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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第59回 『プロタゴラス』優れているとは どういう事なのだろうか 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
一応、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一分内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回までの振り返り

前回までの内容としては、アテレーとは教えれるものかどうかというのが、プロタゴラスとソクラテスの対話の争点となっていました。
ソクラテスの主張としては、アテレーとは教えられるようなものでは無いのではないかといったものでした。
その理由として、優秀で卓越した人間の、その本質であるアテレーという存在が、教えることが出来る様なものであれば、まず、自分の分身ともいえる我が子に対して、教えるだろうと思ったからです。

優秀な人間の子供が全て優秀なのであれば、アテレーが教えられるというのも分かるけれども、必ずしもそうとは言えないし、逆に、劣った人間の子供が必ずしも劣っているのかといえば、そうとも言い切れない。
劣った親を持っていたとしても、優秀な子供は存在するわけですが、ではその子供は、何処からアテレーを得たのかという素朴な疑問です。

これに対してプロタゴラスは、全ての人間がアテレーの核のような物を持ってはいるけれども、それを発展させて大きな者に育て上げる為には、持って生まれた才能が必要だと主張します。
人には得手不得手があり、走り方を教えたとしても、全ての人間が同じ様に早く走れるわけではありませんし、同じ様に数学を教えたとしても、飲み込みの早い人間と脱落する人間が出てきます。
才能のある人間は、僅かなヒントでも、それを糧にしてアテレーを育てることが出来ますが、才能のない人間は、才能を持つ者よりも多くの努力と時間が必要だと主張します。

才能のない人間は、多くの努力と時間が必要だということは、言い換えるならば、時間をかけて努力をすれば、誰でも、それなりのアテレーを宿すことが出来るとも考えられます。
ただ、向かうべき目的も方法も分からず闇雲に努力をしたとしても、アテレーを身につけられわけではなく、才能のない人間がアテレーを身につける為には、目的地へ誘導するための優秀なコーチが必要となる。
つまり、優秀な教師がアテレーを教えれば、誰でも、それなりのアテレーを宿すことが出来るというのが、プロタゴラスの主張でした。

アテレーとは何なのか

プロタゴラスの主張によると、アテレーとは教えられるものという事らしいですが、では、そのアテレーの本質とは何なのでしょうか。 プロタゴラスは、何を教えるのでしょうか。
彼に言わせれば、それは『正義』と『節制』と『敬虔』、敬虔とは尊敬の敬という字に『つつしむ』という漢字を書くもので、意味合いとしては、深く敬ってつつしむ態度の事ですが、この3つからなるものだそうです。
人間が持つアテレーとは、人間が共同生活を円滑に送るためにゼウスが人間に授けたもので、円滑な共同生活を達成するのに必要不可欠なのが、この3つというわけです。

確かに、正義がなければ、悪がのさばるわけですから、秩序が保てません。
また、皆が、欲しいだけ欲しいと欲望を丸出しにして行動に移せば、これもまた社会は保てませんから、慎みも必要になるでしょう。
同じ様に、皆が、この共同体の中では自分が一番だと思って行動すれば、色々な軋轢が生まれるでしょうから、他人を敬うという態度も、安定した社会を保つ為には必要となってくる為、この3つは必須と言えるかもしれません。

心に正義を宿しているけれども、傲慢ではなく、慎み深く、他人を敬う心を持つような人が起こす行動は、人からの信用を勝ち取れるでしょうし、信頼もされるでしょう。
その様な人物が自分の思いを主張すれば、その言葉には説得力が有るでしょうし、多くの人が耳を傾けるようになるかもしれません。
もし、これらをプロタゴラスの元で効率よく学ぶことが出来るとすれば、その人物は卓越した人間になれる可能性もあります。

アテレーは複数のものなのか単体のものなのか

ですが、ここで次の新たな問題が出てきます。 それは、アテレーとは、その3つが揃ったときなのか、それとも、その3つそれぞれがアテレーというものなのかという問題です。
それぞれがアテレーというものであるなら、アテレーという一つのものが、『正義』『節制』『敬虔』という3つのものに分裂したことになります。
3つ揃った時とするならば、では、その1つが欠けた行動。例えば、正義も節制も備えているけれども、敬虔だけが抜け落ちた行動を取った場合、その行動はアテレーとはいえるのか、それとも言えないのかという疑問です。

例えば、自転車という道具が有るとします。 自転車は、複数のパーツが組み合わさって自転車という存在になるわけで、この自転車にハンドルが欠けていたりペダルが欠けていたりすれば、それは厳密には自転車とは呼べないものになってしまいます。
これと同じ様に、『正義』『節制』『敬虔』の3つは、アテレーを存在させる為の部品のような存在だと考えるなら、この3つの中のどれかが欠けただけで、完全な形でのアテレーは存在できないことになります。

この疑問に対するプロタゴラスの主張としては、アテレーというのは1つのものであるけれども、様々な側面を持っていると主張します。
例えば、サイコロというのは1つのものですけれども、サイコロには6つの面が、それぞれ存在するという事です。
正義・節制・敬虔などは、アテレーが持つその1面であって、それぞれが『徳』そのものというわけではないという事のようです。

