できません。
これによって、光は粒子であり、尚且、波であるという、更に意味不明な状態に突入します。

何故意味不明なのかというのは、以前にも説明したと思いますが、もう一度簡単にいうと、ライヴハウスでバンドマンが、観客に向かって自分の着ていたTシャツを投げた場合、それを受け取れるのは1人ですよね。
何故なら、Tシャツは物体だからです。しかし、そのバンドマンが演奏して、スピーカーを通して曲を流せば、観客全員に聞こえますよね。
池に石を投げ込んだ場合、小石は粒という物体なので、池の1箇所に着水しますが、それによって出来た波は、全方向に向かって広がっていきます。

物体である粒子と波は、全く違ったものなのですが、光は、その両方の性質を併せ持った存在だということになってしまったんです。
ここで注意が必要なのは、これは、野球漫画に出てくるようなピッチャーが投げる、必殺技のように、粒子が波のような軌道を描いて飛んでいくというわけではありません。
また、沢山の粒子が、全体としてみてみると、波のようにうねって動くというわけでもありません。 1つの光量子が、波と粒子の性質を両方併せ持っているということです。

これは、理解できなくても当然だと思いますし、仮に、量子論のこの説明を今回、初めて聞いて、『分かった!』と思っている方は、おそらくは本当の意味で、分かってないと思います。
何故なら、これを説明している私自身が、波と粒子の状態を両方併せ持つという状態をイメージできていないからです。 量子論を専門的に勉強している方でも、具体的にイメージできて理解できるという方は少ないと思いますので…
今回は、この説明を聞いて、『光って、よく分からないものなんだな』という事だけ理解してもらえば大丈夫です。

光と電子の関係

この、粒子でありながら波である光なんですが、先程もいった通り、元々は粒子なんじゃないかと思われていた物が、二重スリット実験によって波だと分かってきた。
そして、波という前提で研究を進めていくと解明できなかった事が、粒子だと仮定すると解明できるという経緯を辿ってきたわけですが…
この考え方は、逆の現象も考えられるのではないかという話になってきます。 つまり、元々、物質だと思ってきた他のもの、具体的には電子を、波だと考えてみようという動きです。

というのも、波と思われていた光に最小単位があって、それが粒子の様な振る舞いをして、電子を弾き飛ばしたのであれば、その光の粒子である光子とエネルギーをやり取りできる電子も、同じ様な存在なんじゃないかと思われたんです。
その方向で研究が進んでいき…結果として、物質だと思われてきた電子にも、波の性質があると考えると納得がいくような実験結果が出てしまうんです。

電子にも波の性質がある?

電子が物質の場合に、どの様な不具合が出るのかというと、原子と電子の関係性に問題が出るようなんです。
私は高卒なのですが、そこまでで教えられてきた原子のモデルは、原子というのが中心にあって、その周りを電子が回っているというモデルで教えられました。
原子を地球だとすると、その周りを周回している月が電子というイメージですね。

原子を、この様なモデルだと思われている方は多いと思います。私も、学校でこの様に教えられてきたので、量子論関連の話を聞くまでは、こう思っていたわけですが…実際にはこのモデルでは、不具合が出てしまうんです。
というのも、電子には、スピンすると光を出してエネルギーを放出してしまうという性質があるそうなんですよ。そして、電子のエネルギーが不足すると、周回軌道の中心にある原子に電子が引き寄せられて、衝突してしまうらしいんですね。
しかし、実際に電子が原子に衝突するという現象は、現実世界の通常の状態では観測されていないようなんです。

科学というのは、計算した上で出てきた推測と現実とを比べた時に、違いがある場合、現実に起こっている事実の方を優先します。
計算上、電子がスピンするとエネルギーが光として放出されてしまうという結果が出たとしても、現実世界を観測して、その様な事実がない場合は、現実を優先して、理論の方を修正していきます。

その結果、電子に波の性質があれば、辻褄が合うんじゃないのかという動きが起こって、その方面での研究が始まります。。
そして、物理学者のシュレディンガーという方が、従来の波、これは、海で起こっている波や音の波の事ですが、この振る舞いを計算するための方程式を改良して、シュレディンガー方程式というものを生み出します。
このシュレディンガー方程式を、本当の意味で理解するためには、高度な数学的知識と物理の知識が必要になるらしく、私自身も理解していないので、細かい説明は省きます、興味のある方は、独自で調べてみてくださいね。

現実にあり得ない方程式で計算できる現実

話を戻すと、この方程式に当てはめる事で、電子の振る舞いを説明することができたんです。これによって、電子に波の性質があるらしい事が解りました。
では、これで電子の正体も解り、めでたし めでたし なのかというと、そうは問屋が卸さないんです。

このシュレディンガー方程式には、複素数という数値が使われているんです。複素数というのは、物凄く雑にいうと、虚数と実数が組み合わさったものです。
実数とは、普段、私達が計算などに使っている数字の事で、その数字と虚数という数を組み合わせたもの。 では、虚数とな何かというと、2乗してゼロ未満になる数字の事です。
この、複素数が使われている事で、何が問題になるのかというと、計算に使われている虚数というのは、数学というルールの中で作り出した、この世にはない数字だからです。

先程も言いましたが、虚数というのは、2乗してゼロ未満になる数字の事です。では、2乗するとはどういうことなのかというと、同じ数字を2回掛け合わせるという事だと、学校などで習ったはずです。
それと同時に、私達は、マイナスとマイナスをかけ合わせるとプラスになるとも習いました。 その上で、同じ数字を2回掛け合わせて、マイナス1の数値になる数字があるかどうかを考えてみてください。
そんな数字はありませんよね。 虚数とは、その名の通り、この世には無い数字の事で、その為、数字でありながら、大きい小さいという概念すら存在しない

正に、この世に存在しない虚無の数字が虚数なのですが、現実に存在する電子の振る舞いを計算するシュレディンガー方程式は、その式の中に、その虚数を組み込んでいるんです。
ありえない数字を含んだ方程式から出てくる答えは、当然のようにありえないものに成りそうなんですが…
実際に、この方程式によって、水素原子の振る舞いを説明できてしまう為、この虚数を含んだ方程式は、現実の何かを証明する方程式なんだろうということが分かってきます。

そしてこの後、私達が住む現実というところが、更にわけの分からないモノだという事が分かってくるのですが…
それはまた、次回にしようと思います
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

2019年 今は景気が良いのかもしれない可能性について

ここ最近、景気の見方が割れているような感じがしますね。
今までも、地方の現場で働く私達の多くは好景気を実感する機会がなかったので、市民レベルでは『世間では景気が良いと言ってるけれども… 何処が景気が良いの?』なんて言ってたわけですが、経済統計の算出で不正をしていたということが明らかになってからは、『実際には景気が良くないんじゃないか?』という疑惑が広がり、より明確に意見が別れた印象があります。

しかし、アベノミクスという言葉を言い出して、『自分が日本の景気を浮上させたんだ!』としたい安倍首相や自民党員達は、『今は景気が良い』と主張。
統計調査に不正があったとしても景気回復は本物だし、実際問題として、雇用者数は増えてる!と頑なに態度を変えません。

一方で、景気は良くない派の人達からいわせれば、実際に雇用者数は増えてるかもしれないが、その要因の大半は定年を迎えた人達が給料を引き下げられた上で再雇用されているだけなので、これを持って景気が良いとは言えないと主張。
何故、定年を迎えた人達が働かなければならないのかというと、年金だけでは暮らせないから働いてるわけで…
多くの人間がリタイヤ後に働かないと生活できない状態に追い込まれている状態をもって、好景気とはいえないんじゃないかという率直な感想が、この様な意見に繋がっていると思われます。

現役時代と比べて技術が衰えたわけでもないのに、給料が半額とかで雇われる為、給料の中央値も下がる一方。
では企業は、安い賃金で老人を雇うことで得た利益を、未来ある若者に分配してるのかというと、そうでもなさそう。

また、高い技術を持つリタイヤ組を安く雇えるという状態だと、技術を持たない若いだけが取り柄の人に高い給料を支払う空気にもならない。
仮に若者が、『もっと給料を上げてください!』と直訴しても、『お前の先輩で、仕事の効率が15倍ほどある◯◯さんは、月に10万で働いてるんだぞ。』といわれたら、若者は反論できない。
また若者自身も、仕事ができない状態で大ベテランが安月給で働いている現状を見ると、給料の交渉なんて出来る雰囲気ではなくなるでしょう。
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では、こういった企業では人件費が安く抑えられて、多額の利益が出るのかといえば、そうでもない。
人件費という固定費が安くなれば、大手の取引先からダンピングをされる。結果として、現場に近いところで働く中小零細には利益が上がらない構造になっている。
ただ、技術を持つ高齢者を雇うと言っても限界があります。 体は動かなくなりますし、寿命を向かえることにもなるでしょう。

主な仕事を老人達にまかせていた企業は、ここに来て人手不足となるわけですが、そもそも構造的に利益が出る仕組みになっていないので、高い給料は提示できない。
結果、有効求人倍率は高止まりするが、求人内容はショボいものばかりになってくる。

では、そういう中小零細から搾取をしている大企業はというと、内部留保を貯めることに必死になって、ステークホルダーへの分配なんて頭にない。
ただ、こういう企業が利益を分配せずに独り占めしている為に、上場企業などの大手に限っていえば、バブル後で最高益なんて企業が増えているのも事実。

この部分だけを抜き出してみてしまったり、こういう大企業としか付き合いがない人たちは、今が好景気なんじゃないかと錯覚してしまうという現象も起きている様な状態と考えられます。
首相を中心とした人達が『今が好景気だ!』と主張するのは、そう思いたいからでは無く、実際に自分の身の回りには羽振りの良い人しかいないからかもしれません。

ただ、いくら普段付き合ってるのが大企業のトップばかりと入っても、政治家というのは、国民の票をもらわないと仕事を続けられない職業。
少数の人達ばかりを向いていては、未来はないのではないかと思います。 そういった意味では、大多数の人達が感じている実感を、政治家として知ってないと駄目なんじゃないかと思うのですが…
ここで一番心配なのが、首相やその取り巻きは、今が不景気だというのを知った上で、『好景気だ!』と主張しているんじゃないかって事です

何故、そんな事をしなければならないのかというと、これから、もっとやばい不景気がやってくるから。
古代ギリシャの哲学者であるソクラテスも言ってますが、転んでいる人間がそれ以上に転べないように、悪い人間が悪くなる事はできません。
景気が悪い状態に『なる』為には、今が景気が良い状態でなければならないんです。

つまり、こんな状態でも『良かった』と思えるような状態が、これから来る可能性があり、首相やその周辺は、暗にその事を警告しているという可能性です。

傾く中国

つい先日ですが、ルネサス エレクトロニクス が半導体需要の下方修正をして、国内の半導体工場に対して一時的に生産を停止するという発表をし、ストップ安になりました。
主に中国向けの需要が減少する見通しの為に、供給過多にならない為に、生産を絞るというようなニュースです。
news.mynavi.jp

テレビのニュースでは、NVIDIAなどの不振も同時に伝えられていたので、1年ちょっと前(2017年)に起こった仮想通貨バブルの崩壊の余波が来た可能性もあります。
この中国の不振ですが、一時的なものであれば問題はないのですが、どうやらそうでもないようなんです。

仮想通貨バブルによって、高性能のCPUやグラフィックカードがバカ売れしたけど、バブル崩壊で需要が一気に低迷しただけなのであれば、数年で均せば問題はないでしょうし、影響も少ないと思います。
しかし中国経済の低迷は、どうやら本格的に始まっているようなんです。

こんなことを書くと、中国や韓国が嫌いな右寄りのネット民は喜ぶかもしれませんが…
今や中国の影響は大きくなりすぎて、中国が咳をすると世界が風邪をひき、日本は危篤状態になってしまう様な状態になってしまってます。

例えば先日、ヨーロッパの中央原稿であるECBが利上げを先延ばしにしたというニュースが流れ、それを嫌気して金融市場が反応するという事が起こりました。
jp.reuters.com

中国の消費は世界に影響を与えていて、中国人が買い物を控えるだけで、特定の地域でかなりの悪影響が出たりします。
ヨーロッパもその一つで、中国人による消費が落ち込んだことで景気に悪影響が出てしまい、金融政策で慎重にならざるをえない状態に追い込まれている状態。

これは、ヨーロッパよりも中国に近く隣接している日本なら、尚更です。
例えばですが一昔前は、家電といえば日本製って感じの認識でしたが、今現在はどうでしょう。
スマートフォン市場を見ても、上位はアメリカ・中国・韓国となっていますし、テレビ市場でも、コスパを観れば韓国製が選択肢に入ってきます。

最終製品としての日本製というのはドンドン減っていってる状態で、そのかわりに、中国製や韓国製が台頭してきているのが現状です。
では日本の製造業はというと、電気製品の分野でいうならば、彼らに部品を提供する事で生き残っているといった感じ。
日本で最終製品を作っている会社は落ちぶれていき、シャープや東芝は彼らに買われていますし、もっと小さな企業に目を移すと、親会社が中国の会社なんてこともかなり増えてきているのが現状です。
ビザを緩和しまくったことで増えた観光客も、大多数は中国・韓国ですし、日本は彼らに相当な依存をしている状態と言えます。

その中国の経済が減速するということは…
もう、いわなくても分かりますよね。
www.jftc.or.jp

このサイトを読むと、日本に対する中国の影響力が日に日に増大していっているのがよく分かります。

2017年でいうなら、2位が中国、4位が台湾で5位が香港… 全部をまとめたら、1位のアメリカを余裕で抜くレベルでの取引があります。
何度も書きますが、ここが転けたら、日本は相当ヤバイです。

そのヤバイ状態を『不景気』と呼ぶのであれば、確かに、現状は政府が主張するとおり、『今は好景気』なのかもしれません。。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第47回 移り変わる宇宙の捉え方(3)『光は粒子であり波』 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

光は粒子なのか波なのか

前回は、前半に相対性理論の話をし、その後、後半からは、量子論の話をしていきました。
量子論の部分を簡単に振り返ると、量子論相対性理論と同様、光の性質を調べていくところから始まります。
相対性理論が、光速度不変の原理という、光の速度はどの状態から見ても同じだという、速度という切り口から始まったのに対し、量子論は、光はそもそも何なのかというところから始まっています。

光の正体は、『波』なのか『粒子』なのか? 当初は、ビッグネームであるニュートンが粒子派だった事もあって、粒子説が優勢でしたが…
その後、二重スリット実験によって、光も、干渉という波独特の現象を起こし、干渉縞を作るという事が分かってからは、形成が逆転し、光は波派が優勢に立つ事になります。
しかし、その後、光は波だという前提に立って、黒体放射の観測を行って、物体を熱した際に放つ光と温度との関係を調べていくと、光には最小単位が有るということが分かってきました。

光には最小単位が存在する

つまり、波という、今までは連続的なものだと考えられてきた現象が、実は、不連続な現象だったという事が分かってきたんです。これは、結構な衝撃だったようです
科学者ではない私達には、これがどれ程の衝撃かというのはイマイチ理解できないと思うので、別の例で例えてみましょう。

これは、例えとしてあっているのかどうかは分かりませんが…私達は、時間というのは連続的なものだと捉えていますよね?
もし、この連続的だと思っていた時間に最小単位があって、不連続なものだったとしたら、結構、衝撃的じゃないですか?
ゼノンのパラドックスというのを、前に紹介したと思いますが、その1つに『飛んでいる矢は止まっている』というものがありましたよね。

これは、時間に最小単位が有るのであれば、最小単位内では時間は停止しているわけだから、弓から放たれて飛んでいるように見える矢も、最小単位まで分解すれば止まっている事になってしまう。
実際には動いているように見える『飛んでいる矢』も、静止状態の連続なので、止まっているのと同じというパラドクスでしたが、現実が本当に静止状態の連続なのであれば、衝撃的ですよね。

例えば、格闘ゲームストリートファイターVというものがあります。 このゲームは、キャラクターがなめらかに動いているように見えますが…
実際には、60FPS。つまり60分の1秒の静止画の連続によって、キャラクターが動いているように見えます。
これがゲームの世界の話ではなく、仮に現実が、200FPSで動いていますよ。 つまり、時間の最小単位は200分の1秒でその静止した時間の連続が現実なんですよと言われたら、結構、衝撃的じゃないですか?

