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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第57回 『プロタゴラス』優れた人間は作れるのか 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

アテレーとは教えることが出来ない?

ソクラテスは、それを知ることで『優れた人間』になれるような知識のようなモノは存在するのか?という疑問が解決しないので、質問を続ける事にします。
というのもソクラテスは、人を優れたものにすると言われているアテレーを研究しまくっていたんですが、それが分からない為に苦しんでいた存在だったからです。

当然のことですが、ソクラテスはプロタゴラスに会う以前にも、北にアテレーを知っているという人の存在を知れば北に、西に真理を得たという人がいたという噂を聞けば西に行くような人だったのですが…
色んな賢者と呼ばれる人の話を聞いた結果、ソクラテスが納得できるようなアテレーを知る事が出来なかったんですね。
『アテレーを知っている』という人を見つけ次第、会いに行っては話を聞いたのに、聞いても聞いてもアテレーを理解できずに、打ちのめされる。
そうした事を繰り返していくうちにソクラテスは、アテレーとは、知識のように言葉で他人に伝えることが出来ないような代物なんじゃないかと思う様になったのかもしれません。

ソクラテスはプロタゴラスに、『アテレーは、知識のように人に教え伝える事が出来るものなのでしょうか?』という疑問を率直に伝え、自身の主張を展開します。

優秀な人の子供は優秀なのか

先程も言いましたが、知識や技術を他人に伝えることは可能です。
画家は、テクニックや知識を他人に教えることで、絵の上達を助けることが出来ますし、数学の教師は、その知識を授業によって伝え、自身で考えて発展できるようにさせることが出来ます。
大工のような職人も、その他の学問も、知識や技能を伝達する事で弟子にその知識を伝えることが可能です。

しかし、アテレーというものは、他人に伝達が可能なのでしょうか。
仮に、アテレーと呼べれるものが伝達も学習も出来るようなものであるとするならば、例えば、徳が高いと言われている人間力の高い優れた人の子供は、親からアテレーを教えてもらっているはずですよね。

大抵の人にとって、自分の子供というのは大切なものですし、他人よりも強い愛情や執着を持って接しているものだと思います。
もし、アテレーを宿すような優れた人間が子供をつくったとすれば、自分の子供に愛情を注ぐように、自分が持つアテレーも伝え教えるのは当然の事だと思います。
何故なら、優れた人間になるというのは幸せに直結するわけですから、自分の子供の幸せを願うのであれば、アテレーを伝えて優れた人間にしようと思うのは、親心として当然なことだと思われます。

以上のことを考えると、善人でカリスマ性が有り、人々を先導できるような優秀な人の子孫というのは、その優秀な親からレクチャーを受けているので、同じ様に善人でカリスマ性が有ってリーダーの素質を備えた人間ということになります。
しかし実際にどうかというと、親は優れていて立派な人間であったとしても、その子供がクズという事は、結構あることで珍しいことではありません。
成功を収めた優れた女優であったり権力者の子供が、覚せい剤の使用や暴行などを行うといった感じで、犯罪で捕まるケースがあったりしますよね。

その一方で、鳶が鷹を生むといった具合に、両親がクズなのに、その子供が優秀な人物であるといった事もありえます。 その子供は、おそらくですが、両親からはアテレーと呼ばれるものは教えられてはいないはずです。
何故なら、両親が子供に教えるべきアテレーを備えているのであれば、その両親がクズという事はなく、他の親と比べて卓越した、優れた親になっているはずだからです。
アテレーが人から教えられることで身に着けられる様なものであるなら、アテレーを持たない親から育った子供は、誰からアテレーを学んだのでしょうか。

それとも、アテレーとは、人から教えられるようなものではなく、運動の才能のように、持って生まれるようなものなのでしょうか。

アテレーとは教えられないものかもしれない

少し視点を変えて、アテレーとは人に教えられないようなものという観点から考えてみると…

例えば、国の舵取りをする為に、政治家同士で議論をするケースで考えると、公共事業で大きな建物を建てる場合は、建築の専門家を議会や予算会議に呼んで、参考意見を聴くといったことをします。
仮に音楽祭のようなものを開く場合には、音楽家や、そういった興行を生業としている人間に、どれぐらいの規模の予算がかかるのかや、実施する際の注意点を聴くのは当たり前のことです。
もし、そういった人間を排除して、何も知らない政治家だけで議論を行って、失敗して成果が得られなかった場合。 こんな失敗をした政治家は、『何故、専門家に意見を求めなかったの?』と非難されるでしょう。

具体的にいえば、何かを建築する場合、建築士や大工といった専門家に話を聞くのは当然として、国の予算を管理する専門家や、その地域の事情に詳しい専門家、地形の専門家など、数多くの専門家の意見を聞き入れて作るほうが、成功率は高まります。
専門家の正しい知識や経験があれば、失敗すること無く、事業を成功に導けた可能性が高いのに、それを怠って素人同士で話し合った結果として失敗したら、責められて当然と言えます。

しかし、これが国家のより良い将来であるだとか。人の上に立つべき優秀なリーダーを育成するといった、漠然とした『良い』とされている事を目指す為の話であれば、そういった専門家を招かなかったとしても、文句は出ないでしょう。
何故、文句が出ないのかというと、市民の多くが、『良い』事へ導く為の専門家などは居ないと思い込んでいるからです。
ソクラテスはこの様な形で、アテレーは教えられるようなものではないのではないかという自分の意見を主張します。

アテレーが教え伝えられるものなら自然と伝播する

このソクラテスの意見には、納得させられる部分が多くありますよね。
他の人よりも優れていて、その優れている部分を言葉にして他人に伝えることが出来て、それを聞いた相手が同じ様に優れた人間になれるのであれば、世の中には、もっと沢山の優れた人間がいても不思議ではありません。
知るだけで優れた人間になれるアテレーが言葉に治せるのであれば、印刷技術が生まれると同時に、その知識は多くの人に伝えられるでしょうし、本でアテレーを学んだ人間は、それを周りにいる人達に積極的に教えるでしょう。

何故なら、自分の周りにいる人達が劣った悪い人間であるよりも、優秀で良い人間であるほうが、暮らしていく環境としては良いからです。
街が悪人で溢れかえれば、一人で外を出歩くことすら出来ませんが、善人しか居ないのであれば、夜中でも一人で平気で出歩けます。
暮らしていく上で心配事が無くなるわけですから、知るだけで優秀で良い人になれる知識を持っているのであれば、積極的に周りの人に教えるでしょう。

今現在は、この当時から2500年程経っているわけですが、もし、アテレーが伝えられる様な知識であるなら、現在は善人で溢れかえっているはずなんですが… 実際問題としてどうでしょうか。
もし仮に、アテレーは教えられるけれども、本のような間接的なものでは教えることが出来ずに、生徒と面と向かって長期間に渡って教育しないと伝えられないような物とした場合は、優れた人が少ない言い訳には なるかもしれません。
しかし、ソクラテスが生きた時代もそうですし、現在もそうですが、優れていると世間から認められている人が、子供の教育がまともに出来ていないという状態は、どの様に言い訳するのでしょうか。

丁度よい時間になってきましたので、この続きはまた、次回にしようと思います。