だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

第66回【プロタゴラス】まとめ回 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.mu

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

対話篇『プロタゴラス』おさらい

今回は、前回の最後でもお知らせしましたように、プロタゴラスの全体を振り返って オサライをする回にしたいと思います。
プロタゴラスの読み解きだけで9回もやっているので、最初の方を忘れていたり、全体像がつかめなくなっておられる方も少なくないと思いますんでね。

その前回までの9回でも言っていた事ですが、このコンテンツでは、著作権の関係から、作品の朗読をしたわけではなく、作品を私が読んだ上で、理解した範囲の事を考察を入れながら説明する形になっています。
その為、私自身の認識不足や理解不足や、偏った考えによって、作品が本来伝えたい事が、そのまま伝えられているかどうかは分かりません。
このコンテンツを聞いて、もし、興味を持たれた方は、作品そのものを読まれることをお勧めします。

という事で、まとめと おさらいに入っていきたいと思います。

徳を理解できていなかった『徳の教師』

今回取り扱った対話編に登場するプロタゴラスソクラテスは、難解な学問の問題に取り組んでいるわけではなく、物事の善悪であるとか、正義や勇気といった、一見すると、誰でも知っていると思い込んでいるものについて、深く追求しただけでした。
ソフィストであり、アレテーの教師として、多くの弟子と多額の収入を得ているプロタゴラスは、それを手に入れる事で、他人よりも卓越した存在になれるというアレテーを理解していると主張し…
そのアレテーの教師であるプロタゴラスに対して、無知なソクラテスが、アレテーを教えてもらうという事がきっかけで、二人は対話をする事になったんでしたよね。

しかし結果としては、プロタゴラスはアレテーを構成しているとされている勇気についてすら、理解していないことが分かってしまいました。
これは、一番最後の結末を読み解いてみても分かりますよね。
プロタゴラスは当初、アレテーとは教えられるものだと主張し、教えられる存在だからこそ、自分はアレテーを弟子たちに教えて、報酬を得ているんだと主張していました。

『アレテーとは、運動の才能のように、他人に教えられるようなものでは無いのではないですか?』というソクラテスの投げかけに対しても、アレテーとは知識のようなもので教えられる存在だと否定していました。
アレテーそのものが、プロタゴラスの主張する通り、知識の様に教えられるような存在であるのならば…
当然のことながら、それを構成している『正義』や『節制』『敬虔』『知識』そして『勇気』も、他人に教育によって伝えることが出来る知識のようなものであるはずです。

しかし、対話を進めていく内に、勇気とは『恐怖となる対象の知識』を持っているかどうかという類の知識であるという事を、ソクラテスによって指摘されると、それに対しては頑なに受け入れることはしませんでした。
このソクラテスの主張は、単純にソクラテスが憶測で断定しているものではなく、プロタゴラスの主張をまとめた結果が、勇気と『恐怖の対象となっているものに対する知識』は同じだという結論になってしまうという主張でした。
プロタゴラスは当初から、アレテーは他人に教えることが出来る知識のようなものだと主張していたわけですから、ソクラテスの言い分に反対する理由は、本来であれば無いはずです。

しかし、それでも頑なにソクラテスの意見を受け入れたくなかったというのは、自分の意見をソクラテスを通して客観視した結果、到底、受け入れられない何かを感じたからでしょう。
プロタゴラスの中での勇気という概念は、おそらくですが、もっと気高くて美しいものだったのでしょう。
気高く美しいものであるからこそ、誰しもが持つ事が出来るわけではなく、それ故に、勇気を持つ人は卓越した人として尊敬されるという、私達が勇気に対して思い描いている様なイメージを、プロタゴラスも持っていたのでしょう。

勇者と臆病者

現にプロタゴラスは、勇気を身につけるためには、精神的な素質を持ち、それを鍛錬した人間に宿るといった主張を展開して、勇気が打算の産物ではない事を強調しています。
しかし、自分がソクラテスに対して話した主張をまとめて、客観的に観てみると、勇気とは、知識を持つものが安全を確保した上で行う、打算的なものだという様にしか捉えられない意見となってしまいました。

この部分のやり取りを簡単に振り返ると、ソクラテスはまず、知恵がないものが大胆さ故に強大な敵に向かっていく場合は、その行動は勇気とは呼ぶのかという質問をし、プロタゴラスは否定します。
無知であるが故に、相手の恐ろしさを知らない状態で強大な敵に立ち向かっていく行為は、単に愚か者であって、勇気ある者とは呼ばないと主張します。
逆に、相手の恐ろしさをよく理解して、自分には勝てない敵だという事が分かった人物が、敵を前にして逃げる行為は、勇気ある撤退だけれども、臆病者が、相手の事をよく知らないのに逃げる行為は、褒められたものではないと言います。

無知であるけれども、大胆さだけは備えていて、どんな敵を前にしても立ち向かっていくという人間は、偶然にも勝てる相手に当たった際には、勇気ある者と同じ判断を下したことになります。
逆に、臆病であるが故に、相手がどんな者であったとしても逃げるという決断を下すものは、偶然にも、相手の強さが強大過ぎる場合には、勇気ある者と同じ決断をくだしいます。
しかし、勇気ある者と同じ選択をしたからと言って、彼らが勇気ある決断をしたとは言わないというのがプロタゴラスの主張です。

勇気という知識

では、勇気がある者と、臆病者や大胆な行動を好む者との間に、どの様な差があるのかというと、その差は、立ち向かう相手に対する知識だけという事になります。
ただ、この意見は、勇気ある者は『勝てると分かっている勝負しか受けない』とも読み取れますので、勇気とは知識を持つものが行う打算的な行為とも言えてしまうわけです。

ですが、私達のイメージ的にもそうですが、プロタゴラスにしても、勇気に対しては、もっと崇高なイメージを持っていたはずです。
そのイメージとは、例えば、自分の大切な者を守るために、絶対に勝てないとわかっている様な敵に対して、自分の命も顧みずに向かっていくような行動などです。
その為、ソクラテスが要約した話に対して否定的な態度をとるのですが、その後、ソクラテスは、良い人生について一緒に考えようと言い出します。

賢いものは危険を避ける

良い人生を歩むために必要なのは、ざっくり言ってしまえば、先を見通す力ということになります。
無知なものは、いま直面しているメリットやデメリットに目を奪われてしまって、もっと先の未来で待ち受けている、もっと大きなメリットやデメリットを見逃しがちです。
ですが、知識を得て、先を見通す技術を磨けば、自分が進もうとしている道には、どの様なメリットやデメリットが存在していて、最終的にどの様な未来に到達するのかが分かってきます。

自分が理想とする未来を見定めて、その道中に転がっているメリットとデメリットの大きさを比べて、今、選ぶことが出来る最善の道を選ぶことが、知識を持つ者が行うべき行動です。
目先のメリットやデメリットしか観ずに、それらに対して本能的に避けたり寄っていったりするといった行為や、感情に振り回されて行動するというのは、知識を持つ人間のやることではなく、動物と同じレベルになってしまいます。
人間は、本能や感情ではなく、知性を得ることによって得られる理性によって判断がくだされるべきであるというのが、対話を通して見えてきた、プロタゴラスの主張でした。

勇気とは美しいものなのか

このプロタゴラスの主張によると、理性的な人間は大きなデメリットを避けて、常に正解の道を選び続けることで、自分が目指す未来に到達できるということになります。
生きている人間にとっての一番のデメリットは、死んでしまう事と思われるので、理性的な人間は、当然、将来に自分が死んでしまうような道は選択しないという事になります。
知性のあるものは、常に正解を選ぶ為に、危機的な状況に陥ることが無いというわけです。

この意見を踏まえた上で、先程の勇気について考えてみると、プロタゴラスは、勇気とは賢いものが計算によって選択するような打算的な行為ではないと主張し、もっと崇高なイメージのものだと思うわけですが…
もっと崇高で尊い行動である、『自分の命も顧みずに、勝てないと分かっている敵に立ち向かう』という行為を行うという決断は、知識を備えた理性的な人間行わない。
というよりも、死が待ち受ける様な選択はそもそも行わないために、そんな状況に陥らない。という事が分かってしまいました。

つまり、勇気ある行動とは、知識を持つものが計算を行って、絶対的な安全を確保した上で行う行動という事になってしまいました。
結果として、勇気を含むアレテーとは、当初のプロタゴラスの主張どおりに、知識のように教えられるものという事にはなったのですが… それ程尊いものでも無いという事になってしまいました。
プロタゴラスが、この対話の結末に納得がいかなかったのは、アレテーを汚されたような気持ちになったからかもしれません。

kimniy8.hatenablog.com

迷走?する京都の政治

ここ数年の京都ですが、ものすごい勢いで変化している印象を受けます。
外国人観光客が沢山訪れるようになり、それに伴って、観光都市として更に整備を整えようとしているのが原因なのでしょう。
しかし、その変化について疑問に思ったことが有るので、今日は、その事について書いていこうと思います。

変化の始まり

明確にいつからかというのは、うろ覚えなんですが…
『爆買』というワードが流行った、外国人観光客が増え始めた時期から、京都の街が急速に変わっていったように思います。
ですが、この時期は京都だけに限らず、日本中の販売店が中国人観光客に向けたサービスを充実させていた時期ですし、既存の販売店が対象とする客を買えただけなので、街そのものが大きく変化したという印象はありませんでした。

街の印象が大きく変わり始めたなと思うのは、店舗は屋外に看板を出してはいけないという条例が出始めた辺りからだと思います。
京都には元々、看板の規制がありました。 その為、全国チェーンで展開している店の看板の色も、京都だけ違うということはあったのですが、それがさらに強化され、店の外に看板を出しては駄目ということになりました。
この看板というのは、立て看板の事だけではありません。

例えば路面店などでは、入り口の上ぐらいに大きめのビニールの囲いをして、ちょっとした雨宿りが出来るぐらいの屋根を付けて、そこに店の名前や『クリーニング』といった店の形態を書くことで広告にしている所は多いと思います。
これらのものは、店の前に看板を置くというのではなく、建物の一部に広告を書くことで看板としているわけですが、それも最近になって規制されました。
いつからかというのは覚えていなかったので、調べてみた所、平成23年から変わったようです。
https://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000146/146248/guide_koukoku%28L%29.pdf

看板の規制がここまで厳しくなった理由はよく分かりませんが、放置自転車などの撤去も頻繁に行われるようになった為、『街をスッキリさせたかった』という理由が大きいのかもしれません。
店を経営しているわけではない私にとっては、看板規制の方は、店の形態がわかりにくい(何屋か分からない)ぐらいしか困ったことはありませんが、自転車の方は結構、面倒くさいことになっていたりします。
『放置自転車の撤去』という言葉を聞いて、良いイメージを持たれる方も多いかもしれませんが、この撤去作業は民間に委託されているようで、邪魔になるかならないかは関係がなく、路上においてある自転車は全て持っていかれます。

自転車の撤去

私が目撃した例でいうと、大きな交差点があり、ものすごく広い歩道があって、その道に面した形で1階ドラッグストアが入っているビルがあるのですが、そのドラッグストアには駐輪場がなく、その店に自転車で来た人たちは、広い歩道のはしの方に自転車を止めて買い物をするという日常を送っていました。
しかし規制後は、一番、店が繁盛しているであろう時間帯に業者がやってきて、警告も無しに5分程度の作業時間で買い物客の自転車を全てトラックに積んで持ち去るようになりました。
歩道が狭く、自転車が有ると歩けないような状態なら撤去されても仕方もないのでしょうけれども、その交差点は歩道の拡張工事がされていて、人の通行量に比べて異常なまでに広いため、買い物客の自転車が置いてあっても通行の邪魔にはならないように思うのですが、民間業者は撤去1台いくらでお金をもらっているのか、持っていきやすい所から持っていきます。

とあるコンビニなどは、そのコンビニで働いているバイトが自転車通勤をしていたのですが、働いている最中に持って行かれていました。
規制が厳しくなってからは、自分の自転車に『コンビニ店員のです』と書いて貼っていましたが、それでも持って行かれているようでした。

これを読まれている方は、『違法なんだから、我慢しろ!』と思われる方も多いでしょう。
確かに、実際に京都に住んでいて、事情がわかっている私達は、自転車に乗る際には、目的地に駐輪場が有るか無いかを確かめれば良いだけなので、そう思われても仕方がないでしょう。
しかし、この撤去は、京都に住む私達にだけ行われるわけではありません。

京都の中心地は、狭いエリアにある程度の観光地が固まっている状態にはなっていますが、複数の観光地を見ようと思うと、全て歩いて行くのは疲れるような分布になっています。
では、タクシー移動が良いのかというと、タクシーでいくと1メーター行くかいかないかの距離なので、タクシーに乗るのも微妙。
バスや電車はというと、電車で観光地に直結している所は少なく、バスは色んなところに行けるけれども、地元の人でもややこしい上に、遅いため、便利が悪い。

では、どうやって観光するのかというと、自転車なんです。
自転車であれば、歩くよりも速いスピードで風を感じながら目的地に迎えますし、歩くと疲れる距離でも、自転車だと丁度良い感じの距離。
そういう需要が増えてきたのか、駅前にレンタサイクル店なども増え始め、外国人観光客を中心に利用されているのですが…
このレンタサイクルをコンビニの前に止めていると、業者に持って行かれるんです。

先程も言いましたが、京都の自転車撤去は民間に委託されているらしく、彼等は持っていけば持ってくほど儲けが出るのか、警告もせずに、自転車が止まっていればそれを黙ってトラックに乗せて持ち去ってしまう。
市からどれぐらいの金を貰えるのかは知りませんが、彼等の熱心な働きを見るに、それなりの手当がもらえるのでしょう。その為、彼等は、朝・昼飯時・深夜関係なく、頻繁にトラックを走らせています。

繰り返しになりますが、京都に住んでいる私達は、少し不便になるぐらいなので工夫すれば良いだけです。
しかし、観光客の方にとってはどうなんでしょうか。 自転車観光が疲れたからと、自転車を止めて喫茶店に入って休憩していると、トラックが自分の乗っていた自転車を持ち去ってしまう。
慌てて外に出て、業者に『それ、私が乗ってたやつです!』といっても、業者は返してはくれません。 『私達が自転車を持った時点で撤去なので、後日、回収施設に取りに来い!』と言われるだけです。

ちなみに、駐輪禁止区域は京都市全域。
ここまで徹底して自転車を排除するということは、市は駐輪場をきっちりと整備しているのかというと、自転車の量に比べて圧倒的に足りていない。
その為、駐輪場の取り合いになり、1時間以内なら無料で預けられる駐輪場などは、あとから来た人が勝手に駐輪場から他人の自転車を出して自分のを入れて、先に駐輪スペースに預けていた人のが撤去されるということまで怒ってる…
https://www.mbs.jp/mint/news/2019/09/27/072382.shtmlwww.mbs.jp

こんな状態で、安心して観光が出来るんでしょうか。

理解できない市の行動

京都は観光産業で成り立っているところがある為、看板や自転車の撤去は、単に街をスッキリさせるという目的で行われているわけではなく、観光客の方々にキレイな町並みを見てもらおうという気持ちから始まったんだと思います。
しかし実際にはどうなんでしょうか。 看板がなくなったことにより、その建物が店なのかどうかがわからないし、店であったとしても、何屋なのかが分かりにくい。
自転車で観光をしようと思うとコンビニに寄っただけで、業者が無警告でレンタサイクルを持っていってしまう。

