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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast原稿】第62回【プロタゴラス】勇気は打算の産物なのか 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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目次

勇気とは何か

プロタゴラスの主張では、勇気だけが全く別の性質を備えているという事なので、どの辺りが特別なのかを吟味していく事になります。
ではまず、プロタゴラスが考える勇気の定義とは何なのかというと、それは、『誰もが恐れて立ち向かわないようなものに立ち向かっていく気持ちのこと。』です。
漫画で『覚悟のススメ』という作品がありますが、その中では、苦痛を回避しようとする本能にも勝る精神力の事が覚悟と定義されているので、勇気という概念に、この様なイメージを持つというのは珍しくはないのでしょう。

この主張を吟味する為に、ソクラテスは様々な考えを巡らせて質問や主張をします。
まずソクラテスは、『勇気』とは別の『大胆さ』というワードを出し、『勇気とはつまり、大胆さを持ち合わせた行動ということなのですか?』と質問をします。
これは、仮に、相手の脅威や恐ろしさなどを知らない人間が、つまり、相手に対する知識を持たない人間が、その大胆さ故に無謀にも挑んでいく行為は、勇気と呼べるのでしょうかという質問です。

つまり、蛮勇は勇気と呼べるのかという質問なのですが、これに対してプロタゴラスは、勇気には大胆さが含まれるが、知識が無い者が大胆な行動をとったとしても、それは勇気とは呼ばないと否定します。
相手がどれ程の脅威で、それに立ち向かうことが、どれほど困難かという事を一切知らずに、大胆さだけで勢いで突っ走って立ち向かう行為は、プロタゴラスの定義では、勇気とは呼べないということです。

漫画家の荒木飛呂彦さんの著書に、ジョジョの奇妙な冒険という作品があります。
この作品の第1部では、非力な人間という存在が、強大な力を持つ吸血鬼と戦うストーリーなのですが、この作品に登場するツェペリ男爵というキャラクターの口から、勇気とは何かが語られます。

非力なものが、強大なものに対して向かっていくという構図は、私達の身の回りでも結構ありますよね。
例えば、ノミという生き物がいます。 彼らは、自分よりも遥かに大きな人間や動物に対して向かっていき、取り付いて血を吸い取るといった感じで、強大な者に挑むような生き方をしているわけですが、彼れらには、勇気があるのでしょうか。
人間が手で叩いたり、取り付いた動物が寝返りをうつだけで、自分が死んでしまう可能性があるのに、その危険を顧みずに向かっていく彼れは、勇気の化身なのでしょうか。

漫画の中でツェペリ男爵は、ノミには勇気がないと断言します。何故なら、ノミは恐怖を感じず、それ故に、強大なものに対しても躊躇なく向かっていくことが出来ているだけだからです。
勇気とは、『怖さ』を知り、『恐怖』を自分のものにする事であって、知恵もなく、恐怖も感じない状態で、単純に強いものに向かっていく行為では断じて無いと主張します。
自分が良いと思う方向に向かって進み、その方向に強大な敵が立ちふさがるなら、その恐怖を乗り越えて、それでも突き進む行為が勇気であり、人間の素晴らしさとは、その勇気を備えている事だと主張します。

ソフィストが考える勇気

恐怖を感じる為には、相手の力量を知る必要があり、相手の力量と自分の力量を正確に見定めて比べ、相手の方が遥かに勝っていると分かっても、それでも立ち向かうのが、ツェペリ男爵の主張する勇気なのでしょう。
多くの方が、この、勇気の定義については納得されると思うのですが、プロタゴラスの主張は、ツェペリ男爵の主張とは少し違ったりします。
というのも、何故、アレテーが求められ、それを教えるソフィストが重宝されているのかを思い出して欲しいのですが… アレテーが求められたのは、優れた人間になって皆に認められて、社会的に成功するためですよね。

その為に必要なのは、死なない事。 つまり、生き残った上で実績を残して、卓越した人物である事を皆に知らしめて、出世する事が最終目標であって、求めているアレテーは、それを実現する手段に過ぎないんです。
敵が大人数で攻め込んできた時に、少人数で迎え撃たなければならない状態になった場合、恐怖を克服して相手に向かっていって討ち死にすれば、英雄的な死を迎えることが出来るかもしれませんが、それは極力避けるべきことなんです。
その様な状況に追い込まれたら、勇気ある撤退をすべきですし、そもそも、その様な状態に陥らないような戦略を練ることが重要だったりします。

成功体験というのは、生きている状態でしか味わうことが出来ない為に、基本的には、自分が生き残ることを優先的に考えて、その上で、自分が卓越した人物である事を他人に示す事がソフィストには求められたんでしょう。
この考えを前提として置くならば、眼の前の脅威と自分の力量を比べた際に、自分の力量の方が勝っている時にだけ、行動を起こす事になり、自分の力量が足りない時には、勇気ある撤退を行わなければならないことになります。
最優先すべきは生き残ることなので、当然といえば当然ですよね。 仮に不利な状況で討ち死にしてしまえば、無謀な戦いを挑んだとして、自分の力量も測れないヤツと思われてしまう可能性があるので、それは成功とは言えません。

ですが、このプロタゴラスの主張では、勇気とは知識に依存したものという事になってしまいます。 何故なら、行動を起こす起こさないの判断は、知識に委ねられるからです。
先程の主張では、知識や正義や節制などは似通った性質を持っているが、勇気だけは違うというものでしたが、その全く違う性質を持つ勇気は、知識に依存するものだというのは、シモニデスの詩の解釈ではないですが、矛盾があるようにも思えます。
また新たな問題として、勇気には知識が必須だという事は、知識があるが故に、その渦中に飛び込んだ際にどれだけの危険が潜んでいるのかという事が分かっていて、安全だと確信を持って突入していくケースは、勇気ある行動といえるのかという問題もあります。

勇気は打算の産物?

例えば、他人からみれば危険で無謀な事だけれども、その出来事に飛び込んでいって成功して帰ってくれば英雄と成るような事件が起こったとします。
誰もが行動を起こすのに躊躇している場面で、自分には、その出来事で全く危険な目に合わずに解決するだけの知恵があった場合、その出来事に飛び込むのに大胆さは必要がありません。
大胆さも心の葛藤も全く無く、ノーリスクで渦中に飛び込んで物事を解決して帰ってくるという行為は、勇気ある行為と呼ぶのでしょうか。

また、その対象に対する知識や知恵を身に着けている人間は、自分の身の安全を確保した状態で、ギリギリのラインを攻めるということも出来てしまいます。
この場合、より大胆な行動をとっている者の動機は、知識に先導されている事になる為、結果として、勇気の有る無しというのは、知識の有る無しとも言い変えることが可能となります。

別の表現をするなら、例えば、燃えている炭の上を歩くという儀式があります。 『火渡り』と呼ばれる儀式で、京都でも狸谷山火渡り祭(たぬきだにさんひわたりさい)というものがあるそうですが、ここに限らず、全国で神事として有ると思います。
この儀式は、燃え盛る炭の上を歩くわけですから、普通に考えれば、そんな事を行えば足の裏を火傷してしまって、大変なことになる為に、そんな事をしようとも思いません。
しかし、絶対に火傷をしないという事が分かったとすれば、神聖な儀式を経験してみるという好奇心から、やってみようと思う人も出てきます。

この様に、無知であるが故に、もしかすると、大火傷を負ってしまうかもしれない可能性を払拭できない内は、火傷をしたくないという思いから行動が出来ない人間でも、絶対に大丈夫だという知識を手に入れた途端、行動を起こせたりします。
この際の、行動を起こす起こさないという基準は、火傷をしないという知識を持っているのか持っていないのかに依存する為、仮に、火渡りをする事を勇気ある行為とするならば…
勇気ある行動を起こす基準というのは、知識の有る無しという事になります。 ですが、絶対に大丈夫だという事を知った状態で行う行為は、果たして、勇気ある行動なのでしょうか。

勇気とは知識のようなもの

まとめると、勇気というモノを分析した結果、知恵と大胆さを足し合わせた様な存在と分かってきたわけですが、この両者には主従関係のようなものが存在し、『知識』が『大胆さ』を服従させている関係ともいえます。
知識がある状態であれば、大胆さが発揮されるけれども、知識がない状態では大胆さは発揮されないという具合で、判断基準になるのは知識や知恵ということです。

勇気という存在を支配しているのは『知恵』や『知識』といった類のものなので、広い視野で観れば、知識と勇気は同じものとも考えられなくもありません。
様々な考察の結果、プロタゴラスは当初、アレテーを構成するものの中で知識・節度・正義・敬虔は似通った性質を持つが、勇気だけは違うと主張していましたが、勇気は似ていないどころか、知識と同じものかもしれないという可能性が出てきてしまいました。

この分析に対して、プロタゴラスは異論を唱えるわけですが、その話は次回にしていこうと思います。

【Podcast原稿】第62回【プロタゴラス】勇気は打算の産物なのか 前編

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今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
いつものように、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一部内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回の簡単な内容を振り返ると、ソクラテスが、現在ではソクラテスメソッドと呼ばれているルールを対話に持ち込み、渋々、了解をしたプロタゴラスが、テーマをシモニデスの詩の解釈にしようと言い出して、このテーマについて対話をしました。
前回の更新分では、ソクラテスに寄り添うような形での読み解き方をしたので、プロタゴラスの方が惨めな感じになってしまってましたが、実際の本では、もう少し中立的な書かれ方をしていたりもします。
その辺りを詳しく知りたい方は、岩波文庫などから出ている本を読む事をお勧めします。

簡単なまとめとしては、プロタゴラスが、自己矛盾をはらんでいる作品は劣っているという同意を、ソクラテスから取り付けた上で、シモニデスの書いた詩を持ち出して、この作品が優れているかどうかを聴くところから始まります。
ソクラテスは、優れていると回答するわけですが、その詩には前半部分で、『立派な人になる事こそは難しい』と書いていながら、後半部分で『立派な事である事は難しい。』と書かれており、前半と後半で矛盾した事が書かれています。
プロタゴラスは、この点についてソクラテスを攻めるのですが、ソクラテスがそれを乗り切るというのが前回の内容でした。

他人の作品の考察は議論にふさわしくない

一連の主張が終わったところで、ソクラテスは他人が書いた詩に対する解釈をやめようと言い出します。
というのも、ソクラテスプロタゴラスが、自分が考え出したそれぞれの主張をブツケ合って対話を行う場合、自分が疑問に思ったことは、その疑問を相手にぶつけることで解消することが出来るかもしれません。
仮に相手が、その答えを持っていなかったとしても、一緒に考えるという事が出来るでしょう。

しかし、他人が書いた詩を、外野が解釈合戦するという行為は、その真偽を確かめることが出来ません。
というのも、実際に詩を書いたシモニデスが同席していない為、外野であるソクラテスプロタゴラスの主張は、憶測の域を出ることが出来ないからです。
もし、シモニデスが同席している場合は、シモニデスに対して『どの様な気持ちを込めて書いたのですか?』と聞けば良いわけですが、本人が居ない状態ではそれも出来ない為、シモニデスの気持ちを確かめようがありません。

ソクラテス自身が本を書き残さなかったのも、この事が原因として大きかったからでしょう。
ソクラテス自身は、自分は無知だと公言しているわけですが、それでも、様々な賢者に話を聞いたり、自分自身で考えた理論はあるでしょうから、それを書き残せば、後世に対して何らかの貢献は出来るはずです。
しかし、仮に書き残したとしても、その本を読んだ人間が解釈を間違っては意味がありません。 読み手の解釈が正しいのか間違っているのかは、結局、書き手であるソクラテスとの対話によって確かめなければならない為、意味がない行為だと思ったのでしょう。

作品を読むという行為では作者の考えは分からない

これは現在の日本でも、国語のテストなどを取り上げて、よく言われている事なので、理解がしやすいと思います。
国語のテストなどでは、この時の作者の気持ちを答えなさいという質問に対して、結構なツッコミがされたりもしますし、仮に、その問に回答したとして、教師が答えが間違っているとしてバツを付けるのはどうなんだという主張もあります。
その教師が、作者と対話した結果、生徒の答えが間違えているとしているならまだしも、教師はそんな事をしているはずもないですよね。

作者の考えなんていうのは主観でしか無い為、他人が考えたところで絶対に分かるはずもありません。
これが、作者が亡くなられているような昔の小説などでは、実際に聞いて確かめるすべもない為に、その教師が正しいと思う答えが合っているかどうかも、実際のところはわかりません。
結局の所、作者の主観を教師が知ることも出来ない為、教師が定めた答えは、教師個人の主観か、予め学校側が用意した答えという事になり、実際の作者がどの様な思いを込めたのかは分かりません。

またソクラテスは、他人の作品の解釈を巡る対話そのものが、低レベルな対話だとも主張します。
例えば酒の席などで、遊びとして、映画や小説やアニメやゲームなどの作品の解釈や考察について語り合うのは、良い暇つぶしになるかもしれないですし、その遊びは否定すべき事ではありません。
でもそれが、学問や研究としての議論としてはどうなんだって事なんです。

何故なら、学問や研究の基本は、自分の頭で考えて、自分の言葉で話す事が基本となるからです。
今の学問でも、他人が書いた論文を参考文献として取り上げたり、物事を考えるきっかけやベースにする事はありますが、それらの材料を利用して最終的に行うことは、自分なりの理論を考えた上で発表するという事ですよね。
人が考えた論文を読んで、『この人間は、何故、この様な論文を書いたのだろうか。 論文の筆者が、この文章を書いた時の気持ちはなんだろう。』といった事を、書いた本人抜きの他人同士で議論する事は、本来の目的からは外れます。

ソフィストが、アレテーについて研究し、それを教えているというのであれば、他人のポエムの読み解き方などを話し合ってる場合ではなく、自分の言葉で対話をすべきなんじゃないのか。というのが、ソクラテスの主張です。
そして、彼はもう一度、『相手を打ち負かす為の議論』ではなく、共に協力して、真理に到達しようとプロタゴラスに呼びかけます。

アレテーについて(再)

こうして、議論は再び、アレテーについての考察に戻ります。 プロタゴラスが主張するアレテーとは、徳目と呼ばれるものの集合体のようなものです。
人の顔に、目や耳や鼻といった別々の器官が存在して、総合的に顔と呼ぶように、正義・節制・勇気・知恵といったそれぞれの徳目が集まったものの概念がアレテーだと主張します。
四角い豆腐のように、豆腐の上面・側面といった感じで、本質そのものは全く同じだけれども、観る観点の違いによって言い方を変えているといったものではなく、それぞれの徳目は別のものだという主張でした。

この主張に対して、ソクラテスが疑問を投げかけたところ、プロタゴラスがヘソを曲げてしまった為、シモニデスが書いた詩の解釈といった他の話題に移ったのが前回でした。
議論は再び、メインテーマであるアレテーを解明していくという方向に進んでいきます。
正義や節制や勇気といったアレテーを構成するモノたちは、全く別の属性を持つものなのか、それとも、似通った性質を持っているのかといった、議論の続きが行われます。

