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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第58回 『プロタゴラス』優れた人になる為に必要なのは才能ではなく努力? 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

アテレーを宿すものが悪人になるのか

一見すると、筋の通った話のように思えるプロタゴラスの主張ですが、深く考えると、よくわからない点が複数出てくる事に気が付きます。

プロタゴラスの主張では、全ての人間にアテレーが備わっていることになっていますが…
仮に、全ての人間にアテレーが備わっているのであれば、そもそも、悪い人間というのは存在しないことになります。 もし、存在する場合は、悪い事と知りつつ敢えて行っているという事になります。
悪いことと知りつつ、敢えて悪い事を行っている人間に対して、何らかの罰を与えて『これは悪いことなのですよ。』と改めて教える行為に意味はあるのんでしょうか。

また、人が他人に対して怒りをあらわにするのは、アテレーに反した行為をしたときではなく、単純に自分に不利益が起こる場合とも考えられます。

例えば、東京の南青山に児童相談所が建てられるといった際に、住民は怒りを全面に出して反対運動を行いました。
東京にある既存の施設では対応が出来ないということで、東京内に施設を作るというのは悪徳な判断では無く、当然とも言える判断ですが…
その計画に対して住民が怒りをあらわにしたのは、それがアテレーに反した行為だからではなく、その施設が建つことで、その地域の土地の価格が下がる可能性が有り、投資目的で土地を購入している場合は、自分の損失につながるからですよね。

別の例で言えば、町中で大声で喚いている人をたまに見かけます。
例えば、不良であったり反社会勢力の人達は、事ある毎に大声をあげて威嚇しているイメージがありますが、彼らは徳が高く、他の人よりも細かい部分で善悪が分かる為に、他の人間よりも頻繁に怒っているのでしょうか。
パワハラ上司は、他の人間よりも卓越しているが故に、少しのミスが目について怒ってしまうのでしょうか。それとも、怒る事でストレス発散が出来るなど、自分自身に何らかのメリットが有るからでしょうか。

一方で、アテレーを備えたカリスマ性が高い人間は、余程の事でも無い限り、怒るなんて事はないように思えます。 共同体の利害に反した事を目撃した場合も、怒りに身を任せること無く、冷静に注意するでしょう。
私は日本から出たことがないので、もしかすると、これらの行動は日本特有の事なのかもしれませんが、想像するに、どこの世界であっても、常に怒っている人が徳が高く良い人間とは思わないのではないでしょうか。
どんな場面であっても、感情に任せて暴走してしまう人よりも、冷静になって話し合える人が、人格的に優れているように思えてしまいます。

両者の意見が出揃ったところで、本当はどちらが正しいのかを、対話を行う事で解き明かしていきます。

アテレーは教えられるもの

プロタゴラスの主張としては、アテレーとは他人に教えられるものというものでしたが、ソクラテスは、アテレーが教えられるものであるなら、徳が高い人物の子供は徳が高いはずだが、現実を見るとそうとは限らないといって、その主張に疑問をいだきます。
この主張に対してプロタゴラスは、『才能』の有無で説明をしだします。

プロタゴラスの主張では、全ての人間は徳を備えているとのことでしたが、完全に平等に備えているのかといえば、そうとは言えないと主張します。
ゼウスは、人類に対してアテレーを授ける時に、全ての人に行き渡るように配分をした為に、人類はアテレーの核のようなものは平等に授かったけれども、それを応用発展させる力そのものは、個人の才能によるという事です。

例えば、運動神経の良い人は、スポーツのコーチから同じ様に指導を受けたとしても、才能のない人に比べて上達も早く、トレーニングを積み重ねることで、常人には追いつけないようなスピードで、高い場所まで到達することが出来ます。
これは学問などの知識の分野でも同じで、同じ様に授業を受けているのに、僅かなヒントで問題を解く方法を思いついて発展させていく人もいれば、落ちこぼれる人もいます。
アテレーも同じで、全ての人がアテレーという概念や核の様なものを持ってはいるけれども、才能がない人間は、アテレーを伸ばすことが出来ないという事です。