波だという光には、実は最小単位が有ったというのは、それぐらいの衝撃だったのかもしれませんよね。

アインシュタインの光量子仮説

この、光には最小単位が存在する、不連続なものだという現象は、アインシュタインに影響を与えて、その後、『光量子仮説』という説が生み出されます。
この仮設は簡単にいうと、光を粒子と考えると、今まで解明できなかったものの説明が付きますよという説です。

光を波だと考えると説明がつかなかったもの一つとして挙げられるのが、『光電効果』と呼ばれるものです。
これは、金属に対して光を当てる際に、色によって電子が飛び出たり飛び出なかったりするという現象が起こっていたのですが、これは、光が波の性質だと説明がつかないようなんです。
というのも、波には、振動数と波長、それに振幅といった物があるのですが、この中でモノに影響を与えるのは振幅だけと考えられていて、振動数はそれほど影響は与えないと考えられていたからです。

波が物質に与える影響

分かりやすく、海に船が浮かんでいるというシチュエーションで考えてみましょう。
海に船が浮かんでいたとして、細かい波が小刻みで大量に船に向かってきたとしても、それほど、影響はありませんよね。これは、この波の多さは振動数で表され、どのような間隔でくるのかは波長で表されます。
波長が短くなって、波の振動数が増えたとしても、浮かんでいる船にはそれ程、影響は与えません。

しかし、振幅はどうなんでしょうか。 振幅とは、波の山の部分と谷の部分の差の事です。
例えば、波の山と谷が50センチであれば、船に与える影響は小さいかもしれませんが、波の山と谷との差が10メートルを超えるような大波であれば、ボートは転覆してしまう可能性も出てきます。
つまり、振幅というのは他の物体に与える影響が大きい一方で、波長や振動数はそれ程、影響を与えないというのが、波の特徴と考えられてきました。

光が物質に与える影響

しかし、実際の光はどうなんでしょう。
石油ストーブから出る光を浴びても、日焼けすることはありませんが、太陽光を浴びると皮膚に影響が出て、下手をすると水ぶくれが出来る程に肌に影響が出ます。
この両者の違いは、石油ストーブから出ているのは主に波長が長い赤い光なのに対し、太陽光には紫外線という、波長の短い光が含まれているからです。

この現象を、実験によって確かめたのが、『光電効果』と呼ばれるモノのようです。
光電効果は、光を金属に当てた際に、金属から飛び出る電子の量や勢いを確かめるという実験なのですが、金属に当てる光の色によって、電子の飛び出し方が違うというものです。

wikiに具体的なことが乗っているので引用すると…
電子の放出は、ある一定以上大きな振動数の光でなければ起こらず、それ以下の振動数の光をいくら当てても電子は飛び出してこない。
振動数の大きい光を当てると光電子の運動エネルギーは変わるが飛び出す電子の数に変化はない
強い光を当てるとたくさんの電子が飛び出すが、電子1個あたりの運動エネルギーに変化はない

ちなみにですが、波長と振動数は反比例の関係にあって、波長が短くなる程、振動数は増えます。 そして、振動数が増えるほど、光は紫色に変化していって、可視光線の範囲を超えると、紫の外の光線、紫外線になります。
光電効果の実験によって、この様な現象が観測されたのですが、ここで疑問が出てくるのは、何故、光の色を変えただけで、つまり、光の波の振動数の増加が、他の物体の電子に影響を与えたのかという事です。

光の振動数によって物質への影響度が変わる

先程の、海に浮かんだ船の話を思い出して欲しいのですが、波と他の物体が衝突した際に、物体に影響が出るのは、波長や振動数ではなく、振幅だけでした。
光の色というのは、波長と振動数によって決まり、振幅は関係がありません。 にも関わらず、振動数の違う光を当てる事で電子の飛び出し方に差が出るというのは、現象としては『おかしい』らしいのです。
また、強い光つまり、振幅の大きい光を当てても、電子一個あたりの運動エネルギーが変化しないのも変です。 何故なら、波が他の物体に大きな影響を与えるのは振幅のはずだからです。

そこでアインシュタインは、先ほど紹介した、光には最小単位が存在するという話をヒントに、光は粒子なのではないのかという仮説、『光量子仮説』を立てます。
この仮説の詳しい説明については、私のように本格的に勉強していない人間が、音声のみで伝えることは無理なので、興味を持たれた方は、ご自身で調べてみてください。

私が理解している範囲で、簡単に説明すると、光の粒である光量子が持つエネルギー量は振動数によって決まって、振動数が増えるほどにエネルギーが多くなるという仮説です。
光をこのように仮定すると、先程の光電効果の実験結果に矛盾がなくなるんです。

光の粒が持つエネルギーは振動数によって決まるので、振動数が少ない光量子はエネルギーが少なく、金属にぶつかったとしてもエネルギー不足から電子をはじき出すことは出来ませんが…
振動数が高くなればなるほど、光量子のエネルギーは大きくなるので、同じように金属にぶつかった場合、金属のエネルギーに応じて電子が飛び出す具合も変わります。

振幅が強い強い光は、単純に、光量子の量が増えるという様に置き換えてしまえば、沢山の光量子がぶつかるために電子の飛び出す量は変わるけれども、電子が飛び出す際の勢いは光量子のエネルギー…
つまり、光量子のもつ振動数によって決まるために、強い光を金属に当てた場合は、飛び出す電子の量は増えるが、飛び出す勢いは変わらないという事になります。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

映画アリータを観て、改めて銃夢を読み返して考察してみた

少し前に映画館に『アリータ』を鑑賞に行き、先日、その感想をアップロードしました。
kimniy8.hatenablog.com

それを機に、原作の銃夢(無印)をもう一度読み直したので、今回は、それを読んで思った事について書いていきます。
最初に書いておきますが、ネタバレを含んだ形で考察などを書いていきますので、原作を読まれていない方で興味のある方は、先に原作を読まれる事をお勧めします。

サイボーグ作品に共通する哲学的なテーマ

この作品を読んで改めて思った事は、基本的なテーマとしては、哲学的なものが中心なんだなという事です。
個人的な思いになりますが、銃夢と同じ様に高評価されている攻殻機動隊もそうですし、ブレードランナーの原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』もですが、アンドロイドやサイボーグが登場する物語の場合、その存在自体が哲学的なものに成ってしまいがちです。

何故かというと、人の持つ心というのは、何処に宿るのかという話にならざるを得ないからでしょう。
今では、思考の殆どが脳で行われている事になっているので、心は脳にあると思われる方も多いでしょうが、脳の研究が行われる前は、心臓に有ったと思われていたりもしました。
これはおそらく、人間の感情が高ぶった際に、胸が痛くなったり熱くなったりするからでしょう。

心が胸にあるから、ショックを受けた時には、その場所痛くなるし、憧れの存在を目の前にした時には、胸が熱くなる。
腕を怪我した際に腕が痛くなるように、心が傷ついたから心が痛くなる。 結果として胸が締め付けられるように痛くなるなら、心は胸にあるんじゃないか。
脈打つ心臓が心なんじゃないかという結果に落ち着くのは、自然な結果ともいえます。

しかし技術が進化し、脳の方が重要かもしれないという事が分かってくる。
また、心臓移植など、心臓を入れ替えても意識が途切れなかったり人格が入れ替わらないとするなら、心は心臓には無いかもしれないという事になってきます。
ですが、心というのは主観的なものに過ぎないので、心臓移植をした人間の心は、実際には入れ替わっている可能性もあります。 人格が入れ替わっていないように思えるのは、脳に蓄えられている記憶のせいで、主観としての心は心臓が変われば変わるのかもしれませんが…
先程も書きましたが、心は主観的なものに過ぎないので、これは本人にしか分からない事ともいえます。

しかし、これから更に技術が進化し、心臓が人工の機械のもので置き換え可能という事になれば、これは決定的な事となります。
人が部品を組み合わせて作り上げた人工心臓という商品には、おそらく心は宿っていはいないでしょう。 それで代用可能ということになれば、心臓には心が無い可能性がかなり高まります。

では、心は何処に宿るのか。
私の親戚には、交通事故で大量に血を失った叔母がいます。 幸いにも、迅速に病院に運ばれた為に輸血を受けた事で一命をとりとめて、今でも普通に後遺症もなく生きているわけですが、私の父の話によると、叔母は事故後に性格が変わったそうです。
この性格の変化は、心が血に宿っていて、それを入れ替えたから起こったのか。 それとも、事故という強烈なショックを受けたことで、性格そのものに影響が出てしまったのか。
これも主観的なことなので、他人が判断できることではないのですが、同じ様に更に技術が進み、人工血液が出来ればどうなるのか。

この延長線上で考えていくと、全身機械の人間の心は何処に宿っているのかという話になります
サイボークやアンドロイドが登場するような作品では、脳を残して全身機械なんてキャラクターが登場します。 今回取り扱っている銃夢もそうです。
脳しか生身じゃないのにも関わらず、それでも人間らしさを維持しているとするのならば、人間の心や意識といった重要な部分は脳に宿っていると考えても良いでしょう。

ですが、物事はそれほど単純でもないように思えます。
普段おとなしい人間が、自動車に乗ると高圧的な人間になるという事は珍しくありません。同じ様に、銃などの武器を手にする事で自分が強くなったような気になる人もいます。
自分が乗り込んでいるものや所有しているものといった、自分の体の延長線上にあるものも、自分の体の一部と考えてしまい、意識が支配されてしまうという事は日常的に存在します。

こうして考えると、生身の脳で全身サイボーグの人間は、機械で作られた強靭な肉体を自分の体としているわけですから、機械の体の能力に意識が引っ張られるという事もありそうです。
つまり、人間の意識とは『脳』という特定の部分に宿っているわけではなく、自分が置かれている総合的な環境によって発生しているようなものとも考えられます。

脳を機械化した人間は人間なのか

先程少し名前を出した攻殻機動隊という作品の主人公である草薙素子もそうですが、脳を電脳という機械に改造した人間は、果たして人間なのでしょうか。
意識は他人からは観測不可能なので、本人が『意識がある』と言い張れば、それを完全に否定することは不可能です。
脳を徐々に改造していき、完全に機械化を終えたとして、その期間を通して意識が途切れずに存在し続ければ、その本人にとっては『この私は、今も変わらず私であり続けている』という事になるのでしょう

では、もっと過激な考え方をしてみましょう。
銃夢の世界に出てくるザレム人は、聖人を向かえると頭に刻印を刻むという儀式を行います。 その刻印を持って正式なザレム人といえるので、ザレム市民は自ら進んで、このイニシエーションを受けることになります。
しかしその儀式の実態は、人間の脳を取り出して、脳と同じ役割をするチップに置き換えることです。

そのチップには、脳に蓄えられていた情報を全てコピペされている為、当の本人は、自分の脳が取り出されたという事に気が付かずに、儀式を終えることになります。
その後も、今までと同じ様に暮らしていくわけですが…  彼らは果たして人間なのでしょうか?

脳を徐々に改造していき、自分の意識を保った状態で電脳に変える場合とは違い、脳から情報を吸い上げてチップにコピペし、チップの方だけを脳に戻した場合、脳は相変わらず存在し続けるわけです。
その脳を、クズ鉄街に持って行ってボディを与えれば、その脳は人間として普通に生きるわけです。
仮に、脳の代わりを務めるチップが完全に脳の役割をこなすことが出来たとしても、この状態を持ってコピーされた者は人間と呼べるのでしょうか。

クズ鉄街の人間は、体は機械で脳だけ生身ですが、ザレム人は、体が生身で脳だけ機械。 果たして、どちらが人間なのか、それとも、どちらも人間なのか、そうではないのか。
体の何%を機械に置き換えれば人間ではなくロボットなのか。 それとも、置き換えるパーツが重要なのか。
これを考えるのって、人間にとって最も重要なものは、何処に宿っているのかを考えることになる為、かなり哲学的だと思います。

狂気のディスティ・ノヴァ

映画版では分かりやすい悪役として描かれていたノヴァ教授ですが、ノヴァが狂った実験を繰り返す理由が、このザレム人に対して行われる儀式です。
ノヴァは、自分の脳が人口のチップだという事を知ってしまったが故に、カルマの研究に没頭します。

カルマとは、自分が行ってきた事であり、自分が歩んできた人生が、下す決断に影響を与えるという理論です。
決定論的な世界は、キッカケが有って結果が生まれ、結果がキッカケとなって更なる結果を生むという、縁起の法則や因果律と呼ばれる法則によって動いています。

脳を人口チップに置き換えることが可能ということは、それを発明した者は、人の意識が下す決定プロセスを解明したということであり、それは、人の心や意識も、物理法則と同じ様に決まった法則で動いている事を突き止めたということでもあります。
人の意識が下す決断が、特定の環境下では決まっていて固定されているものであるのならば、人の意識には自由意志はなく、固定された因果の中を歩いているだけという事になります。

『人間の意識は、決まった法則のもとで固定された決断をしているだけなのか。』『自由意志は存在しないのか。』
ノヴァは、人間に自由意志が存在することを証明するために、精神的質量が高い人間に理想の体を与え、自由に行動させることによって、カルマを克服させようとします。
自分自身が起こした行動に縛られずに、本当の意味で自由に歩くことが出来て初めて、人類はカルマの鎖から解き放たれて、本当の意味で自由になれる。

人間が作る機械には、様々な限界が設定されているわけですが、それでも脳の代用品である脳チップが完成したという事は、人間の意思決定プロセスには限界があって、決まった行動しか取れないという前提のものであって、もし、生身の脳を所有する何者かが、カルマの鎖を断ち切ることが出来れば、限界はないことになる。
自然から生まれた人間という神秘性は保たれる事にもなる。

これは同時に、脳チップ人間であるノヴァ自身の否定にも繋がりますが、それでも、人間の中に可能性を見出したいというのが、ノヴァの研究動機だったんでしょう。
この問は、突き詰めれば『人間とは何か。』という問いに繋がり、SFの王道ともいえるテーマになっているわけですが、これを物語の中に自然に盛り込んでいる辺りが、何度読み返しても関心してしまいますね。

改めて読み返すと、銃夢(無印)の最終巻が発売されたのが1995年。。 windows95が発売した年に書かれた作品なのに、ハッキング戦とかやってて、やっぱり凄いなと思う作品でした。

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その6

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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善悪の区別がつかない民衆

民衆が、感情に支配されて悪いと思っていてもやってしまうような行為は、例えば『美味しい』という感情に支配されて暴飲暴食をしてみたり、性欲に負けて風俗に通ったりといったケースが考えられます。
彼らは、暴飲暴食や風俗通いが悪い事だと理解していないわけではありませんが、感情に支配されてしまっている状態では、これらの行為を止める事はできません。
では彼らに、それらの悪い行動をやめてもらう為には、どうすれば良いのでしょうか。

民衆に対してこの様な質問をした場合は、快楽によって起こした行動の先にある悪い事の具体的な事例を正しく知る事だと答えるでしょう。
例えば、暴飲暴食を繰り返したら糖尿病になって、後々、食べ物の制限をされてしまうだろうし、ひどい場合には、まともに歩けなくなるし、目も見えなくなるでしょう。過度のアルコール摂取の場合は、肝臓を悪くして、先程と同じように制限された生活をおくることになるでしょう。
風俗通いも、それによって愛情が得られることはなく、性欲という一時的な欲望は満たされたとしても、その後、何とも言えない虚しさがこみ上げてくるだろうといった事が分かれば、間違った行動はしないと思っています。

民衆が考えている事は、その事柄に関するトータルのメリットとデメリットだけで、トータルのメリットが大きければ行うし、デメリットが大きければ実行しない。
ただそれだけのシンプルな思考で、多くの民衆がその様に考えているだけで、他の方法は想像すらしていません。これは、当時の民衆だけでなく、私も含めた現在の民衆の多くも、この様な考えを持っていると思われます。
しかしソクラテスは、プロタゴラスに寄り添う形で理論を展開し、物事はそれほど単純ではないのではないかと推測します。

この、一見すると分かりやすい意見の何処に否定する要素があるのかというと、民衆にはメリットと、その後襲ってくるデメリットを正しく捉えることが出来ず、度々計算間違いをしてしまうからです。
何故、その様な計算間違いが起こるのかというと、タイムラグです。

例えば、暴飲暴食をして体調を崩すとか、太った事で膝を悪くしてしまうというのは、結構分かりやすいことです。
2つの現象が直結して起こっているという事が直感で分かりやすく、相関関係と因果関係が誰にでも理解できるから、暴飲暴食は悪い事だと捉えやすいという事です。
しかし、この相関関係や因果関係が、全ての事柄に置いて分かりやすくなっているのかというと、そうとはいえません。

何十年という長い年月をかけて悪い状態になったり、相関関係や因果関係が複数のものと複雑に絡み合って、何がどの様に悪い行動なのかが一目で分かりにくいという事もあるでしょう。
この様なケースでは、人は錯覚に陥ってしまうために、メリットとデメリットを正しく比べることが出来ず、計算間違いをしてしまいます。

例えば、自分が今、広い空間に立っていて、自分の現在いる場所から距離が離れれば離れる程、時間的に遠くに行くと想像してみてください。
その空間には自分を中心とし、放射状に様々な道が存在していて、その道の先には、メリットやデメリットが転がっているものとします。
良い人生を選ぶとは、自分の周りに沢山存在する道の中から、メリットが多い道を選ぶ事です。

しかし、数ある道にそれぞれ転がっているメリットやデメリットは、それぞれが同じ大きさをしていません。小さいなメリットをいくら足し合わせても釣り合わないような大きなデメリットも存在しますし、その逆も存在します。
その為、単純に数を数えるといった手段では、正しくメリットとデメリットを計算することは出来ません。 それをする為には、それぞれの大きさも正しく知る必要が出てきますが、ここで問題が出てきます。
というのも、物体というのは、自分の位置から離れれば離れる程に小さく見えてしまい、近づけば近づく程に大きく見えてしまうからです。

この例え話に置いて、距離は時間に置き換えて考えますので、遠くに有るものというのは遠くの未来を意味し、近くにあるものは時間を経ずに直ぐにでも手に入れられるモノと考えます。
そうすると、プロタゴラスの主張している事が理解しやすいと思います。

遠くに有るデメリットは遠くに有るが故に、その大きさが分からずに小さなものだと錯覚してしまい、近すぎる位置にあるものは、近すぎるが故に、全体像を把握しにくい。
結果として、メリットとデメリットの大きさを正しく測ることが出来ずに、遠くに有る大きなデメリットを小さなものだと錯覚して計算してしまい、自分の進んでいる悪い道を良い道だと錯覚してしまう。
これは逆も同じで、目の前にゴロゴロとデメリットが転がっていているけれども、その先にはとてつもなく大きなメリットが有ったとしても、遠すぎるが故に、そのメリットに気が付かなかったりしてしまう。

これは、メリットとデメリットを物体ではなく、音や声のようなものと考えても同じです。 近い場所で発生した音は大きく、遠い場所で発生した音は小さく聞こえる為、その音そのものの大きさを比べるのは至難の業です。
民衆はこの様にして、メリットとデメリットの大きさを測り間違えてしまい、正しい道を選ぶことが出来ないということです。

しかし、正しい知識を得る事で。この場合、どれぐらい距離が離れれば、物体はどれぐらい小さく見えるのかと行った知識や、それを測る技術を身に着けることで、それぞれのメリットとデメリットの大きさを正しく把握することが出来ます。
正しく見極める知識を持ってさえいれば、近くに転がっているメリットに目が眩んで、欲望に支配されるなんて事は起こらない。
仮に、欲望に目がくらんだとしたら、それはその者に知識が足りないという証拠であり、正しい知識を身に着けたものにそのようなことは起こらないといえます。

ソフィストとは、それを見極める技術を持ち、他人に教える教師のことですが、民衆はこの事を理解せずに、進むべき『善い道』とは、教えられないような知識とは別のものだと思い込み、結果として、自身がソフィストに学ぼうともせず、子供に習わせようなどとも思わない。
民衆には、正しい見極めを持つ知識を持たないのに、その事を重要視することもなく、目先の損得にとらわれて感情的になってしまうような人間ということになります。
自分自身の無知を認め、お金さえ払えば自分の知らない知識を与えれくれるソフィストを頼ることもせず、胡散臭い技術を教えていると誤解して、自身の金の心配をしてソフィストから距離を取ろうとする民衆は、仮に自滅したとしても自業自得だという事なのでしょう。

理性的な人間とは善い道だけを選ぶ

先程のソクラテスが推測をしたプロタゴラスの主張(プロタゴラスからの反論はない)を踏まえた上で、もう一度、『快い事』であるとか『悪い事』を考えていきます。
ソクラテスの推測によると、プロタゴラスが教える知識とは、先の未来まで見通した上でメリットやデメリットを把握し、それらを比べる事で最良の道を進むことが出来るというものでした。
もし仮に、このようなことが実現した場合、人は数多くの選択肢を突きつけられた際に常に正解を選択できるでしょうし、もし、何らかの事情で悪い道を歩くことになったとしても、直ぐにその道を別の道に変えようと行動するでしょう。

正しい知識を得たものは、自分自身から湧き出た一時的な感情に支配される事はなく、既に持っている知識によって理性的に動くことが出来て、結果として最良の道を選ぶことになります。 つまり、本能を抑え込んで理性のみで動けるということです。
今、自分が歩んでいる道よりも更に良い道が見つかれば、自身の実力や環境を踏まえた上で道を乗り換えるでしょうし、悪い道を選ばざるを得ない場合は、もっとマシな道を見つけるように行動し、自分自身をマシな状態にしようとするでしょう。
正しく知識を収めるものは、自らの意思でデメリットに飛び込んでいくような真似はしないという事になります。