プロタゴラスは、知恵・節度・正義・敬虔・勇気の内、勇気を除く4つの性質はよく似ているけれども、勇気だけは違うと主張します。
何故なら、知恵も節度も、人を敬うことも無く、不正であるにも関わらず、勇気だけは持ち合わせている輩がいるように思えるからです。
(つづく)
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【Podcast原稿】第61回【プロタゴラス】立派な状態を維持する事は難しい 後編

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スパルタ人の対話術

ソクラテスによると、この事は、スパルタ人と対話する事でよく理解できるようです。
スパルタ人の中でも、特に優れたところのない平凡な人間を連れてきて議論をした場合、通常時のスパルタ人の返答は平凡なものが返ってくるだけですが、議論が重要な部分に差し掛かると、短く鋭い言葉でもって核心をついてくるそうです。
議論を長々と引き伸ばして、今現在、何の議論をしているのかもわからないようにして煙に巻く事もなく、短く、力強く、誰にでも分かるような言葉で核心をついてくる。

この様な返答ができるのは、本当の意味で立派な教育を受けた人間だけで、このスパルタ式の教育を受けた人間の中には、ミレトスのタレスやピッタコスがいる。
そして、そのピッタコスが生み出した言葉の中に『立派な人である事は困難だ』という言葉が有り、シモニデスは、この言葉を引用したのだと主張します。

ただ、この引用も、尊敬を込めての引用ではなく、この言葉を生み出したピッタコスへの挑戦の意味を込めて引用したのではないかと推測します。
詩の解釈とは直接関係のない話が続き、やっと、シモニデスの名前が出てきたわけですが、ソクラテスは、一番最初に主張した『困難』という言葉の解釈を『悪い』というものから通常で使う意味合いでの困難へと戻します。

一方的な話で主導権を握る弁論術

では、今までの長い話は何だったのかというと、プロタゴラスに対して、ソクラテスなりの反撃だったのかもしれません。
『困難だ』という言葉の意味を、特定の地域では『悪い』という意味合いで使うというところから、スパルタの戦略というスケールの大きな話に超展開をし、結局、今何を話しているのかが分からない状態に陥れることで、聞き手は、ただ聴くことしか出来ません。
利き手側としては、一見、テーマに何の関係もなさそうな事だったとしても、後々、関係が出てくるかもしれないわけですから、変に口を挟んで中断も出来ません。

現にソクラテスは、話の導入部分では、シモニデスの詩の解釈について話し始め、そこから徐々に話題を変えていってます。
言葉というのは、人間同士がコミュニケーションをとる為に生み出された道具なのですが、当然のことながら、地域が変われば意味合いも言葉そのものも変わってしまいます。 人によって意味が変わるという点では、相対主義的なものという見方も出来ます。
言葉には絶対的な意味がなく、その地域で意味が通じるなら、同じ単語であっても意味が変わる場合はあります。 ソクラテスはこれを利用して、現在議論している詩の意味そのものを変えてしまいます。

関係がありそうでなさそうな話をされると、聞き手は、ただ聴く事しか出来ないわけですが、その対話を傍から見ている人は、聞き手がまるで説得されたかのような錯覚に陥ってしまったりもします。
また、口を挟む場合、相手の話が超展開して良く分からない状態になってると、何に対して口を挟んでよいのかも分からない状態になります。
ソクラテスが、ソクラテスメソッドを持ちかける前に、私は記憶力が悪いので、長話されると議論の全体像が分からなくなると言って、ルールを持ちかけましたが、ソクラテスは正に、詭弁化が作り出すその様な状態を再現したのでしょう。

つまり、プロタゴラスソクラテスが使った手法を使ってソクラテスを追い詰めようとしたわけですが、ソクラテスの方は、ソフィスト達が発展させた詭弁を使って、話を煙に巻いてみせたとも読み解けます。
これは一種の、ソフィストたちに対する批判を込めた行動なのかもしれません。

脳あるたかは爪がミサイル

そして、シモニデスの詩の解釈の話は、いつの間にかスパルタの教育方針へと変わります。
一見すると関係のない話のように聞こえますが、話の内容を聞いていくと、プロタゴラスを始めとしたソフィスト達の行動への強烈な批判が含まれています。

その部分を要約すると、『スパルタ人の中で最も凡庸な人間と議論をしたとしても、アテナイ人のソフィスト達よりも優れている。 何故なら彼らは、長い言葉を使って議論を長引かせたり、相手の集中力を削いだり、議論を煙に巻くといった事をしないからです。
誰にでも分かるような言葉を使い、短く鋭い言葉で核心を突くという行為は、本当に賢い者にしか出来ない』
といっているわけで、これは逆説的に、小難しい長い言葉を並べて煙に巻き、自分の優位な状況を作り出そうと小細工するソフィストたちに対しての皮肉を言ったのでしょう。

立派な状態を維持する事は難しい

この後、ソクラテスは、『本当に立派な人間になる事こそ難しい。』という言葉の中の、『こそ』という言葉を取り上げ、重要なものだと言います。
というのも、先ほど名前を出したピッタコスが作った言葉の中には、この『こそ』という言葉は入っていなかったからです。
シモニデスが詩を通して伝えたい事は、『立派な人間になる事が難しい。』と単に主張しているわけではなく、『何の欠点もない完璧超人の様な立派な人間になる事、こそは、難しい。』と主張しているという解釈をします。

この2つの表現の仕方にどの様な違いがあるのかというと、立派な人間になる事、それ自体は、それほど難しくはないという事です。
前に、概念は単独で存在できるものではなく、対になるものと同時に生まれるという話をしたと思いますが、立派という概念は、それ単体では存在することが出来ず、必ず、その反対の概念が存在します。
仮に、立派という概念と対になる概念が悪いという概念であるなら、常に立派ではない人間というのは、常に悪い人間ともいえますが… 常に悪い状態で有り続ける事は可能なのでしょうか。

また、立派になるという表現があるという事は、悪くなるという表現も存在するということです。
元から悪い状態ものが、何らかの原因で悪くなるというのは、既に転んでいる人間が、何かにつまずいて更に転ぶ事が出来ないぐらい、不可能なことです。
転ぶというのは、立っている人間に可能な事で、転んだ人間が再び転ぼうと思うのであれば、一度、立ち上がる必要が出てきます。 同じ様に、悪い人間が悪い状態を維持しながら、悪くなる事は出来ません。

つまり人間は、悪い状態になり続ける事は出来ない為に、悪い状態と良い状態の間を揺れ動くような存在といえます。
善悪の間を揺れ動くということは、人は、例え短い間であれ、良い状態になる事が出来るという事で、単に良い状態に成るという現象自体は、珍しい事でも難しい事でもないという事なんです。

どんな凶悪な犯罪者であっても、生きている間中、誰かに迷惑をかけ続けて悪を体現し続けることは出来ないでしょう。何らかの拍子に、良い事をする事もあるでしょう。
全体として悪い人間でも、良いとされている行動をとっているその瞬間は良い人である為、どんな人間であれ、良い人間に成る瞬間はあるという事です。

ただ、悪い状態をキープし続けるのが無理なように、良い状態を生涯に渡ってキープし続けることは出来ません。
多くの人から善人と言われている人であっても、ある瞬間を切り取れば、悪人にも成るでしょう。
もし仮に、存在し続けている間、ずっと良いという状態をキープできるような存在があるとするなら、それは神と呼ばれるような概念的な存在だろうと主張します。

詩についての議論は、これで終わり、この後ソクラテスは、このテーマは議論に値しないと言うことをプロタゴラスに対して主張しますが、その理由などについては、次回に話していこうと思います。
(つづく)
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今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
いつものように、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一部内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回の内容を簡単に振り返ると、プロタゴラスの主張としては、アレテーは『正義』『節制』『敬虔』『知識』などの様々な徳目からなっていて、それらが組み合わさる事でアレテーになるという主張でしたが…
それに納得できないソクラテスが、慎重に分析をしていった結果、それぞれの徳目が宿った行為をしていたとしても、その行動そのものが良い行動ではない場合は、アレテーは宿らないという事が分かってしまいました。
例えば、善悪の分別がつく人間が、悪いと分かっていながら知恵を使って不正な行為を成功させた場合は、その行為に知恵などの徳目が利用されたとしても、尊敬に値しない行動だということです。

つまり、その行動が優れたものであり、他人からの称賛や尊敬を得られるかどうかは、その行動に徳目が複数入っているかどうかではなく、その行動が良い行動かどうかが一番重要だという事です。
では、『良い』とか善悪の善とは何なのか。 ソクラテスが、アレテーの専門家であるプロタゴラスに聞いてみた所、善悪は相対的なものであって、何が善で何が悪だと断定することは出来ない。
少量なら薬として使えるものでも、大量に飲めば毒になってしまうように、例え、同じものであったとしても、使い方や使う対象によって、善にも成れば悪にもなると言ったような事しか答えてくれません。

これはこれで、一つの答えなのでしょうが、絶対的な真理を求めるソクラテスの求める答えではなかったからか、ソクラテスは、明確な答えが引き出せるように、対話に対してルールを設けようと提案します。
それが、今現在、ソクラテスメソッドと呼ばれる問答法です。 ソクラテスは、このルールがのめないのであれば、討論を打ち切って解散しようと持ちかけます。
プロタゴラスは、一方的なルールを押し付けられては、勝てる議論も勝てなくなると拒否しますが、周りで対話を見ていた弟子たちが二人の討論をもっと見たいと懇願し、賢者とされているプロタゴラス側がルールをのみ、対話が再開されるというのが前回でした。

この後、両者は、ルールを定めた上で、別のテーマについて話していくことになります。
先程は、ソクラテスが一方的に対話のルールを決めたという事で、テーマの方はプロタゴラスが選び、そのテーマについて話していきます。
そのテーマとは、当時の古代ギリシャで有名だった、シモニデスの詩。 ポエムの解釈についてです。

良い人になる事と良い人である事

プロタゴラスはシモニデスの詩を一つ取り上げ、その詩に対してソクラテスが良い評価をしている事を聞き出した上で、『同じ作品内で矛盾していることを主張している作品は、良い作品とは言えないのではないか?』と尋ねます。
何故、自己矛盾を抱える作品が駄目かというと、いわゆるダブルスタンダードというやつで、その時々の自分の状態によって意見をコロコロ変えるのは、一貫性が無く信用出来ない態度だからです。

当然、ソクラテスはこの意見に同意しますが、その直後に、プロタゴラスは詩の中の矛盾点を指摘しだします。
先程、対話と論争は違うという話をしたばかりなのに、この様な揚げ足取りを行うというのは、プロタゴラスは、定めたルールの中で勝利することに夢中になっているのかもしれません。
今まで、プロタゴラスソクラテスにさんざん言われ放題で、弟子の前で恥をかかされた形になっていたので、ソクラテス自身も、1つの作品内で矛盾を抱えるような欠陥品を良い作品だと言ってしまうような人間だという事を証明したかったのでしょう。

ここで、詩の全文を紹介できれば良いのですが、資料が破損しているようで、その全文はわからないとされている為、ここでは、矛盾点のみを取り出して見ていくことにします。
プロタゴラスが指摘したのは、詩の前半部分で『本当に立派な人になる事こそ、困難だ。』と書かれているのですが、後半部分では『立派な人である事は困難だ』と主張している点です。
後半部分では、『立派な人である事は困難だ。』と書いていますが、立派な人である為には、立派な人になる必要が出てきます。 しかし、前半部分で『立派な人になる事こそ、困難だ。』と書かれています。

似たような文章で紛らわしいので、ゆっくり説明していきますと、前半部分で語られているように、本当に難しく困難な事は、立派な人になる事であるのなら、困難を乗り越えて立派な人になれる人は、極少数ということになりますよね。
しかし、後半部分では立派な人である事は困難だと主張されています。 この後半部分の文章は、立派な人になるのは容易いけれども、それを維持する事は難しいと読み取れてしまいます。
プロタゴラスの指摘とは、前半部分では立派な人になる事は困難だとしておきながら、後半部分では立派な人になることは容易いが、それを維持する事は難しいと読み取れる為、矛盾しているということです。

つまり、1つの詩の中で、立派な人になるという事に対する難易度が、前半部分と後半部分で変わっている為に、矛盾を抱えているのではないか? という指摘です。

駄目なものを褒め称える人間はダメ人間

プロタゴラスが、何故、この矛盾にこだわるのかというと、題材としてこの詩を取り上げる前に、ソクラテスと確認しあった同意が関係してきます。
プロタゴラスソクラテスに対して、自己矛盾を抱える様な作品は、優れていないのではないか?と同意を求めて、ソクラテスはその意見に同意をしています。
その後で、彼はシモニデスの詩を題材として取り上げて、『この詩は素晴らしいと思いますか?』と質問をし、それに対してソクラテスは、『この詩は、一時期、研究をしたのでよく知っている。』といった上で、見事な作品だと褒めています。

つまり、プロタゴラスに言わせるなら、ソクラテスは、自己矛盾を抱えている作品は駄目だと言っておきながら、自己矛盾を抱えるシモニデスの詩を褒め称えている様な人間だという事になるわけです。
この辺りのやり取りを見ても、プロタゴラスの執念が読み取れます。
優れていないとされる作品を褒めた事が証明されても、それは、その作品に対しての見る目がなかっただけなのですが…

プロタゴラスはここから考えを飛躍させて、自己矛盾を抱えるものを褒め称えるような人間が賢いはずがないと、ソクラテスを攻撃しているわけです。
この攻撃を確かなものにする為に、プロタゴラスソクラテスと同じように、まず、『自己矛盾を孕む作品は劣っている』という前提条件の同意を確認した上で、シモニデスの詩をテーマに掲げて、優劣を尋ねるという手順で質問をしています。
先程から自分がされていた事と同じ事をやり返す事で、相手が無知である事を印象付けようとしたんでしょう。

ですが、この討論の最初を思い出して欲しいのですが、ソクラテスは最初から自分を無知だと認めていますし賢者だとも主張していません。
ここで改めてソクラテスを無知だと主張しても、プロタゴラスがアレテーを知っている事を証明する事にはなりません。
にも関わらず、この様な事を行ったのは、プロタゴラスが保身に走ったからかもしれません。

相手を、信用できない愚か者だとしてしまえば、仮に、プロタゴラスが正しいことを主張していたとしても、愚か者にはその事が理解出来ないとすることも出来ます。
愚か者は、理解出来ないが為に、見当違いの質問を投げ続け、その説得に賢者が疲れ果ててしまったということにすれば、弟子に対しても格好が付くことになります。

ソクラテスの詭弁

しかし、攻撃されて、そこで終わってしまうようなソクラテスではありません。 指摘を受けた彼は、ここから反撃にでます。
プロタゴラスの弟子の中から、シモニデスと同じ地方の出身者の人を指名して、『困難な』という言葉の意味について問いただし、シモニデスの出身地では『困難な』という言葉を『悪い』という意味で使うという事を聞き出します。
そして、この解釈を詩に当てはめると、『本当に良い人になる事こそは悪い事だという意味になる。』というような事を言い出します。