これが、観光客の方を向いた行政なのか、私には分かりません
他に市がやった事といえば、この他には、四条通の車線を減らすということも行いました。

京都の繁華街は、河原町通四条通で、その交差点の四条河原町は京都の中ではかなり栄えている部分といえます。
当然、河原町通四条通には路面店が多く、その路面店は毎日のように仕入れをするわけで、資材の搬入などが毎日のように行われています。
その四条通ですが、今までは片道2車線だったものを、歩道の拡張工事をして歩道を倍の太さにするために、片道1車線にしてしまいました。

市側の説明では、『四条通は2車線あっても、路駐が多くて実質1車線だったんだから、1車線で問題ない。』とのことでしたが、それなら路駐の取締を強化すれば良いわけであって、1車線に減らす必要があったのかどうかは、かなり疑問です。
(一応、荷物の搬入用に駐車スペースを所々設けてありますが、台数が限られている為、確実に止められるかどうかも分からない。)
1車線になった為、バスを追い抜くことも出来ず、自動車やタクシーはバスの後ろをずっとついていく。 その為、四条通は慢性的な渋滞になり、『車で通っては駄目な通り』になりつつあります。
また、四条通と交差している南北の通りは、どの通りも車が1台通るのがやっとの細さなので、南北のとおりに車を止めて資材の搬入も出来ない。
車が止めれそうな南北の通りは河原町と烏丸ですが、その通りは1キロ異常離れている為、その周辺の配達は結構厳しい状態になりつつあります。

そこまでの対価を払って、歩道の幅は2倍になったわけですが、では、広がった分の歩道を皆が歩いているのかといえば、そうでもない。
四条通はアーケードになっていて、雨が降っても傘なしで有るけるようになってるのですが、拡張された歩道部分には屋根がないため、夏は直射日光を浴び、雨の日は濡れるために基本的には人は歩いていない。
f:id:kimniy8:20191025232448j:plain
『じゃぁ、屋根を拡張して大きくすれば?』と思われるかもしれないですが、四条通祇園祭で山や鉾を置くために、屋根は付けれない。
春や秋といった数カ月間の観光シーズンだけ見ると、今までと比べて歩道は歩きやすくなっているように思えますが… 四条通を西か東に行く場合、タクシーやバスを待つよりも歩いた方がマシという状態にしてまで行うべきだったのかどうかは疑問です。
www.kyoto-minpo.net

迷走する京都の市政

京都は観光地であるため、観光客の皆さんのおかげで仕事をできている人も沢山いる為、観光客誘致のためにある程度の不便を強いられる事は、仕方のないことだと思っている京都の人は多いと思います。
ですが、これらの政策は、本当に観光客の為になっているのかどうかが不明です。
看板にしても、昔の日本っぽい木の看板しか駄目と言った感じの改正のほうが、まだ、観光客の方に楽しんでもらえるような気がしますし、自転車の撤去にしても、交通の妨げになる部分に限って行う方が、皆の為になるように思えます。

ただ規制を強めるだけでは、魅力的な街は作れないのでは無いでしょうか。

第65回【プロタゴラス】勇気と臆病は恐怖に対する知識の差? 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.mu

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

対話を通して入れ替わる両者の意見

議論が終わり、プロタゴラスは自身の主張を否定されたような形で、そして、ソクラテスは自分の主張を押し通したようにもみえるので、討論はソクラテスの勝ちの様にも思える内容となったのですが… 面白いのはここからなのです。
それは、ソクラテスの口から指摘されることになります。

ソクラテスプロタゴラスが討論を始めたキッカケまで遡ると、元々は、徳とは教えられるものなのか、それとも、教えられないような才能のようなものなのかというのが発端でした。
ソフィストであるプロタゴラスは、自身がアレテーを教える教師だと名乗ってお金を稼いでいますから、当然、アレテーとは知識のようなもので教えられると主張し、ソクラテスがその主張に対して疑問を投げかけたのが、この議論の始まりです。

しかし、議論を終えてみると、最期に巻き返して攻め込んでいるソクラテスは、『アレテーを構成している勇気は、才能のようなものではなく、知識である』と力強く主張し、プロタゴラスを説得しようとします。
ですが、それに対するプロタゴラスは、ソクラテスの意見に反対したいが為に、『勇気は知識のように、教えられるようなものではない』と頑なになっている様子がわかります。
勇気ある行為とは、手放しで褒められるような美しいものだと思われていますし、プロタゴラスも思っています。 しかし、それが知識による打算の結果という事になれば、尊敬の対象では無くなってしまうからです。

結果として、プロタゴラスは『勇気ある行動とは、知識による打算ではない。』として、ソクラテスの意見を頑なに拒み、一方でソクラテスは、『勇気とは知識と同じものである。』言い換えれば他人に教えられる様なものであると力説します。
といってもソクラテスは、対話の中で勇気は知識だと確信を得たから論破しにかかったわけではなく、プロタゴラスと確かめた同意内容をまとめた事によって、自分自身が最初に抱いていた思いとは逆の結果に辿り着いてしまっただけなんですけれどもね。
つまり、対話をして意見交換をした事によって、両者の意見が完全に入れ替わってしまったというわけです。

結果としては、この対話によって勇気と知識は同じものだと結論付けられたわけではありません。
勇気を理解していると思いこんでいたプロタゴラスは勇気の本質を誤解していたという事を知り、ソクラテスは、徳が教えられるような性質のものかもしれないという可能性を得ただけとなっています。

今回の対話で、アレテーの正体についての結論が出るわけではありませんが…
哲学そのものが、『卓越性とは何か』を考え、どのようにすれば『幸せ』に到達できるのかという、未だに答えが出ていない問題に対して自分自身で考えることなので、この対話編そのものが、読者に考えることを促すような作りになっています。

結局 勇気とは何なのか

9回に渡って話てきた私の解釈ですが、プラトンが書いた本の日本語訳をそのまま朗読しているわけではなく、私がどの様に読み取ったのかを、独自の解釈を加えて話してきました。
これだけを聞いたとしても誤解をする可能性もあると思いますので、興味を持たれて時間のある方は、岩波や光文社文庫などから出版されている日本語訳を読まれることをお勧めしておきます。

このコンテンツでは、初めて、哲学書というのを読み解いてみたのですが… どうだったでしょうか。
今までは、当然のように知っていると思い込んでいるものが、実はよく分からないものだったという感覚に襲われなかったでしょうか。
この作品の後半部分では、主に勇気についての解釈が議論されますが、勇気というのは、誰しもが、誰かに教えられるわけでもなく知っていると思いこんでいる事柄ではないでしょうか。

映画や漫画や小説などの物語では、『勇気ある人物』が登場することは珍しくないでしょうし、そのキャラクターの奮闘を観て、誰しもが、『勇気があるな』と思うことでしょう。
物語に登場するキャラクターは、当然のように作者によって演出されている為に、その様に感じる部分もありますが、過剰な演出を抜きにしても、勇気ある行動というのは理解できているように思えていました。
おそらくですが、このプロタゴラスという対話編を読む前は、映画や漫画に出てくるヒーローの行動を観て、漠然と、『この行動は勇気のある行動だが、この行動は臆病者が取る行動だ』と思ったり感じたりしていたのではないでしょうか。

私の場合もそうで、勇気などが分かりやすく描かれるヒーロー物の作品を観たりすると、そこに登場する主人公格のキャラクターが起こす行動を観て、『自分には真似できないな』とか、『勇気ある行動だな。』と思ったりしていました。
ですが、この対話編を読み解いた後も、今までと同じ様に勇気という概念は、確固たるイメージとして存在しているでしょうか。

物語に登場する彼ら、彼女らは、持って生まれた才能故に、普通の人間には到底とれないような行動をやってのけるのでしょうか。 それも、知識を身につける事によって、絶対に成功させる確信があるから、行動しているだけなのでしょうか。
仮に、絶対成功させる確信があるから行動しているのだとした場合、その行為は、勇気ある行動と呼べるのでしょうか。
それとも、損得勘定で動いているだけの打算的な行動なのでしょうか。

また、勇気ある者が勝てるかどうかが分からないものに立ち向かった結果、窮地に立たされるという場面も、物語には多く登場します。
彼らが窮地に立たされるのは、彼らが無知であるが故に、危険を察知できなかったからなのでしょうか。
そんな無知な彼らが、傍から見れば勝てないと分かっている敵に立ち向かっていくという行為は、勇気ある行為なのでしょうか。それとも、愚かな行為なのでしょうか。

対話を通して『分かっている』と思い込んでいたものが分からなくなる

このあたりの事は、既に知っていると思いこんでいる為に、深く追求しない方のほうが多いと思います。
大抵の方は、結果論で物を観ていて、強大な敵に立ち向かって、尚且、勝てば、それは勇気のある行動だと称賛され、負けてしまえば、『何故、あんな無謀な戦いをしたんだろう?』といった感想を抱いてしまいがちです。
特に、今現在、流行っているマーベル映画などのヒーロー物は、子供向けのような分かりやすい構図にはなっておらず、ヒーローそのものが、人間臭いキャラクターで、物語の中で葛藤したりします。

その、人間臭いキャラクターが、迷った挙げ句に強大な敵と戦うことになって、結果的に勝てば、勇気ある行動だとして称賛され、負ければ、準備不足とか、何故戦ったんだと言われてしまったりします。
もちろん、映画というのは、観た後で皆が内容について語りやすいように作られているわけで、様々な思いが交差するような演出になっているのですが…
よくよく考えると、私達が語る勇気とは、結果論でしかなかったりします。

観客として作品を観ていると、戦えば勝てそうな相手に尻込みしているキャラを観てしまうと、臆病者のように映ってしまいますし…
どう考えても勝てなさそな敵に単独で向かっていくキャラクターは、バカそうに見えてしまいます。
では、どの様なキャラクターが勇気あるキャラクターなのかというと…

自分よりも、ちょっと強い敵に対して向かっていき、トンチなどを使ってギリギリ勝つなどの状況を見ると、『勝てるかどうか分からないのに、向かって行くなんて勇気があるな。』となったりします。
ただ、この場合も、もしかすると、勇気があるとされているキャラクターは、周りの環境などを見定めた結果、確実に勝てるとわかって向かっていっているかもしれません。
その種明かしをされてしまうと、『勇気が有る』とされていた行動に対しての評価も、少し変わってしまったりしないでしょうか。

『勇気ある行動』は誰が決めるのか

勇気というのは、よく、『勇気を出す』とか『勇気を振り絞る』なんて形で使われますけれども、この使われ方は基本的に、主観的な使われ方ですよね。
つまり、勇気を出すのも振り絞るのも、自分であるわけですけれども、そうして行われた行動が勇気ある行動かどうかを判定するのは、第三者である他人であるわけです。
勇気を出して行動した本人が、勇気を出したと思いこんだとしても、それを周りで見ている人間が、勇気ある行動だと評価しなければ、その行動には勇気が宿っているとは言えないわけです。

こうして考えていくと、そもそも勇気とは何なのかというのが、分からなくなってくるのではないでしょうか。
…という事で、プロタゴラスの読み解きは今回で終了するわけですが、結構、長くなってしまったので、次回に、もう少しコンパクトに纏めた上で、考察などを加えるという『まとめ回』を挟もうと思います。
kimniy8.hatenablog.com

第65回【プロタゴラス】勇気と臆病は恐怖に対する知識の差? 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.mu

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
いつものように、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一部内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回の簡単な内容を振り返ると、ソフィスト達は、自分たちの元で勉強をしてアレテーを身につけることが出来れば、人を支配する能力を手に入れることができると主張していました。
しかし、大衆の方に聞いてみると、みんなが口々に、人を支配するのは怒りや欲望や恐怖といった感情であって、知識にはそんな能力はないと言い出しました。
ここでソクラテスは、プロタゴラスに寄り添う形で、『良い人生を歩む』という目的の為には、何よりも知識が必要だというスタンスで、理論を展開させていきました。

簡単に説明すると、『最終的に良かった』と思える道を選ぶ為には、その道中に転がっているメリットとデメリットを把握し、どちらの方が多いのかを比べる必要が出てきます。その能力こそが知恵というわけです。
しかし、プロタゴラスはその説明だけでは不十分として、メリットとデメリットの計測の難しさを説き始めます。
人間は、直近の未来で起こることを重要視し、遠くの未来で起こることを軽視しがちなので、正しく判断をする為には、それなりの技術が必要になってくると補足します。

そして、この対話を続ける内に、ソクラテスプロタゴラスは、正しい知識を得ることが出来れば、本能や一時的な感情にも負けない理性を獲得できて、常に『良い』とされる正解の道を選択することが出来るように成るという事に同意しました。

勇気について(再)

この、『正しい知識と知恵を得れば、理性的に行動ができて、常に正解を選べる』という同意を踏まえた上で、もう一度、勇気について考えてみる事にしましょう。
プロタゴラスは、徳を構成するとされている5つの要素の中で、勇気だけが、他の4つの知恵・節度・正義・敬虔とは別の性質を持っていると主張していました。
その理由として、知恵も節度も敬虔もなく、正義もないのに勇気だけ持ち合わせているような輩がいるからです。

ですが、これまでの議論を振り返ってみると、プロタゴラスの主張としては、知恵や知識を持たないのに、ただ大胆な性格であるがゆえに危険の中に身を投じる様な人間は『勇気ある者』とは言わないと考えている事が分かりました。
では、対象に対する知識を深めればどうなるのかというと、知識を深める程にリスクは少なくなっていきます。
ここでいうリスクとは、危険性のことではなくて、不確実性のことです。

不確実性のリスクとは、どの様な結果になるのかが予測できない時にリスクが高いとして、逆に、結果がわかりきっている時には低いとする指標のようなものです。
例を出すと、2mの脚立から転落するのはリスクが高い事故ですが、高さ600mのビルから飛び降りるときの死ぬリスクはゼロとなります。
何故、このようなことになるのかというと、2mの高さというのは、打ち所が悪ければ死ぬという高さなので、転落した時に無事なのか怪我をするのか、それとも死んでしまうのかが分かりません。

一方で、高さ600mの高さから飛び降りると確実に死んでしまう為、不確実性という点ではリスクはゼロとなります。

恐怖や危険とされているモノは、その対象についての情報が不足しているからこそ、恐怖の対象であったり危険とされている場合が多いです。
その、恐怖の対象となっているものの情報をできる限り集めて分析することが出来れば、その対象に近づいてよいのか、それとも距離を取り続けたほうが良いのかというのが、自ずと分かってきます。
つまり、恐怖とされているモノの情報を集めれば集める程、その出来事に関わった際の結果が予測しやすくなるわけですから、不確実性という意味でのリスクは低下していく事になります。

勇気と臆病の違い

先ほど議論された『知識を持つものは、理性的に、良い結果に結びつく道を選ぶ』という同意に従えば、知識ある理性的な人間というのは、物事を正しく見定めて判断できるわけですから、危険な状態に飛び込むという事はありません。
仮に飛び込むという判断をした場合は、その対象が危険である可能性が低いと分かっているから飛び込む為、大胆さは必要がない事になります。
物事を正しく認識する理性的な人間は、危険だという判断をした物事に対しては、その対象には近づかずに距離を取るという方法を選びます。 

この距離を取るというのを、別の言い方をすれば『逃げる』という事になるわけですが、では、知識を持つものが逃げた場合は勇気がある事になり、知識がない人間が得体の知れない恐怖のために逃げた場合は臆病ということになるのでしょうか。
これに対してプロタゴラスは、臆病なものが勇気のあるものと同じ『逃げる』という行動を取った場合でも、その動機が違う為に、臆病なものの事を勇気あるものとは言わないと否定します。
つまり、プロタゴラスの主張によると、重要なのは正解を選んだという結果ではなく、そのプロセスにあるという事です。

例えば、当時では戦場に向かう事は立派な事だとされていますが、確実な負け戦で、出陣すれば死ぬ事が分かっている戦場に赴くのは、先程の同意からすれば、悪い事という事になります。
その為、戦争に参加しない、もしくは逃げるという選択が理性的な考え方という事になるわけですが、単に臆病な人間が同じ決断をしたとしても、それは動機が違う為に、立派な行動とは言えないというわけです。
勇気あるものの決断は、例えその判断の中に恐怖から逃げるという理由をはらんでいたとしても、立派な決断として褒め称えられるべきだが、臆病なものが出した決断は、みっともないものだというわけです。

勇気と臆病は恐怖に対する知識の差?