つまり、この道を進むと恐怖が待ち受けているという道があった場合、知識がある人間はそれを正しく認識し、その恐怖を避ける道を選ぶために、そもそも恐怖といったものに遭遇しない。
これは、恐怖以外の不安など、マイナスの感情を含む事柄も同じで、知識があり、マイナスの事柄を見分けられる人間は、自ら、その選択肢に飛び込むなんてことはしないという事です。

自分が行く先に、プラスとマイナスがある場合、知識ある人はプラスを選ぶでしょうし、小さなマイナスと大きなマイナスがある場合は、知識ある人は小さなマイナスを選ぶでしょうし、今よりもより大きなプラスがある場合には、知識ある人は当然のように、そちらの道に乗り換えます。
例え、自分が今まで進んできた道に愛着があったとしても、知識を持つ人間は、その感情に打ち勝って理性的な判断を行って、より良い道に行くことが出来るはずです。
理性的な人間は、どんな時であっても、善い道を歩むことを優先し、目の前に善悪があった場合には、悪を選ぶようなことはしない。

このマイナスの感情という部分に恐怖を当てはめても、これはそのまま通用し、目の前に小さな恐怖と大きな恐怖がある場合、正しい知識を持つものは敢えて大きな恐怖に向かって行くという行動は行わないことになります。

勇気について(再)

プロタゴラスは、徳を構成するとされている5つの要素の中で、勇気だけが、他の4つ(知恵・節度・正義・敬虔)とは別の声質を持っているからだと主張し、その理由として、知恵も節度も経験もなく、正義もないのに勇気だけ持ち合わせている輩がいるからと説明しました。
ですが、これまでの議論を振り返ってみると、知恵や知識を持たないのに、ただ大胆な性格であるがゆえに危険の中に身を投じる様な人間は『勇気ある者』とは言わない事が分かりました。
では、対象に対する知識を深めればどうなるのかというと、知識を深める程にリスクは少なくなっていきます。(リスクとは不確実性)

先程の同意に従えば、知識ある理性的な人間というのは、物事を正しく見定めて判断できるわけですから、危険な状態に飛び込むという事はありません。
仮に飛び込むという判断をした場合は、その対象が危険である可能性が低いと分かっているから飛び込む為、大胆さは必要がない事になります。
物事を正しく認識して、危険だという判断をした人間は、その対象には近づかずに距離を取るという方法を選びます。 

この距離を取るというのを、別の言い方をすれば『逃げる』という事になるわけですが、では、知識を持つものが逃げた場合は勇気がある事になり、知識がない人間が臆病であるがゆえに逃げた場合は臆病ということになるのでしょうか。
これに対してプロタゴラスは、臆病なものが勇気のあるものと同じ『逃げる』という行動を取った場合でも、その動機が違う為に、臆病なものの事を勇気あるものとは言わないと否定します。

例えば、当時では戦場に向かう事は立派な事だとされていますが、確実な負け戦で、出陣すれば死ぬ事が分かっている戦場に赴くのは、先程の同意からすれば、悪い事という事になります。
その為、戦争に参加しない、もしくは逃げるという選択が理性的な考え方という事になるわけですが、臆病な人間が同じ決断をしたとしても、それは動機が違う為に、立派な行動とは言えないというわけです。
勇気あるものの決断は、例えその判断の中に恐怖から逃げるという理由をはらんでいたとしても、立派な決断として褒め称えられるべきだが、臆病なものが出した決断は、みっともないものだというわけです。

しかし、この理屈に沿って考えていくと、勇気とは、恐怖の対象への知識の差ということになります。
戦場に行くという行為に対して、無知のまま怖がれば、それはみっともない事になり、臆病者になってしまいますが、正しい知識を持った上で撤退すれば、それは立派な行為ということになります。
知識のない人間が偶然によって選択した結果、正解を引き当てても『みっともない行為』となり、知識がある人間が確信を持って選択すれば、選択した結果が無知なものと同じであっても勇気ある立派な行為と呼ぶ。

臆病なものは、臆病であるが故に、常に安全な道を選ぼうとしますが、勇気ある者は、その者が備えている知識によって向かうべき道が安全な事を分かっているから、その道を進んでいく。
どちらも、安全な道を選択して進んでいるわけですが、これは同じ様に評価はされないということです。

これらの事をまとめると、勇気という概念は、恐怖の対象に対する知識をどれだけ持っているのかという事になります。
ソクラテスは、同意の得られた事をまとめる事によって、勇気とは知識や知恵のようなものだという結果にたどり着いたのですが、プロタゴラスは、どうも納得がいきません。
しかし、プロタゴラス自身も同意した内容によって出た答えなので、プロタゴラスソクラテスの主張に渋しぶ同意します。

プロタゴラスの主張では、勇気は知識とは性質が違うという主張でしたが、一つづつ分解して考えていくと、勇気と知識は同じもので、恐怖や不安などの特定のマイナスの勘定に対する知識の有無が勇気の有無ということになってしまいました。

徳とは教えられるものなのか

議論が終わり、プロタゴラスは自身の主張を否定されたような形で、そして、ソクラテスは自分の主張を押し通したようにもみえて、討論はソクラテスの価値のように思える内容ですが、面白いのはここからなのです。
それは、ソクラテスの口から指摘されることになります。

ソクラテスプロタゴラスが討論を始めたキッカケまで遡ると、もともとは、徳とは教えられるものなのか、教えられないような才能のようなものなのかというのが発端でした。
ソフィストであるプロタゴラスは、自身が得を教える教師だと名乗ってお金を稼いでいますから、当然、徳とは知識のようなもので教えられると主張し、ソクラテスがその主張に対して疑問を投げかけたのが、この議論の始まりです。

しかし、議論を終えてみると、最期に巻き返して攻め込んでいるソクラテスは、『徳を構成している勇気は、才能のようなものではなく、知識である』と主張し、それに対するプロタゴラスは、ソクラテスの意見に反対したいが為に、『勇気は知識のような教えられるようなものではない』と頑なになっている様子がわかります。
つまり、対話をして意見交換をする前と後とでは、両者の意見が完全に入れ替わっているわけです。

ソクラテスは、対話の中で勇気は知識だと確信を得たから論破しにかかったわけではなく、プロタゴラスと確かめた同意内容をまとめた事によって、自分自身が最初に抱いていた思いとは逆の結果に辿り着いてしまったというわけです。
結果としては、この対話を持って勇気と知識は同じものだと結論付けるものではなく、勇気を理解していると思いこんでいたプロタゴラスは勇気の本質を誤解していたという事を知り、ソクラテスは、徳が教えられるような性質のものかもしれないという可能性を得ただけとなっています。

今回の対話で、徳の正体についての結論が出るわけではありませんが、哲学そのものが、『卓越性とは何か』を考え、どのようにすれば『幸せ』に到達できるのかという、未だに答えが出ていない問題に対して自分自身で考えることなので、この対話編そのものが、読者に考えることを促すような作りになっています。
6回に渡って書いてきた私の解釈ですが、プラトンが書いたものの日本語訳とは違ったニュアンスで書いている為、これだけを読んだとしても誤解をする可能性もあると思いますので、興味を持たれた方は、参考文献として紹介しているものを読まれることをおすすめします。

参考文献

【映画ネタバレ感想】『アリータ・バトルエンジェル』原作から哲学要素を抜き取ってアクション映画に仕上げた感じ?

先週末のことですが、『アリータ バトルエンジェル』を見てきました。


この作品は、木城ゆきと氏が描いている漫画『銃夢』を原作とする映像作品です。
私は、中学時代にこの作品を知り、そこから今現在も読み続けている大好きな作品の一つです。
この作品を知った事で哲学に興味を持ち、趣味で哲学系のコンテンツまで作る事になってしまったキッカケとなる作品だったりします。

簡単な感想

一言で感想を書くと、アクション映画としては大変楽しめた作品でした。
モーターボールやグリュシカ戦(原作マカク)など、原作の前半部分でアクション的に面白そうな部分を寄せ集めてきた事で、スピード感溢れる作品になっていて、飽きさせない作りになっている。

バトルによるアクションだけにならず、ヒューゴとの恋愛要素も上手く物語に組み込まれていて、誰にでも楽しめるような作りに仕上がっていたのは、流石だなと。
原作ファンを喜ばすようにか、細かい設定部分も忠実に再現していたりね。

例えば、クズ鉄街を出た時に、街を囲む兵がゼリー状のものが吹き上がってるものになってたり。
あの設定って、原作でも1シーンしか出てない上に、それほど注目された部分でもなかったのに、その部分をCG使ってまで再現してるってのは、こだわりを感じますよね。
こういうこだわりを持って作っているからか、メインの舞台となるクズ鉄街も結構いい雰囲気が出ていたりします。(少しきれいすぎる気もしましたが)

ストーリー的には、設定だけを残してストーリーを1から構成した作りになっている為、原作ファンの中には不満を持つ人もいるのかもしれないけれども、2時間の枠で話を決着させなければならないため、この様に変えられたのも仕方のないことかもしれないと思いました。
個人的には、イドの奥さんという新キャラが必要なのかとも思いましたが、後に調べてみると、今回の映画は銃夢の漫画版の映像化ではなく、OVAの実写化のようで、OVAの方にはチレンも登場しているようなので、これはこれで良いのかなと。

簡単なストーリー (ネタバレあり)

サイバネ医師のイドが、空中都市ザレムから投棄されているゴミ山から一人の少女の頭部を見つけ出す。
頭部を残して体の大部分はない状態だったが、幸い、脳が無事だった為に自分が経営する病院に連れていき、自分の娘の為に作った体とアリータという名を与え、自分の娘のように育て始める。
この時に、イドの知り合いとしてヒューゴとも出会い、互いに少し意識し出す。

何の不自由も無く、イドの娘として自由に暮らすアリータだが、イドが夜な夜な変わった格好で出ていくのを目撃し、何をしているのかが気になって後をつけていく。
すると、大きなハンマーを持ち、女性を待ち伏せしているイドを発見。 この時は、女性を狙った連続殺人が話題に鳴っており、状況から見てイドが犯人だと思ったアリータは、イドを止めるが、実際にはイドは犯人ではなく、連続殺人犯を追っていた賞金稼ぎだった。
3人の犯罪者がイドとアリータを囲み、絶体絶命の状態になるが、アリータが突然、武術で応戦し、それと同時に過去の記憶が少しだけ蘇る。

戦いに身を投じると記憶が蘇るかもしれないと思ったアリータは、賞金稼ぎになりたいと言い出すが、イドはそれに反対し、アリータが反抗期に突入する。

イドと仲違いし、精神的に行き場を失ったアリータは、ヒューゴと共に過ごす時間が増え、二人の距離が急速に縮まっていき、ヒューゴはザレムに行くことが夢だと打ち明ける。
ザレムに行く方法は、ザレムと地上の橋渡しをしているベクターという人物が握っているらく、ヒューゴは彼とつながっている。
ザレムに行くには100万チップ必要だが、普通の稼ぎでは長い年月がかかるので、ヒューゴはベクターの裏稼業を手伝って犯罪を犯すことで稼ぎを得る。

このベクターという男は、アリータが武術に目覚めたきっかけとなった犯罪集団ともつながりがある人物で、犯罪履歴を消せるほどの影響力を持つ人物。
そして、イドの元妻のチレンとも、ザレムにいるノヴァとも繋がっていたりする。

ノヴァは、300年前の失われた技術で作られたアリータの動力源である心臓を求め、ベクターやチレンを使って奪おうとする。
当然、ベクター経由で部下のヒューゴも利用し、アリータをモーターボールの試合に出るように仕向ける。

ラストバトル突入という感じ。
実際には、これらに加えてザパンとの確執なども入ってくるのですが、そこまでの細かい紹介はしないので、興味のある方は映画を見ることをおすすめします。

少し気になった点 (ネタバレあり)

映画に対する全体的な感想としては、最初に書いたように、アクション映画としては楽しめましたが、少し気になる部分もありました。
それは、銃夢という作品のコアと表現しても良いような、哲学的なテーマが抜け落ちている事です。
銃夢という作品は、確かに格闘アクション要素が強い作品ではありますが、そこはメインではなかったりします。

『人間とは何なのか。』
『人が作り出した社会とは何なのか。』といった、哲学的なものが物語の中心にあって、格闘要素はスパイスに過ぎないというのが私の認識なのですが、今回の作品では、それらの哲学的テーマが完全に抜け落ちていて、格闘アクションよりの作品になってしまっている印象がありました。

その最たるものが、ノヴァという存在だと思います。
今回の映画作品では、絶対悪としてのノヴァが登場し、いわゆる悪者に属する人達は全て、ノヴァの手下ということにされています。
ザレムという、クズ鉄街の人々を上から見下す様な存在の都市が存在し、その代表的な人物であるノヴァが、地上の強欲な人々を操るといった感じの表現がされていて、その絶対悪のような存在を、正義の味方のアリータちゃんが武力で反抗するといった感じの展開に改変されていたのですが、その部分に関しては、かなり残念でした。

というのも、実際のノヴァ教授はどの様な人物なのかというと、『ザレム人の秘密』に気がついてしまい、『人とは何なのか。』という人類にとっての最大の原因を追求しようとした科学者です。
カルマ理論というのを打ち立て、人間の意志は何らかの法則に従って動くような機械的なものではないことを証明しようとし、意志の力が強いものとコンタクトを取り、相手が望む物を与えた上で、その行動を観察するといったことを研究として行っている人物です。
人間が、特定の条件下では同じ行動しか取れないという因果の法則を打ち破ることが出来れば、その時、人は初めて、因果の鎖から解き放たれて自由に歩めるという、かなり哲学的な研究内容である為、褒美をチラつかせたり恐怖によって他人を支配して、自分の思い通りに動かすという事は絶対にしない人物だったりします。

その様な人物である為、原作の方ではノヴァと手を組むことも何度か有ったりと、単純な悪者といった感じでは無いわけですが、今回の映画では、ノヴァという悪者がザレムにいて、そいつを倒す為にザレムに行く。 その為に、モーターボールでチャンピョンを目指すという感じのラストに鳴っていた為、なんだかな…と思ってしまったり。
(映画内では、下界の人間が唯一ザレムに行く方法は、モーターボールのチャンピョンになる事。)
(ザレム出身で、イドの元妻のチレンという人がパーツにバラされた時に、脳が普通に存在していた為、映画版では、『ザレム人の秘密』そのものが、なかったコトにされているのかもしれませんが…)

また、映画ではノヴァの使いっ走りとして登場したベクターさんも、原作の方ではもっと人間味溢れる人物だったりします。
確かに、グレーや法に抵触するような事にも手を染めるような人物ではありますが、心の底では治安が崩壊しているクズ鉄街を良くしたいとも思っている人物で、自分が影響力を付けることで、それを実現しようとも思っている人物だったりします。

その為、妙にカリスマ性があり、物語の重要な箇所で出てくる人物でもあるのですが、映画の方ではノヴァの使いっ走りとして出てきた上に、アリータに殺されてしまうという、何とも悲しい最後でした。

他に気になった点としては、ダマスカスブレードの入手のくだり。
元々はザパンのものだったものを、アリータが奪うという形で手に入れるのはどうなのかなと。 しかも所有者のザパンは『失われた技術で作られた古代の兵器』的な事を言って見せびらかしていたわけですが…
原作のダマスカスブレードは、モーターボール編で世話になるチームの人が用意してくれる代物で、クズ鉄街の刀匠が作った逸品です。

ダマスカス鋼は、あらゆる金属を混ぜ合わせた合金で、ゴミ溜めといわれているクズ鉄街でしか作ることが出来ない代物。
純粋過ぎる気持ちを持つガリィ(アリータ)に対して、『純粋な鋼は、その純粋さ故に、案外、脆んだそうだ。 だが、そこに不純物が入ることで、鋼は強度と粘りを得る。 つまり、不純物が鋼に命を吹き込むんだ。』と、どんな経験でも糧になるというメッセージを込めて渡される代物で、クズ鉄街の代名詞的な存在なんですが…
それが、『失われた技術』で作られてて、しかも人から奪ったら、意味ないような気がしてしまいました。

(画像は全てアマゾンリンクです)

映画のラストシーンでは、ダマスカスブレードをザレムに向けて、ノヴァに対して『首を洗って待っとけ』的な感じで睨みつける終わり方でしたが…
このシーンも、クズ鉄街の代名詞的な存在のブレードを掲げていれば、メッセージにより意味をもたせる事が出来たのにと思ってしまいました。

原作が好きすぎるので、色々と細かいツッコミや愚痴を書いてしまいましたが、最初にも書きましたが、アクション映画としては楽しめる作品に鳴っている為、SFやサイバーパンクに興味がある人は見てみれば良いと思います。

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その5

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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アレテーについて(再)

プロタゴラスが主張するアレテーとは、徳目と呼ばれるものの集合体のようなものです。
人の顔に、目や耳や鼻といった別々の器官が存在して、総合的に顔と呼ぶように、正義・節制・勇気・知恵といったそれぞれの徳目が集まったものの概念をアレテーだといいます。
四角い豆腐のように、豆腐の上面・側面といった感じで、本質そのものは全く同じだけれども、それぞれの位置や形状によって言い方を変えているといったものではなく、それぞれの徳目は別のものだという主張でした。

この主張に対して、ソクラテスが疑問を投げかけたところ、プロタゴラスがヘソを曲げてしまった為、シモニデスが書いた詩の解釈といった他の話題に移ったのが前回でした。
議論は再び、メインテーマであるアレテーを解明していくという方向に進んでいきます。
正義や節制や勇気といった徳を構成するモノたちは、全く別の属性を持つものなのか、それとも、似通った声質を持っているのかといった議論の続きが行われます。

プロタゴラスは、知恵・節度・正義・敬虔・勇気の内、勇気を除く4つの性質はよく似ているが、勇気だけは違うと主張します。
何故なら、知恵も節度もなく不敬虔で不正にもかかわらず、勇気だけは持ち合わせている輩がいるからです。

勇気だけが全く別の性質を備えているということなので、どの辺りが特別なのかを吟味していく事になります。
ではまず、プロタゴラスが考える勇気の定義とは何なのかというと、それは、『誰もが恐れて立ち向かわないようなものに立ち向かっていく気持ちのこと。』です。
漫画『覚悟のススメ』では、苦痛を回避しようとする本能にも勝る精神力の事と定義されているので、多くの方がこの様な考え方をされているのでしょう。

この主張を吟味する為に、ソクラテスは様々な考えを巡らせて質問や主張をします。
まずソクラテスは、『勇気』とは別の『大胆さ』というワードを出し、『勇気とはつまり、大胆さを持ち合わせた行動ということなのですか?』、相手の脅威を知らない人間が、その大胆さ故に無謀にも挑んでいく行為は、勇気と呼べるのでしょうかと質問をする。
つまり、蛮勇は勇気と呼べるのかという質問なのですが、これに対してプロタゴラスは、勇気には大胆さが含まれるが、知恵が無い大胆な者の行動を勇気とは呼ばないと否定する。