では、良い人になることが何故、悪い事につながるのでしょうか。
それは、絶対的な善は神だけに許される事だからで、人がそれに成り代わるというのは、良い事とは言えないからだという解釈を展開します。
これを聞いたプロタゴラスは、流石に超展開し過ぎじゃないか?と言いますが、実際問題として、一部の方言として『困難な』という単語は『悪い』という意味で使われている為に、意味合いとして絶対に間違っているわけでもありません。

スパルタという国

その後、ソクラテスは、話をスパルタという国の捉え方に移してしまいます。  ソクラテス達が暮らすアテナイは、議論する事が重要視され、議論を有利に進める為の知識や弁論術が重宝されました。
その一方でスパルタは、市民として生まれた子供は、全て職業軍人となる事が強制された為に、体の強靭さなどが重要視され、知識は軽視されてきたと言われてきました。

つまり、アテナイ人はガリ勉タイプで、スパルタ人は体育会系というレッテルが貼られ、それが常識とされてきたわけです。
因みにですが、スパルタ人として生まれたけれども、身体に障害などがあった場合は、その子供は健全とはみなされず、崖から突き落とされて殺される事になってしまいます。

スパルタは市民を全員、職業軍人にする事で武力を増強し、周辺国を圧倒する力を手に入れたと思われてきたけれども、実際にはそれは間違いで、スパルタは知識の重要性を十分に理解し、実際には武力ではなく、知識によって他国を圧倒していたと主張します。
体だけが自慢の人達を、よく、脳まで筋肉を略して脳筋や、体力バカなんて表現したりもしますが、では何故、スパルタは脳筋を装うような事をしたのでしょうか。
それは、他国を圧倒する力が武力ではなく知力だとバレてしまうと、他の国が真似をして知力を高める努力をしてしまうからです。

皆が知識を身に着けて賢くなってしまうと、他国を知識で圧倒するのが容易ではなくなってしまいます。
新たなライバルを産まない為にも、体しか取り柄がない事を目立たせて強調し、その影では、他国を圧倒できる程の知識を身に着けていることを隠したんです。
(つづく)
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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第60回 『プロタゴラス』詭弁に対抗する為の対話術 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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目次

善い行為とは何なのか

先程の考察により、アレテーというものは、それを構成しているものを宿しているだけではアレテーではない事が分かり、それと同時に、『善』を宿していなければならない事が分かりました。
では、『善い』とは何なのでしょうか。

ソクラテスは、『善い』の定義をはっきりさせる為に、『善いとは、人間にとって有益なものだけを、善いというのですか?』と訪ねます。
これに対してプロタゴラスは、同意しつつも、『それだけではなく、人間にとって有益とは言えないものも、善い場合もある。』と付け加えます。
プロタゴラスソクラテスに、散々、揚げ足を取られ続けている為、『善い』がカバーする範囲を広げて防衛戦をはったのでしょう。

ソクラテスは、いつもの調子で『では、全人類にとって有益とはいえない、有害となるものの中にも、善いものはあると主張するのですね?』と確認します。
プロタゴラスは苛立ち始め、少し興奮した様子で『善い』の定義について話し出します。

例えば、人間が食べることで健康になるような植物は、人間にとって善い存在と言えるだろうけれども。 だからといって、人間が食べられるものだけが善い存在だとは言い切れません。
人間にとっては害になったとしても、例えば馬にとっては善い植物かもしれないし、他の動物が食べると毒になるようなユーカリのような植物でも、コアラにとっては善い植物といえるでしょう。
どの動物も食べることが出来ないような植物でも、食べられる事以外で、環境にとって利益の有る事を行っているかもしれません。

一見すると無駄なものだと思われる、動物が食事をした後に残す糞尿も、人間にとっては臭いだけで役に立たないかもしれないけれども、植物の根にとっては善いものとなる場合もあるでしょう。
植物の根にとって善いものであったとしても、それが同じ植物の枝につくと、枝を痛めてしまうようなものもあります。。
この場合は、同じ動物の排泄物が、同じ植物に関わっているのに、関わる部位によって良い結果をもたらすのか悪い結果をもたらすのかが分かれます。

他の例では、例えばオリーブオイルは、人間の体にとっては有益なものだけれども、その他の植物にとっては有害で、植物に対して水の変わりにオリーブオイルを与えたりすると枯れてしまったりするそうです。
また人にとっても、体に塗るといった使用方法では有益だけれども、これを湯水のように飲んでしまうと害が出てしまう。
摂取する場合は少量に抑えなければならず、大量に取ると害になってしまう。  つまり、同じものであっても摂取する量によって、有害にも有益にもなるので、一概に善いとは言えません。

ソクラテスメソッド

この返答は、相対主義者であるプロタゴラスらしい切り返しで、尚且、説得力の有る主張ですが、この主張を前にソクラテスは、対話のルールを決めましょうと提案してきます。
それが、後にソクラテスメソッドやソクラテス式問答法と呼ばれる対話方法です。

テーマを明確にして、出来るだけ主張を短く、且つ、分かりやすくし、主張を聞いた側は、納得できなければその部分について短く簡潔に質問をし、その回答に納得ができなければ、納得出来るまで何度も質問を繰り返す。
相手が答えを持ち合わせていないなどの理由で、答えが聞けない場合には、自身が短くわかり易い言葉で取り扱っているテーマについて主張をしようというルールです。

この提案は、言ってしまえば、先程のプロタゴラスの『善の定義について』の話は長すぎるので、もっと短く話してくれという要望です。
これに対してプロタゴラスは反対します。 その様なルールを一方的に押し付けられれば、勝てる議論も勝てなくなってしまからです。

この反論からも分かる通り、プロタゴラスソクラテスとの対話を言葉による勝負だと捉えていて、その勝ち負けにしか興味が無いことが分かります。
ですが、この議論の最初を振り返ってみると、そもそも勝負ではなく、ソクラテスは『ソフィストとは何を教えているのかがわからないから、教えてもらう。』というスタンスでした。
つまり、この討論は最初から勝負をつける論争ではなく、プロタゴラスソクラテスが分からないことを教えるレクチャーだったわけです。
しかし、ソクラテスの鋭い質問に窮地に立たされるプロタゴラスは、ソクラテスが賢者である自分を打ち負かしに来ているのではないかと思い込み、いつの間にか勝負をしている気になっていたわけです。

この主張に対してソクラテスは、あくまでも下手に出て、自分が無知であり、物事がわからないからこそ、それを知っている人物に教えを頼んでいるだけだということを改めて伝えます。
その上で、自分は記憶力が弱く、一方的な長い主張を聞いていると、自分が今、何を相手に聞いているのか、論点を見失ってしまうことを伝えます。
ソクラテスは、私自身が、私の能力が劣っている事を認めている一方で、貴方の方は自分が優れた人だと主張して、人から授業料を受け取って物を教えるという職業の人ではないですか。
それなら、能力の高い貴方の方が、私に合わせてくれてもよいのではないですか? といって、プロタゴラスにお願いします。

例えるなら、全くの初心者がギター教師にギターの演奏方法を習いに行った際に、講師の人が、『上手くなる為には、演奏が上手い人間とセッションするのが一番なんだよ!』と言い出し…
イングヴェイの曲をライトハンド奏法で弾きだして、『さぁ! いつでも入ってきて!』と言い出したとしたらどうでしょう。コードの抑え方もわからないような初心者が、そんな授業について行けるはずがありません。
その一方で、それ程の技術を備えている講師の方は、初心者の方に合わせる形で、どの指を使ってコードを押さえれば良いのかといったレベルまで授業内容を引き下げることが出来ます。

つまり、能力が高い人間は低い人間に合わせる事が出来ますが、能力の低い人間は高い人間に合わせることが出来ないという事です。
ソクラテスは、自らが無知で能力が低いことを認めた上で、プロタゴラスに対し、『貴方のほうが優れているのだから、劣っている私の方に合わせてください。 私には、あなたのレベルに合わせる能力がないのですから。』と堂々と言い放ちます。
それが出来ないのであれば、そして、討論の勝敗にこだわる喧嘩腰の討論を続けるというのであれば、この対話は打ち切って終わりにしましょうと提案します。

これを聞いたプロタゴラスの弟子たちは、2人の対話をもっと聞きたいという思いから、プロタゴラスに対し『優秀な貴方の方が、ソクラテスに合わせるべきでは?』と提案し、プロタゴラスは渋々受け入れることになります。

詭弁を防ぐ対話術

私がこの部分を最初に読んだときは、ソクラテス自身も詭弁を使って議論に勝とうとしているのではないかと思い、少し嫌な気分になりました。
この対話編に登場しているプロタゴラス自身も、私と同じ様な誤解をし、怒りを顕にする場面などが登場するので、プラトン自身が、その様に誤解させるような書き方をあえてしているのでしょう。
その為、ソクラテスが真理を得る為に対話相手に行う質問と、ソフィスト達が議論に勝つ為に使う詭弁が、判断がつかない紛らわしい感じで使われています。

しかし、ソクラテスが登場する対話編を複数読み込んでいくと、それは誤解だった事に気付かされます。
ソクラテスは最初から、自分が無知であることを認めた上で、自分が分からないことや納得が出来ない点について質問をしているだけだと主張しています。
わからない事について、詳しい人に教えてもらおうと授業をお願いしたとしても、相手の主張が本当に正しいかどうかは分かりません。

その為、理解できない点や納得できない点について質問をするのですが、その質問を受けた教師側は、『侮辱された』『喧嘩を売られている』と勘違いし、気分を害してしまいます。
これは現在でも同じで、仮に、学校の教師に対して教師が答えられないような事、又は、教師自身が理解していると思いこんでいたけれども、実際には理解していなかった事が暴露されてしまうような質問をした場合、大抵の教師は気分を害するでしょう。
質問が相手の専門分野であれば有るほど、相手はムキになって『オレの言ってることを信じろ。』と連呼する事しかできなくなってしまいます。

結果として生徒は萎縮してしまい、学問に対する興味を失い、真理を追求することもなく、上の者が主張した事を盲信させられます。
相手の主張が信用できない状態で、信用することを強要されるというのは、言い換えれば、信じてもいない新興宗教に無理やり入信させられて、そこで崇められている神や教義を信じ込まされるのと同じことです。

ソクラテスにとってこの様な権威主義は、一番避けたいものであり、最も忌み嫌う行為です。
知らないことを知った気になっているかもしれないだけの人間の主張する事を、正しい事だと思い込んで信じる行為は、真理に近づく行為ではなく、その道を断ってしまう行為だからです。
ソクラテスが望んでいることは真理への到達。アレテーを知る事なので、擬物の真理で満足できるはずがありません。

当然のように、ソクラテスは議論に勝ちたいわけでもありません。
彼が望んでいることは、自分が正しいと思いこんでいるけれども、実際には間違っているかもしれない事柄については、指摘してもらうことです。
指摘をされる事で、自分が歩んできた道が間違っていたことが判明しますし、別の正しい道を探せるきっかけにもなるからです。

彼にとって対話相手は、打ち負かすべき敵では無く、共に真実へと近づく為の味方だからです。
議論はこの後、ソクラテスが提案した方式によって進んでいくわけですが、ソクラテスメソッドを持ち出す前に話していた善悪の基準という話は、一旦置いて置くことになり、議論は別のテーマに移ります。
次回は、そのテーマについて話していこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第60回 『プロタゴラス』詭弁に対抗する為の対話術 前編

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目次

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
一応、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一分内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回の議論の中心となったのは、アレテーとは何なのかという、核心に迫ったテーマでした。
議論を進めていく中で、プロタゴラスが考えるアレテーとは、『正義』『節制』『敬虔』『勇気』『知恵や知識』と言ったパーツが組み合わさったものだということが分かりました。
これらの事を徳目と呼びますが、この徳目は、それぞれがアレテーなのではなく、人の顔についている目や耳や口のように、それぞれ別の役割を持ちながら、アレテーの一部を担っている存在ということでした。

プロタゴラスの説明に納得がいかないソクラテスは、その答えを聞き出した後も、根本的な質問を続け、それに嫌気が差したプロタゴラスが投げやりな回答をするというところまで話しました。

反対の性質を持つものは一つしか無い

その後、ヘソを曲げてしまったプロタゴラスに気を使って、ソクラテスが別のテーマを用意し議論は少し横道にそれていきます。
彼は、まず、本格的な議論を始める前に、いくつかの点について同意できるかどうかを、プロタゴラスに対して訪ねます。
まず最初に尋ねるのが、『反対の性質を持つものは1つしか無い』という点について、同意できるかどうかです。

概念というものは、単独で存在しているわけではなく、常に相反する反対の性質を持つものと同時に存在しています。
例えば、表という概念は裏という概念がなければ存在できませんし、明るいという概念は暗いという概念抜きには存在することは出来ません。
美しいという概念は、醜いという概念があって初めて存在できる概念で、仮に、この世から醜いという概念がなくなって美しいものしか無い世界になれば、美しいことが当然で普通になってしまい、美しいという概念は無くなってしまいます。

この様に、価値観や概念といったものが存在する為には、相反する概念とセットでなければならないわけですが、この『反対の性質を持つもの』というのは、表に対して裏というように、1つしか無いとされています。
ソクラテスはこの主張を行い、プロタゴラスも、この意見には同意します。

そして、この考え方を、アレテーにも当てはめて考えてみることにします。

分別の反対の言葉

まず、分別しない、無分別という存在について考えます。 この無分別の正反対の言葉は、知恵がある状態の事ではないかとソクラテスプロタゴラスに訪ねたところ、『そうだ』と同意をします。
ですが、『無分別』とは、分別を行わ『無い』と書くため、無分別の正反対の言葉は、分別とも考えられます。
先程の理論に当てはめると、正反対の概念は1つしか無いとのことでしたが、無分別の反対の意味として、知恵と分別という2つの候補が上がってしまいました。

これは、無分別の対義語としてどちらかが間違っているか、それとも、分別と知恵が全く同じ概念となるかの何方かという事を意味します。
無分別は分別が無いと書くために、一見するとこちらが反対の意味のようにも思えます。 しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。
概念は、相反する2つの状態を同時に宿すことは出来ないと考えます。 つまり、美しく有りながら醜いとか、裏でありながら表という状態は無いということです。

まず、この事を頭に残しておいた状態で、話を次に進めます。
次に考える事は、不正を行うような人物についてです。

分別ができる人間は不正を行わないのか

分別とは、事の善悪や損得を考える能力のことなので、分別がない人間というのは、何が悪い事なのかが分からずに、欲望に任せて不正を行うと言ったことをしてしまいがちです。
その人物が悪人ということではなく、これから始める行為が、良いことなのか悪いことなのか。 その知識がない為に、悪いことをしているという自覚なしに、犯罪などをしてしまうケースは有りがちです。

しかし、不正行為は無分別の人間だけが無意識に行ってしまうようなものなのでしょうか。
分別が有り、何が良いのか悪いのかを熟知していて、それでも尚、自分の欲望を満たす為に、悪いと知りながら不正に手を染める人間というのは存在しないのでしょうか。

現実の世界を見てみれば分かりますが、そんな人間は腐る程いますよね。
脱税するのが悪いと分かっていながら行うものや、脅しや詐欺が悪いと分かっていながら、お金欲しさに実行する者は、日々のニュースを観るに珍しい存在ではありません。