しかし、この理屈に沿って考えていくと、勇気とは、恐怖の対象への知識の差ということになります。
戦場に行くという行為に対して、無知のまま怖がれば、それはみっともない事になり、臆病者になってしまいますが、正しい知識を持った上で『絶対に勝てない』と判断して撤退すれば、それは立派な行為ということになります。
知識のない人間が偶然によって選択した結果、正解を引き当てても『みっともない行為』となり、知識がある人間が確信を持って選択すれば、例え、選択した結果が無知な者が判断したものと同じであったとしても勇気ある立派な行動と呼ぶ。

臆病なものは、臆病であるが故に、常に安全な道を選ぼうとしますが、勇気ある者は、その者が備えている知識によって、向かうべき道が安全だと分かっているから、その道を進んでいく。
どちらも、安全な道を選択して進んでいる事に違いは無いわけですが、これは同じ様に評価はされないという事です。

これらの事をまとめると、勇気という概念は、恐怖の対象に対する知識をどれだけ持っているのかという事になります。
このようにソクラテスは、同意が得られた事をまとめる事によって、勇気とは知識や知恵のようなものだという結果にたどり着いたのですが、プロタゴラスは、どうも納得がいきません。
しかし、プロタゴラス自身も同意した内容によって出た答えなので、彼はソクラテスの主張に渋しぶ同意します。

プロタゴラスの主張では、勇気は知識とは性質が違うという主張でしたが、一つづつ分解して考えていくと、勇気と知識は同じもので、恐怖や不安などの特定のマイナスの感情に対する知識の有無が、勇気の有無ということになってしまいました。
つまり臆病者と勇気ある者との差は、向かっていく対象に対する知識の差ということです。
kimniy8.hatenablog.com

【Podcast原稿】第64回【プロタゴラス】人を支配するのは知識か感情か 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.mu

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

善悪を正しく見定める技術

例えば、どれぐらい距離が離れれば、物体はどれぐらい小さく見えるのかと行った知識や、それを測る技術を身に着けることで、それぞれのメリットとデメリットの大きさを正しく把握することが出来るようになります。
正しく見極める知識を持ってさえいれば、近くに転がっているメリットに目が眩んで、欲望に支配されるなんて事は起こらないでしょう。
仮に、欲望に目がくらんだとしたら、それはその者に知識が足りなかったという証拠であり、正しい知識を身に着けた者にそのような事は決して起こらないといえます。

ソフィストとは、それを見極める技術を持ち、他人に教える教師のことです。
しかし民衆は、この事を理解せずに、進むべき『善い道』とは、教える事が出来ない様な、知識とは別のものだと思い込み、結果として、自身がソフィストに学ぼうともせず、自分の子供に習わせようとも思わない。
民衆自身は、正しい見極めが出来るような知識を持たないのに、その事を重要視することもなく、目先の損得にとらわれて感情的になってしまうような人間という事になります。

自分自身の無知を認め、お金さえ払えば自分の知らない知識を与えれくれるソフィストを頼ることもしない。
ソフィストは胡散臭い技術を教えていると誤解して、自身の金の心配をしてソフィストから距離を取ろうとする民衆は、仮に自滅したとしても自業自得という事なのでしょう。

理性的な人間とは善い道だけを選ぶ

という事で、物事には流れというものがあり、その前後も踏まえて考えなければ、事の善悪を決めることが出来ないという主張を、ソクラテスプロタゴラスに寄り添う形で話し、プロタゴラスは、その主張に足りない部分を付け足したわけですが…
これまでの話を踏まえた上で、もう一度、『快い事』であるとか『悪い事』について、考えを巡らせていこうと思います。

ソクラテスの推測によると、プロタゴラスが教える知識とは、先の未来まで見通した上でメリットやデメリットを把握し、それらを比べる事で最良の道を進むことが出来るというものでした。
もし仮に、このようなことが実現した場合、人は数多くの選択肢を突きつけられた際に、常に正解を選択できるでしょうし、もし、何らかの事情で悪い道を歩かざるを得ない状況に追い込まれても、機会を伺って別の道に変えるでしょう。

正しい知識を得た者は、自分自身から湧き出た一時的な感情に支配される事はなく、既に持っている知識によって理性的に動くことが出来て、結果として最良の道を選ぶことになります。 つまり、本能を抑え込んで理性のみで動けるという事です。
今、自分が歩んでいる道よりも更に良い道が見つかれば、自身の実力や環境を踏まえた上で道を乗り換えるでしょうし、悪い道を選ばざるを得ない場合は、もっとマシな道を見つけるように行動し、自分自身をより良い状態にしようとするでしょう。
正しく知識を収める者は、自らの意思でデメリットに飛び込んでいくような真似はしないという事になります。

つまり、この道を進むと恐怖が待ち受けているという道があった場合、知識がある人間はそれを正しく認識し、その恐怖を避ける道を選ぶために、そもそも恐怖といったものに遭遇しない。
これは、恐怖以外の不安など、マイナスの感情を含む事柄も同じで、知識があり、マイナスの事柄を見分けられる人間は、自ら、自分のマイナスになるような選択肢に飛び込むなんて事はしないという事です。

究極の護身術は危険に遭遇しないこと

これを漫画の例で例えるなら、グラップラー刃牙という漫画の中に、合気道を極めた渋川剛気という人物が登場します。
渋川剛気という人物は、強く優れた人間になる為に、合気道という武術を習って、自分自身でも過酷な鍛錬を行って、かなり強い実力者に成長します。
そして、自分が身に着けた力を試したいという感情に押されて、他の武術をおさめた強いものや、自分を育ててくれた師匠に挑戦をしたりもする様な人物なのですが…

この渋川剛気は、ある日、師匠と強さについて対話を行います。
渋川剛気の師匠によると、敵が右手で突いてきたら、この様にかわして反撃し、相手がそれに反応したら、こちらは、その攻撃を否して… などと考えているうちは、武術を極めるには程遠いと断言します。
武術。特に、渋川剛気が極めようと思っている合気道は、単に相手を倒す為の格闘技ではなく、自分が不意に襲われた際に、自分の身を守るための技術である護身術です。

その護身術である合気道を、本当の意味で極めたとするなら、敵と対峙した際の体の使い方をどうするのかといった以前の話として、そもそも、驚異となる存在に出会う事がないと主張します。
つまり、自分の身を危険から守る為の最強の方法というのは、危険に対処する為の技術ではなく、危険に遭遇しない技術というわけです。
そもそも危険に遭遇しなければ、相手が責めてくるという事もなく、相手が責めてくる事のない人生であるなら、強敵を相手にする技術を使う必要も、それを学ぶ必要すらも無くなる。

本当の意味で、完全な護身術を身につければ、その場の雰囲気を直感的に読むことが出来て、先に待ち構えている危険を察知することが出来る、それを自然と避ける事も出来る為、そもそも危険と遭遇することが無いという事です。
つまり、護身術の本質とは、体をどの様に動かせば良いとか、体を思い通りに動かせるように鍛錬すると言ったことではなく、自分の周りを取り囲む環境の変化を注意深く読み取る能力という事になります。

先を見据えて動けるものは最終目標である幸福を目指す

これと同じ様に、本当の意味で、メリットとデメリットを正しく測る知識や知恵を身に着けた人間は、そもそも苦痛や恐怖を伴うような出来事に遭遇しないという事です。
メリットとデメリットを正しく計測して、自分のメリットになる道を的確に選んで、最終的に快いと感じる事が出来る正解の道を選び続けることが出来ます。

自分が行く先に、プラスとマイナスがある場合、知識がある人はプラスを選ぶでしょうし、小さなマイナスと大きなマイナスがある場合は、知識がある人は、考えるまでもなく小さなマイナスを選ぶでしょう。
分岐点に差し掛かった時に、今まで歩いていた道とは別の道に、今よりも より大きなプラスがある場合には、理性的な人は当然のように、そちらの道に乗り換えます。
例え、自分が今まで進んできた道に愛着があったとしても、知識を持つ人間は、その感情に打ち勝って理性的な判断を行う事によって、より良い道に移ることが出来るはずです。

これまでの話を簡単にまとめると、理性的な人間は、どんな時であっても、善い道を歩むことを優先し、目の前に善悪につづくそれぞれの道があった場合には、悪に到達する道を選ぶようなことはしません。
この『マイナス』という言葉の部分に恐怖という言葉を当てはめても、これはそのまま通用して、目の前に小さな恐怖と大きな恐怖がある場合、正しい知識を持つものは敢えて大きな恐怖に向かって行くという行動は行わないことになります。

人を支配するのは感情ではなく知識

つまり、人を支配するのは、正しい知識と、知識をうまい具合に使いこなす知恵であって、一時的な感情や本能的なものではないという事です。
民衆がこの事を理解せずに、知識を軽視しているのは、民衆が無知であるが故に、この理屈が分からないからです。
仮に、人間を突き動かすものが知性ではなく、感情や本能のようなものであるなら、人間は動物と何の変わりもない事になってしまいます。

しかし、人間は動物とは決定的に違っていて、それが、知識を身に着けることによって、感情や本能を抑え込んで、理性的に良い方向を探し出す能力です。
その理性を育てる為にも知識は重要で、常に学び続けなければならないというのが、この対話によるプロタゴラスソクラテスの同意です。

次回は、この同意を前提にして、再び、勇気について考えていきます。
kimniy8.hatenablog.com

【Podcast原稿】第64回【プロタゴラス】人を支配するのは知識か感情か 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.mu

前回はこちら

目次

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
いつものように、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一部内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回の簡単な内容を振り返ると…
プロタゴラスが、アレテーを構成している徳目の中で、勇気だけは性質が全く違っていると主張し、その意見に対してソクラテスが吟味をした結果、勇気と知識は同じものだと主張し、それに対してプロタゴラスが…
ソクラテスの主張する理屈でいうなら、全ての技術や力は知識ということになり、その知識の効率的な使い方である知恵こそが、力であり技術ということになってしまうけれども、力も技術も知識も、別々の概念として存在するじゃないかと反論しました。

その後、テーマが変わり、快楽とは良いものなのかという議論に移りました。
快い人生を歩む事と、苦痛に満ちた人生を過ごす事の、何方が良い人生なのかという質問をして、快い人生を歩むほうが良い人生だという共通認識を得た後に、では、快楽とは何なのかというテーマに移ります。
ソクラテスは、快楽を得ているその瞬間だけを取り出せば、それは幸せな状態なのかを、プロタゴラスに対して質問しますが、プロタゴラスは、物事はそれほど単純ではないと主張します。

それは何故かというと、物事は一瞬一瞬で独立しているわけではなく、連続している事だからです。
欲望があり、それを満たすことで満足感を得て、快楽を得ることが出来たとしても、その物事は、長期で見ると悪いことかもしれません。
果てることがない食欲を満たそうと、食べ物を食べ続ける生活をしてしまえば、その時は幸せかもしれないですが、長期的に観れば病気になってしまうでしょう。

ソクラテスは、自分が聞きたいことが上手く聞き出せない為か、更にテーマを変えて、『知識とは、どの様な力を持っているのか』について質問します。
ソフィストは、他人よりも卓越して優れた人間になれる知識であるアレテーを教える事で、お金を得て生活をしている人達ですが、他人よりも優れている人は、自分よりも劣っている人を支配して思い通りに動かす能力が有るとされています。
国の指導者は、他の人間よりも優れているが故に、指導者として選ばれ、指導者の権限を振るうことで、他の人間を思い通りに動かして、一人では出来ないような壮大なことを成し遂げます。

しかし、庶民に対して『人を支配するものは知識なのか?』と聴くと、彼らは『知識にはその様な力はなく、人間を支配して動かすのは恐怖や怒りや欲望といった感情だ。』と答えます。
ソクラテスは、知識こそが人を支配できるのだと主張するプロタゴラスに対し、民衆に、真に人を支配する力があるのは、感情ではなく知識だと説得するためには、どのようにすれば良いかを尋ねたのが、前回でした。
今回は、その続きとなります。

人を支配するのは恐怖や欲望

前回、ソクラテスは、快いと感じる出来事や、悪いとされている出来事に、それぞれ善悪が有るといった民衆のようなことはいわずに、その瞬間の快楽そのものが、良いことなのかどうかを答えてくれと、プロタゴラスに対して質問をしました。
ただ、この質問をしたソクラテス自身も、快いと感じる出来事や悪いとされている出来事を判断するのは、それほど単純ではなく複雑なことを理解はしています。
その為、物事は単純ではなく複雑だというプロタゴラスに寄り添う形で、話を展開し始めます。

民衆が、感情に支配されて悪いと思っていてもやってしまうような行為は、例えば『美味しい』という感情に支配されて暴飲暴食をしてみたり、性欲に負けて風俗に通ったりといったケースが考えられます。
彼らは、暴飲暴食や風俗通いが良いことではないと理解していないわけではありませんが、感情に支配されてしまっている状態では、これらの行為を止める事はできません。
では彼らに、それらの悪い行動をやめてもらう為には、どうすれば良いのでしょうか。

民衆に対してこの様な質問をした場合は、快楽によって起こした行動の先にある悪い事の具体的な事例を、正しく知る事だと答えるでしょう。
例えば、暴飲暴食を繰り返したら糖尿病になって、後々、食べ物の制限をされてしまうだろうし、ひどい場合には、まともに歩けなくなるし、目も見えなくなるでしょう。
過度のアルコール摂取の場合は、肝臓を悪くして、先程と同じように制限された生活をおくることになるでしょう。
風俗通いも、それによって愛情が得られることはなく、性欲という一時的な欲望は満たされたとしても、その後、何とも言えない虚しさがこみ上げてくるだろうといった事が理解できれば、間違った行動はしないと思っています。

民衆が考えている事は、その事柄に関するトータルのメリットとデメリットだけで、トータルのメリットが大きければ行うし、デメリットが大きければ実行しない。
ただそれだけのシンプルな思考で、多くの民衆がその様に考えているだけで、他の方法は想像すらしていません。これは、当時の民衆だけでなく、私も含めた現在の民衆の多くも、この様な考えを持っていると思われます。
ソクラテスはこの様に、物事は複雑だというスタンスに寄り添う形で、民衆がどの様に良い事と悪いことを捉えているのかを解説します。