しかし、このプロタゴラスの主張では、勇気とは知恵に依存したものという事になってしまいます。
先程の主張では、知恵や正義や節制などは似通った性質を持っているが、勇気だけは違うというものでしたが、その全く違う性質を持つ勇気は、知恵に依存するものだというのは、少し違和感を覚えてしまいます。
また、勇気には知恵が必須だという事は、知恵があるが故に、その渦中に飛び込んだ際にどれだけのリスクがあるという事が分かり、安全だと確信を持って突入していく場合は、どの様になるのでしょうか。

例えば、他人からみれば危険で無謀な事だけれども、その出来事に飛び込んでいって成功して帰ってくれば英雄と成るような事件が起こったとします。
しかし私自身に、その出来事をノーリスクで解決するだけの知恵があった場合、その出来事に飛び込むのに大胆さは必要がありません。
大胆さも心の葛藤も全く無く、ノーリスクで渦中に飛び込んで物事を解決して帰ってくるという行為は、勇気ある行為と呼ぶのでしょうか。

また、知恵があるからこそ、自分の身の安全を確保した状態で、ギリギリのラインを攻めるということも出来てしまいます。
この場合、より大胆な行為を行うという動機は知恵に先導されていることになる為、結果として、勇気の有る無しは知恵の有る無しに左右される事になる。
勇気というものが、知恵と大胆さを足し合わせた様な存在とした場合、この両者には主従関係が存在し、『知恵』が『大胆さ』を服従させている関係ともいえます。

勇気という存在を支配しているのは『知恵』や『知識』といった類のものなので、知恵と勇気は同じものとも考えられなくもありません。
様々な考察の結果、プロタゴラスは最初、徳を構成するものの中で知恵・節度・正義・敬虔は似通った性質を持つが、勇気だけは違うと主張していましたが、勇気は似ていないどころか、知恵と同じものかもしれないという可能性が出てきてしまいました。

しかしプロタゴラスは、この主張を認めません。
というのも、これと同じ様な考え方をしてしまえば、例えば、『強さ』や『力』といった、一見すると知恵とは正反対になるようなことも、実は知恵の一種だったということになるからです。

例えば、柔道の知識を持たない人間よりも、その知識を十分すぎるほど持っている人間の方が、戦った際には有利でしょう。
柔道に限らず、ボクシングや剣道など、格闘技や武術の知識を持った状態で訓練をした人間のほうが、それをしない人間よりも『強い』といえるでしょう。
仮に『知恵』や『知識』がなければ、正しい技術が身に着けられないとしてしまえば、全ての技術を伴うものの優劣は、知恵の有無によって決まってしまうということです。

つまり、家を建てるのも、車の運転をするのも、料理をつくるのも、全ては『知恵』や『知識』の有無によって決定する為、あらゆる事柄を知恵に集約させてしまうことが出来てしまうというわけです。

しかし、プロタゴラスはそうとは考えず、この様に主張します。
例えば、有能で優れた人間は強さや強靭さを持っているかと聞かれれば、私は持っていると答えるだそう。しかし、強さや強靭さを持つもの全てが有能で優れた人間かと聞かれれば、私は同意しないだろう。
これと同じで、先程は、勇気のある人間は、物事を怖がらない大胆さを備えているかと聞かれたから、私は同意したに過ぎず、仮に、質問が逆だったとしたら、私は同意しなかっただろう。

つまり、物事を怖がらない大胆さを備えている人間は、全て、勇気のある人間かと問われていたなら、私は否定しただろう。
何故なら、知識や経験や深く考える能力などが欠如していて、自分がどれほどの窮地に立たされているかを知らない人間は、その者の能力が低いが故に、怖がるということをしないからだ。
この様な人間が勇気のある人間かと問われれば、そうではないと答えていただろうと。

プロタゴラスは、勇気が成立する為には、当人の精神的な素質と育成が不可欠だと考えていますが、単純な知識や知恵にはそれが無いから、同じものではないと主張しています。
もし仮に、知恵や知識と勇気が同じものであるとするならば、勇気は勉強すれば身に着けることが出来ることになります。
しかし、本当に勉強によって勇気は生まれるのでしょうか。 自分の身が危険に晒されたとしても、何かを守らなければならない場面に直面した時、体が動くのは、よく勉強をした人間なのかと聞かれれば、疑問が湧いてきますよね。

快楽とは良いものなのだろうか

話題を変えて、ソクラテスは、苦痛に満ちた人生を送る事は悪い事で、心地よい人生を歩む事は良い事かどうかをプロタゴラスに訪ね、同意を得る。
その後、快く生きて人生をまっとうする場合は、良い人生かという質問をするが、プロタゴラスはこれに対して同意はするが、『自分が行った立派な事に対して、気持ちよさを感じる人間であれば、良いと言える。』という但し書きを入れる。
ここまで散々、ソクラテスに揚げ足を取られた感じになっているプロタゴラスは、警戒し、注意深く言葉を選んでいることがよく伝わってくる返答です。

この返答に対してソクラテスは、気持ち良いことの中に、善悪があるとか、大衆みたいなこと言わないで、快い、苦しいと感じた後に、どのようなことが訪れるかは置いておいて、そう感じる事柄一点だけに絞って考えてみて欲しいと頼みます。
しかしプロタゴラスは、この質問に対して『そんな単純な事柄ではない。』と主張し、ソクラテスの口車には乗りません。

このやり取りを具体例を交えて考えてみると、例えば、手っ取り早く快楽を得たいと思うのであれば、今の時代なら違法ドラッグを手に入れるという方法があります。
お金さえ払えば、楽に快楽を手に入れることができるわけですが、では、ドラッグを継続的に摂取し続ける人生は良い人生といえるのでしょうか。
ドラッグを定期的に打ち続ける事によって、体はボロボロになるでしょうし、警察に見つかれば、犯罪者として扱われるでしょう。

ここまでハードなケースで考えなくても、例えば、食べ物を食べることに快楽を覚える人は、その欲望に任せて食べ物を食べ続けるという行為は良いことだからと、肯定されるべきなのでしょうか。
逆のケースで考えるなら、何らかの怪我や病気になった際に、治療と称して苦痛を受け入れなければならない事もあります。
苦い薬を定期的に飲まなければならなかったり、手術の為に体の一部を切除しなければならないといったケースですが、この様なケースは、苦痛を伴うという一点に置いて、悪いことといえるのでしょうか。

知識とは何なのか

『快楽とは善なのか』というものを考える為に、ソクラテスは知識について、プロタゴラスがどの様に考えているのかを知ろうとします。
そもそも、知識とは何なのか。 知識には、人を支配する能力があるのだろうかと。
大衆は、知識には人を支配するといった大層な能力は無く、人を支配するのは、その他の何か。例えば、『恐怖』『怒り』『快楽』といった、本能的なものを利用して支配が行われると思っている。
それらの、抗うことが出来ない本能的なものを利用する事で、人は他人を奴隷のように支配できると漠然と思っているが、賢者であるプロタゴラスも、同じ様に考えるのかと質問をします。

何故、この様な質問をしたのかというと、それは、プロタゴラスが他人にアレテーを教える教師という職業だからでしょう。
アレテーとは、それを身に着ける事で他の人間よりも卓越した者になれる存在ですが、それを教えられると主張しているプロタゴラスは、アレテーを知識のように他人に伝授できるものだと主張しているのと同じです。
仮に、アレテーと呼ばれるものが、持って生まれた才能のようなものであるのなら、それを誰かに教える事はできません。 持って生まれた運動神経やら筋肉の作りや骨格を他人に伝えられないのと同じです。

しかし、プロタゴラスの主張では、アレテーは教えることが出来ると主張し、他人からお金を得て授業をするというのを生業としているわけですから、才能の様なものではなく、他人に伝えられる知識のようなものだと主張しているわけです。
アレテーとは、それを身に着ける事で他人よりも卓越した能力を持てる存在で、他の者よりも卓越した優れた者は、カリスマ性などを有して、他人を支配する能力も持つでしょうから、アレテーを持つものは他人を支配する能力が有るといえます。
アレテーを持つものが他人を支配することが出来、そのアレテーの正体が知識のようなものであるなら、知識は、人を支配できるようなものであるといえます。

また、アレテーによって他人を支配した指導者は、ものの分別をわきまえて、何者にも屈しない知識による命令が遂行でき、それによって人々を救うことも可能になるでしょう。
プロタゴラスのスタンスは、大衆が主張するように、知識には大層な力が無いという事はなく、知識は素晴らしい力を持っていると主張しているといえます。

プロタゴラスは当然のように、知識には素晴らしい力があると主張します。
もし、それを否定してしまうというのは、人類として恥ずべき行為で、それをしてしまえば、本能的に動いている動物たちと人間との間に差はなくなってしまうと。

この意見にはソクラテスも同意するが、では何故、民衆は善悪の知識が有るにも関わらず、悪いと分かっている事を行ってしまうのかと疑問をぶつけます。
悪の道に進んでしまう民衆に、『何故、そんな事をしてしまうのか。』と質問をしたら、大抵の場合は、『欲望や恐怖や怒りという感情に押しつぶされて。』と答えます。
民衆は、自分が悪の道に進んでいると理解している状態なのに、一時的な感情に支配されて、その歩みを止める事が出来ないでいます。 彼らを説得するためには、どの様な知識が必要なのでしょうか?

それに対してプロタゴラスは、『何故、民衆を説得しないと駄目なのだ?』と一蹴します。
相対主義プロタゴラスに言わせれば、彼らは彼らの人生を歩んでいるのであって、何故、物事の本質を考えようともしない、口から出まかせをいうような民衆を救わねばならないのかと疑問を思ったのでしょう。
仮に彼らが、自分の行く末を心配し、その事に真剣に悩んでいるのであれば、彼らなりに考えたり勉強をしたりするだろうし、それでも答えが出ないのであれば、プロタゴラスのようなソフィストに習いに行くだろうという事なのでしょう。

しかしソクラテスは、先程、議論が宙ぶらりんになっていた『勇気とは何か』を解明する為にも、その事が重要だとして、プロタゴラスに意見を求めます。
(つづく)
参考文献

PCで使うためにxboxコントローラーを購入してみた

PCでのゲーム体験

去年の年末の事ですが、PCを新たに購入しました。
その時のエントリーはこちら
kimniy8.hatenablog.com

今までのパソコンが、第3世代のi5のメモリが4Gと、立ち上がるのに5分かかってブラウザを動かすだけでメモリ使用量が7割に到達してしまうようなものだったので、我慢しきれずに購入。
普通にネット閲覧するだけなのに、それをする為の待ち時間が7分ぐらいかかると、非常にストレスがかかっていたわけですが、その生活ともお別れ。
起動15秒のストレスが無い生活になったわけですが、この環境を、単に待ち時間を減らすというだけで終わらせたくはありません。

という事で、噂に聞くsteam やら、Microsoft Store で、ゲームを購入したり体験版をダウンロードしてみたりしました。

実際に行ってみたPCでのゲーム体験ですが…
いや、素晴らしいですね!

私は以前はPS4proでゲームをプレイしていたのですが、据え置き機ではかなりのハイスペックのはずの製品ですら、最新のAAA作品の場合だと、能力不足でカクつく場合もありました。
また、普通に動いてはいるけれども、全ての能力をフルに使っているからか、冷却ファンが掃除機のような音を立てて回り続けるという事もありました。

その一方でPCの方は、本当にストレス無くゲームが起動します。
forza horizon 4 というゲームのデモをプレイしてみましたが、4k60fpsでも問題なく動きますし、待ち時間もほぼ感じさせません。
ps4 pro のグラボが、GTX1050 Ti以上、GTX970未満っぽいので、私の購入したPCが搭載しているRTX2080と比べると、2世代前の1ランクしたという事で、当然といえば当然なんでしょうけれどもね。
https://malamente.org/gaming-pc-ps4-comparison/#PS4_ProPCmalamente.org

PCで使用するコントローラー問題

この様な感じで、それなりに重いとされているゲームであってもストレス無く動かせるPCなのですが、一つ困ったことが生じてしまいました。
それが、コントローラー問題です。

家庭用の据え置き機であれば、ハードを購入した際には純正コントローラーがついてくるという事で、全く問題はないのですが、PCはゲームも出来るけれども、基本的にはパソコンです。
私が購入したパソコンはゲーミングPCというカテゴリーですが、それでも、主な用途はパソコンです。
ちょっとした事務作業や、趣味で行っているPodcastyoutubeの録音・収録なども行える上に、ゲームも出来るという機器です。

その為、キーボードやマウスはデフォルトでついてくるのですが、コントローラーは付いてはきません。

ということで、コントローラーを用意する必要があるわけですが、これが予想以上に手間取りました。
私の最初の予想としては、PS4のDS4をパソコンに繋げるだけで認識し、普通にゲームが出来ると思いこんでいたのですが、そうは問屋が卸しません。
確かに、USB接続するだけでドライバーはインストールされ、ワイヤレスコントローラーという形で認識されるのですが、これがゲームに使えない…

厳密にいうと、設定次第で使えるクライアントは有るんです。 Steam や Origin といったクライアントでは、設定を行うことでDS4を認識して利用できるようになるのですが、当然といえば当然なのかもしれませんが、Microsoft Storeで購入できるゲームに関しては、使えないっぽいんですよね。
まぁ、Microsoft Storeで購入できるゲームの多くはXboxのゲームなので、当然といえば当然なのかもしれませんが、Xboxのコントローラーしか受け付けません。

この為、PCでストレス無くゲームをプレイする為には、xbox one のコントローラーを買う必要が出てきます。
しかし、貧乏性な私は、Microsoft Storeで購入するゲームの為だけにコントローラーは書いたくない。 何故って、高いから。
最近のコントローラーは、振動やらワイヤレス機能やらマイク・スピーカーの接続端子やらが付いていて複雑化している為か、やたらと高いんです。

7000円ぐらいという二の足を踏むには十分な価格設定だったりします。
xbox oneコントローラーも同じで、充電キットやPC用のワイヤレス受信機を付けると、1万近い価格になったりもします。


(画像はAmazonリンクです)

これが結構辛い。

MicrosoftのOSだから、xboxコントローラー推奨?

という事で、何とか、手持ちのDS4で済ませる方法はないのかと頑張ったのですが… 見つからず。
厳密にいうと、DS4をxbox oneコントローラーと誤認させるようなフリーソフトは結構出回っているのですが、私のPCでは使えなかったんですよね。
ビデオカードや、NVIDIAが自社のビデオカードを購入した人用に提供している GeForce Experience という、スクショやキャプチャーが出来るソフトを入れていると、偽装が見破られるっぽいんですよね。

GeForce Experienceをアンインストールすれば大丈夫という記事も有りましたが、クライアントに左右されずにゲームのキャプチャーやスクショを撮る機能を無くすというのは、それはそれでキツイものが有ったので、アンインストールは断念。
いろいろ試行錯誤しましたが、結局の所、対処法が分からずに、xbox one のコントローラーを購入することにしました。


購入して、まず驚いたのが、今までの苦労が何だったのかというぐらいにスムーズに導入できた事です。
有線接続の場合は、USBに差し込むだけでセッティングが終了。 これだけで、PCでプレイするほぼ全てのゲームがコントローラーでプレイ可能になります。
これは、Steam をはじめとした多くのクライアントが、コントローラーのデフォルト設定を xbox のコントローラーにしているのが大きいでしょう。

OSがMicrosoftだからコントローラーもMicrosoftで!ってのは分かりやすいですが、PCなんだから、『コントローラーぐらいは、もっと自由に選ばせろよ』と思ってしまったり…
ただ、実際にPCでゲームをプレイしてみて分かったのですが、xbox のコントローラーを基準に作っているのは、windowsというOSだけでなく、ゲームメーカーもそうだと思い知らされました。

つい先日ですが、ダークソウルシリーズのセールが行われていたので、Steam で購入してプレイしてみたのですが、画面に表示されるコントローラーの操作方法は、基本的に xbox が基準となっています。
つまり、『話す際にはA』『キャンセルはB』といった具合に、 xbox のコントローラーを使っている前提で指示されるわけです。
仮に、何らかの方法でDS4でプレイする方法を見つけていたとしても、この様な指示のされ方をした場合は混乱してしまい、ゲームにならなかったかもしれません。
(DS4は、◯□△×)

日本では、『xboxって誰が買ってんの?』とか『家庭用据え置き機で性能求めるなら、PS4一択ww』なんて言われていたりしますが、それは日本だけの事で、世界基準では 事情が違ったりするんでしょうね。
PS4は販売数で xbox にダブルスコアをつけて勝っているようですが、よくよく考えると、windows10 には xbox のゲームが出来る機能が備わっている為、windows機を持っている人間は、実質 xbox を持っているのと同じです。

また、アメリカの場合(ヨーロッパも?)は、主流は据え置き機ではなくPC。 今では、ほとんどのサードパーティ製のソフトがマルチタイトルなので、10万円前後のPCを持っている人間には、据え置き機は要らない。
ゲーマーで、各ハートメーカーが出す独占タイトルがやりたいという場合のみ据え置き機を買うという感じでしょう。
Steam なんかでも、windows の方が対応タイトルが多い為、ゲーマーは windows を買っていると思われる為、Microsoftのシェアというのは、据え置き機の販売数だけでは測れないのでしょう。

xboxコントローラーを使用してみた感想

このような事もあって、PCでゲームをするなら xboxコントローラーがデフォのような状態になっているので、他社メーカーのコントローラーを使おうとすると難儀ですが、 xboxコントローラーを買ってしまうと、誰でも設定できるという状態になっています。
という事で、 xobx one コントローラーを使用してみた感想ですが、これが結構、使い心地が良いです。

PS4のDS4と比べると、十字キーと左のアナログスティックが逆の位置になっていますが、逆になっている事で、十字キーが右手でも左手でも押せる仕様になっていて非常に便利。DS4だと、十字キーは左手でしか押せませんしね。
各ボタンの名称を覚えてないので、ゲームや攻略サイトでボタン名が出てきた時は戸惑いますが、これも慣れなんでしょうね。

一つ不満点を挙げるとすれば、ワイヤレス機能がついたコントローラーを購入し、Bluetoothレシーバーも購入したのに、ワイヤレス接続が頻繁に切れるてんですかね。
解決するために自分なりに調べてみましたが、接続が頻繁に切れるのは皆同じ様で、諦めて有線で使用している人が多かった為、私も有線で使用することにしました。

2000円程度する充電バッテリーを購入したのに、全くの無駄になってしまいました。(有線接続はバッテリーや電池が要らない。USBによる電力供給)
もし、コントローラーの購入を検討されている方は、バッテリーの購入は慎重に考えたほうが良いです。
xbox のコントローラーはバッテリーを買わなくても、ワイヤレス接続は電池で出来る為、電池で試して問題がなければ、バッテリーの購入を考えるほうが良いかもしれません。