概念は単独では存在できない

では、これまでの事をまとめてみると、どうなるのでしょうか。
概念は単独で存在する事は無く、存在する場合は正反対の性質を持つものと対になって生まれます。

反対の性質を持つものは1つしか無く、正反対の性質は同時に宿ることはありません。 水という液体が、熱くありながら、同時に冷たいということはありえませんよね。
この前提を思い出してもらった上で、先程の分別の対義語の話を思い出してもらいたいのですが… 分別の対義語を考えてみると、『知恵の無いもの』と『無分別』の2つの対義語が候補に上がってしまいました。 
『反対の性質を持つものは1つしか無い』という先程の前提を満たそうと思うのであれば、『知恵が無い状態』と『無分別』は同じ1つのものと考えるか、対義語として何方かが間違っていることになります。

次に、不正を行う人間について考えるわけですが、不正を行う人間は分別がない人間と言われているので、ここでは、『不正を行うもの = 無分別』とします。
先程、『分別』と『知恵』は同一のものかもしれないという可能性が上がったので、ここでは一旦、『不正を行うもの = 知恵のないもの』も成り立つものとします。

『概念の前提条件』としては、他に、正反対の性質は同時に宿ることが無いとのことでした。

では、『不正を行う』という行為と、知恵や分別が有るという状態は、同時には成り立たないのかを考えてみます。
不正を行う行為は、『無分別』や『知恵の無い状態』と等しいという事を先ほど定義したので、この定義によると、不正を行うような人物は『知恵』も『分別』も持っていては駄目だということになります。
しかし実際には、分別がある状態で、悪い事と知りつつ、知恵を働かせて不正を働く人間というものが存在します。 悪いと知りつつ、自分の利益の為に知恵を働かせて脱税行為をするのが、これにあたりますよね。

この状態は、不正を行うような分別も知恵もない人間が、分別と知恵を働かせて不正を行って利益を得た事になるわけで… かなり矛盾した事になります。
また、分別と知恵を働かせて不正を行う人間は、アレテーの一部である『分別』と『知恵』を持っていることになるので、この不正を働いた人物は、アレテーを持つ人間という事にもなってしまいます。

ですが、当然のことながら、分別をわきまえて知恵を働かせて、自分の利益の為に不正を働くような人間は他人から尊敬ませんし、他の人間と比べて卓越した人間でもありません。
アレテーを構成する『知恵』や『分別』を宿した行動を行ったのにも関わらず、何故、不正を働いた人間は尊敬されず、何なら見下されることになるのかというと、不正を働く行為は『善い行い』ではないからです。
つまり、自分自身の欲望を満たすためだけの、正義が宿らない行為をした為に、共同体の皆から軽蔑される事になるわけです。
(つづく)
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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第59回 『プロタゴラス』優れているとは どういう事なのだろうか 後編

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徳とは性質の違う徳目で構成されるものなのか

これまでの話をまとめると、アレテーというのは、正義・節制… といった、複数の徳目によって構成されていて、その徳目は、同じ性質を持つものではなく、全く違った性質を持つものだということになりました。
この顔の例を使った説明の場合で考えると、何らかの事故で目や耳を無くしてしまった人が居たとしても、耳がないからという理由で、その人物には顔がないとは言いません。

顔を構成する部品が欠けた人がいたとしても、その人の頭の前面には、顔が概念として存在することになります。
以上の説明で、プロタゴラスソクラテスの質問に、上手く回答できたような気もします。
しかし、果たしてこれは、本当に正しいのでしょうか。

それぞれの徳目は全く違った存在なのか

例えば、正義という言葉は正しいという言葉が入っている為、意味合いとしては正しい行動という性質を持っています。 では、他の徳目は、正しいという性質を備えていないのでしょうか。
節制は正しくないことなのでしょうか。 勇気ある行動とは、正しい行動とは言えないのでしょうか。
一般的な感覚としては、勇気は正義が伴っていなければ成立はしない様に思えますが、勇気と正義は、何の関わりもない状態で単独で存在しているようなものなのでしょうか。

例えば、『自分の利益や欲望を満たす為に、勇気を振り絞って弱者から搾取するという』という言い回しには、何か違和感を感じてしまうのではないでしょうか。
同じ様に、『知識を総動員して知恵を絞って計画を立てて、勇気を振り絞って強盗殺人を実行した。』人が居た場合に、その人は、他の人間よりも卓越しているとして尊敬されるのでしょうか。

この様に、悪いことに知恵が使われれば悪知恵となり、他人を貶める悪い行動となってしまいます。 知恵は正しいことに使われなければ、アレテーとは言えないでしょう。
アレテーとは、日本語訳をする時に、徳という言葉を使う場合が多いと、前に説明しましたが、例えば、法律の勉強をして弁護士資格を取って、法の範囲内で正義に反する事をする弁護士がいた場合、彼らの事を悪徳弁護士なんて言ったりもします。
法治国家で、法に則って行動するというのは推奨される行為ですが、法を犯さなければ何をしても良いというわけではありません。

法の抜け道を探して、法に抵触をしない形で、正義に反して自分の欲望を満たそうとする行動は、徳の真逆の行為として、悪徳と呼ばれて批判されます。

それぞれの徳目には関連性が有る

つまり、これらの徳目というものは、それぞれ単独で存在しているものではなく、相互に関係し合って切り離せないような関係にあるとも考えられます。
これは、正しさだけに限定されるものでは無く、それぞれの徳目の中には、相互に他の徳目が内包されている状態で、全く違ったものではなく、限りなく近いものだということが分かります。
正しい行為の中には、美しさも含まれていますし、正しい道を進む為には勇気も必要だったりします。そして、勇気ある行動もまた、美しい行動だとも言えます。

これは、先程のプロタゴラスの主張とは異なりますよね。
というもの彼は、それぞれの徳目は違った性質を持つものだと主張していたからです。

ソクラテスが、アレテーにおける徳目とは、1つ六面体のそれぞれの側面のように、基本的には同じだけれども、観点が変わる事で見え方が変わるのかと聞いた時に、それを否定し、プロタゴラスは顔のようなものだと答えました。
それぞれの徳目は、目や口や耳といった、全く別の働きを持つ器官で構成されていると主張していたのですが、先程の考察によると、それぞれの徳目は他の徳目の特徴を内包している、かなり似通ったものだという事になってしまいます。
他の徳目の特徴を内包しているとは、正しさの中には美しさが宿っているし、勇気の中には正しさが宿っていると言った具合に、単独で存在しているわけではないということです。

この主張を聞いたプロタゴラスは、『正義と敬虔には似ている部分や共通する部分があるけれども、だからといって同じというわけではない。 でも、ソクラテスがそう思いたいんであれば、それで良いよ。』と諦めムードに入ります。
しかし、ソクラテスは妥協を許さない男なので、そんな忖度は許しません。 ソクラテスの主張に対して納得がいかない部分があるなら、納得はせずに十分に吟味をして欲しいと要求します。

全く違った者同士にも共通点は有る

これに対してプロタゴラスは、『全く違うもの』とされているものであっても、共通点を探そうと思えば探せることを指摘します。
例えば、黒と白は正反対の色のように思えますが、色という点では共通していますし、互いに色という枠組みの中に入っています。 黒が色だからといって、その真逆に位置する正反対の白は色ではないとは言えないわけです。
硬いものと柔らかいものは正反対ですが、別の観点からみると、互いに触った際に感触が有るものという点では共通しているともいえます。

先程の顔と、それを構成するパーツの例でいうならば、全てのパーツの原料はタンパク質ですし、目と耳と鼻と口は、脳に情報を伝えるという部分において共通した機能を持っています。
それぞれが取り扱う情報は違っていて、目は光、耳は音、鼻は匂い、口は味といった違いがありますが、脳に情報を伝えるという点においては、同じ機能を持っているといえます。
これと同じ様に、正義と敬虔は、全く違うものでは有るけれども、その中に共通点が全く無いかと言われれば、そんな事は無いと答えるしかないだろうと、プロタゴラスは主張します。

これを聞いたソクラテスは、『正義と敬虔には、その程度の差しかないのですか?』と驚いた様子で質問仕返すも、プロタゴラスソクラテスを説得する気が削がれている状態なので、この議論を辞めてテーマを移すことにします。

この部分のパートは、ソクラテスが議論に勝つ為に詭弁を使って相手を陥れているようにも捉えられますが、実際にはそういう事ではないのだと思います。
プロタゴラスが、議論にやる気を無くし、『君がそう思いたいんであれば、そうなんじゃない? 君の頭の中ではね。』といった投げやりな態度をとった際にも、自分の発言で疑問に思う点が有るなら指摘して欲しいと懇願しています。
ソクラテスが議論において目指している事は、議論に置いて相手を打ち負かすことではなく、真実に到達する事です。

この目的を果たす為に必要なのは、自分が正しいと思い込んでいる考えを、それ以上の正しい指摘によって打ち砕いてもらうというのを延々と繰り返していくしかありません。
ソクラテスは、プロタゴラスの主張に対して疑問に思った点について質問をぶつけたので、プロタゴラスに対しても同じ様に、自分の主張に間違った点があれば指摘して欲しいと主張しているわけです。

ですが、プロタゴラス側に立って、この対話を見てみると、『無知だから、私に教えてください。』と言ってきた相手に教えだした所、相手はこちらの話を疑って、頑なに信用せずに反論ばかりしているようにも思えてきます。
教えを請いに来た相手が、こちらの話すことを全く信じないと分かれば、それ以上、話す気が無くなってしまうのも、分かる気がしますよね。

ソクラテスは、プロタゴラスがやる気を無くしているのを感じ取り、別のテーマに移行するのですが、その話は次回にしていきます。
(次回)
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今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
一応、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一分内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回までの振り返り

前回までの内容としては、アレテーとは教えれるものかどうかというのが、プロタゴラスソクラテスの対話の争点となっていました。
ソクラテスの主張としては、アレテーとは教えられるようなものでは無いのではないかといったものでした。
その理由として、優秀で卓越した人間の、その本質であるアレテーという存在が、教えることが出来る様なものであれば、まず、自分の分身ともいえる我が子に対して、教えるだろうと思ったからです。

優秀な人間の子供が全て優秀なのであれば、アレテーが教えられるというのも分かるけれども、必ずしもそうとは言えないし、逆に、劣った人間の子供が必ずしも劣っているのかといえば、そうとも言い切れない。
劣った親を持っていたとしても、優秀な子供は存在するわけですが、ではその子供は、何処からアレテーを得たのかという素朴な疑問です。

これに対してプロタゴラスは、全ての人間がアレテーの核のような物を持ってはいるけれども、それを発展させて大きな者に育て上げる為には、持って生まれた才能が必要だと主張します。
人には得手不得手があり、走り方を教えたとしても、全ての人間が同じ様に早く走れるわけではありませんし、同じ様に数学を教えたとしても、飲み込みの早い人間と脱落する人間が出てきます。
才能のある人間は、僅かなヒントでも、それを糧にしてアレテーを育てることが出来ますが、才能のない人間は、才能を持つ者よりも多くの努力と時間が必要だと主張します。

才能のない人間は、多くの努力と時間が必要だということは、言い換えるならば、時間をかけて努力をすれば、誰でも、それなりのアレテーを宿すことが出来るとも考えられます。
ただ、向かうべき目的も方法も分からず闇雲に努力をしたとしても、アレテーを身につけられわけではなく、才能のない人間がアレテーを身につける為には、目的地へ誘導するための優秀なコーチが必要となる。
つまり、優秀な教師がアレテーを教えれば、誰でも、それなりのアレテーを宿すことが出来るというのが、プロタゴラスの主張でした。

アレテーとは何なのか

プロタゴラスの主張によると、アレテーとは教えられるものという事らしいですが、では、そのアレテーの本質とは何なのでしょうか。 プロタゴラスは、何を教えるのでしょうか。
彼に言わせれば、それは『正義』と『節制』と『敬虔』、敬虔とは尊敬の敬という字に『つつしむ』という漢字を書くもので、意味合いとしては、深く敬ってつつしむ態度の事ですが、この3つからなるものだそうです。
人間が持つアレテーとは、人間が共同生活を円滑に送るためにゼウスが人間に授けたもので、円滑な共同生活を達成するのに必要不可欠なのが、この3つというわけです。

確かに、正義がなければ、悪がのさばるわけですから、秩序が保てません。
また、皆が、欲しいだけ欲しいと欲望を丸出しにして行動に移せば、これもまた社会は保てませんから、慎みも必要になるでしょう。
同じ様に、皆が、この共同体の中では自分が一番だと思って行動すれば、色々な軋轢が生まれるでしょうから、他人を敬うという態度も、安定した社会を保つ為には必要となってくる為、この3つは必須と言えるかもしれません。

心に正義を宿しているけれども、傲慢ではなく、慎み深く、他人を敬う心を持つような人が起こす行動は、人からの信用を勝ち取れるでしょうし、信頼もされるでしょう。
その様な人物が自分の思いを主張すれば、その言葉には説得力が有るでしょうし、多くの人が耳を傾けるようになるかもしれません。
もし、これらをプロタゴラスの元で効率よく学ぶことが出来るとすれば、その人物は卓越した人間になれる可能性もあります。

アレテーは複数のものなのか単体のものなのか

ですが、ここで次の新たな問題が出てきます。 それは、アレテーとは、その3つが揃ったときなのか、それとも、その3つそれぞれがアレテーというものなのかという問題です。
それぞれがアレテーというものであるなら、アレテーという一つのものが、『正義』『節制』『敬虔』という3つのものに分裂したことになります。
3つ揃った時とするならば、では、その1つが欠けた行動。例えば、正義も節制も備えているけれども、敬虔だけが抜け落ちた行動を取った場合、その行動はアレテーとはいえるのか、それとも言えないのかという疑問です。

例えば、自転車という道具が有るとします。 自転車は、複数のパーツが組み合わさって自転車という存在になるわけで、この自転車にハンドルが欠けていたりペダルが欠けていたりすれば、それは厳密には自転車とは呼べないものになってしまいます。
これと同じ様に、『正義』『節制』『敬虔』の3つは、アレテーを存在させる為の部品のような存在だと考えるなら、この3つの中のどれかが欠けただけで、完全な形でのアレテーは存在できないことになります。

この疑問に対するプロタゴラスの主張としては、アレテーというのは1つのものであるけれども、様々な側面を持っていると主張します。
例えば、サイコロというのは1つのものですけれども、サイコロには6つの面が、それぞれ存在するという事です。
正義・節制・敬虔などは、アレテーが持つその1面であって、それぞれが『徳』そのものというわけではないという事のようです。

アレテーには様々な側面が有る

では、正義・節制・敬虔の中の1つのものを手に入れれば、他の全てのものが手に入るのでしょうか。
サイコロの場合は、1の面だけを手に入れようとして、それを手に取ったとしても、サイコロ全体を手にとることになります。
しかし、これはそうでもないらしいです。というのも、プロタゴラスによると、一つの行動を抜き出してみた場合、勇気は宿ってはいるけれども、知恵が欠けているという行動が存在するからです。