善悪を見誤ってしまう愚か者

このソクラテスの主張をまとめると、その物事に付随しているメリットとデメリットを正しく測ることが出来れば、事の善悪を正しく判断することが出来るという事になりますが、プロタゴラスは、その説明では不十分だと主張します。
この、一見すると分かりやすい意見の何処に否定する要素があるのかというと、民衆にはメリットと、その後襲ってくるデメリットを正しく捉えることが出来ず、度々計算間違いをしてしまうからです。
何故、その様な計算間違いが起こるのかというと、タイムラグによる、物事の見え方の違いです。

例えば、暴飲暴食をして体調を崩すとか、太った事で膝を悪くしてしまうというのは、結構分かりやすいことです。
2つの現象は、直結して起こっているという事が直感で分かりやすく、相関関係と因果関係が誰にでも理解できるので、暴飲暴食は悪い事だと捉えやすい出来事といえます。
しかし、この相関関係や因果関係が、全ての事柄において分かりやすくなっているのかというと、そうとは限りません。

何十年という長い年月をかけて悪い状態になったり、相関関係や因果関係が複数のものと複雑に絡み合って、何がどの様に悪い行動なのかが一目で分かりにくいという事もあるでしょう。
この様なケースでは、人は錯覚に陥ってしまうために、メリットとデメリットを正しく比べることが出来ず、計算間違いをしてしまいます。

何故 善悪を正しく認識できないのか

例えば、自分が今、広い空間に立っていて、自分の現在いる場所から距離が離れれば離れる程、時間的に遠くに行くという状態を想像してみてください。
その空間には自分を中心として、放射線状に様々な道が存在していて、その道の先には、メリットやデメリットが転がっているものとします。
良い人生を選ぶとは、自分の周りに沢山存在する道の中から、トータルとしてのメリットが多い道を選ぶ事です。

しかし、数ある道に、それぞれ転がっているメリットやデメリットは、それぞれが同じ大きさをしていません。小さいなメリットをいくら足し合わせても釣り合わないような大きなデメリットも存在しますし、その逆も存在します。
その為、単純に数を数えるといった手段では、正しくメリットとデメリットを計算することは出来ません。 それをする為には、それぞれの大きさも正しく知る必要が出てきますが、ここで問題が出てきます。
というのも、物体というのは、自分の位置から離れれば離れる程に小さく見えてしまい、近づけば近づく程に大きく見えてしまうからです。

この例え話に置いて、距離は時間に置き換えて考えますので、遠くに有るものというのは遠くの未来を意味し、近くにあるものは時間を経ずに直ぐにでも手に入れられるモノとして考えます。
このようにして考えていくと、プロタゴラスの主張している事が理解しやすいと思います。

遠くに有るデメリットは遠くに有るが故に、その大きさが分からずに小さなものだと錯覚してしまい、近すぎる位置にあるものは、近すぎるが故に、全体像を把握しにくく、大きなものだと過大評価してしまう。
結果として、メリットとデメリットの大きさを正しく測ることが出来ずに、遠くに有る大きなデメリットを小さなものだと錯覚して計算してしまい、自分の進んでいる悪い道を良い道だと錯覚してしまいます。
これは逆も同じで、目の前にゴロゴロとデメリットが転がっていているけれども、その先にはとてつもなく大きなメリットが有ったとしても、遠すぎるが故に、そのメリットに気が付かなかったりしてしまう事もあります。

これは、メリットとデメリットを物体ではなく、音や声のようなものと考えても同じです。 近い場所で発生した音は大きく、遠い場所で発生した音は小さく聞こえる為、その音そのものの大きさを比べるのは至難の業です。
民衆はこの様にして、メリットとデメリットの大きさを測り間違えてしまい、正しい道を選ぶことが出来ないということです。
では、正しい道を選んで良い人生を歩む事を諦めなければならないのかというと、そういうわけではなく、知識を身に付ける事で、最善の道を選ぶことが可能になるというわけです。 
kimniy8.hatenablog.com

【Podcast原稿】第63回【プロタゴラス】快楽が続く人生は良い人生なのだろうか 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.mu

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

快楽が続く人生は良い人生か

ソクラテスが、快い事が続く人生は良い人生かと質問し、プロタゴラスは、快楽がずっと続く人生は必ずしも良いとは言い切れないと主張しているわけですが…
このやり取りを具体例を交えて考えてみると、例えば、手っ取り早く快楽を得たいと思うのであれば、今の時代なら違法ドラッグを手に入れるという方法があります。
打つだけで快楽を手に入れる事ができるドラッグという存在は、お金さえ払えば、楽に快楽を手に入れる事を可能にしますが、では、ドラッグを継続的に摂取し続けて快楽に身を委ねる人生は良い人生といえるのでしょうか?

ドラッグを定期的に打ち続ける事によって、体はボロボロになるかもしれませんし、そもそも違法である為に、警察に見つかれば、犯罪者として扱われるでしょう。

ここまでハードなケースでは無く、日常生活の中で考えるのならば、例えば、食べ物を食べることに快楽を覚える人は、その欲望に任せて食べ物を食べ続けるという行為は良い事だからと、肯定されるべきなのでしょうか。
自分の好きな食べ物だけを、欲望に任せて好きなだけ食べる生活は、欲望を満たし続けることが出来るために、快い生活といえるかもしれませんが、食欲という欲望が大き過ぎる場合は、食べ物の過剰摂取によって、体調を崩すでしょう。
単純に食べ過ぎで気持ち悪くなることも有るでしょうし、その生活を継続する事で、生活習慣病になることも有るでしょう。

逆のケースで考えるなら、何らかの怪我や病気になった際に、治療と称して苦痛を受け入れなければならない時もあります。
苦い薬を定期的に飲まなければならなかったり、手術の為に体の一部を切除しなければならないといったケースですが、この様なケースは、苦痛を伴うという一点に置いて、悪い事といえるのでしょうか。
治療を受けずに放置した場合は、傷や病気は悪化するでしょうし、更に悪い事態に発展する可能性があります。 一時的に、自分が嫌だと思う体の切除や苦い薬を飲むという行為を受け入れる事で、最悪のケースから逃れることが出来たりもします。

大抵の物事というのは、連続しているもので、その一点だけを取り出して考えたとしても、善悪の判断はできません。
その瞬間だけを抜き出せば、最高の出来事と表現できるようなことであっても、前後の出来事を組み合わせて考えると、全体として悪いということも有るでしょう。
逆に、その瞬間だけを切り取ると、嫌な事であったり逃げ出したい事であったとしても、後々のことを考えると必要な事柄で、それを行わなければ、更なる悪い事態に発展することもあるでしょう。

事柄の善悪とは、その瞬間だけを切り出して考えるのではなく、一連のつながりの中で考える必要があるために、プロタゴラスは即答を避けたのですが…
ソクラテスにいわせれば、快い出来事の中にも善悪が存在するというような主張をするのは、物事をよく考えない民衆のする事だそうです。
常日頃からアレテーについて考えている賢者であれば、答えることが出来るはずだというのが、ソクラテスの主張なのでしょう。 彼はプロタゴラスの警戒心を解いて本心を探るために質問を続けます。

知識とは何なのか

ソクラテスは、まず、『快楽とは善なのか』というものを考える為に、知識について、プロタゴラスがどの様に考えているのかを知ろうとします。
そもそも、知識とは何なのか。 ソフィストたちの主張では、知識には、人を支配する能力があるそうなのですが、果たして本当だろうかというのを解明しようとします。

大衆は、知識には人を支配するといった大層な能力は無く、人を支配するのは、その他の何か。例えば、『恐怖』『怒り』『快楽』といった、本能的なものを利用して支配が行われると思っています。
例えば、圧倒的な暴力を見せつける事によって、『痛い目にあいたくなければ、いうことを聞け』と脅しをかければ、力を持たない弱い人間を支配することが可能です。
同じ様に、『誰かが貴方に対して酷い事をしているよ。』という情報を吹き込めば、その人間は怒りに支配されて、思い通りに動くでしょうし、欲望を満たすために必要なお金を渡せば、それと引き換えに指示した通りに動く人間は沢山います。

これらの、抗うことが出来ない本能的な感情を利用する事で、人は他人を奴隷のように支配できると漠然と思っているのですが、賢者であるプロタゴラスも、同じ様に考えるのかと質問をします。

何故、この様な質問をしたのかというと、それは、プロタゴラスが他人にアレテーを教える教師という職業だからでしょう。
アレテーとは、それを身に着ける事で他の人間よりも卓越した者になれる存在ですが、それを教えられると主張しているプロタゴラスは、アレテーを知識のように他人に伝授できるものだと主張しているのと同じです。
仮に、アレテーと呼ばれるものが、持って生まれた才能のようなものであるのなら、それを誰かに教える事はできません。 持って生まれた運動神経やら筋肉の作りや骨格を他人に伝えられないのと同じです。

しかし、プロタゴラスの主張では、アレテーは教えることが出来ると主張し、他人からお金を得て授業をするというのを生業としているわけですから、才能の様なものではなく、他人に伝えられる知識のようなものだと主張しているわけです。
アレテーとは、それを身に着ける事で他人よりも卓越した能力を持てる存在で、他の者よりも卓越した優れた者は、カリスマ性などを有して、他人を支配する能力も持つでしょうから、アレテーを持つものは他人を支配する能力が有るといえます。
アレテーを持つものが他人を支配することが出来、そのアレテーの正体が知識のようなものであるなら、知識は、人を支配できるようなものであると言い換えることも出来ます。

また、アレテーによって他人を支配した指導者は、ものの分別をわきまえて、何者にも屈しない知識による命令を下すことが出来て、それによって人々を救うことも可能になるでしょう。
プロタゴラスのスタンスは、大衆が主張するように、知識には大層な力が無いという事はなく、知識は素晴らしい力を持っていると主張しているといえます。

彼は当然のように、知識には素晴らしい力があると主張します。
それを否定してしまうというのは人類として恥ずべき行為で、人は本能に支配されて動くとするなら、本能的に動いている動物たちと人間との間に差はなくなってしまうからです。

人を支配するのは知識か感情か

この意見にはソクラテスも同意しますが、では何故、民衆は善悪の知識が有るにも関わらず、悪いと分かっている事を行ってしまうのかと疑問をぶつけます。
悪の道に進んでしまう民衆に、『何故、そんな事をしてしまうのか。』と質問をしたら、大抵の場合は、『欲望や恐怖や怒りという感情に押しつぶされて。』と答えます。
民衆は、自分が悪の道に進んでいると理解している状態なのに、一時的な感情に支配されて、その歩みを止める事が出来ないでいます。 彼らを説得するためには、どの様な知識が必要なのでしょうか?とソクラテスは彼に質問します。

それに対してプロタゴラスは、『何故、民衆を説得しないと駄目なのだ?』と一蹴します。
相対主義プロタゴラスに言わせれば、彼らは彼らの人生を歩んでいるのであって、何故、物事の本質を考えようともしない、口から出まかせをいうような民衆を救わねばならないのかと疑問に思ったのでしょう。
仮に彼らが、自分の行く末を心配し、その事に真剣に悩んでいるのであれば、彼らなりに考えたり勉強をしたりするでしょうし、それでも答えが出ないのであれば、プロタゴラスのようなソフィストへの弟子入りを考えて門を叩くでしょう。

その様な努力を一切しない人間に対して、何故、こちらからわざわざ出向いて行って、求められてもいないのに、教育をしなければならないのかという素朴な疑問です。
この考え方を支持する方は、今の日本には多いかもしれないですね。 というのも、この主張は言い換えれば、現在の日本でよく叫ばれている自己責任論に通じる考え方だからです。
努力をしない愚かな人達は、自分の責任に置いて努力をしないのだから、その愚かさ故に破滅しようが関係がない。自己責任だという考え方と同じです。 破滅が嫌なら、自分で努力しろという事なのでしょう。
 
ですがソクラテスは、その自己責任論に納得せずに、『先程、議論が宙ぶらりんになっていた『勇気とは何か』を解明する為にも、その事が重要だ』として、プロタゴラスに意見を求める為に食い下がるのですが…
これ以降の話は、次回にしていきたいと思います。
kimniy8.hatenablog.com

【Podcast原稿】第63回【プロタゴラス】快楽が続く人生は良い人生なのだろうか 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.mu

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
いつものように、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一部内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回の簡単な内容を振り返ると、プロタゴラによると、アレテーは、それぞれ別の役割を果たす徳目によって構成しているという話でした。
徳目というのは、『正義』とか『節制』『知恵』『勇気』などのことですね。この徳目ですが、それぞれが似たような性質を持ち合わせているけれども、『勇気』だけは、全く違った性質を持つというのが、プロタゴラスの主張です。
何故、勇気だけは違うのかというと、知識や知恵がないのに、勇気だけは持ち合わせているような人間が存在するからです。

ソクラテスは、この意見を聞いた上で、本当に勇気だけは違った性質を持つのかを吟味していきますが、その結果として、知恵と勇気は同じものであるという可能性に辿り着いてしまいました。
プロタゴラスの主張では、勇気だけは全く違った性質を持つはずだったのに、ソクラテスが考えを巡らせた結果、勇気と知識は全く違うどころか、同じものになってしまったというのが前回でした。

知識と勇気が同じなら 全てのものは知識と同じになる

しかしプロタゴラスは、このソクラテスの主張を認めません。
というのも、これと同じ様な考え方をしてしまえば、例えば、『強さ』や『力』といった、一見すると知恵とは全く違う様なことも、実は知恵の一種だったということになるからです。

例えば、柔道の知識を持たない人間よりも、その知識を十分過ぎるほど持っている人間の方が、戦った際には有利でしょう。
柔道に限らず、ボクシングや剣道など、格闘技や武術の知識を持った状態で訓練をした人間の方が、知識を持たないで訓練している人間よりも『強い』といえるでしょう。
もし、『知恵』や『知識』を持っていなければ、正しい技術が身に着けられないわけですから、全ての技術を伴うものの優劣は、知識の有無によって決まってしまうと言ってしまっても、間違いではありません。

力や技術は、それを効率的に使う知識とも言い変えることが出来るわけですから、力や技術が単独で存在するわけではありません。 それを習得する際にも使用する際にも、知識や知恵が必要になります。
ということは、家を建てるのも、車の運転をするのも、料理をつくるのも、全ては『知恵』や『知識』の有無によって決定すると言えるので、あらゆる事柄を知識や知恵に集約させてしまうことが出来てしまうというわけです。

必要条件と十分条件

しかし、プロタゴラスはそうとは考えず、この様に主張します。
例えば、有能で優れた人間は強さや強靭さを持っているかと聞かれれば、私は持っていると答えるだろう。しかし、強さや強靭さを持つもの全てが有能で優れた人間かと聞かれれば、私は同意しないだろう。
これと同じで、先程は、勇気のある人間は、物事を怖がらない大胆さを備えているかと聞かれたから、私は同意したに過ぎず、仮に、質問が逆だったとしたら、私は同意しなかっただろう。

これはつまり、物事を怖がらない大胆さを備えている人間は、全て、勇気のある人間かと問われていたならば、私は否定しただろうという事です。
何故なら、知識や経験や深く考える能力などが欠如していて、自分がどれほどの窮地に立たされているかを知らない人間は、その者の能力が低いが故に、怖がるという事をしないからです。
無知であるが故に怖がらない人間が、勇気のある人間かと問われれば、そうではないと答えていたと主張します。