(ちなみにですが、バッテリーの購入が全くの無駄だったかというと、実はそんな事もなかったりします。
私が購入したバッテリーには、3m程のUSBケーブルが付いてきた為、ベッドから少し離れた位置にあるPCに接続して遊ぶことが可能になりました。
コントローラー側についてきたケーブルも同程度の長さがありますが、充電器の方についていたケーブルは、細いビニールの糸をワイヤー状に編み込むタイプのコードの為、耐久的に丈夫な感じで結構良かったです。(と自分を慰めてる)

追記

xboxコントローラーを使用して、steamでダークソウルシリーズをプレイしていたのですが、使用して2週間ぐらいでLBボタンの利きが悪くなりました。
他のゲームではあまり使わないボタンですが、ダークソウルシリーズではメイン攻撃のボタンなので、これを酷使することになります。
ネットで調べたところ、LBとRBボタンは構造的に耐久力に問題があるようで、壊れやすいようです。

ただ、メーカーもこの事を熟知しているのか、ボタンのききが悪くなったことをサポートに伝えると、簡単に交換手続きを提案してくれました。(知ってるなら、そのボタンの強度を上げてほしいですが…)
DS4では、同じ操作のブラッドボーンを2回クリアーするぐらい、同じ位置にあるR1ボタンを連打しても壊れなかったので、コントローラーの耐久力としては、DS4の方が上かもしれません。
steamでプレイする分には、DS4でも問題ないので、Microsoftのゲームに興味が無い方は、DS4を使用するのも良いかもしれません。


(画像はAmazonリンクです)

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その4

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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良い人になる事と良い人である事

対話をするためのルールを定め、プロタゴラスソクラテスはシモニデスの詩の解釈についての対話を行います。
プロタゴラスはシモニデスの詩を一つ取り上げ、その詩に対してソクラテスが良い評価をしている事を聞き出した上で、『同じ作品内で矛盾していることを主張している作品は、良い作品とは言えないのではないか?』と聞き返します。
これは、いわゆるダブルスタンダードというやつで、その時々の自分の状態によって意見をコロコロ変えるのは、一貫性が無く信用出来ない態度だからです。

当然、ソクラテスはこの意見に同意しますが、その直後に、プロタゴラスは詩の中の矛盾点を指摘しだします。
先程、対話と論争は違うという話をしたばかりなのに、プロタゴラスは定めたルールの中で勝利することに夢中になっているのかもしれません。

ここで、市の全文を紹介できれば良いのですが、資料が破損しているようで、その全文はわからないとされている為、ここでは、矛盾点のみを取り出して見ていくことにします。
プロタゴラスが指摘したのは、詩の前半部分で『本当に立派な人になる事こそ、困難だ。』と書かれているのですが、後半部分では『立派な人である事は困難だ』と主張している点です。
後半部分では、『立派な人である事は困難だ。』と書いていますが、立派な人である為には、立派な人になる必要が出てきます。 しかし、前半部分で『立派な人になる事こそ、困難だ。』と書かれています。

本当に難しく困難な事は、立派な人になる事であるのなら、立派な人になれる人は極少数ということになります。
しかし、後半部分では立派な人である事はこんなんだというのは、立派な人になるのは容易いけれども、それを維持する事は難しいと読み取れます。
プロタゴラスの指摘とは、前半部分では立派な人になる事はこんなんだとしておきながら、後半部分では立派な人になることは容易いが、それを維持する事は難しいと読み取れる為、矛盾しているということです。

そして、先程の同意に基づけば、自己矛盾を抱えた作品は優れた作品ではない事になり、優れていない作品を褒め称えたソクラテスは間違っているという事です。
この辺りのやり取りを見ても、プロタゴラスの執念が読み取れます。 優れていないとされる作品を褒めた事が証明されても、それは、その作品に対しての見る目がなかっただけなのですが、プロタゴラスはここから考えを飛躍させて、自己矛盾を抱えるものを褒め称えるような人間が賢いはずがないと、ソクラテスを攻撃しているわけですが…
先程からも書いている通り、ソクラテスは最初から自分を無知だと認めていますし賢者だとも主張していません。 ここで改めてソクラテスを無知だと主張しても、プロタゴラスが徳を知っている事を証明する事にはならないのですが、弟子の前で恥をかかされたと思ったのか、なんとかしてソクラテスを任したい様子が伝わってきます。

ソクラテスの詭弁

指摘を受けたソクラテスは、ここから反撃にでます。
プロタゴラスの弟子の中から、シモニデスと同じ出身者の人を指名して、『困難な』という言葉の意味について問いただし、シモニデスの出身地では『困難な』という言葉を『悪い』という意味で使うという事を聞き出します。
この解釈を詩に当てはめると、『本当に良い人になる事こそは悪いことだ』という事になる。 では、良い人になることが何故、悪い事につながるのかというと、絶対的な善は神だけに許される事だからで、人がそれに成り代わるというのは、良い事とは言えないからだという解釈を展開します。

その後、スパルタという国の捉え方について話し出します。
ソクラテス達が暮らすアテナイが、議論する事が重要視され、議論を有利に進める為の知識や弁論術が重宝されたのに対し、スパルタは、市民として生まれた子供は健全かどうかを詳しく調べられた後に、市民は全て職業軍人となる事が強制された為に、体の強靭さなどが重要視され、知識は軽視されてきたと言われてきました。
つまり、アテナイ人はガリ勉タイプで、スパルタ人は体育会系というレッテルが貼られ、それが常識とされてきたわけです。

スパルタは市民を全員職業軍人にする事で武力を増強し、周辺国を圧倒する力を手に入れたと思われてきたけれども、実際にはそれは間違いで、スパルタは知識の重要性を十分に理解し、実際には武力ではなく、知識によって他国を圧倒していたと主張します。
体だけが自慢の人達を、よく、脳まで筋肉を略して脳筋や、体力バカなんて表現したりもしますが、では何故、スパルタは脳筋を装うようなことをしたのでしょうか。
それは、他国を圧倒する力が武力ではなく知力だとバレてしまうと、他の国が真似をして知力を高める努力をしてしまうからです。 皆が知識を身に着けて賢くなってしまうと、他国を圧倒するのが容易ではなくなってしまう為、新たなライバルを産まない為にも、体しか取り柄がない事を目立たせて強調し、その一方で知識を身に着けていることを隠したんです。

この事は、スパルタ人と対話する事でよく理解できるようです。 スパルタ人の中でも、特に優れたところのない平凡な人間を連れてきて議論をした場合、通常時のスパルタ人の返答は平凡なものが返ってくるだけだが、議論が重要な部分に差し掛かると、短く鋭い言葉でもって核心をついてくるそうです。
議論を長々と引き伸ばして、今現在、何の議論をしているのかもわからないようにして煙に巻く事もなく、短く、力強く、誰にでも分かるような言葉で核心をついてくる。
この様な返答ができるのは、本当の意味で立派な教育を受けた人間だけで、このスパルタ式の教育を受けた人間の中には、ミレトスのタレスやピッタコスがいて、そのピッタコスが生み出した言葉の中に『立派な人である事は困難だ』という言葉が有り、シモニデスは、この言葉を引用したと主張します。

ただ、この引用も、尊敬を込めての引用ではなく、この言葉を生み出したピッタコスへの挑戦の意味を込めて引用したと主張します。
詩の解釈とは直接関係のない話が続き、やっと、シモニデスの名前が出てきたわけですが、ソクラテスは、一番最初に主張した『困難』という言葉の解釈を『悪い』というものから通常で使う困難へと戻します。

では、今までの長い話は何だったのかというと、プロタゴラスに対して、ソクラテスなりの反撃だったのかもしれません。
というのも、他人の書いた詩の解釈によって、徳や、その事柄が教えられるのかといった説明はできないからです。
先程も書いた通り、プロタゴラスの目的はソクラテスに勝利することで、その為に、矛盾を孕んだ詩をテーマに選んで弁論術を使った攻撃を行ってきた訳ですが、それに対してソクラテスは、プロタゴラスの主張する相対主義を使って反撃します。

言葉というのは、人間同士がコミュニケーションをとる為に生み出された道具ですが、当然のことながら、地域が変われば意味も変わってきます。
言葉には絶対的な意味がなく、その地域で意味が通じるなら、同じ単語であっても意味が変わる場合はあります。 これを利用してソクラテスは、現在議論している詩の意味そのものを変えてしまうます。

脳あるたかは爪がミサイル

その後、話はスパルタの教育方針へと変わります。
一見すると関係のない話のように聞こえますが、話の内容を聞いていくと、プロタゴラスなどを始めとしたソフィスト達の行動への強烈な批判が含まれています。

内容としては、『スパルタ人の中で最も凡庸な人間と議論をしたとしても、アテナイ人のソフィスト達よりも優れている。 何故なら彼らは、長い言葉を使って議論を長引かせたり、相手の集中力を削いだり、議論を煙に巻くといった事をしないからです。
誰にでも分かるような言葉を使い、短く鋭い言葉で核心を突くという行為は、本当に賢い者にしか出来ないといっているわけで、暗に、小難しい長い言葉を並べて自分の優位な状況を作り出そうと小細工するソフィストたちを、彼らの手法を用いながら責めているのでしょう。

立派な状態を維持する事は難しい

この後、ソクラテスは、『本当に立派な人間になる事こそ難しい。』という言葉の中の、『こそ』という言葉を取り上げ、重要なものだと言います。
というのも、先ほど名前を出したピッタコスが作った言葉の中には、この『こそ』という言葉は入っていなかったからです。
シモニデスが詩を通して伝えたい事は、『立派な人間になる事が難しい。』と単に主張しているわけではなく、『何の欠点もない完璧超人の様な立派な人間になる事、こそは、難しい。』と主張しているという解釈をします。

この2つの表現の仕方にどの様な違いがあるのかというと、立派な人間になる事、それ自体は、それほど難しくはないという事です。
前に、概念は単独で存在できるものではなく、対になるものと同時に生まれるという話を書いたと思いますが、立派という概念は、それ単体では存在することが出来ず、必ず、その反対の概念が存在します。
仮に、立派という概念と対になる概念が悪いという概念であるなら、常に立派ではない人間というのは、常に悪い人間ともいえますが… 常に悪い状態で有り続ける事は可能なのでしょうか。

また、立派になるという表現があるという事は、悪くなるという表現も存在するということです。
元から悪い状態ものが、何らかの原因で悪くなるというのは、既に転んでいる人間が、何かにつまずいて更に転ぶ事が出来ないぐらい、不可能なことです。
転ぶというのは、立っている人間に可能な事と同じ様に、悪い状態になるというのは、良い状態の人間でなければ無理なことです。

つまり人間は、悪い状態になり続ける事は出来ない為に、悪い状態と良い状態の間を揺れ動くような存在といえます。
善悪の間を揺れ動くということは、人は、例え短い間であれ、良い状態になることが出来るということで、単に良い状態に成るという現象自体は、珍しい事でもなんでもないという事なんです。

どんな凶悪な犯罪者であっても、生きている間中、誰かに迷惑をかけ続けて悪を体現し続けることは出来ません。何らかの拍子に、良い事をする事もあるでしょう。
全体として悪い人間でも、良いとされている行動をとっているその瞬間は良い人である為、どんな人間であれ、良い人間に成る瞬間はあるという事です。

ただ、悪い状態をキープし続けるのが無理なように、良い状態を生涯に渡って良い状態をキープし続けることは出来ません。
多くの人から善人と言われている人であっても、ある瞬間を切り取れば、悪人にも成るでしょう。
もし仮に、存在し続けている間、ずっと良いという状態をキープできるような存在があるとするなら、それは神と呼ばれるような概念的な存在だろうと主張しているわけです。

他人の作品の考察は議論にふさわしくない

一連の主張が終わったところで、ソクラテスは他人が書いた詩に対する解釈をやめようと言い出します。
というのも、ソクラテスプロタゴラスが、自分が考え出したそれぞれの主張をブツケて対話を行う場合、自分が疑問に思ったことは、その疑問を相手にぶつけることで解消することが出来るかもしれません。
仮に相手が、その答えを持っていなかったとしても、一緒に考えるという事が出来るでしょう。

しかし、他人が書いた詩を、外野が解釈合戦するという行為は、その真偽を確かめることが出来ません。
というのも、実際に詩を書いたシモニデスが同席していない為、外野であるソクラテスプロタゴラスの主張は、憶測の域を出ることが出来ないからです。
仮に、シモニデスが同席している場合は、シモニデスに対して『どの様な気持ちを込めて書いたのですか?』と聞けば良いわけですが、本人が居ない状態ではそれも出来ない為、シモニデスの気持ちを確かめようがない為です。

ソクラテス自身が本を書き残さなかったのも、この気持が大きかったからでしょう。
ソクラテス自身は、自分は無知だと公言しているわけですが、それでも、様々な賢者に話を聞いたり、自分自身で考えた理論はあるでしょうから、それを書き残せば、後世に対して何らかの貢献は出来るはずです。
しかし、仮に書き残したとしても、その本を読んだ人間が解釈を間違っては意味がありません。 読み手の解釈が正しいのか間違っているのかは、結局、書き手であるソクラテスが対話によって確かめなければならない為、意味がない行為だと思ったのでしょう。

その様な意味を込めて、ソクラテスは詩の解釈を巡る議論を終了し、その場にいるソクラテスプロタゴラス自身が考え出した言葉によって対話を行おうと提案します。
そして、『相手を打ち負かす為の議論』ではなく、共に協力し、真理に到達しようと主張します。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考文献

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その3

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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反対の性質を持つものは一つしか無い

概念は単独で存在しているわけではなく、常に相反する性質を持つものと同時に存在しています。
例えば、表という概念は裏という概念がなければ存在できませんし、明るいという概念は暗いという概念抜きには存在することは出来ません。
美しいという概念は、見にくいという概念があって初めて存在できる概念で、仮に、この世から醜いという概念がなくなって美しいものしか無い世界になれば、美しいという概念は無くなって、美しいことが当然で普通になってしまいます。

この様に、価値観や概念といったものが存在する為には、相反する概念とセットでなければならないわけですが、この『反対の性質を持つもの』というのは、表に対して裏というように、1つしかありません。
ソクラテスはこの主張を行った後で、プロタゴラスから同意を得ます。

そして、この考え方を、徳の考え方にも当てはめて考えてみることにします。

まず、無分別という存在について考えます。 この無分別の正反対の言葉は、知恵があることではないかとソクラテスプロタゴラスに訪ねたところ、『そうだ』と同意をします。
ですが、『無分別』とは、分別を行わ『無い』と書くため、無分別の正反対の言葉は、分別とも考えられます。
先程の理論に当てはめると、正反対の概念は1つしか無いとのことでしたが、無分別の反対の意味として、知恵と分別という2つの候補が上がってしまいました。

これは、無分別の対義語としてどちらかが間違っているか、それとも、分別と知恵が全く同じ概念となるかの何方かということを意味します。
無分別は分別が無いと書くために、一見するとこちらが反対の意味のようにも思えます。 しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。
概念は、相反する2つの状態を同時に宿すことは出来ないと考えます。 つまり、美しく有りながら醜いとか、裏でありながら表という状態は無いということです。これを念頭に置いて、考えを進めていきます。

次に、不正を行うような人物について考えていきます。
分別とは、事の善悪や損得を考える能力のことなので、分別がない人間は、何が悪い事なのかが分からずに、欲望に任せて不正を行うことは珍しいことではないでしょう。
しかし、不正行為は無分別の人間だけが無意識に行ってしまうようなものなのでしょうか。
分別が有り、何が良いのか悪いのかを熟知していて、それでも尚、自分の欲望を満たす為に、悪いと知りながら不正に手を染める人間というのは存在しないのでしょうか。

現実の世界を見てみれば分かりますが、そんな人間は腐る程います。
脱税するのが悪いと分かっていながら行うものや、脅しや詐欺が悪いと分かっていながら、お金欲しさに実行する者は、日々のニュースを観るに珍しい存在ではありません。

では、これまでの事をまとめてみると、どうなるのでしょうか。
概念は単独で存在する事は無く、存在する場合は正反対の性質を持つものと対になって生まれます。反対の性質を持つものは1つしか無く、正反対の性質は同時に宿ることはありません。
この前提を置いて、分別の対義語を考えてみると、『知恵の無いもの』と『無分別』の2つの対義語が候補に上がってしまいました。 先程の前提を満たそうと思うのであれば、『知恵が無い状態』と『無分別』は同じものと考えるか、対義語として何方かが間違っていることになります。

次に、不正を行う人間というのは、分別がない人間と言われているので、ここでは、『不正を行うもの = 無分別』とします。
先程、『無分別』と『知恵』は同一のものかもしれないという可能性が上がったので、ここでは一旦、『不正を行うもの = 知恵のないもの』も成り立つものとします。

『概念の前提条件』としては、他に、正反対の性質は同時に宿ることが無いとのことでしたが、『不正を行う』という行為と、知恵や分別が有るという状態は、同時には成り立たないのかを考えてみます。
不正を行う行為は、無分別と知恵の無い状態と等しいという事が分かったので、当然のことながら、不正を行うような人物は『知恵』も『分別』も持っていては駄目だということになります。
しかし実際には、分別がある状態で、悪い事と知りつつ、知恵を働かせて不正を働く人間というものが存在します。 悪いと知りつつ、自分の利益の為に知恵を働かせて脱税行為をするのが、これにあたります。

この状態は、不正を行うような分別も知恵もない人間が、分別と知恵を働かせて不正を行って利益を得た事になるわけで… かなり矛盾した事になります。
また、分別と知恵を働かせて不正を行う人間は、徳の一部である『分別』と『知恵』を持っていることになるので、この不正を働いた人物は、徳を持つ人間という事にもなってしまいます。

当然のことながら、分別をわきまえて知恵を働かせて、自分の利益の為に不正を働くような人間は他人から尊敬ませんし、他の人間と比べて卓越した人間でもありません。
徳を構成するものを備えた行動を行ったのにも関わらず、何故、不正を働いた人間は尊敬されず、何なら見下されることになるのかというと、不正を働く行為は『善い行い』ではないからです。

善い行為とは何なのか

先程の考察により、徳というものは、それを構成しているものを宿しているだけでは徳ではない事が分かり、それと同時に、『善』を宿していなければならない事が分かりました。
では、『善い』とは何なのでしょうか。

ソクラテスは、『善い』の定義をはっきりさせる為に、『善いとは、人間にとって有益なものだけを、善いというのですか?』と訪ねます。
これに対してソクラテスは、同意しつつも、『それだけではなく、人間にとって有益とは言えないものも、善い場合もある。』と付け加えます。
プロタゴラスソクラテスに、散々、揚げ足を取られ続けている為、『善い』がカバーする範囲を広げて防衛戦をはったのでしょう。