ここで、新たに『勇気』と『知恵』というものも、アレテーの側面の1つだと追加されてしまいました。
アレテーという、ただ1つのものの正体を聞いただけなのに、その正体はドンドン増えていきます。 また、それらが、それぞれアレテーの正体なのかというと厳密にはそうではなく、それらはただの側面でしか無いという状態になってしまいました。
質問を投げかければ投げかける程に、プロタゴラスが付け加える補足情報によって、アレテーの存在はどんどんと複雑化していくわけですが…

では、ソクラテスが何故、このような質問を投げかけたのでしょうか。

理論と現実の違い

それは、日常でのアレテーの使われ方とプロタゴラスの説明に、ギャップを感じたからでしょう。
現実世界では、正義に則った行動をすれば、アレテーを宿した卓越した人だという事で他人から尊敬をされます。 その他にも、美しい振る舞いをすれば、同じ様に他人からの尊敬や憧れを獲得することが出来るでしょう。
美しさという観点でいえば、単純に外見が優れているというだけで、一部の人からは卓越した存在として扱われることも有るでしょう。

節制や慎み深さも同じで、それぞれ単独の徳目が宿った行動をしただけでも、アレテーが宿った行為として尊敬や憧れを得ることが出来ることも有るでしょう。

つまり、日常的な使われ方としては、『正義』『節制』『敬虔』それに、『勇気』や『知恵』、そしてここでは語られていませんが『美しさ』というものも、それらが単独で宿った行動は、全てアレテーが宿る行為だと認識されているという現状が有りました。
その為、これらそれぞれが単独でアレテーと呼ばれる存在なのか、それとも、全て揃わなければアレテーとは言わないのかという疑問が出てきたのでしょう。
また、それぞれがアレテーで有るなら、正義や節制などの徳目は、全て同じものということになり、1つを手に入れる事で全てを手に入れる事も、理論上は可能になります。

何故、それぞれの徳目がアレテーであれば、全ての徳目が同じものであるのかを、もう少し丁寧に説明してみると…
『正義とはアレテーである。』 『節制とはアレテーである。』 とした場合。 『正義とは節制である』という事も成り立ってしまうからです。
数式に当てはめてみると、A=B で、尚且、A=C の場合は、B=Cも成り立ってしまうというわけです。

つまりこれは、全ての徳目が単独でアレテーになる事を認めてしまえば、全ての徳目は根本的に同じものとなってしまうという事です。

それぞれの徳目は別のもの

これに対してプロタゴラスは、正義や節制などは、同じものでは無く、アレテーの1面に過ぎないと主張します。
同じものではない上に、アレテーという1つのものの1面とはどういう事なのでしょうか。
先程は、分かりやすくサイコロに例えましたが、サイコロの目が無い、ただの六面体で考えた場合、それぞれの面に違いはなく、側面や上面の様に観点によって捉え方が変わるだけで、本質的には同じものになってしまいます。

これは、先程も説明しましたが、全ての徳目がアレテーとイコールになってしまえば、結局は、徳目全てが同じものとなってしまうからです。
何の目印もない6面体には、それぞれの側面がありますが、その物体に何らかの力が加わって転がってしまえば、どの面が何を表していたのかが分からなくなりますよね。
1つのものを、どの側面から見るかというだけなので、根本的には同じものである為に、見分けがつかないのも当然ですよね。

しかし、プロタゴラスの主張によると、それぞれの徳目は同じものでは無く、アレテーの部分を表すものだと答えます。
アレテーを構成する部分であるとは、どういうことなのかというと、『正義』や『節制』『敬虔』や『勇気』といった、それぞれの徳目は、明確に違った性質を持つ部分で、それぞれの部分が寄せ集まることで、一つのアレテーを作っているということです。
この説明を聞いたソクラテスは、『アレテーとは、目や口や鼻といった、それぞれ別の働きをする器官がついている、顔のような存在なのですか?』と質問をすると、プロタゴラスは、これに同意すします。

人間の顔には、目や口といった、それぞれ明確に違った働きをする部分が存在して、それが寄せ集まって、顔という存在を生み出しています
目は単独では人の顔だとは言いませんし、目と鼻は同じ顔の部分という特徴を持っては居ますが、全く違った機能を持っていますし、見た目も違います。
ここまで違った機能と見た目を持つものなので、目と鼻は同じものだとは言えないでしょう。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第58回 『プロタゴラス』優れた人になる為に必要なのは才能ではなく努力? 後編

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アレテーを宿すものが悪人になるのか

一見すると、筋の通った話のように思えるプロタゴラスの主張ですが、深く考えると、よくわからない点が複数出てくる事に気が付きます。

プロタゴラスの主張では、全ての人間にアレテーが備わっていることになっていますが…
仮に、全ての人間にアレテーが備わっているのであれば、そもそも、悪い人間というのは存在しないことになります。 もし、存在する場合は、悪い事と知りつつ敢えて行っているという事になります。
悪いことと知りつつ、敢えて悪い事を行っている人間に対して、何らかの罰を与えて『これは悪いことなのですよ。』と改めて教える行為に意味はあるのんでしょうか。

また、人が他人に対して怒りをあらわにするのは、アレテーに反した行為をしたときではなく、単純に自分に不利益が起こる場合とも考えられます。

例えば、東京の南青山に児童相談所が建てられるといった際に、住民は怒りを全面に出して反対運動を行いました。
東京にある既存の施設では対応が出来ないということで、東京内に施設を作るというのは悪徳な判断では無く、当然とも言える判断ですが…
その計画に対して住民が怒りをあらわにしたのは、それがアレテーに反した行為だからではなく、その施設が建つことで、その地域の土地の価格が下がる可能性が有り、投資目的で土地を購入している場合は、自分の損失につながるからですよね。

別の例で言えば、町中で大声で喚いている人をたまに見かけます。
例えば、不良であったり反社会勢力の人達は、事ある毎に大声をあげて威嚇しているイメージがありますが、彼らは徳が高く、他の人よりも細かい部分で善悪が分かる為に、他の人間よりも頻繁に怒っているのでしょうか。
パワハラ上司は、他の人間よりも卓越しているが故に、少しのミスが目について怒ってしまうのでしょうか。それとも、怒る事でストレス発散が出来るなど、自分自身に何らかのメリットが有るからでしょうか。

一方で、アレテー
を備えたカリスマ性が高い人間は、余程の事でも無い限り、怒るなんて事はないように思えます。 共同体の利害に反した事を目撃した場合も、怒りに身を任せること無く、冷静に注意するでしょう。
私は日本から出たことがないので、もしかすると、これらの行動は日本特有の事なのかもしれませんが、想像するに、どこの世界であっても、常に怒っている人が徳が高く良い人間とは思わないのではないでしょうか。
どんな場面であっても、感情に任せて暴走してしまう人よりも、冷静になって話し合える人が、人格的に優れているように思えてしまいます。

両者の意見が出揃ったところで、本当はどちらが正しいのかを、対話を行う事で解き明かしていきます。

アレテーは教えられるもの

プロタゴラスの主張としては、アレテーとは他人に教えられるものというものでしたが、ソクラテスは、アレテーが教えられるものであるなら、徳が高い人物の子供は徳が高いはずだが、現実を見るとそうとは限らないといって、その主張に疑問をいだきます。
この主張に対してプロタゴラスは、『才能』の有無で説明をしだします。

プロタゴラスの主張では、全ての人間は徳を備えているとのことでしたが、完全に平等に備えているのかといえば、そうとは言えないと主張します。
ゼウスは、人類に対してアレテーを授ける時に、全ての人に行き渡るように配分をした為に、人類はアレテーの核のようなものは平等に授かったけれども、それを応用発展させる力そのものは、個人の才能によるという事です。

例えば、運動神経の良い人は、スポーツのコーチから同じ様に指導を受けたとしても、才能のない人に比べて上達も早く、トレーニングを積み重ねることで、常人には追いつけないようなスピードで、高い場所まで到達することが出来ます。
これは学問などの知識の分野でも同じで、同じ様に授業を受けているのに、僅かなヒントで問題を解く方法を思いついて発展させていく人もいれば、落ちこぼれる人もいます。
アレテーも同じで、全ての人がアレテーという概念や核の様なものを持ってはいるけれども、才能がない人間は、アレテーを伸ばすことが出来ないという事です。

つまり、運動の才能がないからと言って、運動が全く出来ないわけではないように、アレテーの才能が無いから、アレテーを全く習得できないのかといえば、そんな事はないということです。
才能がないものであったとしても、良い教師についてもらって本人が努力をすれば、才能を持っているけれども、何の勉強もしていないような人間よりは、優れた人間になれるという考えです。

共同体を作る人間にとっては、徳が高い人達が増えれば増える程に、その共同体は住みやすくなるわけなので、全ての人間は他人に徳を教えようとしますが、才能がない人間は、それを吸収することも発展させる事も難しいという事です。
では、才能のない人間は諦めるしか無いのかというと、そうではなく、才能がなければ無いなりに、アレテーを学習する方法はあると、プロタゴラスは主張します。
このアレテーの学習方法というのが、前にも言いましたが、習いたくない分野は習わせず、興味のある分野だけに特化して学習するという勉強方法なのでしょう。

すべての道はつながっている

このプロタゴラスの主張は、それなりに納得できるものがあります。
というのも、どんな分野であれ、極める為には他の知識が必要になってくる為、結局の所、総合的な勉強をしなければならないからです。

教える才能がない教師は、『将来必要になるから!』という漠然とした言葉で、算数嫌いの人間に無理やり算数ドリルをやらせたりするわけですが、本人が興味がない状態で勉強をさせたとしても、それは身につきません。
しかし、その人物が建築に興味を持ち、大工に弟子入りした場合はどうでしょうか。
最初こそ、道具の手入れの仕方や材料の加工の仕方などの勉強しかしませんが、建築全般に興味を持ち、建築士を目指すようになると、建物の耐久性を計算する為にも、数学に興味をもつことになるでしょう。
建築は建物の外観も重要ですから、デザインにも興味が湧くでしょうし、歴史的建造物のデザインの背景を探るためには、歴史も勉強しなければならないでしょう。

勉強をする目的がはっきりする事で、生徒の学問に対する捉え方が変わります。
これはアレテーも同じで、自分が共同体の中で卓越した人間になる為に、その共同体のあり方などを勉強していくと、自分ひとりのワガママを通すことが、結果的に自分の損失につながる事が理解できるようにもなるかもしれません。

この他にも、一つの道を極めようと邁進していると、全ての物事が繋がっていることに気づくというケースもあります。
例えば運動の場合などで考えてみると、スキーという競技しかやっていないのに、そのスキーのトレーニングを通して体を動かすという根本的な部分の理解が進むことで、他の競技を行う場合も、すんなりとコツを掴むことが出来る場合がありますよね。
スキーの技術そのものが、他のスポーツに対しても、そのまま流用できるといったケースも有るでしょう。

また、これは、運動分野だけに留まる様な事でもありません。 
スキーの練習を進めていく際に、何らかの精神的な壁に、ぶち当たるというケースも出てくるでしょう。
それを、色んな人達の助けを借りたり、自分自身の力を高めたり機転を利かせたりして乗り越えるという経験を何度もしていると、スポーツ以外の壁であっても、すんなりと乗り越えられたりします。

全ての物事の道がつながっているのであれば、自分が嫌いだと思っていて苦手意識が有るものは勉強せずに、長所を伸ばすというのも、卓越した人間になる為には有効な方法かもしれませんよね。

頑張れば誰でも卓越した人間になれる

アレテーの能力を伸ばす力は、才能に依存している為、全ての人間が同じ様にアレテーを高めることは出来ません。
才能がある人間は、1を説明すれば10が理解できるでしょうし、教えられた事を発展させて応用する力も高い為に、他のものよりも早い段階で卓越した人間になれる可能性が高いです。

しかし、才能がないからといっても、努力が実る事はなく、全く身につかないわけでありません。
才能が無いなら無いなりに、ゆっくりでは有るけれども、努力に応じて着実に、アレテーを身に着けることは出来る。
そして、自分なら、その手助けをする事が出来るというのが、ソクラテスの反論に対するプロタゴラスの返答となります。

この反論を受けて、ソクラテスはどの様な反応を示すのでしょうか。
この続きは、次回にしていこうと思います。
(つづく)
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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第58回 『プロタゴラス』優れた人になる為に必要なのは才能ではなく努力? 前編

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前回の振り返り

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
一応、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一分内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

という事で本題に入っていきましょう。
前回は、その存在を知ることで、他の人間よりも優れて卓越した者になれるというアレテーは、人に教えることが出来るような物なのかという事について考えていきました。
アレテーが知識や技術のようなもので、他人にも伝達出来るようなものであれば、人に教えることも出来るでしょうが、仮に、運動神経や才能のようなものであった場合は、他人に伝えることは出来ないことになります。
果たしてアレテーとは、教えられるようなものなのか、それとも、教えられない神から与えられた才能のようなものなのか。今回は、その続きを行っていきます。

ソクラテスの主張としては、アレテーとは教えられるものでは無いのではないかというのが、その意見でした。
アレテーが教えられるものであるなら、世の中で優秀とされている人間は、自分が子供を授かった際に、子供に愛情を注ぐのと同じようにアレテーを教える為に、優秀な人間の子供は皆、優秀になるはずです。
その逆も同じで、劣った親に育てられた子供は、アレテーが教えられる事は無いわけですから、劣ったままということになります。

しかし実際には、優秀な人物の子供が劣っている場合もあれば、劣っているダメ親の子供が優秀な場合もあります。

徳とは教えられる

このソクラテスの主張に対してプロタゴラスは、『アレテーとは教えられるものだ』と主張します。
この主張は当然といえば当然で、仮にソクラテスの言う通りにアレテーというものが、他人には教えることが出来ないようなものであった場合。
プロタゴラスは、本来なら教えることが出来ないような事を、自分なら教えられると騙した上で、生徒と金を集めている嘘つきという事なってしまいます。

プロタゴラスの職業はソフィストで、ソフィストとは『アレテーの教師』なのですから、そのアレテーは、教えられるものでなければ困ってしまいます。

プロタゴラスは、プロメテウスの神話になぞらえて、『全ての人は徳を備えている。』と主張します。
プロメテウスの神話とは、プロメテウスとエピメテウスの兄弟が、神々の命令で地球に住む動物たちを作るという話でしたよね。詳しい話は、第53回で話していますので、まだ聞いていない方は、そちらから聞いてもらいたいのですが…
簡単に説明すると、プロメテウス達は体のベースとなる材料に、卓越した特別な能力が得られるパーツを組み合わせる事で、動物たちを作っていくんです。 生き物のベースの形を作った上で、鋭い爪や牙といった特徴を付ける感じですね。

人間以外の他の動物達は、鋭い爪や牙といった武器や、空を飛ぶ翼など、他の動物と比べて卓越した能力である個性を与えられているわけですが…
後半部分の作業を、よく考えないで行動するエピメテウスが受け持ったせいで、特別な能力を持つパーツを先に使い果たしてしまって、余ったベースの材料だけで生物が作られます。それが人間という生物です。
厳しい自然環境を生き残る為の、他の生物にはない卓越した能力を何も持たない人間は、プロメテウスによって哀れみをかけれられて、炎と、それを使いこなす知恵を与えられるという話なのですが…