プロタゴラスは、勇気が成立する為には、当人の精神的な素質と育成が不可欠だと考えていますが、単純な知識や知恵にはそれが無いから、同じものではないと主張します。
もし仮に、知恵や知識と勇気が同じものであるとするならば、勇気は勉強すれば身に着けることが出来ることになります。
しかし、本当に勉強によって勇気は生まれるのでしょうか。 自分の身が危険に晒されたとしても、何かを守らなければならない場面に直面した時、体が動くのは、よく勉強をした人間なのかと聞かれれば、疑問ですよね。

勇気には『優れた精神力』とう才能が必要

私の偏ったイメージでは、勉強だけを頑張った人間は、いざという時に体が動かないようなイメージすらあります。
プロタゴラスは、勇気を得る為に必要なのは、当人の精神的な素質と育成が不可欠だと主張しますが、この主張には納得できる部分が多いです。
勇気を備える人間が窮地に立たされた際に起こす行動は、自分の命も含めた上で、その場で一番守らなければならないものを優先する訳ですが、この行動を起こすために必要なのは、先程も言いましたが、自分の命も含めた上で、平等に価値を測ることです。

普段から自分の命を特別視せずに、何が一番重要なのかを考え続ける姿勢が重要な訳ですが… しかし、それを理解したからと言って、必ずしも勇気が身につくというわけではありません。
映画や小説などの物語には、重要なものを守るために、今こそ、敵に向かって行かなければならないという時に、頭では理解しているけれども、体が動かずに行動できないといったキャラクターが数多く登場します。
そういった人は、物事を冷静に判断する能力があり、一番大切なものを知り、どの様な行動を起こさなければならないのかを知識として知ってはいますが、体が動きません。

この体を動かす為には、持って生まれた精神的な素質と、それを伸ばすための訓練が必要だというのが、プロタゴラスの主張したい事なのでしょう。
この考え方は、前回にも紹介した『ジョジョの奇妙な冒険』のツェペリ男爵の勇気の話とも合致する部分が多いですし、勇気を出すという事が覚悟を決めるという事に言い換えられるのであれば…
漫画作品の『覚悟のススメ』に出てきた覚悟の解釈である、『覚悟とは、苦痛を回避しようとする本能にも勝る精神力のこと』とも合致するので、何となくですが、世間一般で捉えられている勇気の概念に近づいているようにも思えます。

ただ、この勇気の定義は、プロタゴラスが今まで主張していた事と違ってきているのではないかという、新たな疑念が生まれてしまいますけれどもね。

快楽とは良いものなのだろうか

この疑問は残したままで、少し話題を変えて、別のテーマに移ります。
一応言っておきますと、今までもそうでしたが、この対話篇では、テーマがコロコロ変わっていきますが、最終的には全ての話がつながってきますので、これまでの話を頭に残した状態で聞いてもらった方が良いです。
別のテーマに移る前に、ソクラテスはいつものように前提条件を確かめ合います。
その前提条件とは、苦痛に満ちた人生を送る事は悪い事で、心地よい人生を歩む事は良い事かという質問で、プロタゴラスはこれに同意します。

続いて、ソクラテスは、快く生きて人生を全うする場合は、良い人生かという質問をプロタゴラスに対して行って、同意を得ようとするのですが…
プロタゴラスはこれに対して同意はするのですが、『自分が行った立派な事に対して、気持ちよさを感じる人間であれば、良いと言える。』という前提条件をつけます。
このプロタゴラスの態度は、ここまで散々、ソクラテスに揚げ足を取られた感じになっている為に、警戒し、注意深く言葉を選んでいることがよく伝わってくる返答ですよね。

この返答に対してソクラテスは、気持ち良いことの中に、善悪があるとか、大衆みたいなこと言わないで、快い、苦しいと感じた後に、どのようなことが訪れるかはひとまず置いておいて、そう感じる事柄一点だけに絞って考えてみて欲しいと頼みます。
しかしプロタゴラスは、この質問に対して警戒して『そんな単純な事柄ではない。』と主張し、ソクラテスの口車には乗りません。
ソクラテスのこの辺りの言い回しは、プロタゴラスの意見を誘導させようとする意思があるようにも読み取れるので、彼が警戒心を持つのも分かるような気がします。
kimniy8.hatenablog.com

プラトン著【クリトン】私的解釈『秩序正しいという説得力』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

f:id:kimniy8:20190225212629j:plain

目次

不正行為が許される場面

まず、最初に前提条件を確認しておくが、不正行為は、絶対に行ってはいけないことなのだろうか。 それとも、止むに止まれぬ理由があれば、不正行為は許されるのだろうか。
私達は若い頃から語り合ってきて、その時に出た答えとしては、いかなる場合であったとしても不正行為はしてはならないというものだった。
その結論を覆すということは、今までの対話は全く意味がなかったということになるが、本当にそうなのだろうか?

それとも、やはり、不正はいかなる時であったとしても、悪なのだろうか。
これを聴いたクリトンは、不正行為はいかなる場合であったとしても、行ってはならないという意思をハッキリさせる。

不正行為を不正で返す

ここで、どの様な場合であったとしても、不正行為を行ってはならないという同意が得られたわけだが、この前提にたてば、不正行為を行われた場合に、報復として不正行為をしてはならないということになる。
では、不正を害悪に置き換えて考えてみる。 他人から害悪を押し付けられたとして、その報復として、害悪を与え返すというのは正しい行ないだろうか。
クリトンが答える前に、ソクラテスは注意を促す。 何故なら、大抵のものは害悪によっては害悪で返すのは正当だと考えるからだ。

しかし、これから議論する話は、不正行為に対して不正で報復することはもちろん、害悪に対して害悪で対抗することも、相手の害悪に対して防御の為に害悪を行うことも否定する事を前提にして話す。
例えば、相手が理由もなく殴りかかってきたとしたら、報復として殴り返すのは当然だと考えるものは多いし、こちらも殴り返して防御しようと思うものは、更に多いだろう。
この行為すらも、『やってはいけない』という意見に同意できるだろうか。 クリトンは、これにも同意をして対話を続ける意志を示す。

では、不正はいかなる時であったとしても行ってはならず、また、他人から害悪を押し付けられたとしても、報復として害悪を返すということはやってはならないという前提で考えを進めていく。
私は、国家の定める法によって裁かれて、死刑を言い渡されている者だが、その国家の意に背いて、勝手に牢を出ていくというのは、誰かに害悪を与えたりしないのだろうか?
クリトンは、自分には答えが出せないと言い出すので、ソクラテスは例え話を始める。(クリトンの中では答えが出ているが、それをいうと、牢から出せないから言わないだけ?)

国家と法律

もし、国家と法律に人格があり、今まさに、脱獄しようとしている私達に話しかけてきたとしよう。
ソクラテスよ、お前は今、何をしようとしているんだ? お前は、国の法律によって裁かれて刑が執行されようとしているが、それを、個人的な理由だけで覆そうというのか。
そんな事が許された場合、国という枠組みが維持できると思っているのか?』

この質問に対して、私達はどの様に答えればよいのだろうか。
私に下された刑は、正当な手続きを踏んで与えられたものなので、正当なものだと言える。
それを個人で覆そうとする場合には、どの様な言い訳をすれば良いのか。 『私達こそが、国家によって不正行為を行われ、あらぬ罪で拘束されている。』とでもいうのだろうか。

クリトンは、『その通りだ、そう言い返すべきだ。』と同意する。

ダブルスタンダード

では、人格を持った法律が、この様に話しかけてきたとしよう。
ソクラテス、お前は、私が定めた結果が不服だとして、個人的な理由で、私(法律)の決めたことを無視して、国を崩壊させるような決断を下そうとしている。
お前は、私が定めた決まりごとの中で育ってきたわけだが、その決まりごとに不満があったのだろうか。

例えば、お前の親は、私の定めた婚姻の決め事に従って結婚し、法律に守られながらソクラテスという人間を誕生させた。
そして、その子供は、私が定めた育成方法によって、勉強や体育を行ない、一人前の人間に育った。
お前は、これらの私が定めた決め事に不満があったのだろうか?』

これに対して私は、不満がなかったと答えるべきだろう。 法律が定めた秩序によって守られて産まれ、ここまで育ってこれたのは本当なのだから。
では、それを確認した後に更に国家と法律が『では何故、お前は私が下した決断に従わず、国家が定めた法律を無視することで、秩序を破壊しようとするのか。
お前は、自分を生んで育ててくれた両親が、自分の行動を規制しようとしたり、その為に暴力を振るわれたからと言って、同じ行為で仕返しはしないはずだ。

それは何故かといえば、自分を生んで育ててくれた親を敬って、自分自身と同列には考えていないからだ。
国家や法律は、その親や更にその親、お前の先祖代々を産んで育ててきた存在だが、その者が下す決断を、何故、自分勝手な都合で破棄することが出来るのか。
本来であれば、国家や法律は、親以上に敬わなければならない存在で、決して、自分自身と同格だとは思えない存在のはずだ。』

…と言ってきたとしよう。 彼らの主張は正当だろうか?
これに対してクリトンは、肯定する。
同意を確認した後、ソクラテスは更に、国家と法律の言い分を代弁する。

国家に対する不満

『我が国で生まれ育ち、教育を受けて一人前の大人になったものは、我々という存在が正当かどうかを吟味する機会が与えられる。
そして、もし、我々に不満があるのであれば、より良い法律を提案し、みんなを説得することで、法改正をする事が出来、自分が納得できる環境に作り変えられたはずだ。
自分のアイデアに、法改正が出来るほどの力や正当性がなかった場合も、この国から出ていくという選択肢は残されている。

アテナイという国家は、国民をこの地に縛り付けているわけではないので、見聞を広めたり、または、楽しみの為に、自由に国を離れて外を見て回る機会はあったはずだ。
その旅先で、自分の生き方により合う国家や法律があるのであれば、財産をまとめてその地に移住するという選択肢もあるし、その決断は、誰に求めることは出来ない。
にも関わらず、ソクラテスという人間は、移住どころか、旅行すらも行わずに、アテナイに籠もって出なかった。

それは、このアテナイという国や法律が自分に合っていて、住心地が良かったからではないのか。
しかもお前は、この国で子供まで作っている。 何故そうしたのか、それは、この国で子供を育てることが望ましいと思ったからではないのか。
そのようにして、この国に住み続けるという行為そのものが、国家や法律を承認すると宣言しているに等しい。

不正を犯すことで失うもの

また、最後に行われた裁判で、お前は自分で刑罰を提案する際に、国外追放を提案しなかった。
もしあの時、国外追放を提案していたら、それを聞き入れられた可能性があったにも関わらず、それを選択せずに、死刑になるような演説をした。
にも関わらず、自分勝手な理由で法律を無視し、秩序を乱して、ここを出て行こうというのか?

そのようにして出ていく場合は、おそらく、秩序ある国はどこも受け入れてはくれないのではないだろうか。
何故なら、秩序を重視する国というのは、国家や法律を重んじる国であるわけだから、自分の国の法律を破った逃亡者を受け入れるなんてことはしないだろう。
逃亡先の住人は、逃げてきたお前を敵視し、厳しく追求するだろうし、その追求は正当なものだろう(実際に秩序を破壊して逃げてきているので)

そんな逃亡先で、どの様な人生を過ごそうというのか。 アテナイでしていたのと同じ様に、善であるとか秩序について話すのだろうか?
そんな事を秩序を破壊した逃亡者が話したとして、一体、誰が耳を傾けるのだろうか。
逃亡者を喜んで受け入れてくれるような国は、同じ様に秩序を重要視しない様な人達で作られた国だけだろう。

秩序正しいという説得力

国や法律が形骸化し、秩序が崩壊した国に住む人間達なら、牢からどうやって抜け出しただとか、バレ無いように返送して船に乗り込んだなんて話を面白おかしく聴いてくれるかもしれない。
だが、そんな話がしてくて、国外に逃亡しようとしているのか?

もし逃亡をせずに、このまま法律に従って処刑されたとすれば、アテナイに住むものの中には、『ソクラテスは不正によって殺された』と同情するものも出るだろう。
しかし、秩序を崩壊せんとして逃亡者となれば、そういうわけにも行かないだろう。
国家と法律である我々は、お前の命がある限り恨み続けるだろうし、寿命を全うしてあの世に行った際には、ハデスによってその罪を裁かれるだろう。

秩序を乱すという大罪を犯したものに、安息は訪れない。
そうなりたくなければ、クリトンを説得し、秩序を守る道を選ぶが良い。』

きっと、国家と法律は、この様に主張するだろう。
『これに反論できるだろうか?』というソクラテスの言葉に、クリトンは納得してしまう。
参考書籍

プラトン著【クリトン】私的解釈『死刑判決後』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

f:id:kimniy8:20190225212629j:plain

目次

死刑判決後

ソクラテスの裁判から1ヶ月後。 クリトンは、ソクラテスの元を訪れるが、彼はまだ熟睡しているので、そば見守っていると、彼が目覚める。
見張りの兵士とは顔なじみになっているようなので、訪問はこれが最初ではなく、ソクラテスのクリトンを始めとする弟子たちは通い詰めていたことが分かる。
死刑が迫っているにも関わらず、いつもと変わらず睡眠を取り、落ち着いた様子のソクラテスに驚くクリトンだが、気を取り直して、牢獄から逃げようと言い出す。

脱獄というわけではなく、この当時では、看守などの役人に金を握らせれば買収が可能で、堂々と逃げることが出来たようだ。
投獄されているということは、誰かが訴えて裁判に負けたという事なので、告発者は納得できないかもしれないが、今回のソクラテスの裁判は言いがかりのようなものなので、告発者も買収が可能。
また、それにかかる費用は、刑務所の役人たちの買収費用よりもかなり安くなる可能性が高い。

クリトンは、自分にはアテナイの外にも知り合いが多数いて、彼らはソクラテスの良き理解者なので、その土地で受け入れてくれて何不自由ない暮らしが出来ると主張する。
また、ソクラテスを嫌っているような人達を寄せ付けないようなことも出来る為、良い環境で暮らせるとも主張する。

そしてクリトンは、現状では、役人や告発者の買収によって囚人を助けることが出来る状態になっている為、ソクラテスを死なせるようなことがあれば、私が世間一般の人達から責められることになってしまう。
また、ソクラテスには子供がいる。 親は、子供を生んだら一人前になるまで育てる義務があり、その義務を全うしようと思わないものは、子を産まないという選択をしなければならない。
私や他の弟子たち、そして子供達の事を考えるのであれば、一緒に逃げてくれないかと懇願する。

(一説によると、ソクラテスに対する死刑判決は重すぎると感じる人はかなり多く、刑務所の職員たちもそう思う人が多かった為、いつでも逃げられる様に施錠などがされていなかったという話もある。)

脱走を拒否するソクラテス

その話を聞いたソクラテスは、自分は今まで行動を起こす際には熟考し、最善と思われる決断をしてきたつもりだと話す。
自分の命がかかっている今回のことも例外ではなく、同じ様に、何が最善なのかを考えることにする。

大衆というものは、時に数の暴力で威嚇したりして、個人を追い詰めることがある。
それも、特に根拠がなく、感情に流されて、子供をお化けを使って怖がらせるように、一人の人間を追い詰めることは珍しくない。
今回、ソクラテスに下された死刑判決その者がこれに当たり、民衆はソクラテスが自分の命惜しさに泣き叫ぶ顔が見たいが為に脅してきたが、彼は脅しに屈しなかったので、引っ込みがつかなくなって死刑にしてしまった。