ソクラテスは、いつもの調子で『では、全人類にとって有益とはいえない、有害となるものも、善いものもあると主張するのですね?』と確認する。
プロタゴラスは苛立ち始め、少し興奮した様子で『善い』の定義について話し出す。

例えば、人間が食べることで健康になるような植物は、人間にとって善い存在と言えるだろう。 だからといって、人間が食べられるものだけが善い存在だとは言い切れない。
人間にとっては害になったとしても、例えば馬にとっては善い植物かもしれないし、他の動物が食べると毒になるようなユーカリのような植物でも、コアラにとっては善い植物かもしれない。

動物が食事をした後に残す糞尿も、人間にとっては臭いだけで役に立たないかもしれないけれども、植物の根にとっては善いものとなる場合もある。
植物の根にとって善いものであったとしても、それが枝につくと、枝を痛めてしまうようなものも有る。

例えばオリーブオイルは、人間の体にとっては有益なものだけれども、その他の植物にとっては有害で、水の変わりいオリーブオイルを与えたりすると枯れてしまう。
また人にとっても、体に塗るといった使用方法では有益だけれども、これを水のように飲んでしまうと害が出てしまう。
摂取する場合は少量に抑えなければならず、大量に取ると害になってしまう。  つまり、同じものであっても摂取する量によって、有害にも有益にもなるので、一概に善いとは言えないと答える。

ソクラテスメソッド

相対主義者であるプロタゴラスらしい切り返しで、尚且、説得力の有る主張ですが、この主張を前にソクラテスは、対話のルールを決めましょうと提案してきます。
それが、後にソクラテスメソッドやソクラテス式問答法と呼ばれる対話方法で、テーマを明確にして、出来るだけ主張を短く、且つ、分かりやすくし、主張を聞いた側は、納得できなければその部分について短く簡潔に質問をし、その回答に納得ができなければ出来るまで質問を繰り返し、相手から答えが聞けない場合には、自身が短くわかり易い言葉で主張を使用というルールです。

つまり、先程のプロタゴラスの『善の定義について』の話は長すぎるので、もっと短く話してくれという要望です。
これに対してプロタゴラスは反対します。 その様なルールを一方的に押し付けられれば、勝てる議論も勝てなくなってしまうと。

この反論からも分かる通り、プロタゴラスソクラテスとの対話を言葉による勝負だと捉えていて、その勝ち負けにしか興味が無いことが分かります。
ですが、この議論の最初を振り返ってみると、そもそも勝負ではなく、ソクラテスは『ソフィストとは何を教えているのかがわからないから、教えてもらう。』というスタンスでした。
つまり、この討論は最初から勝負をつける論争ではなく、プロタゴラスソクラテスが分からないことを教えるレクチャーだったわけです。
しかし、ソクラテスの鋭い質問に窮地に立たされるプロタゴラスは、ソクラテスが賢者である自分を打ち負かしに来ているのではないかと思い込み、いつの間にか勝負をしている気になっていたわけです。

この主張に対してソクラテスは、あくまでも下手に出て、自分が無知であり、物事がわからないからこそ、それを知っている人物に教えを頼んでいるだけだということを改めて伝えます。
その上で、自分は記憶力が弱く、一方的な長い主張を聞いていると、自分が今、何を相手に聞いているのか、論点を見失ってしまうことを伝えます。
私自身が、私の能力が劣っている事を認めている一方で、貴方の方は自分が優れた人だと主張して、人から授業料を受け取って物を教えるという職業の人ではないですか。
それなら、能力の高い貴方の方が、私に合わせてくれてもよいのではないですか? と答えます。

例えるなら、全くの初心者がギター教師にギターの演奏方法を習いに行った際に、講師の人が、『上手くなる為には、演奏が上手い人間とセッションするのが一番なんだよ!』と言い出し、イングヴェイの曲をライトハンド奏法で弾きだして、『さぁ! いつでも入ってきて!』と言い出したとしたらどうでしょう。
コードの抑え方もわからないような初心者が、そんな授業について行けるはずがありません。
その一方で、それのどの技術を備えている講師の方は、初心者の方に合わせる形で、どの指を使ってコードを押さえれば良いのかといったレベルまで授業内容を引き下げることが出来ます。

つまり、能力が高い人間は低い人間に合わせることは出来るが、能力の低い人間は高い人間に合わせることが出来ないという事です。
ソクラテスは、自らがムチで能力が低いことを認めた上で、プロタゴラスに対し、『貴方のほうが優れているのだから、劣っている私の方に合わせてください。 私には、あなたのレベルに合わせる能力がないのですから。』と堂々と言い放ちます。
それが出来ないのであれば、また、討論の勝敗にこだわる喧嘩腰の討論を続けるというのであれば、この対話は打ち切って終わりにしましょうと提案します。

これを聞いたプロタゴラスの弟子たちは、2人の対話をもっと聞きたいという思いから、プロタゴラスに対し『優秀な貴方の方が、ソクラテスに合わせるべきでは?』と提案し、プロタゴラスは渋々受け入れることになります。

私がこの部分を最初に読んだときは、ソクラテス自身も詭弁を使って議論に勝とうとしているのではないかと思い、少し嫌な気分になりました。
この対話編に登場しているプロタゴラス自身も、私と同じ様な誤解をし、怒りを顕にする場面などが登場するので、プラトン自身が、その様に誤解させるような書き方をあえてしているのでしょう。
その為、ソクラテスが真理を得る為に対話相手に行う質問と、ソフィスト達が議論に勝つ為に使う詭弁が、判断がつかない紛らわしい感じで使われています。

しかし、ソクラテスが登場する対話編を複数読み込んでいくと、それは誤解だった事に気付かされます。
ソクラテスは最初から、自分が無知であることを認めた上で、自分が分からないことや納得が出来ない点について質問をしているだけだと主張しています。
わからない事について、詳しい人に教えてもらおうと授業をお願いしたとしても、相手の主張が本当に正しいかどうかは分かりません。

その為、理解できない点や納得できない点について質問をするのですが、その質問を受けた教師側は、『侮辱された』『喧嘩を売られている』と勘違いし、気分を害してしまいます。
これは現在でも同じで、仮に、学校の教師に対して教師が答えられないような事、又は、教師自身が理解していると思いこんでいたけれども、実際には理解していなかった事が暴露されてしまうような質問をした場合、大抵の教師は生徒に対して怒り狂うでしょう。
質問が相手の専門分野であれば有るほど、相手はムキになって『オレの言ってることを信じろ。』と連呼することしかできなくなるでしょう。

結果として生徒は萎縮してしまい、学問に対する興味を失い、真理を追求することもなく、上の者が主張した事を盲信させられます。

ですが、ソクラテスにとってこの様な権威主義は、一番避けたいものであり、最も忌み嫌う行為です。
知らないことを知った気になっているかもしれないだけの人間の主張する事を、正しい事だと思い込んで信じる行為は、真理に近づく行為ではなく、その道を断ってしまう行為だからです。
ソクラテスが望んでいることは真理への到達。アレテーを知る事なので、擬物の真理で満足できるはずがありません。

当然のように、ソクラテスは議論に勝ちたいわけでもありません。
ソクラテスが望んでいることは、自分が正しいと思いこんでいるけれども、実際には間違っているかもしれない事柄については、指摘して欲しいと願っています。
指摘をされる事で、自分が歩んできた道が間違っていたことが判明しますし、別の正しい道を探せるきっかけにもなります。

ソクラテスにとって対話相手は、打ち負かすべき敵では無く、共に真実へと近づく為の味方なのです。
(づづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考文献

sake x 婚活 x 国際交流イベントに参加した感想を書いてみた

昨日のことですが、運営側に知り合いが絡んでいる婚活イベントに参加してきました。
今回は、この体験を書いていきます。

sake x 婚活 + 国際交流イベント

今回、参加したのは、日本酒の知識を深めつつ、異性とも知り合いつつ、国際交流まで出来てしまうという、何とも盛りだくさんのイベントでした。
これだけ盛りだくさんにも関わらず、お値段が2000円と、かなりReasonable!
また帰る際には、梅酒のお土産までくれるという事で、コスパ最強な感じで、それなりに満足して返ってきました。
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参加したイベントが特定されない程度に、もう少し具体的に書きますと、今回のイベントは国際交流を行っている施設が主催しているイベントなので、参加者も日本人だけだとは限らず、様々な国の方が参加する可能性があるイベントでした。
私が観た範囲だと、2~3人が見るからに外国の方でしたが、見た目ではわからないアジアの人達も参加されていたので、2割ぐらいは外国の方だったんだと思います。
4人がけのテーブル席が8席ぐらい有り、そこに自由に座っていく感じでしたが、途中からスタッフが席を誘導しだしたのか、テーブルには男女が混合で座る感じになりました。

日本酒の講義

人も揃い、開始時刻になったので、『日本酒を軽く勉強し、その後は、日本酒を呑みながら交流を深めたりしていくのかな…』と何となく想像していたのですが…
実際には少し違い、伏見から酒蔵の方がゲストで来られ、30~40分程度のガッチリとした講義が始まりました。

何故、伏見という土地で酒づくりが盛んになったのかを、京都の地面の高さを反映させた地図を用意して説明をしだす講師。
京都の、特に伏見よりも南側の岩盤層はかなりの盆地になっており、その地下には、琵琶湖と同じ量の水分が蓄えられているとか、その水質はどうなのかとか、ミネラル分はどれほど含まれているのかといった事や、水道水との飲み比べなどが行われました。

その後は、利き酒クイズ。
1番から5番まで番号が振られた酒を呑み、その特徴を理解した上で、A~Eに置かれている酒を飲み、A~Eの酒は1~5番の度の酒と同じなのかを当てるクイズです。
このクイズは、テーブルの皆とワイワイ話しながら行うことが出来たので、結構、楽しい時間を過ごせました。
お酒というテーマで集まり、同じクイズを解くという経験を通して、徐々に仲良くなっていく感じ。

参加する前は不安でしたが、共通の話題や体験を与えてくれた事で、コミュニケーションも取りやすく、非常によく考えられたイベントだなと感心しました。
このクイズの時間が、体感で大体30分ぐらい。 この時点で、開始から1時間程度経過しているような状態だったと思います。
ちなみにですが、このイベントは19時開始で20時半終了の予定です。 

えぇ~と。。 僕は何しに来たんでしたっけ? 日本酒の授業を受けに? それとも、婚活とか出会いを求めて?

婚活パート?

楽しいクイズの時間も終わり、同じ経験を経たことで少し仲良くなり、喋りやすい雰囲気も整い、これから仲良くなって連絡先を交換する機会を伺うぞ!と思っていたところ、クイズ終了と同時に司会の人がマイクを握り…
『席替えターイム!!』の声。。

『え???  クイズで仲良くなって、これからが本番なのに??? 今までの関係構築、全部チャラ??』
席替えといわれても、どの席に行って良いのが会場内の人間全員がわからない状態になっていると、司会の人が『とりあえず、男性だけが隣の席に行きましょうか。』と支持をする。
何方の隣かわからないままに、とりあえず移動し、そこからまた自己紹介して、探り探りの会話のスタート。

とはいっても、30~40代限定の企画なので、皆それなりに社会経験があり、社交辞令などはわきまえていて、上辺だけの探り合いを出来るぐらいのコミュニケーションは取れる。
『私は、婚活とかではなくて、日本酒が好きで知識を深めたいと思って来た』といった感じの分厚い鎧を着込み、踏み込みすぎない感じで腰の入らない牽制突きを繰り返すようなコミュニケーションでも、数分続けていれば徐々に慣れてくるもので、双方の努力の結果、それなりの会話が成立するようになってくるも、ここで司会の

『席替えターイム!!』
『え?? 何分でとか告知なしで? 会話が盛り上がり始めたこのタイミングで?』

次は、女性が今まで話していない人の席に移動するという事で、2人の女性が僕が座るテーブルにやってきました。
ここで、一人の女性が衝撃発言。
『わたし、盛り上げるために参加してるので、がんばります!』
よく見ると、受付でコートを預かってくれたスタッフの人で、婚活パートがスムーズに行く為に、サクラとして参加しているようです。

それにしても、サクラって、最初に自分で言っちゃうんだね。
まぁでも、ノリの良い人ですし、頑張って盛り上げると言ってくれてるんだから、婚活パートで成果が出るように盛り上げてくれるんでしょう!

少し期待して、盛り上げるために一生懸命に話すという彼女の話に耳を傾けていると…
室町時代に作られていた製法を再現している酒蔵があるんですよ!
 ビールは、エジプトとかそこら辺が発祥という節があって、京大では、ナイルの名前がついたビールをお土産用に販売してるんですよ!』
など、様々な酒に関する情報を、マシンガントークで話してくれる。

他にも、彼女は大学院に通っている学生らしく、同僚の研究生が、自分の専門分野のことをWikipediaに書いて情報発信しているなど、他には聞けない話をずっとしてくれる。
ところで、僕は何のイベントに参加したんだっけか…  婚活とは…

そうこうしている間に、終了の合図などは無し、スタッフが会場の片付けを始まる。
酒の歴史を語ってくれた彼女によると、会場自体が21時に閉まるようで… スタッフ達からそろそろ帰れオーラが伝わってくる。

一緒に同席していた女性が、『結構短いんですね…』とサクラの彼女に話しかけると、『だから皆、二次会行くんじゃないですか!』と言っていたが、誰かが先導する様子もない。
しかも場所的に、周囲には飲食店が無い。 出口の方を観ると、チラホラ帰っていく人が目立ち始める。
女性の人がサクラの人に『帰っていってる人も居ますが、これからどうしたら?』と聞くも、『どうしたら良いんでしょうかね。。』 と言い残し、スタッフの仕事の方に向かい始めたので、ここで私は帰りました。

出口付近では、日本酒の講義をしてくれた酒蔵の方が、参加者全員に梅酒を手渡しでプレゼントしてくれて、結果として、物凄くコスパの良い、日本酒の公開授業を楽しめました!

イベントを振り返って

少し茶化した感じで書いてしまいましたが、イベント自体は非常に良いものだったと思います。
参加費2000円で、日本酒を呑めて、酒蔵が独自開発をした酒粕を使った『おかき』も食べ放題で、帰る際には瓶詰めの梅酒もお土産でもらえたので、日本酒の勉強会としてのコスパは最高でした。
利き酒クイズを通して、テーブルの人とも和気あいあいと話せましたし、少しドキドキもさせてもらったので、これで文句を言う方が間違っているのかもしれません。

ただ、婚活イベントとしてはどうだったんだと思ってしまいました。
色んな人と交流してもらいたいと思い、席替えをさせたいという気持ちはわかるんですが、せめて、席替えアナウンス1分前に『1分後に席替えをしますので、連絡先交換をする方は、今のうちにしてくださいね。』のアナウンスが欲しかった。

私は、純粋な婚活イベントには参加経験が殆ど無いので、参加される方がどの様なスタンスで参加されてるかは分からないのですが、今回の様に、『日本酒セミナーも開きます!』という名目のイベントの場合は、『私は、婚活とか興味ないけれども、日本酒の知識が欲しいから来ただけだから。』と格好をつけることも出来るんです。
こういう場では、『どうしても出会いが欲しかったから来た!』とか宣言してしまうと、下手をするとドン引きされてしまう可能性すらあるわけです。

皆が仮面をつけて下心を隠した状態で、社交辞令で牽制しあってる状態なので、ここで積極的なアプローチをさせる為には、参加者たちに何らかの言い訳を与える必要があると思うんです。
その言い訳というのが、司会による、連絡先交換の誘導です。

この様な誘導があれば、『私は、日本酒に興味があったから来たんですよ。 出会いとかそんなんじゃないですから。 でも、司会がいうなら、とりあえず交換しときます?』という空気が出来るので、非常にスムーズに連絡先交換が行えると思うんですよ。
連絡先さえ交換してしまえば、イベント時間なんて問題ではありません。 だって、別の日に連絡をとって呑みに行くなり遊びに行くなりすれば良いだけなんですから。
生理的に嫌な人間から連絡が来ても、無視すれば良いだけですし、連絡して無視されたらあきらめも付くと思うんです。

でも、今回の様な流れだと、そもそも連絡先の交換自体が至難の業。
ここまで読んで『子供じゃないんだから、セッティングされただけでも、ありがたいと思えば?』という意見もあるでしょう。
しかし、私から言わせてもらえれば、異性との交流に置いては子供並みの知識と精神しか無いから、この年まで独り身なんじゃ!としか言いようがありません。

何のアシストもなく、ホイホイ連絡先を聞けるような性格をしているのなら、イベントに参加せずとも、とっくの昔に結婚しとるわい!と言いたい。

何度も書きますが、イベント自体は素晴らしかったんですよ。 あの値段で、こんなイベントを開くなんて、利益を追求していたら、とても出来ません。
運営していたスタッフも、講師としてきた酒蔵の方も、ほぼボランティアで参加してるんじゃないかって程に原価がかかっているイベントで、これで文句をいうとバチが当たるようなイベントだったんです。

だからこそ、惜しいと思うんです。。
席替えの1分前に、『連絡先を交換してくださいね。』と運営が強制するように促すだけで、このイベントで人間関係が広がった人って沢山出たと思うんですよね。

まぁ、何度も書きますが、ほぼボランティアのようなイベントで、苦情とも取れる事をいう方、がどうかしてるんですけれどもね。

会田誠氏の公開講義がセクハラだと訴えられた件について考えてみた

昨日の事ですが、Twitterを眺めていると、『会田誠さんの公開講義がセクハラで訴えられる』といった記事の紹介がタイムラインに上がってきました。
www.bengo4.com

この記事を呼んで、いろいろと思うところが有ったので、今回はこの事についての考えを書いていきます。

出来事の要約

事の発端は、原告の京都造形大出身で美術モデルをされている大原直美さんが、卒業後に京都造形芸術大の東京キャンパスで行われた、『芸術の永遠のテーマ『ヌード』を通して美術史を知る 人はなぜヌードを描くのか、見たいのか。』というテーマの公開講座を受講したところ、その内容にセクシャルな表現が含まれていて、精神的苦痛を受けたようです。
記事内で、問題がある講義を行ったとして名前が出ているのは、会田誠さんと鷹野隆大さんの二人。

原告の大原直美さんは、全5回講座の第3回の時点で会田誠さんの講義で精神的苦痛を受け、動悸や吐き気、不眠の症状がつづき、急性ストレス障害の診断を受け、大学側に苦情を入れたようです。
しかしその後、第五回の講義にも参加して、また不快な物を見せられた為に、堪忍袋の緒が切れてしまったようです。

当然のように大学側に講義をし、大学側はセクハラを認めて示談になると思いきや、大学側が、『もう貴方とは関わり合いになりたくないから、一切の関係を切りたい。 また、今回の件は公にしないように。すれば名誉毀損だから』と言い出した事で腹を立て、今回の訴えに発展したようです。
具体的な訴えの内容を、先程のリンクから一部を引用しますと
代理人の宮腰直子弁護士は「大学は、セクハラ禁止のガイドラインをもうけており、公開講座を運営するにあたっても、セクハラ対策をすべきだった。作家の作品の是非や、セクハラ言動そのものでなく、そうした環境を作り出したことに問題があった」
とのことです。