神々も、その哀れな人間に対して、情けをかけることにします。
ゼウスは、人間よりも強い獣や自然災害から身を守る為、力を持たないもの同士が皆で集まって共同生活が出来るように、慎みや節度といった概念を与えます。
この、ゼウスが人間に慎みや節度を授ける際に、特定の人物にだけ授けたのではなく、全人類に平等に授けたとされているので、全ての人間は徳、つまりはアレテーを持って生まれているとされているので…

プロタゴラスは、この神話でもって、全人類にアレテーが宿っていると主張します。

アレテーに反した行為を他人が取ると人は怒る

神話という説明だけでは、神話に馴染みの薄い人間では理解が出来ないからか、プロタゴラスは具体的な例も挙げて説明してくれます。
これは、ギリシャ神話に疎い、私のような存在には、ありがたい配慮ですね。
どの様な例かというと、プロタゴラスによると、全ての人間がアレテーを持つ理由としては、アレテーに反した行動を取る場合に、人々は怒るという反応をみせるからだそうです。

例えば、皆で共同生活を送る場合に、皆の迷惑になるけれども自分の欲望を満たしたいという行動は制限されなくてはなりません。
仮に、自分の欲望を優先した結果、他人から物を盗んだり騙し取ったりした場合、それが発覚した際には人々は怒ったり気分を害したりしますよね。
これは、自分が直接的な被害にあっていない場合でも、同じです。

私は最近は、動画配信サービスばかりを見るようになったせいで、テレビの情報に疎いのですが、昔は、警察24時といった感じの、犯罪者を取り締まる警察官に密着した感じのドキュメント番組が定期的に作られていました。
何故、あの様な番組が成立するのかというと、多くの人間が、自分が被害にあったわけでもないのに、理不尽な行為や犯罪に対して腹を立てて怒るからです。
そして、その犯人が捕まる映像を見る事で、スッキリとした気分になれるからでしょう。 つまり、モラルに反した行為をされると、例え自分が被害にあっていなかったとしても、人は怒りを顕にする生物なんです。

この『怒る基準』は、誰かから教えられたわけでもなく、有る一定以上の迷惑に対しては誰だって怒ります。
では何故、怒るのかというと、アレテーというのは勉強すれば誰にでも身に着けられる行為なのに、それをしない。つまりアレテーの勉強を怠るというのは本人の努力不足だからです。
本人の努力不足、つまりは、その人間が怠けていたから、やって良い事と悪い事の区別がつかない。

アレテーが才能なら 持たないものを哀れむ

もしこれが仮に、努力ではどうにもならないようなことであれば、人々は怒りで反応するのではなく、哀れみなどで反応するはずだろうと主張します。

例えば、生まれながらに体の不自由な人間が、それが原因で他人に迷惑をかけてしまった場合、それを怒るような人間はおらず、その人物に対して哀れみの感情を抱くはずです。
仮に体が欠損している事によって、人にぶつかったとして、それを『本人の努力不足』として目くじら立てて怒るような事はしないでしょうし、仮に怒ったとしたら、その人が変な目で見られることでしょう。

また、怒るという反応は、悪いことをした際に、それ相応の罰を与えるべきだという感情でもあります。
何故、罰を与えるのが必要なのかというと、犯罪を犯したものに『それは悪い事だ』と教育し、二度と同じ過ちを犯さないようにする為です。
どのような罰を与えたとしても、善悪の区別がつかないとするのなら、税金を使って牢屋に入れるといった行為は無駄になってしまいます。 学習するという前提で、鞭打ちや罰金などの罰を与えたり投獄するといった行動を犯罪者に行うわけです。

以上が、プロタゴラスの主張です。
(つづく)
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アレテーとは教えることが出来ない?

ソクラテスは、それを知ることで『優れた人間』になれるような知識のようなモノは存在するのか?という疑問が解決しないので、質問を続ける事にします。
というのもソクラテスは、人を優れたものにすると言われているアレテーを研究しまくっていたんですが、それが分からない為に苦しんでいた存在だったからです。

当然のことですが、ソクラテスプロタゴラスに会う以前にも、北にアレテーを知っているという人の存在を知れば北に、西に真理を得たという人がいたという噂を聞けば西に行くような人だったのですが…
色んな賢者と呼ばれる人の話を聞いた結果、ソクラテスが納得できるようなアレテーを知る事が出来なかったんですね。
『アレテーを知っている』という人を見つけ次第、会いに行っては話を聞いたのに、聞いても聞いてもアレテーを理解できずに、打ちのめされる。
そうした事を繰り返していくうちにソクラテスは、アレテーとは、知識のように言葉で他人に伝えることが出来ないような代物なんじゃないかと思う様になったのかもしれません。

ソクラテスプロタゴラスに、『アレテーは、知識のように人に教え伝える事が出来るものなのでしょうか?』という疑問を率直に伝え、自身の主張を展開します。

優秀な人の子供は優秀なのか

先程も言いましたが、知識や技術を他人に伝えることは可能です。
画家は、テクニックや知識を他人に教えることで、絵の上達を助けることが出来ますし、数学の教師は、その知識を授業によって伝え、自身で考えて発展できるようにさせることが出来ます。
大工のような職人も、その他の学問も、知識や技能を伝達する事で弟子にその知識を伝えることが可能です。

しかし、アレテーというものは、他人に伝達が可能なのでしょうか。
仮に、アレテーと呼べれるものが伝達も学習も出来るようなものであるとするならば、例えば、徳が高いと言われている人間力の高い優れた人の子供は、親からアレテーを教えてもらっているはずですよね。

大抵の人にとって、自分の子供というのは大切なものですし、他人よりも強い愛情や執着を持って接しているものだと思います。
もし、アレテーを宿すような優れた人間が子供をつくったとすれば、自分の子供に愛情を注ぐように、自分が持つアレテーも伝え教えるのは当然の事だと思います。
何故なら、優れた人間になるというのは幸せに直結するわけですから、自分の子供の幸せを願うのであれば、アレテーを伝えて優れた人間にしようと思うのは、親心として当然なことだと思われます。

以上のことを考えると、善人でカリスマ性が有り、人々を先導できるような優秀な人の子孫というのは、その優秀な親からレクチャーを受けているので、同じ様に善人でカリスマ性が有ってリーダーの素質を備えた人間ということになります。
しかし実際にどうかというと、親は優れていて立派な人間であったとしても、その子供がクズという事は、結構あることで珍しいことではありません。
成功を収めた優れた女優であったり権力者の子供が、覚せい剤の使用や暴行などを行うといった感じで、犯罪で捕まるケースがあったりしますよね。

その一方で、鳶が鷹を生むといった具合に、両親がクズなのに、その子供が優秀な人物であるといった事もありえます。 その子供は、おそらくですが、両親からはアレテーと呼ばれるものは教えられてはいないはずです。
何故なら、両親が子供に教えるべきアレテーを備えているのであれば、その両親がクズという事はなく、他の親と比べて卓越した、優れた親になっているはずだからです。
アレテーが人から教えられることで身に着けられる様なものであるなら、アレテーを持たない親から育った子供は、誰からアレテーを学んだのでしょうか。

それとも、アレテーとは、人から教えられるようなものではなく、運動の才能のように、持って生まれるようなものなのでしょうか。

アレテーとは教えられないものかもしれない

少し視点を変えて、アレテーとは人に教えられないようなものという観点から考えてみると…

例えば、国の舵取りをする為に、政治家同士で議論をするケースで考えると、公共事業で大きな建物を建てる場合は、建築の専門家を議会や予算会議に呼んで、参考意見を聴くといったことをします。
仮に音楽祭のようなものを開く場合には、音楽家や、そういった興行を生業としている人間に、どれぐらいの規模の予算がかかるのかや、実施する際の注意点を聴くのは当たり前のことです。
もし、そういった人間を排除して、何も知らない政治家だけで議論を行って、失敗して成果が得られなかった場合。 こんな失敗をした政治家は、『何故、専門家に意見を求めなかったの?』と非難されるでしょう。

具体的にいえば、何かを建築する場合、建築士や大工といった専門家に話を聞くのは当然として、国の予算を管理する専門家や、その地域の事情に詳しい専門家、地形の専門家など、数多くの専門家の意見を聞き入れて作るほうが、成功率は高まります。
専門家の正しい知識や経験があれば、失敗すること無く、事業を成功に導けた可能性が高いのに、それを怠って素人同士で話し合った結果として失敗したら、責められて当然と言えます。

しかし、これが国家のより良い将来であるだとか。人の上に立つべき優秀なリーダーを育成するといった、漠然とした『良い』とされている事を目指す為の話であれば、そういった専門家を招かなかったとしても、文句は出ないでしょう。
何故、文句が出ないのかというと、市民の多くが、『良い』事へ導く為の専門家などは居ないと思い込んでいるからです。
ソクラテスはこの様な形で、アレテーは教えられるようなものではないのではないかという自分の意見を主張します。

アレテーが教え伝えられるものなら自然と伝播する

このソクラテスの意見には、納得させられる部分が多くありますよね。
他の人よりも優れていて、その優れている部分を言葉にして他人に伝えることが出来て、それを聞いた相手が同じ様に優れた人間になれるのであれば、世の中には、もっと沢山の優れた人間がいても不思議ではありません。
知るだけで優れた人間になれるアレテーが言葉に治せるのであれば、印刷技術が生まれると同時に、その知識は多くの人に伝えられるでしょうし、本でアレテーを学んだ人間は、それを周りにいる人達に積極的に教えるでしょう。

何故なら、自分の周りにいる人達が劣った悪い人間であるよりも、優秀で良い人間であるほうが、暮らしていく環境としては良いからです。
街が悪人で溢れかえれば、一人で外を出歩くことすら出来ませんが、善人しか居ないのであれば、夜中でも一人で平気で出歩けます。
暮らしていく上で心配事が無くなるわけですから、知るだけで優秀で良い人になれる知識を持っているのであれば、積極的に周りの人に教えるでしょう。

今現在は、この当時から2500年程経っているわけですが、もし、アレテーが伝えられる様な知識であるなら、現在は善人で溢れかえっているはずなんですが… 実際問題としてどうでしょうか。
もし仮に、アレテーは教えられるけれども、本のような間接的なものでは教えることが出来ずに、生徒と面と向かって長期間に渡って教育しないと伝えられないような物とした場合は、優れた人が少ない言い訳には なるかもしれません。
しかし、ソクラテスが生きた時代もそうですし、現在もそうですが、優れていると世間から認められている人が、子供の教育がまともに出来ていないという状態は、どの様に言い訳するのでしょうか。

丁度よい時間になってきましたので、この続きはまた、次回にしようと思います。

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プラトン著『プロタゴラス

今回からは、プラトンが書いた対話編を読み解くことで、ソクラテスがどの様な考え方をしていたのかを見ていきます。取り扱う作品は、プラトンが書いた『プロタゴラス』です。
著作権の問題が有るので、単純に朗読をするといったことはせずに、作品内の文章を少し引用したり、簡単な要約をした後に、それに対する説明や解説、考察を加えるという形で話していきます。

この作品は、ギリシャ内でもかなり有名な賢者であるプロタゴラスが、ソクラテスが住むアテナイに訪れて、それをソクラテスの友人が知るところから始まります。
ソクラテスの友人であり、裕福な家庭に育ったヒッポクラテスは野心溢れる若者で、プロタゴラスが教えているというアレテー、これは、徳とか卓越性とされるものですが、それをを知りたいと思い、授業料をかき集めてプロタゴラスに会いに行こうとします。
その行為に対してソクラテスは、『そこまでの高額な授業料を用意してでも教えて欲しいと思うのは、一体、どんな技術や知識なのか?』と訪ねるんですが、ヒッポクラテスは、教えて貰いたいと思っている対象の内容をよく知りません。

そこでソクラテスは、もう少し答えやすくする為に、複数の例を出して聴いてみる事にします。
例えば、医者に教えを請う場合は、将来医師になる為に、医師の生徒として医学生になるんだよね? 大工に弟子入りする場合は、大工の技術を身に着けて、いずれは棟梁になるわけだ。
じゃぁ、ソフィストに教えを請う場合には、将来、何になりたいと思って弟子入りするのかな?といった感じでソクラテスは質問をします。

自分がなりたいものが明確にある場合は、その分野で優れた能力を持つ人に、弟子入りしたり生徒になる事で教えを請う事は、効果的な方法ですよね。
例えばお笑い芸人になりたい場合は、自分が好きな落語家や漫才師に弟子入りするとか、今では、養成所に通うなんて事をしたりもするでしょう。
格闘ゲームのプロゲーマーになりたいと思うのであれば、ウメハラさんに意見を聞きに行ったり、youtubeを観るというのも、後に役立つ行為ともいえるかもしれません。

自分が目指している分野の第一人者に話を聞きに行くというのが、その道を極める近道とするなら、プロタゴラスは、どの分野の第一人者かを考えれば、この質問に答えられる事になります。
この質問に対してヒッポクラテスは、『これまでの話からすると、ソフィストということになるんだろうね。』といった感じで、フワフワした返答をするんですね。
その答えを聞いたソクラテスは、『じゃぁ、ソフィストが何をする職業か知ってるの?』と聞くんですが… ヒッポクラテスは上手く答えられません。 ソフィストがどんな職業なのかを知らなかったんですね。

ソクラテスは友人のヒッポクラテスが心配になったからか。それとも、賢者と呼ばれるプロタゴラス自身に興味が湧いたのか。
とにかく一緒について行って、彼が教えるアレテーが何なのかを見極めようとするところから、物語は始まります。

ソフィストとは情報商材詐欺なのか?