私達は以前に、大衆の話は、大部分が聞かなくても良いようなことで、耳を傾けるべきは1部分に過ぎないという話をして同意したが、その話はまだ有効だろうか。
それとも、以前は有効だったが、私が訴えられて死刑になった後は、その話は信憑性がなくなったのだろうか?とクリトンに尋ねる。
仮に、ソクラテスの死刑によって意見が変わるのであれば、それはダブルスタンダードという事になり、ポジショントークに過ぎない。

ポジショントークが真理であるはずはないので、その話は無効ということになる。
もし、ソクラテスが死刑になろうが関係なく、その話は有効であるとするのなら、その意見には何かしらの意味があることになるので、考えとして使う価値がある。
クリトンは、その意見はまだ有効だとしたので、それを元に考察を始めていくことにする。

無意味な大衆の意見

大衆は、それぞれが個々に考えて好き勝手なことをいうし、特定の環境にハマれば、皆で同じようなことを言い出すものだが、彼らの意見の大半は、聞くに値しないようなものばかりだ。
では、すべての意見を無視すれば良いのかというと、そういうわけではなく、一部は、耳を傾ける価値のある意見が混ざっている。

例えば、オリンピックなどの祭典に出場する選手には、大衆から様々な意見が寄せられる。
では選手は、何の勉強もしておらず、オリンピックの時だけ流行に乗って色んな意見を言ってくる『にわかファン』の意見全てに耳を傾けるべきかといえば、そんな事は無い。
ほぼ全ての意見は、無視しても問題はない。

しかし、中にはその分野に精通していて、日々研究しているような人物がいる。
例えば、選手を指導してくれるコーチは、選手そのものよりも知識は豊富だろうし、選手を客観的に見れるという点に置いては、選手よりも選手のことをよく分かっている場合もある。
スポーツそのものを実践するのも、結果のために努力するのも選手本人だが、その選手は、コーチの様な人物の意見には耳を傾けるべきで、その方が良い結果を生み出す。
また、選手の身体を定期的に検査をし、練習量に問題がないかを意見してくれる医者のような者の意見も聴くべきだろう。

これはスポーツに限ったことではなく、それぞれの分野には専門家がいて、日夜、研究を行っている為、この様な人達の意見には耳を傾ける必要がある。
つまり、大部分の大衆の意見は無視すべきだけれども、一部の人間の意見には耳を傾けるべきということになる。

耳を傾けるべき人物

そのようにして、聴くべき人の意見を聞き、努力した結果、試合で良い結果が残せなかった場合。
選手に過大な期待を寄せ、それが裏切られたということで、大半の無知な大衆は、選手を責め立てるだろう。 中には罵声を浴びせたり、威嚇するものも出てくるだろう。
その一方で、自分の練習をずっと身近で見守ってくれていたコーチは、自分の頑張りを評価してくれるかもしれない。

この場合も、耳を傾けるべきは身近で見守ってくれていた専門家の意見だけであり、無知な『にわかファン』による無意味な意見には耳をかさない方が良いことになる。
まとめると、無知な者が放つ自分勝手な意見には耳を傾ける必要はなく、自分を良い方向へと導き、悪い方向へ進もうとしている場合には正してくれるような、知恵のあるものの意見には、耳を傾けるべきということになる。

しかし、この選手が仮に、自分のことを真剣に考えてくれている医者やコーチの意見を軽視し、大衆に受け入れられるために迎合して、彼らの意見だけに耳を傾けたとしたらどうだろうか。
その選手は、破滅するのではないか? これにクリトンは同意する。

生き甲斐

では、この話を別の分野に移して考えてみよう。
その分野とは、『美しさ』であり『正義』『節制』といったアレテーに属する分野についてだ。
この分野についても、その道の専門家と言われる少数の者が主張する意見を尊重し、大部分の、アレテーについて考えたこともない様な無知な者の意見は無視すべきではないのか。

仮に、知恵のある少数の者の意見を無視し、無知な大衆の意見を聞き入れた場合は、先程の運動選手のように、破滅してしまうのではないだろうか。
運動選手が、無知な大衆の意見に流された結果、その体を壊してしまえば、彼は生き甲斐をなくしてしまうだろう。
では、アレテーの分野において破滅してしまったものは、その分野において生き甲斐をなくしてしまうのではないだろうか。

身体に対する生き甲斐と、魂に対する生き甲斐、どちらの方が重要度が高いだろうか。 もちろん、魂だ。

脱獄は良い行為なのか

これを踏まえた上で、クリトンの提案についてもう一度考えてみよう。 提案が正しいのであれば実行しても良いし、正しくないのであれば、ここにとどまるべきだ。
大衆というものは流されやすく、その時時の雰囲気によって、人を殺してしまおうと考えたり、逆に、生き返れば良いのにと妄想するような人達だ。
一方で私達は、民衆のように軽率な者ではない為、行動を起こす際には慎重に考えて、その結論を吟味しなければならない。

では、アテナイ人によって死刑判決を下された私が、彼らの同意なしに牢獄から抜け出る行為は、正しい行為なのか、それとも、不正な行為なのだろうか。
もし答えが正当な行為であるならば、私はクリトンに従って、共にここを出ていこうと思う。
しかし、その行為が不正であるのなら、私はここを出るべきではないだろ。 例え、この場に留まったことによって、拷問や死刑が実行されたとしても、それらのことは、不正行為を行うことよりかは遥かにマシなことだから。

クリトンは、この意見に同意するが、では、どの様に行動すれば良いのかというのが分からないという。
そこでソクラテスは、その事について共に考えようと誘う。
参考書籍

プラトン著【ソクラテスの弁明】私的解釈 5 『死の恐怖 < 好奇心』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

f:id:kimniy8:20190225212629j:plain

目次

死を受け入れるソクラテス

その腹いせに、彼らは『秩序を守る法律』ではなく、感情に任せて死刑を宣告するという不正を行った。
私は彼らから不正を受けて死刑になったが、彼らは彼らで、神の定めた秩序に反する不正を行ったのだから、真理からは遠く離れることになってしまった。
(真理こそが、人を幸福に導く為、不正を働いた彼らが幸福になる事は永遠にない。)

私は、この死刑判決を受け入れよう、だがこれは、彼らにも当てはまる事で、不正を犯した彼らはその運命を受け入れざるを得ない。
人は、残りの人生が僅かになった時に未来を予知する能力が高まるというが、死刑宣告された私は正にその状態であるため、一つ予言をしておこう。
君たちが私を死刑にしたのは、口やかましい老人に自分の無知を暴かれたくなかったからだろう。

殺人の代償

しかし今回の君たちの行動によって、君たちは更に多くの弁明を求められることになるだろう。
何故なら、私を慕ってくれていた青年たちは、君たちの判断が本当に正しかったのかを問いただしに来るからだ。 若くて元気のある彼らの責めは、老人である私よりも遥かにキツいだろう。
自分が無知であるという正体を暴かれたくないという思いから、人殺しをするような人間は、その行為によって生活がマシになるなんて事はありえない。

最も立派で簡単なことは、他人の行動を権力によって抑圧する事では無く、自分自身が良くなるように努力することだ。
この言葉を最後に、君たちとは別れを告げることにする。(死刑に投票した人間は法廷を出ていく。)

死は一種の救済

次に、私に無罪票を投じてくれた裁判官諸君。 私は、死刑囚として投獄されるまでに少し時間があるので、その時間を使って、君たちと語らい合いたいと思う。
裁判中にも語ったが、私は小さい頃から、自分の行動によって、自身に禍が降りかかろうとする際には、どこからともなく声が聞こえてきて、その行動を制止させられてきた。
たとえ討論中であろうとも、言ってはならないことを言おうと思った際には、その言葉によって発言をやめるといった事もあった。

しかし今回。 私は裁判によって死刑判決を下されたわけだが、私は朝から、その声を一度も聴いては居ない。
死ぬという、普通であれば最大の禍と呼べるものを突きつけられたにも関わらず、その声が聞こえなかったということは、死とはみんなが考えているようなものではなく、善いものなのかもしれない。
そして、私達の中で死が禍であると決めつけて信じているものは、その考えを改める必要がある。

この世には、一度死んで戻ってきた人間はいないので、死後の世界は想像することしか出来ないが、思うに2通りのパターンが考えられる。
1つは、全くの無に帰る状態。 そしてもう一つが、魂となってハデスが治めるあの世に旅立てることだ。

仮に死というのが前者であれば、これほど心地よいことはないだろう。
人間というのは寝た際に、夢なども一切見る事無く熟睡することがあるが、その時に人は、どの様な感想を得るだろうか。
とても心地よく、この様な質の高い眠りにずっと浸っていたいと思うのではないだろうか。

死後の探求

人は死んだ後に無に帰らず、霊になってハデスの領域に行くとする後者の場合、これほど楽しみな事はないだろう。
あの世では、人が行う不完全な裁判ではなく、神々が直々に裁きを与えてくれるし、あの世があるということは、既に亡くなっている偉人たちとも意見交換が出来るというものだ。
私と同じ様に不当な裁判によって殺されたものも多くいるだろうから、どちらが不当な裁判だったかと言った対話で楽しむということも出来るだろう。

また、現世では絶対に出来ない、既に亡くなっている賢者との対話も行うことが出来る。
現世では、伝説上の話となっているような偉人を捕まえて、彼らが本当に優れた人物かどうかを存分に吟味するといった対話を楽しむことも出来る。
またあの世では、他人を吟味したという言いがかりをつけられて、再び死刑に処せられることもないだろう。 私には、これほどの幸福は無いと思われる。

どちらにしても、死ぬという行動はそれほど悪いものとは言えない。

もっとも、私に対して死刑判決を下した者たちは、そんな事を考えて私に死を与えるわけではなく、単純に、憂さ晴らしの為に私に危害を加えたかっただけなんだろうが。
その動機で動いたという一点で、彼らは責められるべきだとは思う。

死の恐怖 < 好奇心

この様に私は、死ぬということに対しては恐れを抱いてはいないし、むしろ、死ぬことを楽しみにすらしている。私に今回与えられた死は、何らかの偶然によってもたらされたものではないと思う。(神の御業?)
この世でこうして生きながらえるよりも、むしろ死ぬ事でこの世から開放される方が幸せだと思うからだ。その為、私が間違った道に行こうとすれば警告してくる、例のあの声は、今回に限っては聞こえてこなかったのだろう。

裁判官諸君には、最後に一つ、願い事を聞いてもらいたいと思う。
私には子供がいるが、もしその子供が、物事について何も知らないにも関わらず、知ったふうな態度をとったとしたら、私が市民たちにしたように叱咤し、無知であることを気づかせて欲しい。
また、徳というモノについて考えることもなく、財産を溜め込むと言った行動をとった際にも、その行動について責めて追求して欲しい。

もし、私の子どもたちにその様に接してくれるのであれば、その時初めて、私や、その子どもたちは、諸君らによって正当な扱いを受けたことになるのだから。

もう時間が迫ってきたので、話は終わりにしよう。
私は死ぬために、そして諸君らは生きるために、この場を去ることにしよう。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍

プラトン著【ソクラテスの弁明】私的解釈 4 『判決』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

f:id:kimniy8:20190225212629j:plain

目次

最期の訴え

この様に私は、良いと思う道を歩み続けてきた。
また、自分が無知であることを自覚しているが故に、弟子を取るといったこともしていない。
ただ、賢者だと思いこんでいる人間に対して、賢者ではないことを気づかせるという行動に興味を示す者たちは少なからずいた。

私は、他人が対話を見物する事を止めるようなことはしなかったので、その様な見物人の中には私に興味をしす者たちもいた。
彼らのことを弟子とは思ったことはないが、同じ善の道を追求する仲間として接する事はした。

仮に、メレトスが主張する通り、私が彼らを悪の道に引きずり込んだとしたら、私はその仲間たちから恨まれているだろうし、悪くなった仲間から害悪を受けていることだろう。
彼らそのものは、私によって洗脳されているから、恨むことも訴えることも害悪を与えることもしなかったという主張もあるだろうが、では、彼らの家族はどうだろうか。
私は彼らの家族には接触していない。 そして、仮に私と接することで身内が悪くなったのであれば、その身内がクレームを入れてくるのではないだろうか。
(私に騙されたのが少年ばかりだから、身内に相談する知恵もないという言いがかりもあるかもしれないが、私はこの活動を数十年行っている。 当時少年だったものは、とっくに大人になっている為、その理屈も通じないだろう。)

しかし実際には、私の仲間や、その家族は、極貧生活を私の手助けをしてくれている。 仮に私が証人として出廷を頼めば、彼らは喜んで協力してくれるだろう。
その一方でメレトスは、私によって悪の道に引きずり込まれ、被害を受けたという証人を誰一人として連れてくることは出来ないでいる。
(もし、そのようなものが本当にいれば、彼を連れてくれば、私の罪は決定的になるのに)

アテナイ人諸君の中には、私が泣き叫んで叙情酌量を求める姿を見たいと思っていた者もいるかも知れないが、私はそんなことはしない。
私には子供が2人いるが、、諸君らの同情を得るために、その子達を連れてきて親の命乞いをさせるなんてことも行わない。
何故なら、そんな行動が裁判の結果に影響を与えてはいけないからだ。

私にかけられた疑いは、その事のみで裁かれなければならず、他の事情が入るのは不正な行いとなる。
(暗に、ソクラテスの恨みだけで有罪認定する人間を避難している?)

裁判による罪は感情ではなく、国の法律によって裁かれるべきであって、そこに不純物でしかないモノを持ち込んではいけない。
もし私が、アテナイ人諸君に媚を売ったり同情を求めたことで判決が揺らぐのであれば、それこそが、神の定めた秩序に逆らう行為であり、罰せられなければならない。

判決

有罪判決後 次は、刑罰を決める裁判となり、告発者と被告が、それぞれ自分に見合った罰を主張して、どちらの罰が相応しいかを投票によって決める。

裁判結果については、私の思った通りとなった。 というよりも、もっと大差がついて判決が下されると思っていた。
僅か30人が心変わりするだけで、無罪放免になる程の僅差に成るとは思ってもいなかった。
とはいっても、訴えたのがメレトスだけで、アニュトスやリュコンといった後ろ盾がなければ、彼を指示する者はもっと少なかっただろうが…

さて、私の有罪が確定し、次は私の刑罰を決めることになるが、メレトスは刑罰として死刑を望んでいるが、私が妥当だと思う刑罰は、迎賓館での食事だ。
何故なら私は、神の意志に従って国を良くする為に生涯をかけて奔走した。
その代償として、それぐらいのものは貰っても良いはずだ。

この様な発言をすれば、アテナイ人諸君らは、私が我儘でこんな発言をしていると思うかもしれない。
中には、有罪が既に確定しているのだから、自分の命が助かる為にも、妥当だと思われる罪を提示すべきだと思われるかもしれない。
しかし、私は何を恐れて、ありもしない罪に対する刑罰を考えて提示しなければならないのだろうか。 (ソクラテスは死ぬことが悪い事とは思っておらず、死の善悪を知らないとしている)

判決後も信念を曲げないソクラテス

では、具体的にどの様な刑罰が妥当かを考えてみよう。
諸君らの多くが、国外追放が妥当なのではないかと考えるかもしれない。
だが、アテナイを追い出されるということは、私はどこかの国に移住するということになるが、私が今までと同じ様な活動を続けていると、私を慕って多くの青年がついて来る事になるだろう。

そうなれば、同じ様にその国でも訴えを起こされる事になってしまう。
では、訴えられない為に青年と距離をとったとしたらどうだろうか。 今回の裁判は、私が何か不正を犯したということで罪に問われているわけではない。単に、人々の機嫌を損ねたことで訴えられている。
であるなら、青年を遠ざけるような行動を取れば、青年は不機嫌になるわけだから、今度は青年の方から訴えられることになるだろう。

こうして、不正は全く行っていないにも関わらず、誰かの期限を損ねた事で訴えられて有罪になり、その罰として国外追放にされるのであれば、私は次の移住先でも同じ様に訴えられて、国外追放になるだろう。
それとも諸君らは、自分たちは、この私と話すのも議論するのも嫌で、この国を追い出したいと思っているにも関わらず、他の国の人間であれば、私を受け入れてくれるはずだと、そう思っているのだろうか?