ちなみにですが、公開講座の受付ページはこちらになっています。
air-u.kyoto-art.ac.jp

会田誠が参加する部分の内容の紹介文として、『たぶん芸術と対立概念になりがちなポルノの話や、第二次性徴期の話、フェミニズムの話なども避けては通れないでしょうね。』と、そして、第5回のテーマの紹介文には『ヌード表現とセクシュアリティの関係を歴史を振り返りながら再考します。』と書かれています。
原告の大原さんは、この部分の説明文を読まずに参加したか、もしくは、読んだけれども、内容がそれ以上だった為に精神的ショックを受けたのでしょう。

ネットの意見

この話題が出だした当初に私がTwitterで検索した限りでのネットの反応としては、『ヌードがテーマで会田誠さんが講師なら、そんな内容になるよね? 事前に調べてなかったの?』という意見が8割ぐらいの印象です。
私自身は会田誠さんの事を知っていて、画集も持っているので、最初に印象を抱いたのもこれ。わざわざ大学の公開講義を探し出してきて応募する人が、それに携わる講師も検索しないのかというのか?と疑問に思いました。

この他には、少ないながらも、『会田誠さんは誰でも知ってるような人物じゃない。』といった感じで、会田誠さんを知ってる前提で議論している人たちに対して『マウントをとっている』と避難している人達。
この主張も分からなくはありません。 私は、美大出身でも何でも無い高卒ですが、少し美術に興味が有って、美術系の手例番組を観る習慣が有ったので知ってましたが、知らない人も大勢いるとは思います。
原告の方は京都造形大学出身で美術モデルをされている方のようですが、絵画とかインスタレーションには全く興味がなく、会田誠さんを知らなかったという可能性もあるでしょう。

しかしその後、記事をもう一度読み込んで疑問に思ったのは、第3回で精神的ショックを受けて大学側にクレーム入れた人が、その1ヶ月後に開かれた第5回の講義に参加し、全く同じ被害を訴えている点です。
何をもって普通というかは置いていて、自分が受け入れられない強烈なショックを受けたテーマの講義を、もう一度受けようと思う場合、次は失敗しないように講師を検索すると思うんですよ。
その講師がどんな人となりで、どんな思想を持っていて、作品を発表しているのかを調べる時間は十分あったと思うんです。 というか、有名講師を呼んでの公開講義は、まず講師がどんな人物か知ってる人が行くもんだと思うんですが、テーマに惹かれて参加しただけの人でも、1回失敗したら、次は慎重になるはずですよね。

それもせずに参加して、またセクハラ被害を訴えているのが疑問です。

ネットの意見の中には、『講義内容が自分に合わなければ、退出すれば良いじゃないか。』といった意見も有りましたが、私自身が気が弱いので、『合わないから出る。』といった選択肢が取れない人の気持ちは理解できます。
でも、私のような弱い人間は、自分の判断で退出できない気の弱さが有るからこそ、自衛の為にも、同じ失敗は繰り返さないように気をつけます。
それをしていない部分については、ちょっと理解が出来ないです。

自分がクレームを入れたんだから、次は講義内容が修正されるはずと思ったのでしょうか。
でも、それってどうなんでしょう。 表現の自由を突き詰める美大で、クレームが有ったから表現を変えますって事をするのでしょうか。

名前を出された会田誠さんは、『表現の不自由』というテーマで自身の考えを発表していますが、クレーム対応で表現を変えるというのは、その考えと対立する考えのように思えます。

施設はどこまで告知するのか

今回の事ですが、会田誠さんの名前とセクハラという言葉が全面的に出てはいますが、訴えの内容としては、芸術家の表現を規制しろと主張しているわけではなく、大学側の対応が悪いという主張です。
表現の自由には口を出さないが、今回の原告の様な被害者を出さない為の対策が足りないと主張しているわけで、つまりは、ひと目で講義内容が分かるように注意喚起すべきだという主張なのでしょう。

でも、告知ってどこまですれば良いのでしょうかね。
今回の公開講義も、第3回と第5回のテーマは、アートとエロスの境界線を探るという事で、セクシャルな表現を話すと告知されていますが、それでは足らないという事なのでしょうか。
ということは、講師の方にはフリートーク的な講義は止めてもらって、話す内容を1度原稿に起こして、どんなセクシャルな表現をするのかを細かく書かなければならないという事になります。

でもこれって、公開講義だけの話で収まるんでしょうかね。
例えば映画の場合、自分が想像していた話ではなかったり、不快な映像が流れる場合もありますが、その場合に備えて、映画館は注意書きを書いて、同意した人だけ観られるような体勢を整えないと駄目なんでしょうかね。
例えば、『この作品には、キスシーンがあります。』『この作品には、直接的な性の描写があります。』『この作品には、男女の性交を匂わせる表現があります。』『この作品には、直接的な性描写はありませんが、男女がダンスを踊ることによって、性描写を表現しています。』といった事を全部明記した上、同意した人のみ入れるようにするべききなのでしょうか。

仮に、こんな事をすれば、ネタバレ警察が殴り込んでくることでしょう。

そもそも美とは何なのか

原告の方は、アートに美しさだけを求めている為に、それ以外の表現が受け入れられないのかもしれません。
美しい裸体を美しく描くことが美術だというのは、文章で書くと簡単なことですが、では、『美』とは何なのでしょうか?

美しいヌードとは、顔のパーツの配置のされ方が絶妙で、プロポーションが最高な人を最高の技術で描く事が、『究極の美』なのでしょうか?
そもそも、何を持って美しい。美のイデアとはどんなものなのかといった事は、二千年以上考えられてきたのに答えが出て無いものです。

現状で美しいとされている人を美しく描いたところで、そこに普遍的な美のイデアが確実に宿るとはいえません。 逆に、美しくないとされているプロポーションをしている人を描いたとしても、そこに美が宿る場合もあります。
美とは造形美なのか、演出できるものなのか、本能的なエロスを含むものなのか。それとも、それを超越した何かなのか。
芸術家と呼ばれる人は、美のイデアが何に宿るのかを追求するのが使命だったりします。

その為には、余計なものをドンドンと削除していき、最終的に根本的なものだけを残そうとするミニマル的なアプローチも有るでしょうし、逆に、美しいとされているものに対して、残虐性や痛さといった要素を付け加えていき、どこまでが美しいと言えるのかといった挑戦方法もあるでしょう。
いろんなアプローチで美に関する作品を生み出し、それを一般公開する事で社会の反応を感じ、普遍的な美を解明しようというのが美術の役割ともいえます。
当然のことながら、この様な作業の大きな障害となるのが、表現規制です。 表現が規制されてしまえば、普遍的な美に対する追求の手を緩めざるをえません。
その為、一部の人達は表現規制と戦いながら、ギリギリのラインを攻めていくわけです。

つまり、『美しいものを美しく書くだけで良い。』と言葉では簡単に書けますが、それを実行する為には普遍的な美を追求しなければならず、普遍的な美を追求する為には、エロ・グロ・ナンセンスというものも手法として使われる。
今回行われた公開講座には私は参加していない為、講義内容は想像することしか出来ませんが、美とエロ・グロ・ナンセンスの関わり合い方などを考えていくような内容だったのではないでしょうか。

講師の方々は、普遍的な美のイデアが分からないが為に、社会実験的に様々な作品を生み出しては社会の評価にさらしてきて、今尚、美について考えているのでしょう。
その思考方法が受け入れられないというのは人それぞれなので、悪い事とも良い事ともいえませんが、アプローチそのものを否定するというのはどうなんだろうとは思ってしまいます。

大学側の対応

今回の争点となっているのは、芸術家の活動云々ではなく、大学側の対応のようです。
公開講義の内容について抗議したところ、大学側はセクハラを認め、示談になる直前までいったそうなのですが、その際に大学側が、『今回の件を公表しないこと。』と『二度と大学側にかかわらない事。』を条件として出した事が原因で、訴えに発展したようです。

原告側だけの主張で、双方の意見がわからない為に、想像でしか書くことは出来ませんが、個人的には大学側の言っている点も理解できます。
というのも、原告の方は、今回の件を公表しないことの理由として、有名人を保護する為に生徒を切り捨てたと主張していますが、本当にそうなのでしょうか。

例えば、真面目な紳士キャラで売っている作家がセクハラをし、それを口止めした場合は、イメージが崩れる事を恐れて口止めと言われても仕方のないことかもしれません。
しかし会田誠さんは、過去の自分のエロ・グロ・ナンセンスな作品を通して、自分のキャラを公開しています。
Twitterの反応も、『あの有名な芸術家の会田誠さんが、セクハラしたなんて!!!』といった反応は、私が検索した範囲では見つけられませんでした。

主な反応といえば、『会田誠さんを呼んでヌードを語ったら、そんな内容になる事は想像できるよね。』といった反応ばかり。
今回のことが公になったことで、会田誠さんがダメージを受けたのかというと、全くといって良いほど受けてはおらず、逆にTwitterで多くの人がつぶやいた事により、今まで会田誠さんを知らなかった人間に知ってもらえた為、利益のほうが大きい。
大学側が原告の言う通り、有名人を守る為に口止めをしたとは考えにくいです。

では何故、大学側は口止めをしたのでしょうか。
これは、情報不足の為に憶測になりますが、仮に、この示談で示談金が支払われる予定だった場合。 この事が公になると、二匹目のドジョウを狙って他の人間が示談金目当てに公開講義に殺到するなんて事も考えられます。
大学側としては、そのような事が起こると困る為に、示談にするなら、事を大きくしないようにしたかったとも考えられます。

『二度と大学側にかかわらない事。』という条件をつけたのも、個人的には理解できます。
私が仮に飲食店を経営はじめたとして、その店の客が『この料理は口に合わない!』とクレームをつけてきたとしましょう。
こちらが必死に謝って、何とかその日はやり過ごし、一安心していたところ、翌日、またその客がやってきて、全く同じ料理を注文し、『この料理は口に合わないぞ! 前に言ったよね?』とクレームを付けてきたとしたら?

私なら、『うちの料理はこの味なんです。合わないというのなら、料理の料金はいらないから二度と来ないでくれますか?』と言ってしまうでしょう。正直、関わり合いになりたくないですし、その為に時間を割きたいとも思いません。

やり取りが詳しくは公開されていませんし、これは私の想像でしかありませんので、実際には大学側が想像を絶するほど高圧的な態度をとってきた可能性も否定はできません。
ただ、既に公開されている情報だけを読み込むと、この様に感じてしまいました。

まぁ、セクハラというのは、本人の主観的なものなので、原告の方がどれ程のショックを受けたのかを私達が完璧に理解することは出来ません。
当然のように、他人が『大した事がない。』と決めつけられるようなものでも無いでしょう。
なので、この訴えをもって『大袈裟だ!』なんて事は言えません。

結果は見守ることしか出来ませんが、これを機に、表現規制が強化されたり、必要以上のゾーニングやネタバレ強制なんて事になると、住みにくい世の中になりそうだなとは思いました。

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その2

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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Podcastはこちら

徳は教えられるもの

前回の投稿はこちら
kimniy8.hatenablog.com

プロタゴラスの主張としては、徳とは他人に教えられるものというものだったが、ソクラテスは、徳が教えられるものであるなら、徳が高い人間の子供は徳が高いはずだが、現実を見るとそうとは限らないといって、その主張に反対する。
この主張に対してプロタゴラスは、『才能』の有無で説明をしだす。

プロタゴラスの主張では、全ての人間は徳を備えているとのことだったけれども、完全に平等に備えているのかといえば、そうとは言えないと主張します。
ゼウスは、人類に対して徳を授ける時に、全ての人に行き渡るように配分をした為に、人類は徳の核のようなものは平等に授かったけれども、それを応用発展させる力そのものは、個人の才能によるという事です。

例えば、運動神経の良い人は、スポーツのコーチから同じ様に指導を受けたとしても、才能のない人に比べて上達も早く、トレーニングを積み重ねることで、常人には追いつけないような場所にまで到達することが出来ます。
これは学問などの知識の分野でも同じで、同じ様に授業を受けているのに、僅かなヒントで問題を解く方法を思いついて発展させていく人もいれば、落ちこぼれる人もいます。
徳も同じで、全ての人が徳という概念や核の様なものを持ってはいるけれども、才能がない人間は、徳を伸ばすことが出来ないという事です。

共同体を作る人間にとっては、徳が高い人達が増えれば増える程に、その共同体は住みやすくなるわけなので、全ての人間は他人に徳を教えようとするが、才能がない人間は、それを吸収することも発展させることも出来ないということ。
では、才能のない人間は諦めるしか無いのかというと、そうではなく、才能がなければ無いなりに、徳を学習する方法はあると主張します。
この徳の学習方法というのが、前回にも書いた、習いたくない分野は習わせず、興味のある分野だけに特化して学習するという勉強方法なのでしょう。

このプロタゴラスの主張は、それなりに納得できるものがあります。
というのも、どんな分野であれ、極める為には他の知識が必要になってくる為、結局の所、総合的な勉強をしなければならないからです。

教える才能がない教師は、『将来必要になるから!』という漠然とした言葉で、算数嫌いの人間に無理やり算数ドリルをやらせたりするわけですが、本人が興味がない状態で勉強をさせたとしても、それは身につきません。
しかし、その人物が建築に興味を持ち、大工に弟子入りした場合はどうでしょう。 最初こそ、道具の手入れの仕方や材料の加工の仕方などの勉強しかしませんが、建築全般に興味を持ち、建築士を目指すようになると、建物の耐久性を計算する為にも数学に興味をもつことになるでしょう。
建築は建物の外観も重要ですから、デザインにも興味が湧くでしょうし、歴史的建造物のデザインの背景を探るためには、歴史も勉強しなければならないでしょう。

勉強をする目的がはっきりする事で、学問に対する捉え方が変わります。
これは徳も同じで、共同体のあり方などを勉強していくと、自分ひとりのワガママを通すことが、結果的に自分の損失につながる事が理解できるようにもなるかもしれません。
能力を伸ばす力は才能に依存しているため、全ての人間が同じ様に徳を高めることが出来ないですが、才能がないからといっても全く身につかないわけではなく、才能が無いなら無いなりに身に着けることは出来るというのが、即れてすの反論に対しる返しとなります。

徳とは何なのか

プロタゴラスの主張によると、徳とは教えられるものという事らしいですが、では、その徳の本質とは何なのでしょうか。 プロタゴラスは、何を教えるのでしょうか。
彼に言わせれば、それは『正義』『節制』『敬虔(けいけん)深く敬って態度を慎む様』からなるものだそうです。
人間が持つ徳とは、人間が共同生活を円滑に送るためにゼウスが人間に授けたもので、それを達成するのに必要不可欠なのが、この3つというわけです。

確かに、正義がなければ秩序が保てませんし、皆が欲しいだけ欲しいと欲望を丸出しにすれば、これまた社会は保てません。
皆が、この共同体の中では自分が一番だと思って行動すれば、色々な軋轢が生まれるでしょうから、安定した社会を保つためにも、この3つは必須と言えるかもしれません。

ですが、ここで問題が出てくるのが、徳とは、その3つが揃ったときなのか、それとも、その3つそれぞれが徳というものなのかという事です。
それぞれが徳というものであるなら、徳という一つのものが、『正義』『節制』『敬虔』という3つのものに分裂したことになります。
3つ揃った時とするならば、では、その1つが欠けた行動。例えば、正義も節制も備えているけれども、敬虔だけが抜けた行動を取った場合、その行動は徳とは言えないのかという疑問です。

プロタゴラスの主張としては、徳というのは1つのものであるけれども、様々な側面を持っている。例えば、サイコロというのは1つのものだけれども、サイコロには6つの面が存在するということです。
正義・節制・敬虔などは、徳が持つその1面であって、それぞれが徳そのものというわけではないという事。
では、正義・節制・敬虔の中の1つのものを手に入れれば、他の全てのものが手に入るのかというと、これはそうでもないらしいです。勇気を持っていても、知恵が無いものも存在するからです。

ここで、新たに『勇気』と『知恵』というものも、徳の側面の1つだと追加されてしまいました。
徳という、ただ1つのものの正体を聞いただけなのに、その正体はドンドン増えていきますし、また、それらが正体なのかというと厳密にはそうではなく、それらはただの側面でしか無いという状態になってしまいました。

ソクラテスが、何故、このような質問を投げかけたのかというと、日常での徳の使われ方とのギャップを感じたからでしょう。
現実世界では、正義に則った行動をすれば、徳の高い行動だという事で他人から尊敬をされます。 その他にも、美しいふるまいをすれば、同じ様に尊敬や憧れを獲得することが出来るでしょう。
節制や慎み深さも同じで、それぞれ単独の徳目が宿った行動をしただけでも、徳の高い行為として尊敬や憧れを得ることが出来ました。

つまり、日常的な使われ方としては、『正義』『節制』『敬虔』それに、『正義』や『誠実』が単独で宿った行動は、全て徳が高い行為だと認識されているという現状が有りました。
その為、これらそれぞれが単独で徳と呼ばれる存在なのか、それとも、全て揃わなければ徳とは言わないのかという疑問が出てきたのでしょう。
また、それぞれが徳で有るなら、三段論法によって、正義や節制などの徳目は、全て同じものということになり、1つを手に入れる事で全てを手に入れる事も、理論上は可能になります。

これに対してプロタゴラスは、正義や節制などは、同じものでは無く、徳の1面に過ぎないと主張します。
同じものではない上に、徳という1つのものの1面とはどういう事なのでしょうか。
先程は、分かりやすくサイコロに例えましたが、サイコロの目が無い、ただの六面体で考えた場合、それぞれの面に違いはなく、側面や上面の様に見方が変わるだけ、本質的には同じものです。

しかし、プロタゴラスの主張によると、それぞれの徳目は同じものでは無く、徳の部分を表すものだと答える。
この説明を聞いたソクラテスは、『徳とは、目や口や鼻といった、それぞれ別の働きをする器官がついている、顔のような存在なのですか?』と質問をすると、プロタゴラスは、これに同意する。

徳とは性質の違う徳目で構成されるものなのか

先程の話をまとめると、徳というのは、正義・節制… といった感じで、複数の徳目によって構成されていて、その徳目は、同じ性質を持つものではなく、全く違った声質を持つものだということになりました。
しかし、果たしてこれは正しいのでしょうか。

例えば、正義という言葉は正しいという言葉が入っている為、意味合いとしては正しい行動という性質を持っています。 では、他の徳目は、正しいという性質を備えていないのでしょうか。
節制は正しくないことなのでしょうか。 勇気ある行動とは、正しい行動とは言えないのでしょうか。
一般的な感覚としては、勇気には正義が伴っていなければならないでしょう。 例えば、『自分の利益の為に勇気を出して弱者から搾取するという』という行動には、違和感を感じてしまいます。