アテレーには様々な側面が有る

では、正義・節制・敬虔の中の1つのものを手に入れれば、他の全てのものが手に入るのでしょうか。
サイコロの場合は、1の面だけを手に入れようとして、それを手に取ったとしても、サイコロ全体を手にとることになります。
しかし、これはそうでもないらしいです。というのも、プロタゴラスによると、一つの行動を抜き出してみた場合、勇気は宿ってはいるけれども、知恵が欠けているという行動が存在するからです。

ここで、新たに『勇気』と『知恵』というものも、アテレーの側面の1つだと追加されてしまいました。
アテレーという、ただ1つのものの正体を聞いただけなのに、その正体はドンドン増えていきます。 また、それらが、それぞれアテレーの正体なのかというと厳密にはそうではなく、それらはただの側面でしか無いという状態になってしまいました。
質問を投げかければ投げかける程に、プロタゴラスが付け加える補足情報によって、アテレーの存在はどんどんと複雑化していくわけですが…

では、ソクラテスが何故、このような質問を投げかけたのでしょうか。

理論と現実の違い

それは、日常でのアテレーの使われ方とプロタゴラスの説明に、ギャップを感じたからでしょう。
現実世界では、正義に則った行動をすれば、アテレーを宿した卓越した人だという事で他人から尊敬をされます。 その他にも、美しい振る舞いをすれば、同じ様に他人からの尊敬や憧れを獲得することが出来るでしょう。
美しさという観点でいえば、単純に外見が優れているというだけで、一部の人からは卓越した存在として扱われることも有るでしょう。

節制や慎み深さも同じで、それぞれ単独の徳目が宿った行動をしただけでも、アテレーが宿った行為として尊敬や憧れを得ることが出来ることも有るでしょう。

つまり、日常的な使われ方としては、『正義』『節制』『敬虔』それに、『勇気』や『知恵』、そしてここでは語られていませんが『美しさ』というものも、それらが単独で宿った行動は、全てアテレーが宿る行為だと認識されているという現状が有りました。
その為、これらそれぞれが単独でアテレーと呼ばれる存在なのか、それとも、全て揃わなければアテレーとは言わないのかという疑問が出てきたのでしょう。
また、それぞれがアテレーで有るなら、正義や節制などの徳目は、全て同じものということになり、1つを手に入れる事で全てを手に入れる事も、理論上は可能になります。

何故、それぞれの徳目がアテレーであれば、全ての徳目が同じものであるのかを、もう少し丁寧に説明してみると…
『正義とはアテレーである。』 『節制とはアテレーである。』 とした場合。 『正義とは節制である』という事も成り立ってしまうからです。
数式に当てはめてみると、A=B で、尚且、A=C の場合は、B=Cも成り立ってしまうというわけです。

つまりこれは、全ての徳目が単独でアテレーになる事を認めてしまえば、全ての徳目は根本的に同じものとなってしまうという事です。

それぞれの徳目は別のもの

これに対してプロタゴラスは、正義や節制などは、同じものでは無く、アテレーの1面に過ぎないと主張します。
同じものではない上に、アテレーという1つのものの1面とはどういう事なのでしょうか。
先程は、分かりやすくサイコロに例えましたが、サイコロの目が無い、ただの六面体で考えた場合、それぞれの面に違いはなく、側面や上面の様に観点によって捉え方が変わるだけで、本質的には同じものになってしまいます。

これは、先程も説明しましたが、全ての徳目がアテレーとイコールになってしまえば、結局は、徳目全てが同じものとなってしまうからです。
何の目印もない6面体には、それぞれの側面がありますが、その物体に何らかの力が加わって転がってしまえば、どの面が何を表していたのかが分からなくなりますよね。
1つのものを、どの側面から見るかというだけなので、根本的には同じものである為に、見分けがつかないのも当然ですよね。

しかし、プロタゴラスの主張によると、それぞれの徳目は同じものでは無く、アテレーの部分を表すものだと答えます。
アテレーを構成する部分であるとは、どういうことなのかというと、『正義』や『節制』『敬虔』や『勇気』といった、それぞれの徳目は、明確に違った性質を持つ部分で、それぞれの部分が寄せ集まることで、一つのアテレーを作っているということです。
この説明を聞いたソクラテスは、『アテレーとは、目や口や鼻といった、それぞれ別の働きをする器官がついている、顔のような存在なのですか?』と質問をすると、プロタゴラスは、これに同意すします。

人間の顔には、目や口といった、それぞれ明確に違った働きをする部分が存在して、それが寄せ集まって、顔という存在を生み出しています
目は単独では人の顔だとは言いませんし、目と鼻は同じ顔の部分という特徴を持っては居ますが、全く違った機能を持っていますし、見た目も違います。
ここまで違った機能と見た目を持つものなので、目と鼻は同じものだとは言えないでしょう。