死なない為に生きたくはない

これを聴いたアテナイ人諸君の中には、誰とも関わらず、静かに暮らすことは出来ないのかと思われる人もいるだろう。
しかし、私の人生における最大の幸福は、アレテーを追求することであり、その為に研究し、他のものと対話をする事が生き甲斐である。
最大の幸福を禁じてまで、この世にしがみついている意味はあるのだろうか?

別のものは、それ相応の金額を罰金として支払ってはどうかと思うかもしれない。
確かに、私にとって金は無意味なものだし、それを取られたとしても、私の人生においては何の損失もない。
しかし私は無一文である。 ただ、私には仲間がいて、もしかしたら、その仲間は私を助ける為に、罰金を支払う保証人になってくれるかもしれない。

彼らが保証人になってくれれば、30ナムの罰金は支払えるかもしれない。
その為、私は30ナムの罰金刑が妥当だと主張する。

刑罰

結果、ソクラテスは更に80票の差が開いて死刑になる。

私の死刑に投票したアテナイ人諸君。 君たちは、僅かな辛抱が足りないために、国の腐敗を叫ぶ者たちから、賢者を殺したという罪で責め立てられることになるだろう。
何故なら、諸君らの決断が間違っているとして誹謗中傷するものは、私のことを賢者だとして持ち上げるのだから。 実際には、そうではないとしても。

私は既に高齢で、放って置いても勝手にすぐに死んだだろう。
諸君らの中には、私の弁論の時間が足りなかったから、死ぬ事になったんだと言い訳するものもいるだろう。 もっと丁寧に時間をかけて説明されてさえいれば、私は納得したんだと。
確かに、私が死刑になるのには、なにかが足りなかったわけだが、しかしそれは、弁明する時間などではない。

私に足りなかったのは、厚顔無恥な態度で、どんな醜態を晒そうとも生き延びたいという意思だ。
単純に生き延びたいと思うのであれば、誇りを捨てて、惨めに泣き叫んで、数多を下げて懇願し続ければ、相手の優越感が満たされて、生き延びれる可能性は高くなる。
殺し合いの場である戦場ですらも、武器を捨てて土下座し続ければ、相手は見逃してくれるかもしれない。

この様に、目先の死から逃れることは、それほど難しい事ではない。 プライドを捨てて惨めに懇願し続ければ、目先の死は回避できるかもしれない。
だが、死よりも回避するのが困難なことは、不正を犯さないことだ。
自分が信じる者の命令を無視し、自分の利益の為だけに不正を犯すという行動から逃れられる人間は少ない。

私に対して死刑を望んだ者たちは、裁判官という自分の身分は、被告の命を左右できる権限を持つ偉いもので、その裁判官である自分は偉いと思っている。
だから、有罪となったものは、出来るだけ軽い刑罰に成るように自分に懇願すべきだし、裁判官という偉い職業についている私を崇めるべきだと思い込んでいる。
そんな彼らの前に、私のように媚びず屈しない人間が現れて、堂々と答弁したとすれば、彼らはさぞ、面白くなかっただろう。
(つづく
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍

プラトン著【ソクラテスの弁明】私的解釈 3 『裁判官の仕事』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

f:id:kimniy8:20190225212629j:plain

目次

信念を貫く為には

これを聞かれたアテナイ人諸君は、私に対して『そんな恨みを買い、自分を死に追い込む可能性が有る職業を続ける事を恥とは思わないのか』と思われる方もいるだろう。
だが、私はそれを恥だと思わない。とし、ギリシャ神話のトロイア戦争でのアキレスの取った行動を挙げる。
アキレスは、自分の母親から、先の人生で親友が殺されることを予言され、その仇討をすると自分も死んでしまうという予言を受けていた。

では彼は、自分が生き延びたいがために、親友の仇を討たずにじっとしていたのかというと、そんな事はしていない。
自分が死ぬと分かっていても、親友を弔うために敵に向かっていった。 この様な行動をとったアキレスは、愚かな人間なのだろうか。
人には、どの様な環境に置かれようとも、絶対に貫かなければならない信念がある。

私は、自分が属する国の指導者の指示に従って、3つの戦場に赴いて命をかけて戦った。
そんな私が、自分の命惜しさに神からの神託を無視する事が出来るだろうか。 そんな事をすれば、それこそが神の冒涜であり、私は不敬罪で裁判所に引きずり出されることになるだろう。

『死』は恐ろしいものなのか

また、皆が恐れる『死』というものは、本当に恐ろしいものなのかも疑問だ。
この世には、一度死んで戻ってきた人間などはおらず、死んだ状態がどの様な常態化を経験してい知る人間は1人も居ない。
つまり、死が恐ろしいといっているのは生きているものが行う予測でしかないわけだが…

その生きている者の中で賢者と呼ばれている人達は、誰一人として、真理をしらないし、自分が真理を知らないということすら知らないような者達ばかりだ。
そんな者達が『死ぬのは悪いことだ』と主張したとして、信じるに値するだろうか。
私はあの世が良いところだと信じているわけではない。 ただ、知りもしないのに悪いところだと決めつけることはしないということだ。

私のスタンスは一貫していて、知らないものに対しては知らないという態度で挑む。
死ぬという現象が良いことか悪いことなのかが判明していない為、私はその行為に対して喜ぶことも恐れることもしない。

裁判官の仕事

アテナイ人諸君には、これまでの事を踏まえた上で考えて、判決を出して欲しい。
私が悪いと思うのであれば、私を死刑にするべきだし、濡れ衣を着せられた哀れな存在だと思うのであれば、無罪で放免すべきだろう。

決して、双方の意見を汲み取った上で、『アニュトスの主張には無理があるが、君も誤解を受けるような行動を取ったのだから、これからは、科学に没頭するなんてことや、人の知識を吟味するといったことはせずに、おとなしくしておきなさい。』といった曖昧な判決は出さないで欲しい。
何故なら私は、神の意志を尊重して、この様な行動をとっている。 その行動を、人間が下した判決によって阻止されるような事があれば、それこそ、神に対して申し訳がたたない。
私は裁判官やアテナイ市民を尊敬して入るが、それ以上に神々を信仰しているので、どちらかの意見を聞かなければならない状態に追い込まれれば、私は神々の意見を聞く方を選ぶ。

君たち市民は、お金儲けをしたりそれを溜め込んだり、名声を高めることばかりに熱心になり、真理の追求や、自分の魂を良い方向へ導くために必要なことなどに関しては無頓着だが…
その様な自分の欲望を優先する行為に没頭することこそが、恥ずべき行為なのではないのか?

私は、この裁判でどの様な判決がくだされようとも、私自身の行動を変えるつもりはまったくない。
それを踏まえた上で、私を無罪放免にするなり死刑にするなりすれば良い。

夢の中の住人

ただその前に、これだけは聞いて欲しい。
私を訴えて、裁判の場まで連れてきたのはアニュトス達だが、双方の主張を聞いて実際に判決を下すのは、アテナイ人諸君である。
先程から主張している通り、彼らの証言は嘘ばかりで、私は神々を信仰し、その神託を実行するために行動をしている善人である。

もし仮に、アニュトス達の主張を信じて私を死刑にする場合、アテナイ人諸君らは自らの判断によって、悪人を信じて善人を殺すという判断を行うものとなる。
仮に、悪人の口車に乗って善人を殺してしまうなんて事が起こったとしたら、それは、神がもたらした秩序に反することではないだろうか。
裁判官の中には、いま私が、国外追放や投獄、酷い場合には死刑になるかもしれないとして怯えていると思っているものもいるかも知れない。

しかし、私はそんな事に怯えるなんてことはしない。 もし、怯える事があるとすれば、神がもたらした秩序が破壊されてしまうという事柄に対してだけだ。

私とこの国の市民たちとの関係は、言ってみれば、巨大な馬と虻の様な関係だ。
巨大な馬は、その巨大さ故に脳に血が回らずに眠りこけている。 その眠っている馬を必死で起こそうと、私は身体のいたる所を突き刺して不快感を与えている。
馬は、睡眠を妨害されるのが不愉快なので、鬱陶しそうに私を手で追い払ったり殺そうとしている。

馬は、何も真実を知ること無く、ただ眠りほうけている方が幸せだと勘違いし、眠りを邪魔する私という虻を退治しようとするが、それが本当に達成されてしまえば、馬は二度と目覚めることはない。
真実を知ることなく、この世の真理が分からないままに眠り続けるだけだ。 神が第2の私をこの世に送り出さない限りは。

神に与えられた試練

そして、私のこれまでの行動を観てみれば、私が神によって使命を帯びて尽力してきた人間という事がよく分かるはずだ。
私は、それこそ様々な場所で多くの人たちと、『良い事とは何か』といった事について対話をし続けてきたが、その行動によって、1度たりとも報酬を受け取ったことはない。
その事は、私の極貧生活を観てもらえれば一目瞭然だが、こうして私を訴えているメレトスが、証人として『私に授業料を払った』という者を連れてこれなかったことからも明らかだ。

もし私が、授業料と称して金を受け取っていたとするならば、メレトスの訴えに理解を示すという者も出てくるかもしれないが、私は何も受け取っていない。
では何故、一文の得にもならないような事をわざわざするのかといえば、それは、神が与えた使命だからだ。

ここまで私の弁明を聞いた方は、私の活動が何故、市民一人一人を訪ね歩いて対話するという方法かというのに疑問を持つものいるかも知れない。
それ程までに国や市民を良い方向へと導くために尽力しているのなら、人を統治する政治家を目指し、その立場から言ったほうが良いではないかと。
しかし私は、そうはしなかった。 何故なら、私は子供の頃から、重要な決断に迫られて、間違った方向へ進みそうになると、『その行動はやめろ』と、どこからともなく声が聞こえてきてきた。

メレトスの訴えの中には、国の定めた神々を信仰せず、独自の神霊を信仰しているというものが有るが、彼がそう思い込んで訴えたのは、この事が関係している。
そしてその声は、私が政治の世界に入ることを止めさせようとしてきたのだ。

信念を貫くためには私人であるべき

それは何故かというと、一人の個人として善良であろうと思う人間が国の政治に関わった場合は、長生きできず、信念も全うできないからだ。

私は、自らが政治家を志したことはないが、過去にその役職を与えられたことはある。
その時に私が実際に経験したことを例に出すと、国が戦争に負けた際には、兵士の亡骸や生存者は連れ帰らなければならないという決まりがある。
しかし、ある海戦で負けた際に、嵐で海が荒れているという理由で、海に投げ出された者たちを収容せずに帰国した10人の将軍が裁判にかけられた。

私以外の他の全員が、彼らは有罪だとしたが、私だけは、やむを得ない事情があった為に無罪とすべきだと訴えたが、その事によって、他の政治家たちから大いに恨まれる事になった。
彼らは怒りに任せて私を訴えようとしたが、私は良いと思われる行動を取り続ける為に、意見を変え無かった。
幸いにも、私は短い期間で公職からは開放されたので、今でも生きているが、あのまま政治家を続けていれば、死ぬか、不正に手を染めるかのどちらかを選ばされていただろう。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍

プラトン著【ソクラテスの弁明】私的解釈 その2 『嘘つきなメレトス』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

f:id:kimniy8:20190225212629j:plain

目次

二分するソクラテスの評価

だが、私は何か教える事が出来るような知識を持っているわけではないので、賢者を訪ねては対話を行うという活動を続けていた。
賢者と私の対話を観続けた弟子の青年たちは、何度も観続けているうちに、『自分も賢者と対話できるのではないか。』と思うようになり、実行に移し始めた。
結果として多くの賢者が、私のそばにいた青年たちに討論で負けることになり、その自称『賢者』たちは、青年達の師匠である私に憎しみを抱くようになった。

こうして私は、賢者だと持て囃される一方で、多くの賢者と呼ばれてきた人達から憎まれることになってしまった。
私を憎むものは、私を悪者のように扱うが、では、彼らに『ソクラテスの、どの部分が悪いのか?』と聞いても、『不正を犯した』といった抽象的なことしか言わず、具体的な理由は何一つ出てこない。
何故なら、彼らはプライドを傷つけられて怒っているだけだから。

しかし彼らは自分たちを正当化して、私を悪者にしたい一心で、学者に対してよく用いられる言いがかりを主張する。
それが『自然や物理について論理的に考えて研究し、神々を信仰しようとしない。 また、よく分からない理屈を使って間違ったことを正当化しようとする。』といった批判である。
論破されて無知だと明らかにされた者達によって、同じ様な批判が彼方此方で主張され、その勢いに乗る形で、詩人の代表としてメレトスが、政治家と職人の代表としてアニュトスが、弁論家の代表としてリュコンが今回の訴えを起こした。

これで、何故、私が多くのものから賢者と呼ばれる一方で非難されてきたのかが分かると思う。
次は、実際に私を訴えた者たちがかけた容疑に対する弁明を行っていく。

善導者

詩人の代表として私を訴えたメレトスは、『ソクラテスは、青年に良からぬことを吹き込んで堕落させ、国家で定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニア(半神)を信仰している。』と主張するが…
では、この罪状の一つ一つについて反論していくことにする。
先ず、『青年に良からぬことを吹き込んで堕落させた罪がある』といった部分だが、私に言わせれば、メレトスこそが罪人と言われるべき存在だと主張する。
何故なら彼は、普段はこのようなことを考えたこともないのに、私を陥れたいが為だけに、ありもしない罪で人を訴える様な人物だからだ。

人を裁判にかけるというのは深刻なことだが、そんな事を冗談のように行ってしまう彼は、罪深いと言える。

では、それを証明するために、メレトスに対して質問を行う。
君は、私が青少年を悪い道へと導いているといって非難するが、では逆に、どの様な人物が青少年を良い方向へと導くのか、それを教えて欲しい。

この質問に対してメレトスは『国の法律』だと答える。 しかし、誰かと聞いているのに法律と答えるのでは、答えになっていない。
ソクラテスはもう一度、どんな『人物』なのかと聞き、メレトスは『ここにいる裁判官全員だ。』と答える。(裁判官は法の番人)

ソクラテスは続いて、『では、裁判官以外の傍聴人は? 国の仕事をしている役人は? 政治家たちは? 彼らには、青年を良い道へと導く力はないのか?』と聞くと、メレトスは『それら全員に、青年を良い方向へと導く力がある。』と答える。
つまり、ソクラテス以外の全員が、青年を良い方向へと導く力がある一方で、ソクラテスだけがその力がなく、悪い道へと導くと主張する。
これを聴いたソクラテスは、『それは、普通に考えておかしくないか? 例えば、家畜を調教する調教師というのがいるが、優れた調教師というのは、沢山いるのだろうか? それとも、少数しかいないのだろうか?』と聞き返す。

家畜の調教は、優れた調教師1人に任せるほうが良いのか、それとも、全ての国民が『ああでもないこうでもない』と色んな意見を言いながら育てる方が良いのか、どちらだろうか。
考えるまでもなく、優れた調教師に任せる方が結果は良くなる。 馬や牛に限らず、人間以外のすべての動物は、その動物の特性をよく知る少数の優れた調教師に任せるほうが上手くいくが、人間だけは違っていて、大勢で『ああでもないこうでもない』と育てるほうが良いのだろうか?
メレトス、君は、私を訴えたい一心で罪状を考えたにすぎず、青年を良い方向へと導くにはどうすれば良いかなんて事は、考えたこともないだろう?