世の中には、この様な出来事って身近に存在しますよね。
この物語でプロタゴラスが教えると主張しているのは、アレテーと呼ばれる『徳』とか『卓越性』と呼ばれるもので、それを手に入れることによって、他人よりも優れた存在になれると信じられてきたものですが…
これは、『教えるもの』を別のものに変えると、現代でも十分に有り得る話です。

例えば、不動産投資や自己啓発などのセミナーや、オンラインサロン。ネットワークビジネスなどにテーマを変えれば、多くの人が、『自分自身や友達が勧誘されたり興味を持った』なんて事は、1度は経験したことが有るのではないでしょうか。
ここに挙げたテーマに共通する事は、『楽して金持ちになる方法』なのですが、そんな物が存在するのであれば、何故、彼らは大掛かりな手間を掛けてセミナーを開いたり、自分の自由な時間を潰してサロンを開くのでしょうか。
既に楽をして儲ける手段を身に着けているのであれば、その秘訣を誰にも教えずに自分だけのものにして実践して、自分だけが金持ちになれば良いだけの話です。

セミナーを開く人が善人で、『多くの人に幸せになってもらいたいから』という気持ちから教えるのであれば、セミナーやサロンでお金を取る意味もよくわかりませんよね。
何故、よく知らない不特定多数の人に、自分が生み出した大切な秘密を教えるのか。 答えは簡単で、そうする事で、セミナーに参加しに来た人達ではなく、主催者である彼ら自身が儲けることが出来るからです。
つまり、彼らが儲ける手段というのは、セミナーやサロンの月会費などの、信者が貢いでくれるお金や、信者が自分を崇めることで、社会的な影響力を強めて、その影響力をお金に変換しているだけなんです。

もし、身近な人間が、この様なセミナーやサロンや勉強会に参加すると言い出したら、誰だって心配になって、興奮している友達を冷静にしようと思うのではないでしょうか。
ソクラテスも同じ様に、友達のヒッポクラテスを冷静にするために、『プロタゴラスに会って、何を教えてもらいたいのか』を問いただします。

アレテーを身につける為の方法は何なのか

先程も言いましたが、例えば、家を建てる勉強をしたいと思う人間であれば、建築学校に通うとか、大工の元で修業をすると行った方法で、知識や技術を習得することが可能です。
これは他のことにも当てはまります。 絵を書きたいと思うのであれば、絵画教室に通ったり、既に技術がある人の絵を模写して真似するといった行為によって、思い通りの技術を身に着けることが出来るでしょう。
格闘ゲームの勉強をしたいと思うのであれば、上位プレイやの動画を観たりだとか、ウメハラさんなどの有名な方にアドバイスを求めるといった方法もあるでしょう。

ですが、『それ』を勉強することによって、他の人間よりも卓越した優れた人間になれる『アレテー』という存在は、どうやって勉強すればよいのでしょうか。
優れた人や卓越した人というのは、定義自体が漠然としすぎていますし、どんな勉強をしたり行動を起こせば、技術や知識が身につくのかも不明です。

また、漠然と『良い人になる』方法が、言葉や行動によって伝達可能なのかも分かりません。
ソクラテスは、冷静になって考えさせる為に質問を投げかけた上で、自分も一緒について行って、その正体を確かめようとします。

ちなみにですが、先程は不動産投資や自己啓発やオンラインサロンといった、胡散臭い例を挙げて例えてしまったプロタゴラスさんですが、この人物は、当時のアテナイでは相当なビックネームです。
アテナイの将軍で、アテナイというポリスの代表的な立場であるペリクレスと知り合いで、彼から、憲法の草案を考えて欲しいと依頼を受ける程の人物だったりします。 つまり、実際に優れているとされてた人なんです。
また、哲学者としても、『万物の尺度は人間である。』といった言葉を残し、この世に相対主義という考え方を確立させた人物でもあります。

プロタゴラスとの邂逅

プロタゴラスと対面したソクラテスは、さっそく、『徳とは何なのでしょうか。 あなたは、それを教えることが出来ると主張していますが、そもそも、他人に教えられるような知識なのでしょうか?』と、率直に質問をぶつけます。
これに対してプロタゴラスは、雑誌裏の広告などに書かれているような『このサービスをご利用されたお客様の声』の様な感じで、『私から教えを受けた人間は、皆、私の元に来る前よりも成長して帰っていくし、感謝もされてるよ。』と返します。
そして、『もし、私が教えたことに納得がいかないのであれば、お金を払わなくて良いし、いつでも私の元から去っても良いです。』とクーリングオフの説明までしてくれます。

常人であれば、納得して、直ぐに契約してしまいそうな返答ですが、ソクラテスは、これに対しても鋭い切り返しをします。
『例えば、貴方が笛の吹き方を教える教師だったとして、貴方の元へ笛を吹けない客が訪れたとしましょう。 貴方は彼を指導して、笛を吹けるようになった場合、彼は、笛をふけるという点に置いて、貴方の元を訪れる前よりも優れた人間になったと言えます。
これは、全ての事に当てはまってしまいます。 計算ができない人間に足し算を教えて、九九を覚えさせれば、その人物は、それを学習する前よりも優れた人間になったと言えるでしょう。
仮に、あなたの授業を受けなかったとしても、人が日々勉強を重ねさえすれば、勉強をしていなかった頃と比べて優れた人間になるのではないでしょうか?』と、質問します。

この質問を言い換えるなら、『具体的には何を教えているのですか?』と聴いているのと同じです。
大工に対してこの質問をするなら、『家の部品の加工の仕方や、組み立て方。』と答えるでしょうし、音楽家に質問をするなら、『楽器の演奏の仕方。』と答えるでしょう。
ウメハラさんにストⅡについて訪ねたら、波動拳の撃ち方について教えてくれるかもしれません。

やりたい事だけやっていれば優れた人間になれる

これに対してプロタゴラスは、指を指しながら『良い質問ですねぇ!』と言って、持論を展開しだします。
『私の元に駆け込んでくる人の多くが、自分がやりたくない学問から逃げてきたような人達なんですよ。
しかし、他のソフィスト達は、そんな人に対して『数学を勉強しろ!音楽もだ!体育も出来るようになっておきなさい!』と、本人が勉強したいと思わないものまで詰め込み教育をしようとするようです。
だが私はそんな事はしません。 私は、本人が学びたいことだけを学ばせます。 私の元で学ぶことで、身近な話だと家庭内がうまくいくし、政治に関していえば、権力者の右腕になることだって出来るでしょう。』答えるんですね。

これを聴いたソクラテスは、自信なさげに、『つまりまとめると、生徒を『優れた人間』にするということですか?』と聞き返すと、プロタゴラスは調子よく『その通り!』と答えます。

これまでをまとめると、プロタゴラスは本人が望む知識を惜しみなく与える一方で、生徒が嫌がる授業は一切行わず、その結果として、何事も上手く行うことが出来るような『優れた人間』を作れると主張している事になります。
しかも、本人が学んだ上で『自分には合わないな。』とか『この内容でこの授業料は高いな。』と思えば、申し出ればいつでも自分が納得した金額だけを支払って弟子を止めることが出来る、生徒にとって都合の良いものとなっています。
そして、金を払う価値もないと思えば、何も払わずに帰ってもよいというクーリングオフ制度付きという、非常にお得な内容となってはいるのですが…

『優れた人間』になる為には何を勉強すればよいのかといった具体的な事は、何一つ教えてはくれないという状態です。
とにかく、『私のもとで学べば優秀になれるよ!』というセリフボタンを連打してるだけで、具体的に何を教えてくれるのかは不明です。
普通の人間であれば、ギリシャでもトップレベルの知名度を持つ人間が教えてくれて、その上、内容が気に入らなければお金は返すと言ってくれてるわけですから、直ぐにでも契約してしまいそうな雰囲気はありますが…

ソクラテス自身の性格が用心深いからか、それとも、何事に対しても、すんなりと信用することはなく、吟味した上で受け入れられる事だけ信じる性格だからか、ソクラテスは納得しません。

表現の不自由展について思うこと

先日のことですが、世間で『表現の不自由展』というのが話題になりました。
この事について、色々と思ったことが有るので、今回はの事について書いていきます。

目次

注意として

私は現地に足を運んで、実際にすべての展示を見たというわけではなく、展示作品としては、慰安婦像と天皇陛下の肖像と思われる写真を燃やしている映像作品しか知りません。
今回は主に、天皇陛下と思われる写真を燃やしている作品を中心に書いていきます。

私は、写真を燃やしているという作品について否定的な意見を持ってはいますが、別に天皇制や天皇陛下に特別な感情を持っているわけでもありません。

また、この作品展自体にはネガティブな印象を持ってはいますが、国が権力を発動させて中止させるべきだとも思ってはいませんし、税金が入ってる入ってないも問題とは思ってません。
当然のことですが、テロ予告をして圧力をかける事も駄目だと思っているので、予めご了承ください。

写真を燃やす行為は芸術なのか

今回の作品が生まれた経緯としては、もともとは天皇陛下の写真のコラージュ作品が美術展に出されたけれども、批判が殺到したので、美術館が作品を売却した上で、その作品を収めた図録を焼却処分したのが発端らしいです。
その出来事を知った別の作家が、『天皇陛下の写真をコレージュするのは不敬だけれども、それを燃やすのはOKなんだ。』という事で、写真を燃やして、その灰を踏みまくるという映像を撮ってアートとして公開したらしいです。
評価する側の人達からは、パラドクスだの何だの言われていますが…

正直、天皇陛下を侮辱したくて仕方のない人が生み出した屁理屈にしか聞こえません。

美術館側は大勢の観客を呼んで、皆の前で図録を燃やした上で、灰を踏みつけるというパフォーマンスをしたのでしょうか?
様々な抗議を受けた結果として、自分たちで展示を中止にして、売る事もできない図録を処分しただけです。 それを販売したとすれば、更に抗議が来ることは容易に想像できますからね。
美術館の倉庫も容量があるでしょうし、処分する場合は紙なら焼却処分するでしょう。

その行動の揚げ足を取る形で、『燃やしてOKなら、それを作品にしますね!』って事で、じっくりとバーナーで焼き、灰を踏みつけまくるという動画を『作品』と言い張る行動には、稚拙さと不快感しか感じません。
別に私は、天皇陛下天皇制に特別な感情を抱いているから不快に思っているわけではありません。 人物の写真や肖像を燃やして灰を踏みつけるという行為を見せびらかす事に不快さを感じます。

アイコンを燃やすというメッセージ

今回の展示に肯定的な意見を言う人の中には、昭和天皇はアイコン化しているから大丈夫という意見も見られました。
この意見は正直、分からなくもありません。 戦争に突入して負けた時代の天皇ですし、様々な感情を持たれる人なので、アイコン化していて、キャラクターそのものにメッセージが有るというのは、理解が出来ます。

しかし、同じ様に考えるのであれば、アイコン化しているものなんて沢山あります。
キリスト教イエス・キリストは、その教によって多くの人を救済したかもしれませんが、一方で、その教えを強引に広める為に数多くの戦争が行われました。
また、キリスト教の正しさを主張する為に、古代ギリシャ時代に生み出された技術や知識は燃やされ、科学者は迫害され、教えに反するものは魔女とされて火炙りにされたりもしています。

イエス・キリストの肖像は、これらの2面性のアイコンとして捉える事が出来ると思いますが…
じゃぁ、キリストの絵画やキリスト像を燃やして、その灰を踏みつける映像を撮って公開することは、アートとして認められるべきで、批判は許されないのでしょうか。

イスラム教も同じで、世界で10億を超える信者を抱えているので、宗教によって正しい道を歩むものも沢山いらっしゃるでしょうが、ごく一部の人は過激なテロを行っていたりもします。
世界各地では、彼らのテロによって親族を失った人も沢山おられます。
イスラム教は、偶像崇拝禁止がより徹底されているので、預言者の肖像を書いてはいけないとされていますが、アイコン化された宗教指導者の顔を敢えて描いて、それを燃やして灰にして踏みつけるという表現は、守られるべきなのでしょうか。

これらの行動は、芸術というよりも、相手を挑発している行為にしかならないのではないと思います。
自分と意見が正反対の人達と、議論をして分かり合おうとする為に必要な手段が、『挑発』なのでしょうか。

政治的な意図は無いというが…

今回の企画展は、政治的な意図はないとは言われていますが、激しく批判している人達の中には『ネトウヨ』と呼ばれている人達も多く、賛成している人達は、反体制の人達が多いように感じます。
まぁ、表現規制を行うのは体制側ですし、それに対立する構図で企画展を行おうと思うと、そういう作品ばかりになるのも分かりますが…

仮の話として、今回燃やされたのが天皇陛下の肖像ではなく、展示されていた慰安婦像だったとしたら、どうでしょう。
イベントの後半に灯油をかけられて燃やされて、その灰を足で踏むというパフォーマンスが、作品として主催者側が行ったとしたら。。
今回、『表現規制は守られるべきだ!』と言っていた人達は、主張を変えずに同じ様に主催者を養護するのでしょうか。

アイコン化されていて、その存在にメッセージが込められているという意味では、慰安婦像もアイコン化されたものだと思います。
それに灯油をぶっかけて燃やすというのは、様々な反応が起こるでしょうし、議論の対象にもなるでしょう。 当然のことながら、韓国からは抗議が来るでしょうし、中止しろとも言ってくるでしょう。
しかし、これも、『表現の自由』として守られるべきで、批判が来たとしても圧力に屈せずに撤収せず、最後までやり遂げるべきなのでしょうか。

もし、燃やされる対象によって意見が変わるという人がいたとすれば、今回の件を自分の都合の良いように捉えているようにしか思えません。
自分が敵対しているものは燃やされるべきで、自分が支持しているものは燃やされるべきでは無いというのはポジショントークにしか聞こえません。

私個人の意見としては、人が思いを込めているものに火を放って足蹴にする行為は展示だと思えず、ただの挑発やヘイトだと思うので、芸術ではないと思いますけどね。

この人の肖像画は焼いて良いけど、この人は駄目という線引はどこでするのか、誰がするのか。
それが全くわからない状態では、この様な行為は挑発やヘイトにしか思えず、否定的な感情しか湧いてきません。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第56回 『プロタゴラス』 2つの価値観 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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人間社会の中での相対主義

ですが、ここでいう相対主義は、そこまで行き過ぎた相対主義というわけでもないようです。
というのも前回までの話で、古代ギリシャで何故、アレテーというものが求められて、それに応えるように、アレテーを教える人達が出現したのかというのを話してきましたが…
その理由としては、アレテーというものを手に入れることで、他の人間よりも卓越した人間になり、政治の場に置いて発言力を高めて成功者になりたいという思いを抱く人達が一定数現れた事で、アレテーというものを求める動きが出てきたんでしたよね。

では、政治とはどの様にして生まれたのか。 プロメテウスの神話にまで遡ると、人間というのは、他の動物達の様に、明確に他よりも優れた物を持たない状態で生まれてきた為に、その存在が何なのかというのは不明です。
また、人間は武器や動きの速さなど、卓越した能力を持たない為に、共同体を作り上げることで、自分たちの身を守ってきた歴史があります。 政治というのは、その共同体を暮らしやすい環境にする為に、必要なものですよね。
共同体とは、多くの人達が互いにに関係し合って生きていく集団のことですが、その舵取りをする政治の場で、『人は自由に振る舞ったら良い。』なんていってしまうと、政治の意味がなくなりますよね。

共同体を運営していく為には、他人に迷惑がかかるような悪い行為は規制しなければなりませんし、共同体の為になるような良いとされる行為は、市民が積極的に行うように誘導しなければなりません。
この場合、共同体にとって、何が悪くて何が良いのかを定義する必要がでてきます。 つまり、相対主義であったとしても、自分が住む国や地域内での善悪の共通認識を作る必要性が出てくるという事です。
当然の事ですが、意見が他の政治家と対立した場合は、相手を説得する必要性が出てきます。

各政治家には、それぞれの正義が有るからといって、それで良いとはならないわけです。
その共同体にとっての正義。 共同体に参加している人々が共通で『これが正義だ』と思えるものを定義して、その正義に照らし合わせた国の運営を行っていく必要があります。