その他の徳目も同じで、悪いことに知恵が使われれば悪知恵となり、他人を貶める悪い行動となってしまいます。 知恵は正しいことに使われなければ、徳とは言えないでしょう。
つまり、これらの徳目というものは、それぞれ単独で存在しているものではなく、相互に関係し合って切り離せないような関係にあるわけです。 それぞれの徳目の中には、他の徳目が内包されている状態で、全く違ったものではなく、限りなく近いものだということが分かります。

これは、先程のプロタゴラスの主張とは異なります。
というもの彼は、それぞれの徳目は違った性質を持つものだと主張していたからです。 ソクラテスが、徳における徳目とは、1つのものの六面体のように、基本的には同じだけれども、見方を買えているだけなのかというと、それを否定し、プロタゴラスは顔のようなものだと答えました。
目や口や耳といった、全く別の働きを持つ器官で構成されていると主張していたのですが、先程の考察によると、それぞれの徳目は他の徳目の特徴を内包している、かなり似通ったものだという事になってしまいました。

この主張を聞いたプロタゴラスは、『正義と敬虔には似ている部分や共通する部分があるけれども、だからといって同じというわけではない。 でも、ソクラテスがそう思いたいんであれば、それで良いよ。』と諦めムードに入ります。
しかし、ソクラテスは妥協を許さない男なので、そんな忖度は許しません。 ソクラテスの主張に対して納得がいかない部分があるなら、納得はせずに十分に吟味をして欲しいと要求します。

これに対してプロタゴラスは、『全く違うもの』とされているものであっても、共通点を探そうと思えば探せることを指摘します。
例えば、黒と白は正反対の色のように思えますが、色という点では共通していますし、互いに色という枠組みの中に入っています。 黒が色だからといって、その真逆に位置する正反対の白は色ではないとは言えないわけです。
硬いものと柔らかいものは正反対だが、互いに触った際に感触が有るものという点では共通している。 これと同じ様に、正義と敬虔は、全く違うものでは有るけれども、その中に共通点が全く無いかと言われれば、そんな事は無いと答えるしかないだろうと答えます。

これを聞いたソクラテスは、『正義と敬虔には、その程度の差しかないのですか?』と驚いた様子で質問仕返すも、プロタゴラスのやる気が削がれている状態なので、この議論を辞めてテーマを移すことにします。

この部分のパートは、ソクラテスが議論に勝つ為に詭弁を使って相手を陥れているようにも捉えられますが、実際にはそういう事ではないのでしょう。
プロタゴラスが、議論にやる気を無くし、『君がそう思いたいんであれば、そうなんじゃない? 君の頭の中ではね。』といった投げやりな態度をとった際にも、自分の発言で疑問に思う点が有るなら指摘して欲しいと懇願しています。
ソクラテスが議論において目指している事は、議論に置いて相手を打ち負かすことではなく、真実に到達する事です。 この目的を果たす為に必要なのは、自分が正しいと思いこんでいる考えを、それ以上の正しい指摘によって打ち砕いてもらうというのを延々と繰り返していくしかありません。

ソクラテスは、プロタゴラスの主張に対して疑問に思った点について質問をぶつけたので、プロタゴラスに対しても同じ様に、自分の主張に間違った点があれば指摘して欲しいと主張しているわけです。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考文献

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その1

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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プロタゴラス

この作品は、ギリシャ内でもかなり有名な賢者であるプロタゴラスが、ソクラテスが住むアテナイに訪れ、それをソクラテスの友人が知るところから始まる。
ソクラテスの友人であり、裕福な家庭に育ったヒッポクラテスは野心溢れる若者で、プロタゴラスが教えているというアレテー(徳・卓越性)を知りたいと思い、授業料をかき集めてプロタゴラスに会いに行こうとする。
その行為に対してソクラテスは、『そこまでの高額な授業料を用意してでも教えて欲しいと思うのは、一体、どんな技術や知識なのか?』と訪ねるも、なかなか要領を得ない。

そこでソクラテスは、質問を軽くするために複数の例を出して聴いてみることにする。
医者に教えを頼む場合は、将来医師になるために医学生になるんだよね? 大工に弟子入りする場合は、大工の技術を身に着けて、いずれは棟梁になるわけだ。
ウメハラに弟子入りする場合は、ストⅡの立ち回りを勉強する為に弟子入りするんだろう? じゃぁ、ソフィストに教えを請う場合には、将来、何になりたいと思って弟子入りするのかな?

これに対してヒッポクラテスは、『これまでの話からすると、ソフィストということになるんだろうね。』とフワフワした返答をする。
ソクラテスは、『じゃぁ、ソフィストが何をする職業か知ってるの?』と聞いてみるも、ヒッポクラテスは上手く答えられない。

ソクラテスヒッポクラテスが心配になったからか、それとも、プロタゴラス自身に興味が湧いたのか。一緒について行って、彼が教えるアレテーが何なのかを見極めようとするところから、物語は始まります。
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ソフィストとは情報商材詐欺なのか?

世の中には、この様な出来事って身近に存在しますよね。
この物語でプロタゴラスが教えると主張しているのは、アレテーと呼ばれる『徳』とか『卓越性』と呼ばれるもので、それを手に入れることによって、他人よりも優れた存在になれると信じられてきたものですが…
これは、『教えるもの』を別のものに変えると、現代でも十分に有り得る話です。

例えば、不動産投資や自己啓発などのセミナーや、オンラインサロン。ネットワークビジネスなどにテーマを変えれば、多くの割合の人が、『自身や友達が勧誘されたり興味を持った』なんて事は、1度は経験したことが有るのではないでしょうか。
ここに挙げたテーマに共通する事は、『楽して金持ちになる方法』なのですが、そんな物が存在するのであれば、何故、彼らは大掛かりな手間を掛けてセミナーを開いたり、自分の自由な時間を潰してサロンを開くのでしょうか。
答えは簡単で、そうする事で、セミナーに参加しに来た人達ではなく、主催者である彼ら自身が儲けることが出来るからです。

身近な人間が、この様なセミナーやサロンや勉強会に参加すると言い出したら、誰でも心配になって、興奮している友達を冷静にしようと思うのではないでしょうか。
ソクラテスも同じ様に、友達のヒッポクラテスを冷静にするために、『プロタゴラスに会って、何を教えてもらいたいのか』を問いただします。

例えば、家を建てる勉強をしたいと思う人間であれば、建築学校に通うとか、大工の元で修業をすると行った方法で、知識や技術を習得することが可能です。
これは他のことにも当てはまり、絵を書きたいと思うのであれば、絵画教室に通ったり、既に技術がある人の絵を模写して真似するといった行為によって、思い通りの技術を身に着けることが出来ます。
しかし、『それ』を勉強することによって、他の人間よりも卓越した優れた人間になれる『アレテー』という存在は、定義自体が漠然としすぎていますし、どんな勉強をしたり行動を起こせば、技術や知識が身につくのかも意味不明です。

また、漠然と『良い人になる』方法が、言葉や行動によって伝達可能なのかも分かりません。
ソクラテスは、冷静になって考えさせる為に質問を投げかけた上で、自分の一緒について行って、その正体を確かめると言い出します。

ちなみにですが、先程は不動産投資や自己啓発やオンラインサロンといった、胡散臭い例を挙げて例えてしまったプロタゴラスさんですが、この人物は、アテナイの将軍で代表的な立場であるペリクレスと知り合いで、彼から、憲法の草案を考えて欲しいと依頼を受けるほどの人物です。
また、『万物の尺度は人間である。』といった言葉を残し、この世に相対主義という考え方を確立させた人物でもあります。

プロタゴラスとの邂逅

プロタゴラスと対面したソクラテスは、さっそく、『徳とは何なのでしょうか。 あなたは、それを教えることが出来ると主張していますが、そもそも、他人に教えられるような知識なのでしょうか?』と質問をぶつけます。
これに対してプロタゴラスは、『自己啓発セミナーに参加されたお客様の声』の様な感じで、『自分から教えを受けた人間は、皆、私の元に来る前よりも成長して帰っていくし、感謝もされてるよ。』と返します。
そして、『もし、私が教えたことに納得がいかないのであれば、お金を払わなくて良いし、いつでも私の元から去っても良いです。』とクーリングオフの説明までします。

常人であれば納得してしまいそうな返答ですが、ソクラテスは、これに対して鋭い切り返しをします。
『例えば、貴方が笛の吹き方を教える教師だったとして、貴方の元へ笛を吹けない客が訪れたとする。 貴方は彼を指導して、笛を吹けるようになった場合、彼は、笛をふけるという点に置いて、貴方の元を訪れる前よりも優れた人間になったと言える。
これは、全ての事に当てはまってしまう。 計算ができない人間に足し算を教えて、九九を覚えさせれば、その人物は、それを学習する前よりも優れた人間になったと言える。
あなたの授業を受けなかったとしても、人が日々勉強を重ねさえすれば、勉強をしていなかった頃と比べて優れた人間になるのではないでしょうか?』

この質問を言い換えるなら、『具体的には何を教えているのですか?』と聴いているのと同じです。
大工に対してこの質問をするなら、『家の部品の加工の仕方と組み立て方。』と答えるでしょうし、音楽家に質問をするなら、『楽器の演奏の仕方。』と答えるでしょう。

これに対してプロタゴラスは『良い質問ですねぇ!』と言い、持論を展開する。
『私の元に駆け込んでくる人の多くが、自分がやりたくない学問から逃げてきたような人達だ。
しかし、他のソフィスト達は、そんな人に対して『数学を勉強しろ!音楽もだ!体育も出来るようになっておきなさい!』と、本人が欲しいと思わないものまで詰め込み教育をしようとする。
だが私はそんな事はしない。 私は、本人が学びたいことだけを学ばせる。 私の元で学ぶことで、身近な話だと家庭内がうまくいくし、政治に関していえば、権力者の右腕になることだって出来る。』

これを聴いたソクラテスは、自信なさげに、『つまりまとめると、生徒を『優れた人間』にするということですか?』と聞き返すと、プロタゴラスは調子よく『そうだ!』と応える。

これまでをまとめると、プロタゴラスは本人が望む知識を惜しみなく与える一方で、嫌な授業は行わず、その結果として、何事も上手く行うことが出来るような『優れた人間』を作れると主張している。
しかも、本人が学んだ上で『自分には合わないな。』とか『この内容でこの授業料は高いな。。』と思えば、申し出ればいつでも自分が納得した金額だけを支払って弟子を止めることが出来る。
金を払う価値もないと思えば、何も払わずに帰ってもよいというクーリングオフ制度付きという、非常にお得な内容となってはいるが、『優れた人間』になる為には何を勉強すればよいのかといった具体的な事は、何一つ教えてはくれないという状態。

アレテーとは教えることが出来ない?

ソクラテスは、それを知ることで『優れた人間』になれるような知識のようなモノは存在するのか?という疑問が解決しないので、質問を続ける。
というのもソクラテスは、人を優れたものにすると言われているアレテー(徳や卓越性と約されることが多い、日本語には直訳がない表現)を研究しまくった結果、それが分からない。つまりは、教えることが出来るような存在ではないと思っていたからです。
ソクラテスプロタゴラスにその事を告げ、その理由を主張します。

先程も書きましたが、知識や技術を他人に伝えることは可能です。
画家は、テクニックや知識を他人に教えることで、絵の上達を助けることが出来ますし、数学の教師は、その知識を授業によって伝え、自身で考えて発展できるようにさせることが出来ます。
大工のような職人も、その他の学問も、知識や技能を伝達する事で弟子にその知識を伝えることが可能です。

しかし、アレテーというものは、他人に伝達が可能なのでしょうか。 仮に、アレテーと呼べれるものが伝達も学習も出来るようなものなのであれば、徳が高いと言われている人間力の高い優れた人の子供は、親からアレテーを教えてもらっているはずということになる。
つまり、善人でカリスマ性が有り、人々を先導できるような優秀な人の子孫というのは、その優秀な親からレクチャーを受けているので、同じ様に善人でカリスマ性が有ってリーダーの素質を備えた人間ということになります。
しかし実際にどうかというと、親は優れていて立派な人間であったとしても、その子供がクズという事は、結構あることで珍しいことではありません。

その一方で、鳶が鷹を生むといった具合に、両親がクズなのに、その子供が優秀な人物であるといった事もありえます。 その子供は、おそらくですが、両親からはアレテーと呼ばれるものは教えられてはいないはずです。
何故なら、両親が子供に教えるべきアレテーを備えているのであれば、その両親がクズという事はなく、他の親と比べて卓越した親になっているはずだからです。

この他には、政治の議論をする際のケースで考えると、公共事業で大きな建物を建てる場合は、建築の専門家を議会や予算会議に呼んで、参考意見を聴くといったことをします。
仮に音楽祭のようなものを開く場合には、音楽家や、そういった興行を生業としている人間に、どれぐらいの規模の予算がかかるのかや、実施する際の注意点を聴くのは当たり前のことです。
そういった人間を排除して、何も知らない政治家だけで議論を行った場合、正しい成果が得られず、こんな失敗をした政治家は、『何故専門家に意見を求めなかったの?』と非難されるでしょう。

政府には、専門家から話を聞いて学習し、政策や予算案に活かすという選択肢が有るわけですが、それを怠ったとすれば、不満が爆発するのは確実です。

しかし、これが国家のより良い将来であるだとか。人の上に立つべき優秀なリーダーを育成するといった、漠然とした『良い』事を目指す為の話であれば、そういった専門家を招かなかったとしても、文句は出ないでしょう。
何故、文句が出ないのかというと、市民の多くが、『良い』事へ導く為の専門家などは居ないと思い込んでいるからです。

徳とは教えられる

このソクラテスの主張に対してプロタゴラスは、『アレテー(徳)とは教えられるものだ』と主張します。
この主張は当然といえば当然で、仮にソクラテスの言う通りにアレテーというものが、他人には教えることが出来ないようなものであった場合は、プロタゴラス本来なら教えることが出来ないような事を、教えるといって生徒と金を集めている嘘つきになってしまいます。
プロタゴラスの職業はソフィストで、ソフィストとは『アレテーの教師』なのですから、教えられるものでなければ困ってしまいます。

プロタゴラスは、プロメテウスの神話になぞらえて、『全ての人は徳を備えている。』と主張します。
プロメテウスの神話とは、何の特別な能力も持たない人間に対してゼウスが憐れみを抱いて、神から卓越した力を与えられた獣や自然災害から身を守る為、皆で集まって共同生活が出来るように、慎みや節度といった徳目を与えたという神話です。
ゼウスが人間に徳目を授ける際に、特定の人物にだけ授けたのではなく、全人類に平等に授けたとされているので、全ての人間は徳、つまりはアレテーを持って生まれているという話です。

神話という説明では、馴染みの薄い人間では理解が出来ないからか、プロタゴラスは具体的な例もあげます。
全ての人間がアレテー(以下、徳で統一)を持つ理由としては、徳に反した行動を取る場合に、人々は怒るという反応をみせるからです。

例えば、皆で共同生活を送る場合に、皆の迷惑になるけれども自分の欲望を満たしたいという行動は制限されなくてはなりません。
仮に、自分の欲望を優先した結果、他人から物を盗んだり騙し取ったりした場合、それが発覚した際には人々は怒ったり気分を害したりします。
この『怒る基準』は、誰かから教えられたわけでもなく、有る一定以上の迷惑に対しては誰だって怒ります。何故、怒るのかというと、徳というのは勉強すれば誰にでも身に着けられる行為なのに、しないというのは本人の努力不足だからです。

本人の努力不足、つまりは、その人間が怠けていたから、やって良い事と悪い事の区別がつかない。
もしこれが仮に、努力ではどうにもならないようなことであれば、人々は怒りで反応するのではなく、哀れみなどで反応するはずです。

例えば、生まれながらに体の不自由な人間が、それが原因で他人に迷惑をかけてしまった場合、それを怒るような人間はおらず、その人物に対して哀れみの感情を抱くはず。
仮に体の欠損によって人にぶつかったとして、それを『本人の努力不足』として目くじら立てて怒るような事はしないでしょう。

また、怒るという反応は、悪いことをした際に、それ相応の罰を与えるべきだという感情でもあります。
何故、罰を与えるのが必要なのかというと、犯罪を犯したものに『それは悪い事だ』と教育し、二度と同じ過ちを犯さないようにする為です。
どのような罰を与えたとしても、善悪の区別がつかないとするのなら、税金を使って牢屋に入れるといった行為は無駄になってしまう。 学習するという前提で、鞭打ちや罰金などの罰を与えたり投獄するといった行動を犯罪者にさせるのだ。

以上が、プロタゴラスの主張です。

一見すると、筋の通った話のように思えるプロタゴラスの主張ですが、深く考えると、よくわからない点が複数出てくる事に気が付きます。
というのも、全ての人間に徳が備わっているのであれば、そもそも、悪い人間というのは存在しないことになります。 仮に存在する場合は、悪い事と知りつつ敢えて行っているという事になる。
悪いことと知りつつ、敢えて悪い事を行っている人間に対して、何らかの罰を与えて『これは悪いことなのですよ。』と改めて教える行為に意味はあるのんでしょうか。

また、人が他人に対して怒りをあらわにするのは、徳に反した行為をしたときではなく、単純に自分に不利益が起こる場合とも考えられます。
例えば、東京の南青山に児童相談所が建てられるといった際に、住民は怒りを全面に出して反対運動を行いました。
東京にある既存の施設では対応が出来ないということで、東京内に施設を作るというのは悪徳な判断では無く、当然とも言える判断ですが、それに対して住民が怒りをあらわにしたのは、それが徳に反した行為だからではなく、その施設が経つことで地域の土地の価格が下がる可能性が有り、自分の損失につながるからです。

別の例で言えば、町中で大声で喚いている人をたまに見かけます。
例えば、不良であったり反社会勢力の人達は、事ある毎に大声をあげているイメージがありますが、彼らは徳が高く、他の人よりも細かい部分で善悪が分かる為に、他の人間よりも頻繁に起こっているのでしょうか。
パワハラ上司は、他の人間よりも卓越しているが故に、少しのミスが目について怒ってしまうのでしょうか。それとも、怒る事で自分自身に何らかのメリットが有るからでしょうか。

一方で、徳を備えたカリスマ性が高い人間は、余程の事でも無い限り、怒る事はありません。 共同体の利害に反した事を目撃した場合も、冷静に注意するでしょう。
私は日本から出たことがないので、もしかすると、これらの行動は日本特有の事なのかもしれませんが、想像するに、どこの世界であっても、常に怒っている人が徳が高く良い人間とは思わないのではないでしょうか。
どんな場面であっても、感情に任せて暴走してしまう人よりも、冷静になって話し合える人が、人格的に優れているのではないでしょうか。

両者の意見が出揃ったところで、本当はどちらが正しいのかを、対話を行う事で解き明かしていきます。

(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考文献