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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第58回 『プロタゴラス』優れた人になる為に必要なのは才能ではなく努力? 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

前回の振り返り

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
一応、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一分内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

という事で本題に入っていきましょう。
前回は、その存在を知ることで、他の人間よりも優れて卓越した者になれるというアテレーは、人に教えることが出来るような物なのかという事について考えていきました。
アテレーが知識や技術のようなもので、他人にも伝達出来るようなものであれば、人に教えることも出来るでしょうが、仮に、運動神経や才能のようなものであった場合は、他人に伝えることは出来ないことになります。
果たしてアテレーとは、教えられるようなものなのか、それとも、教えられない神から与えられた才能のようなものなのか。今回は、その続きを行っていきます。

ソクラテスの主張としては、アテレーとは教えられるものでは無いのではないかというのが、その意見でした。
アテレーが教えられるものであるなら、世の中で優秀とされている人間は、自分が子供を授かった際に、子供に愛情を注ぐのと同じようにアテレーを教える為に、優秀な人間の子供は皆、優秀になるはずです。
その逆も同じで、劣った親に育てられた子供は、アテレーが教えられる事は無いわけですから、劣ったままということになります。

しかし実際には、優秀な人物の子供が劣っている場合もあれば、劣っているダメ親の子供が優秀な場合もあります。

徳とは教えられる

このソクラテスの主張に対してプロタゴラスは、『アテレーとは教えられるものだ』と主張します。
この主張は当然といえば当然で、仮にソクラテスの言う通りにアテレーというものが、他人には教えることが出来ないようなものであった場合。
プロタゴラスは、本来なら教えることが出来ないような事を、自分なら教えられると騙した上で、生徒と金を集めている嘘つきという事なってしまいます。

プロタゴラスの職業はソフィストで、ソフィストとは『アテレーの教師』なのですから、そのアテレーは、教えられるものでなければ困ってしまいます。

プロタゴラスは、プロメテウスの神話になぞらえて、『全ての人は徳を備えている。』と主張します。
プロメテウスの神話とは、プロメテウスとエピメテウスの兄弟が、神々の命令で地球に住む動物たちを作るという話でしたよね。詳しい話は、第53回で話していますので、まだ聞いていない方は、そちらから聞いてもらいたいのですが…
簡単に説明すると、プロメテウス達は体のベースとなる材料に、卓越した特別な能力が得られるパーツを組み合わせる事で、動物たちを作っていくんです。 生き物のベースの形を作った上で、鋭い爪や牙といった特徴を付ける感じですね。

人間以外の他の動物達は、鋭い爪や牙といった武器や、空を飛ぶ翼など、他の動物と比べて卓越した能力である個性を与えられているわけですが…
後半部分の作業を、よく考えないで行動するエピメテウスが受け持ったせいで、特別な能力を持つパーツを先に使い果たしてしまって、余ったベースの材料だけで生物が作られます。それが人間という生物です。
厳しい自然環境を生き残る為の、他の生物にはない卓越した能力を何も持たない人間は、プロメテウスによって哀れみをかけれられて、炎と、それを使いこなす知恵を与えられるという話なのですが…

神々も、その哀れな人間に対して、情けをかけることにします。
ゼウスは、人間よりも強い獣や自然災害から身を守る為、力を持たないもの同士が皆で集まって共同生活が出来るように、慎みや節度といった概念を与えます。
この、ゼウスが人間に慎みや節度を授ける際に、特定の人物にだけ授けたのではなく、全人類に平等に授けたとされているので、全ての人間は徳、つまりはアテレーを持って生まれているとされているので…

プロタゴラスは、この神話でもって、全人類にアテレーが宿っていると主張します。

アテレーに反した行為を他人が取ると人は怒る

神話という説明だけでは、神話に馴染みの薄い人間では理解が出来ないからか、プロタゴラスは具体的な例も挙げて説明してくれます。
これは、ギリシャ神話に疎い、私のような存在には、ありがたい配慮ですね。
どの様な例かというと、プロタゴラスによると、全ての人間がアテレーを持つ理由としては、アテレーに反した行動を取る場合に、人々は怒るという反応をみせるからだそうです。

例えば、皆で共同生活を送る場合に、皆の迷惑になるけれども自分の欲望を満たしたいという行動は制限されなくてはなりません。
仮に、自分の欲望を優先した結果、他人から物を盗んだり騙し取ったりした場合、それが発覚した際には人々は怒ったり気分を害したりしますよね。
これは、自分が直接的な被害にあっていない場合でも、同じです。

私は最近は、動画配信サービスばかりを見るようになったせいで、テレビの情報に疎いのですが、昔は、警察24時といった感じの、犯罪者を取り締まる警察官に密着した感じのドキュメント番組が定期的に作られていました。
何故、あの様な番組が成立するのかというと、多くの人間が、自分が被害にあったわけでもないのに、理不尽な行為や犯罪に対して腹を立てて怒るからです。
そして、その犯人が捕まる映像を見る事で、スッキリとした気分になれるからでしょう。 つまり、モラルに反した行為をされると、例え自分が被害にあっていなかったとしても、人は怒りを顕にする生物なんです。

この『怒る基準』は、誰かから教えられたわけでもなく、有る一定以上の迷惑に対しては誰だって怒ります。
では何故、怒るのかというと、アテレーというのは勉強すれば誰にでも身に着けられる行為なのに、それをしない。つまりアテレーの勉強を怠るというのは本人の努力不足だからです。
本人の努力不足、つまりは、その人間が怠けていたから、やって良い事と悪い事の区別がつかない。

アテレーが才能なら 持たないものを哀れむ

もしこれが仮に、努力ではどうにもならないようなことであれば、人々は怒りで反応するのではなく、哀れみなどで反応するはずだろうと主張します。

例えば、生まれながらに体の不自由な人間が、それが原因で他人に迷惑をかけてしまった場合、それを怒るような人間はおらず、その人物に対して哀れみの感情を抱くはずです。
仮に体が欠損している事によって、人にぶつかったとして、それを『本人の努力不足』として目くじら立てて怒るような事はしないでしょうし、仮に怒ったとしたら、その人が変な目で見られることでしょう。

また、怒るという反応は、悪いことをした際に、それ相応の罰を与えるべきだという感情でもあります。
何故、罰を与えるのが必要なのかというと、犯罪を犯したものに『それは悪い事だ』と教育し、二度と同じ過ちを犯さないようにする為です。
どのような罰を与えたとしても、善悪の区別がつかないとするのなら、税金を使って牢屋に入れるといった行為は無駄になってしまいます。 学習するという前提で、鞭打ちや罰金などの罰を与えたり投獄するといった行動を犯罪者に行うわけです。

以上が、プロタゴラスの主張です。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com