このやり取りによって、君が青少年の教育について如何に何も考えていないかという事が、明らかになってしまった。

悪人と生活したい人間はいるか

次に、もう一つ質問をさせてもらおう。
善人というのは、接する人に良いことをして幸福にする存在だと思うし、逆に悪人というのは、接する人に害悪を撒き散らして、不幸にするものだと思う。
もし、善人と悪人のどちらかと人間関係を続けなければならない状態になった場合、悪人と仲良くなりたいという人がいるだろうか? 大抵の人は、善人と親しくなりたいと思うのではないだろうか?どちらだろう。

これに対してメレトスは、『善人と親しくなりたいに決まっている』と即答する。
次にソクラテスは、『君は、私が接する人を悪人にしているというが、それは、私が知らず知らずのうちに、相手を悪の道に引きずり込んでしまっているのか、それとも、悪意を持って意図的に行っているのか、どちらだと思うのか?』と質問をし、『わざとに決まっている!』という返答を得る。

この返答を聴いたソクラテスは、君は、私が関わり合いになる青年たちに良からぬことを吹き込んで、ワザと悪の道に引きずり込んでいるというが…
そんな事をしてしまえば、私の周りは悪人で固められてしまって、一番損をするのは悪人に囲まれている私という事になるのではないだろうか?
何故私が、自分の周りを悪人で固めて、自分から不幸になろうと努力しなければならないのだろうか? そんな事をして、私に何の得があるというのだろうか。

私が私自身のことを考えて行動するのであれば、青年を悪い方向ではなく、良い方向へと導こうと頑張るのではないだろうか。 そうすれば、私は善人に囲まれて幸福になれる為、努力しがいもあるというもの。
仮に君の主張する通り、私が青年たちを悪い道へと誘導しているのだとすれば、それは知らず知らずのうちにやっているという事にはならないだろうか?
つまり、君が主張する『ソクラテスは意図的に青年を悪い方向へと導いている』というのは、明らかな嘘ということになる。

信仰心

次に、君は私に『国家で定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニア(半神)を信仰している。』と難癖をつけるが…
君は、私が無神論者と言いたいのだろうか。それとも、神は信仰しているけれども、その神は国が指定した神ではないから違法と言いたいのだろうか?
空に浮かぶ太陽や月は神々ではなく、別の何かだと主張しているとでもいうのだろうか?

この質問に対してメレトスは、『ソクラテスは神々を信じてはいない。 太陽はアポロンではなく、灼熱する岩だというし、月はアルテミスではなく、ただの土だと主張している!』と返答する。

これを聴いたソクラテスは、『君は、ここにいるアテナイ人たちを馬鹿にしているのか? 太陽が灼熱する岩だと答えたのは私ではなく、アナクサゴラスではないか。
アナクサゴラスが唱えた説は有名で、どこの本屋に行っても僅かな金で彼の書いた本が買える。 一般常識と言って良いレベルの有名な話だが、君はその説を、アナクサゴラスではなく私が考え出したと、本当に思っているのか?
そんな話をでっち上げてまで、君は私が神々を信じていないことにしたいのか?』と反論し、メレトスは『そうだ』と答える。

ソクラテスは『メレトス、君は、馬鹿げた冗談をいって、その冗談で私やアテナイ人諸君を騙せるか、それとも騙せないのかを試しているのではないか?
君の主張には明らかな矛盾があるが、その矛盾を言葉の演出で誤魔化せるかといった遊びでもやっているのか?』と言い、矛盾を追求する。
その矛盾する部分とは、ソクラテスは神の存在を信じておらず、一方で神霊の存在を信じているといっている点である。

家の存在を認めるのに大工の存在は認めない?

分かりやすく例え話をいうなら、人間の存在を信じないのに、人間の所業を信じるという輩はいるだろうか。
それは例えば、この世に人間なんていないと思っているのに、人間が住む村があると信じているような人間のことであり…
また、誰かが吹いた笛の音を確かに耳で聞き、その音を楽しみながら、『笛の音は存在するが、笛を吹く者は存在しない』という人間のことである。

同じことを神霊に当てはめるのであれば、神霊の働きを認めるのに神霊の存在を認めない人間がこのようにいるだろうか?
そんな者は一人も居ない。

では、神霊とは一体何なんだろうか? それは、神の子ではないのか。
(饗宴によれば神霊は、神と人間の間を取り持つメッセンジャー
メレトスの主張によれば、私は神霊を信じているそうだが、神霊は神々の子である。 神々の子の存在を信じて信仰する人間が、その親である神々の存在を認めないなんて事があるだろうか?

これにより、メレトスが主張する『ソクラテスは、青年に良からぬことを吹き込んで堕落させ、国家で定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニア(半神)を信仰している。』という私にかけられた罪状は、全て嘘だという事が明らかになった。
つまりメレトスは、プライドを傷つけられた悔しい思いをしたから、罪をでっち上げて私を吊し上げて憂さ晴らしをしようとしているだけなのだ。
この様な状態で、なお、私が罪に問われて罰を課されるとするのなら、それは私が不正を犯したという理由ではなく、大衆達による恨みによってである。
参考書籍

プラトン著【ソクラテスの弁明】私的解釈 その1 『一番賢いソクラテス』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら

f:id:kimniy8:20190225212629j:plain

目次

訴えられたソクラテス

物語は、ソクラテスが訴えられ、告発した側が、彼はどの様な罪を犯したのかを演説し終わった直後から始まる。
ソクラテスは、告発者の演説に対して反論を始める。

彼らは私のことを雄弁家(弁論家?)と語り、他の市民に近づかないように注意を促したが、そもそもそれが間違っている。
私は雄弁家ではないし、そもそも告発者は、何一つ真実を述べていない。

しかし、私が主張を行えば、それは明らかになるが、私が放つ言葉は、告発者が行ったような演出を一切行わなわず、本心を垂れ流すだけなので、聞き苦しいかもしれない。
だが、私は自分が放つ言葉が正論だと信じている。
最初に注意として言っておくけれども、私は言葉の扱いが丁寧な方ではないので、聞き苦しい点もあるかもしれない。
しかし、言葉の綺麗さや聞き心地の良さなどは度外視して、その内容だけに焦点を当てて聞いて欲しい。 それが、裁判官の本文で、その見極めができることこそが、裁判官のアレテーなのだから。

ソクラテスのを訴えた人達

ソクラテスは、自らが訴えられた理由と弁明を行う。
先ず、私を訴えたアニュトスと、その支持者たちは、嘘しか話していない。
またアニュトスは、まだ幼く知識もない少年や青年に近づいて、私が如何にも悪い人物かというのを吹き込んで、洗脳している。

アニュトス曰く、ソクラテスという人物は、自然学をはじめとした哲学を学び、悪いことを正しいことのように偽装する方法を編み出し、その技術を使って嘘を真実のようにして広めている。
ソクラテスのように科学に没頭するものは、神々を信仰することもしない。 その様な敬虔な態度を持たないことは、嘘を真実と偽って平気で広める。』と主張する。
この噂は幅広く広まり、少年や青年の耳にも入り、彼らはその噂を疑うこと無く信じてしまう。

更に驚くことは、今回の訴えは、私を交えない形で秘密裏に話し合われた後にいきなり訴えられた。

私に罪があると主張する人達は、2種類いる。
1つは、一人の喜劇作家を除いては、よく知らない人達ばかりで、彼らは私を馬鹿にして笑いものにしている。(ソクラテスを愚か者扱いする喜劇が作られて、人気だった。)
彼らをここに1人ずつ呼びつけて反論したいところだが、そんな事は出来ないし、彼らは私を馬鹿者扱いして楽しんでいるだけなので、この場に出廷もしないだろう。

そしてもう1つの告発者たちは、私を古くから知る者達で、彼らが、この裁判を開いた。
その彼らの主張に対しては、弁明しなければならない。
それと同時に、アテナイ人諸君(裁判官に対して媚びへつらっていない。)が私に持つ疑念も、短時間のうちに(水時計)晴らさなければならない。(ソクラテスの悪名は、アテナイ中に轟いていた?)

そうする事が、私自身にとっても、ここにいる人達みんなの為にとっても、良いことであるのならば。
私は不正を犯さず、法律に則った形で弁明を行う。

人を馬鹿にして楽しむ人達

ソクラテスは先ず、多くの人達が自分を賢者と呼び、一方で犯罪者だとして罪をでっち上げて非難している理由を説明する。
私を避難するもの達がでっち上げた罪とは『ソクラテスは不正を行ない、神々を信仰せずに科学に没頭し、真実を曲げて嘘を真実のように演出して広めている。』というもの。
喜劇作家のアリストファネスは、私が屁理屈を捏ねて、空を飛べるだとか奇想天外な事を出来ると、面白おかしく喜劇を使って馬鹿にする。

この言いがかりに対して、この場にいる人達みんなを証人として、今一度確認したい。
私はこれまでの人生で、様々なところで演説をしたり会話をしてきたりしていたが、そんな奇想天外なことが出来ると嘘をついたことが有っただろうか。
その発言をその耳で聞いたというものが、1人でもいるのだろうか?

これらの事は事実無根である、私は一度たりともそんな事は言っていない。
また告発者は、私が無知な青年に近寄っていって、報酬と引き替えに嘘を教えているというが…
私は今まで関わってきた人に、会話をしただけで報酬を受け取ったことなどは1度もない。

人に物事を教えて報酬を受け取るというのは、別に悪いことではない。 プロタゴラスゴルギアスといった人物たちは、弟子をとって教えを授けることで、多額の報酬を得ている。
金額に見合ったものを与えることが出来るのであれば、それは正当なことだし。悪いなんて事は何もない。
しかし私自身は、言葉で伝えるだけで人を善い存在に変える様な知識は持ち合わせていないので、そもそも、他人に物を教えるという行為が出来ない。

この弁明を聞かれた方は、では、私は何を生業にして生きているのかと疑問を持たれるだろう。
そして、何もしていないにも関わらず、ここまでの悪評が立っているというのは、やはり、何かしらの原因があるのではないかと思われるだろう。(火のないところに煙は立たない)
という事で、ソクラテスは説明を始める。

一番賢いソクラテス

ソクラテス自身は、人に教えられるような知識は、何も持ち合わせていない。 その様な知識を得るために、彼は日々、必死に様々なことを学ぼうとしていた。
しかしある日、ソクラテスの親友のカイレフォンが、デルフォイの神殿に赴いて、巫女に『一番、知識のあるものは誰か。』を訪ねに行った。
彼は、私の近くにいて苦悩をよく分かっていたので、国で一番の賢者の名前を聞くことができれば、ソクラテスが知りたいと思っている真理を教えてくれると思ったのだろう。

しかし帰ってきた答えは意外にも、『国で一番賢いのはソクラテスだ』という答えだった。
この答えに、当然の事ながらソクラテスは納得が出来ない。 必死になって真理を求めているのに、その尻尾すらつかめずに苦悩しているのに、そんなソクラテスが一番賢いと言われても、納得できるはずがない。
彼は、その予言が間違っていることを証明するために、自分よりも賢いとされる賢者の元へ訪れては、対話を行って、自分よりも賢いことを証明しようとする。

何も知らない賢者たち

賢者たちは、最初のうちはわざわざ訪ねてくれたソクラテスに対して丁寧に答えてくれていたが、議論がアレテーの本質に近づいていくと、その答えを誰も答えてくれない。
ソクラテスは、様々な人の元を訪ねては、アレテーについて質問するも、それを構成していると思われる『正義』や『美しさ』といった概念を正確に説明できるものは、一人としていなかった。
更に驚くべきことは、その賢者たちは、ソクラテスが深く追求するまでは、アレテーやそれを構成するもののことについて、知っていると思いこんでいた点。

しかし、ソクラテスとの対話によって、それが単なる思い込みだった事を思い知らされた彼らは、私を罵り、追い出すといった行動をとった。
賢者と呼ばれる殆どの人が、知らないものを知っていると思いこんで、他人に自分も知らないことを教えていたのである。
一方で、一般人ほど、知らない事柄については素直に知らないと認めており、賢者よりも一般人の方が自分に対する認識がしっかりできていることに驚かされた。

それでも諦められないソクラテスは、過去の詩人達が書いた有名な詩を持ち出して、詩に詳しい人達に、その解釈などを訪ね歩くという行動に出たが、ここでも意外なことが起こった。
というのも、詩の愛好家は、おそらく詩を書いた本人ですら想像もしていないような詳細な情報をスラスラと言い出したのだ。
詩の作者よりも詩について詳しいなんて、これは、何かしらの神からの託宣を受けているとしか思えない。

(例えば、熱心なガンダムファンは、その世界観の説明やキャラクターの心境について、原作者の富野さんすら想像していないような情報をスラスラと言うだろう。)

『美』を知らない芸術家

次にソクラテスは、職人の元を訪れた。 職人は学者ではないので、学問のことを論理的に理解しているとは思えないが、技術に関する事にかけては他の者達よりも優れた知識を持っているだろうと思われたので、話を聞きに行った。
この推測は正しく、彼らは私の知らないような事を教えてくれたが、根本的な事柄にテーマが移ると、彼らもまた、自分自身はその事を知っていると思いこんでいるだけの者たちだった。
例えば、彫刻家たちは、その技術と作品を生み出すセンスにより、自分自身は『美しさ』という概念を理解しているつもりでいるが、実際に話を聞いて吟味してみると、彼らは『美しさ』について何も知らなかった。

様々な賢者や詩人、職人たちの元を訪れて分かったことは、この世で本当に賢者と呼べるのは神という存在だけで、人間が持つ知識なんてものは、ほんの僅か、または、全くの無価値ではないのかという事だけだ。
人間が等しく無知なのであれば、その中で誰かが一番という順位付けは意味を成さない。
神が、『人間の中でソクラテスが一番賢い』と敢えていったのは物の例えで、『人間の知識なんてたかが知れている』という事を知っているソクラテスが、一番マシだと言いたいだけだったのではないだろうか。

私は、それが理解できた後も、賢者に出逢えば質問を投げかけ、神の言葉の真意を確かめる活動を続けた。 そんな活動で金銭が稼げることもなく、私は極貧生活を送っている。
そして多くの賢者と呼ばれるものが、自分は賢者だと思い込んでいるだけの無知なものであることを明らかにしてきた。
その活動により、私は多くの自称『賢者』たちから恨まれる事になったけれども、その討論を傍から観ていたものは、私に対して別の印象を抱いたようだ。

それは、賢者と呼ばれるものを論破した、真の賢者というふうに。
そして自分自身も賢者になりたいと、私の元へ弟子入りを志願してくる青年も出てくるようになった。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