共通認識を拡大すると絶対主義になる

先程は、相対主義を際限なく拡大解釈することで、善悪の基準が人それぞれの価値観で決まるという話したわけですが…
この、『自分たちが住む地域の善悪』という共通認識を際限なく拡大していくと、どうなってしまうのかというと、地球全体としての共通認識としての善悪という事になます。
例えば、今現在は200カ国程度の国がありますが、仮に、再び侵略戦争が起こって国の再編が起こって、最終的に地球には1つの国しか無いような状態になってしまったというケースを考えると…

統一された1つの国の政治家が、国の中で通用する正義を考える場合、結果的に、地球に済む人類全体の正義について考えなければならないという事になってしまうということです。
これは、相反する主義である絶対主義と似たような考え方になってしまうとも考えられます。
こうして考えると、相対主義と絶対主義という、絶対に交わる事のない相反する考え方も、議論が可能と言えなくも無いような気がしてこないでしょうか。

ソクラテスに関しても、アレテーを探求する目的は、幸せになる事だと主張しているので、地球全体としての善悪やアレテーといったものではなく、人としてのアレテーを求めていると思われます。
つまり、プロタゴラスソクラテスは、絶対主義と相対主義という、交わることのない正反対の主義を主張しているのですが、双方ともに行き過ぎているわけではない為に、歩み寄れるような位置にいるわけです。
この両者の立ち位置によって、対話が可能となっています。

アレテーとは教えることが出来るのか

では、対話編を通してどのようなことが語られるのでしょうか。
詳しいことは、次回以降で1冊づつ取り上げて読み解いていこうと思うのですが、どのような事が主に話されているのか、議題を簡単にいってしまうと、『アレテーとは教えることが出来るようなものなのか。』といった事がテーマになります。

ソフィスト達は、アレテーを教えることを生業としているわけで、当然のことですが、アレテーを教えることが出来るようなものだとして扱うわけですが、本当にそうなのでしょうか。
それとも、運動や何かしらの競技の才能の様なものと同じ様に、教えるようなことが出来ない、天から与えられた、持って生まれてくるようなものなのでしょうか。

アレテーというのは、それを身に着けることで他人よりも優れた者になることが出来るといわれているもので、身に着けることで他人からの尊敬が得られるようなものと考えられています。
当然のことながら、アレテーを身につけたものの行動には正義や勇気といったものが宿っていますし、単純に力強いだけでなく、節制や慎みといったものも備えた人物と考えられているわけですが…

仮に、アレテーが教えられるようなものであるとするならば、どんな人間にでも、適切な教育さえ施せば、アレテーが宿る立派な人間になれるということになります。
これは、どんな人間が相手でもという事です。 例えば、自分自身の快楽のためだけに、他人の命を奪い続けるような連続殺人犯が相手だったとしても、適切に教育を施せば、その人物は立派な人間になれるということになります。
その人物が悪とされる道を進んだのは、その者が無知だったというだけなので、正しい教育を施すことで無知の状態を治すことが出来れば、その人物は立派な人間になることが出来るはずです。

もしこの通りであるのなら、犯罪者とされるものを逮捕して施設に収容した上で、正しい教育を行う事で、悪人の絶対数を減らすことも可能となるでしょう。
何故なら、正しい教育を一定期間受けて出所したものは、アレテーを身に宿した立派な人間であるからです。 善悪の分別がつき、立派な人間である彼らは、その後は犯罪に手を染めることもないはずです。

アレテーは天から授かる才能なのか

本当にこの様になれば、この世はもっと住みやすくなるでしょうし、素晴らしいことことだとは思うのですが…
もしかするとこれは幻想で、実際には、運動の才能やリズム感の様に、持って生まれたものかもしれません。
もしそうだとするのなら、善悪の見極めや、正義や勇気が宿った行動は、その才能を持つものだけが行える特別な能力という事になります。

この様な前提の場合は、当然ですが、アレテーを他人が教える事は出来ないですし、生まれてから努力をして身に着けようと思ったとしても、才能を持って生まれた者にはかなわない事になります。
アレテーを教えるといって人を集めて、多額の金をとっているソフィストと呼ばれる人達は、教えることが出来ないものを教えることが出来ると主張してお金をだまし取っている事になってしまいます。

これを聞いているみなさんも、是非、自分自身でこの問題を考えてもらいたいんですけれども、この質問は単純なようで、かなり難しい質問だと思います。
いきなり、アレテーについて考えるというのは、難しいことかもしれません。
というのも、アレテーという言葉は日本人には聞き馴染みがない言葉ですし、これまでの説明でも、抽象的な事にしか触れずに、具体的にどのようなものなのかという事について触れて来なかったですしね。

もっと分かりやすく、想像しやすい事として、善悪の基準や見分け方について考えてみるのも良いかもしれません。
何が良いことで、何が悪いことなのか。 これも、一見単純なように思えて、かなり難しい質問だと思います。 何故なら、多くの人が、善悪の基準なんて人から教えてもらわなくても、全員が共通認識として持っている価値観だと思い込んでいるからです。
でも哲学で大切なのは、今までの常識というものを取っ払った上で、改めて考えて見る姿勢です。

人間は、本当に善悪を見極めることが出来るのか。 そして、果たして、その方法は他人に教えることが出来るのか。
次回から、こういった事を、プラトンの対話編を読み解く事で、みなさんと一緒に考えていこうと思います。

プラトン著【メノン】の私的解釈 その8 『神がかりの』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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知識は推測で代用できる?

徳とは知識のようなものだという仮説をたてて推論を行い、その結果として出てきた『徳とは知識のようなものだ』という結論を、再び吟味してみた所、『徳とは知識のようなもの』とは言えない事が分かった。
ソクラテスとメノンは、徳とは知識を伴って現れるものだという前提に共に同意をしたが、この徳の捉え方が間違っていたかもしれないとし、もう一度、前提から見直すことにする。

人にものを教える場合。 そのもの自身を知っていれば、自分の記憶を元に教えることが出来るが、そのモノ自身を知らなかったとしても、推論によってどのようなものかを教えることが出来る。
例えば、京都から東京に行くとした場合。 東京へ行ったことのある人間に『東京への行き方』を聞けば、聞かれた側は自分の過去の経験に照らし合わせて、どの様に行けば良いのかを聞き手に教えることが出来る。
では、東京への道案内は、東京に行ったことがある人間にしか出来ないのかといえば、そんな事は無い。

日本の地図の知識が有って、京都と東京の位置関係が分かっていて、その間にどの様な電車が走っているのかを知識として知っている人間は、仮に東京に1度もいったことがなかったとしても、行き方を『推測する』ことで東京への生き方を教えることが出来る。
今の時代であれば、グーグル検索の仕方や地図アプリの使い方を知っている人間であれば、『その様な手段を利用すれば正しい答えが得るのではないか。』と推測して実行することで、日本全国、どの場所への道案内も可能となる。
聞き手にとっては、実際に東京へ行ったことのある人間に聴くのも、持っている知識を元に推測して答えを導き出せる人間に聴くのも同じ結果となるので、双方にそれ程違いはない。

これにより、正しい考えを用いた行為というのは、正しい知識を用いた行為に劣っていない行動ということが分かる。

メノンはこれに納得し、『正しい考えを用いて行った行為も徳に含まれるのであれば、下した決断が正しいときや間違っている時が有るのもうなずける』と答える。
しかしソクラテスは、『正しい答えに沿って行動を起こした場合は、間違うなんてことは起こらずに、常に正しい結果に辿り着く。』と訂正する。
これを聴いたメノンは、『それだと、両者は全く同じものになってしまい、違いが無くなってしまうのではないか。』と困惑する。

ダイダロスの彫像

これに対してソクラテスは、ダイダロスの彫像に例えて、両者の違いを説明しだす。
余談になるが、ダイダロスとはギリシャ神話に出てくる有名な職人で、身につけた技術や頭脳で、数多くの建築物や発明品や芸術品を作ってきた人物で、有名なイカロスの父親。
ミノタウロスが住むとされているラビリスンの建築も行う。 ミノタウロスアテナイを属国とし、毎年、貢物を要求していたが、それに耐えられなかった英雄テセウスが、ラビリンスにミノタウロスを退治に行く。
しかしテセウスは、迷宮に迷い込んで目的地に辿り着けない。 そのテセウスに恋をしたのが、ミノタウロスの娘であるアリアドネで、迷宮の仕組みをテセウスに教える。

結果として、テセウスミノタウロス退治を成功させるが、ラビリンスの秘密が漏れたということで、ダイダロスイカロスと共に塔に幽閉される。
この塔から脱出するために、蝋で鳥の翼を作り、共に塔から飛び立って逃げ出すも、空を飛べた事に感激したイカロスは空高く舞い上がってしまい、太陽に近づきすぎてしまう。
太陽の熱に熱せられた蝋の羽は溶けてしまい、イカロスは大地に落下してしまう。

話をメノンとの対話に戻すと、ダイダロスは腕の良い職人なので、彼が作った彫像は非常に優れていて価値が高いが、優れた彫像過ぎて、その彫像には命が宿り、ほうっておくと逃げていってしまう代物。
どんな価値の有る彫像も、逃げてしまえば意味はないので、その価値を自分のものにしておこうと思うのであれば、縛り付けて捕まえて置かなければならない。

これと同じで、どの様な人間であったとしても、優れた考えを思いつく事はある。この状態を、神がかりの状態と表現すればだろうか。
多くの凡人は、この神がかりの状態を維持することが出来ず、その『良い考え』は時間と共に何処かへ逃げてしまい、見失ってしまう。
それを永遠に自分のものにしようと思うのであれば、その考えが何処かへ逃げていかないように縛り付けておく努力をしなければならない。

アレテーは不意に宿る

例が分かりにくいと思うので、もう少し現実よりの例で説明してみる。
例えば、ゴルフの打ちっぱなしにいって、理想的なフォームを身につける為に練習しているとする。
何百球も玉を打っていると、正しいスイングがわかった気になり、その通りに打つと思い通りの場所に理想的な球を打ち出せる瞬間というのがやってくる。

この時、多くの人が開眼し、打ち方を理解したと思うが、大抵の場合はそれは10球程度のほんの短い間の出来事で、その後すぐに、正しい球の打ち方が分からなくなる。
開眼し、球の撃ち方を理解できたと思える状態を常にキープできるのであれば、その人はすぐにでもプロに成れるかもしれないが、その状態は長続きすることはない。
練習という作業は、この『正しい球の打ち方』を、忘れること無く常にキープし続けるためにする作業のようなもの。

この様な考えは誰にでも、どの様な環境でも降りてくる時には降りてくるもので、将棋であっても逆転の1手を思いつくことはあるし、実際の戦争でも、圧倒的不利をひっくり返す考えを思いつくことはある。
これらの考えを、常に提案して実行できるのであれば、それは優れた人ということになるが、優れていなかったとしても、一時的であれば、優れた考えが身に宿ることはある。

優れていない人は、優れた考えが降りてきたタイミングで、その状態を利用して物事の本質を理解しようと推察し、常に、同じ様な考えを再現できるように努力しなければならない。
考えが降りてきた状態を完全に自分のものとし、常に再現できる状態になれば、その考えは安定的、持続的に自分の知識と言っても良く、徳を宿したといえる。

神がかりの状態

これまでの流れをまとめと、まず、前提として『徳が教えられるようなものかどうか』は、『徳が知識のような伝達可能なもの』かどうか。また、『徳を教えている教師を見つけ出す』事が出来れば、教えられる事になる。
だが、吟味した結果、徳は知識のようなものではなかったし、それを教える教師もいないことが分かり、『徳とは教えられないようなもの』という事に同意した。
また、徳は有益な性質を持っていることにも同意した。

人が取る行動に正しい知識が宿ると徳になりえるが、それだけではなく、正しい考えに基づいた行動にも徳は宿る。
偶然に取った行動が正しかったとしても、その行動は徳にはなりえない。 これは、対話篇のゴルギアスに登場したカリクレスとの対話でも明らかになっている。
臆病者と勇者は、時に同じ行動を取ることがあるが、その行動を取る目的が違っている為、全く同じ行動を取り続けたとしても両者は全く違った存在となる。

その行動に徳が宿るためには、正しい知識や推測に基づいた目標が必要となる。
しかし、先程の同意では知識は徳では無いとの事だったので、『考え』や『閃き』だけが徳になりえるのではないか。
つまり徳とは、賢者が持つ知識や知恵ではなく、それを利用した考えや閃きによって成り立っているのではないだろうか。

知識は他人に教え伝えることが可能だが、どの様に考えて推測をし、答えを導き出すのかといった過程や方法を他人に伝えることも教えることも出来ない。
それが出来るのであれば、誰でも天才的な『ひらめき』を意図的に起こす方法を習得することが可能になってしまう。

国の統治者は、様々な知識やデータによって国を統治するが、優れた統治者と呼ばれるものは、それらの材料を元に考えを巡らせたり推測することで、善い結果が得られる道を選び出す。
他人に教えることも出来ない『ひらめき』を元に統治し、国や民衆を善い方向へ導く統治者は、行っている行動そのものは、託宣を受ける人(これは、神が人間の体に降りてきて、人智の及ばないような事を告げてくれるといった感じの意味。)や占い師と変わりがない。

神を身体に憑依させる人間も占い師も、自分が出した結果が『何故、その様になったのか』を説明することが出来ない。
これと同じ様に優秀な国の統治者も、国の舵取りを行う為の重要な決断を下す際、数多くある選択肢の中から、何故、『その一つの答え』を選びだしたのかを順序立てて説明する事は出来ない。
仮に、この推測の部分を順序立てて説明することが出来るのであれば、そこには何らかの法則性がある為、他の凡人と呼ばれる人間であっても再現することが出来るはず。 しかし実際には、そうはなっていない。

神がかりの状態は教えることが出来ない

占い師も巫女も、自分の口を通して出てきた言葉なのに、何故、その結果になったのかを理屈で説明することは出来ない。
徳を宿した優秀な統治者も同じで、『ひらめき』を法則に基づいて説明することは出来ない。 (エジソンは、成功には99%の努力と1%のひらめきが必要というが、これは、ひらめきは努力ではどうにもならないという事)
(クリエイターも同じで、作品のアイデアを、法則に則って生み出すことは不可能で、『降りてくる』のを待つしか無い。)(コメディアンは、笑の神が降りてくる現象を法則に基づいて確実に再現できるなら、頭を悩ます必要はない。)

占い師も巫女も徳を宿した人も、自分自身では何一つ理解しておらず、最善の道へと向かう為の知識も有していないのに、どこからともなく降ってきたアイデアや『ひらめき』によって偉業を達成し続けた場合、その様な人は『神がかり』の状態と呼ぶことが出来る。
インスピレーションによって発言して行動する、神からのお告げを聞く人や預言者。詩人全員を『神のような人』と呼ぶことは、正しいことだろう。
政治家も同じで、正しいことを知識として理解して行うのではなく、推測で取った行動によって、数多くの偉大なことを成し遂げたとすれば、それは『神がかり』の状態とも言うことが出来る。
古代ギリシャでは、偉業を成し遂げた人物を神のような人と言ったりする。)

以上のことをまとめると、徳とは、生まれつき備わるものではなく、誰かから教わるものでもない。
何か、神的な運命のようなものによって、覚醒した知性などを抜きにして備わるものと予想できる。

参考書籍