つまり、運動の才能がないからと言って、運動が全く出来ないわけではないように、アテレーの才能が無いから、アテレーを全く習得できないのかといえば、そんな事はないということです。
才能がないものであったとしても、良い教師についてもらって本人が努力をすれば、才能を持っているけれども、何の勉強もしていないような人間よりは、優れた人間になれるという考えです。

共同体を作る人間にとっては、徳が高い人達が増えれば増える程に、その共同体は住みやすくなるわけなので、全ての人間は他人に徳を教えようとしますが、才能がない人間は、それを吸収することも発展させる事も難しいという事です。
では、才能のない人間は諦めるしか無いのかというと、そうではなく、才能がなければ無いなりに、アテレーを学習する方法はあると、プロタゴラスは主張します。
このアテレーの学習方法というのが、前にも言いましたが、習いたくない分野は習わせず、興味のある分野だけに特化して学習するという勉強方法なのでしょう。

すべての道はつながっている

このプロタゴラスの主張は、それなりに納得できるものがあります。
というのも、どんな分野であれ、極める為には他の知識が必要になってくる為、結局の所、総合的な勉強をしなければならないからです。

教える才能がない教師は、『将来必要になるから!』という漠然とした言葉で、算数嫌いの人間に無理やり算数ドリルをやらせたりするわけですが、本人が興味がない状態で勉強をさせたとしても、それは身につきません。
しかし、その人物が建築に興味を持ち、大工に弟子入りした場合はどうでしょうか。
最初こそ、道具の手入れの仕方や材料の加工の仕方などの勉強しかしませんが、建築全般に興味を持ち、建築士を目指すようになると、建物の耐久性を計算する為にも、数学に興味をもつことになるでしょう。
建築は建物の外観も重要ですから、デザインにも興味が湧くでしょうし、歴史的建造物のデザインの背景を探るためには、歴史も勉強しなければならないでしょう。

勉強をする目的がはっきりする事で、生徒の学問に対する捉え方が変わります。
これはアテレーも同じで、自分が共同体の中で卓越した人間になる為に、その共同体のあり方などを勉強していくと、自分ひとりのワガママを通すことが、結果的に自分の損失につながる事が理解できるようにもなるかもしれません。

この他にも、一つの道を極めようと邁進していると、全ての物事が繋がっていることに気づくというケースもあります。
例えば運動の場合などで考えてみると、スキーという競技しかやっていないのに、そのスキーのトレーニングを通して体を動かすという根本的な部分の理解が進むことで、他の競技を行う場合も、すんなりとコツを掴むことが出来る場合がありますよね。
スキーの技術そのものが、他のスポーツに対しても、そのまま流用できるといったケースも有るでしょう。

また、これは、運動分野だけに留まる様な事でもありません。 
スキーの練習を進めていく際に、何らかの精神的な壁に、ぶち当たるというケースも出てくるでしょう。
それを、色んな人達の助けを借りたり、自分自身の力を高めたり機転を利かせたりして乗り越えるという経験を何度もしていると、スポーツ以外の壁であっても、すんなりと乗り越えられたりします。

全ての物事の道がつながっているのであれば、自分が嫌いだと思っていて苦手意識が有るものは勉強せずに、長所を伸ばすというのも、卓越した人間になる為には有効な方法かもしれませんよね。

頑張れば誰でも卓越した人間になれる

アテレーの能力を伸ばす力は、才能に依存している為、全ての人間が同じ様にアテレーを高めることは出来ません。
才能がある人間は、1を説明すれば10が理解できるでしょうし、教えられた事を発展させて応用する力も高い為に、他のものよりも早い段階で卓越した人間になれる可能性が高いです。

しかし、才能がないからといっても、努力が実る事はなく、全く身につかないわけでありません。
才能が無いなら無いなりに、ゆっくりでは有るけれども、努力に応じて着実に、アテレーを身に着けることは出来る。
そして、自分なら、その手助けをする事が出来るというのが、ソクラテスの反論に対するプロタゴラスの返答となります。

この反論を受けて、ソクラテスはどの様な反応を示すのでしょうか。
この続きは、次回にしていこうと思います。
(つづく)
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