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プラトン著【メノン】の私的解釈 その8 『神がかりの』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com

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目次

知識は推測で代用できる?

徳とは知識のようなものだという仮説をたてて推論を行い、その結果として出てきた『徳とは知識のようなものだ』という結論を、再び吟味してみた所、『徳とは知識のようなもの』とは言えない事が分かった。
ソクラテスとメノンは、徳とは知識を伴って現れるものだという前提に共に同意をしたが、この徳の捉え方が間違っていたかもしれないとし、もう一度、前提から見直すことにする。

人にものを教える場合。 そのもの自身を知っていれば、自分の記憶を元に教えることが出来るが、そのモノ自身を知らなかったとしても、推論によってどのようなものかを教えることが出来る。
例えば、京都から東京に行くとした場合。 東京へ行ったことのある人間に『東京への行き方』を聞けば、聞かれた側は自分の過去の経験に照らし合わせて、どの様に行けば良いのかを聞き手に教えることが出来る。
では、東京への道案内は、東京に行ったことがある人間にしか出来ないのかといえば、そんな事は無い。

日本の地図の知識が有って、京都と東京の位置関係が分かっていて、その間にどの様な電車が走っているのかを知識として知っている人間は、仮に東京に1度もいったことがなかったとしても、行き方を『推測する』ことで東京への生き方を教えることが出来る。
今の時代であれば、グーグル検索の仕方や地図アプリの使い方を知っている人間であれば、『その様な手段を利用すれば正しい答えが得るのではないか。』と推測して実行することで、日本全国、どの場所への道案内も可能となる。
聞き手にとっては、実際に東京へ行ったことのある人間に聴くのも、持っている知識を元に推測して答えを導き出せる人間に聴くのも同じ結果となるので、双方にそれ程違いはない。

これにより、正しい考えを用いた行為というのは、正しい知識を用いた行為に劣っていない行動ということが分かる。

メノンはこれに納得し、『正しい考えを用いて行った行為も徳に含まれるのであれば、下した決断が正しいときや間違っている時が有るのもうなずける』と答える。
しかしソクラテスは、『正しい答えに沿って行動を起こした場合は、間違うなんてことは起こらずに、常に正しい結果に辿り着く。』と訂正する。
これを聴いたメノンは、『それだと、両者は全く同じものになってしまい、違いが無くなってしまうのではないか。』と困惑する。

ダイダロスの彫像

これに対してソクラテスは、ダイダロスの彫像に例えて、両者の違いを説明しだす。
余談になるが、ダイダロスとはギリシャ神話に出てくる有名な職人で、身につけた技術や頭脳で、数多くの建築物や発明品や芸術品を作ってきた人物で、有名なイカロスの父親。
ミノタウロスが住むとされているラビリスンの建築も行う。 ミノタウロスアテナイを属国とし、毎年、貢物を要求していたが、それに耐えられなかった英雄テセウスが、ラビリンスにミノタウロスを退治に行く。
しかしテセウスは、迷宮に迷い込んで目的地に辿り着けない。 そのテセウスに恋をしたのが、ミノタウロスの娘であるアリアドネで、迷宮の仕組みをテセウスに教える。

結果として、テセウスミノタウロス退治を成功させるが、ラビリンスの秘密が漏れたということで、ダイダロスイカロスと共に塔に幽閉される。
この塔から脱出するために、蝋で鳥の翼を作り、共に塔から飛び立って逃げ出すも、空を飛べた事に感激したイカロスは空高く舞い上がってしまい、太陽に近づきすぎてしまう。
太陽の熱に熱せられた蝋の羽は溶けてしまい、イカロスは大地に落下してしまう。

話をメノンとの対話に戻すと、ダイダロスは腕の良い職人なので、彼が作った彫像は非常に優れていて価値が高いが、優れた彫像過ぎて、その彫像には命が宿り、ほうっておくと逃げていってしまう代物。
どんな価値の有る彫像も、逃げてしまえば意味はないので、その価値を自分のものにしておこうと思うのであれば、縛り付けて捕まえて置かなければならない。

これと同じで、どの様な人間であったとしても、優れた考えを思いつく事はある。この状態を、神がかりの状態と表現すればだろうか。
多くの凡人は、この神がかりの状態を維持することが出来ず、その『良い考え』は時間と共に何処かへ逃げてしまい、見失ってしまう。
それを永遠に自分のものにしようと思うのであれば、その考えが何処かへ逃げていかないように縛り付けておく努力をしなければならない。

アレテーは不意に宿る

例が分かりにくいと思うので、もう少し現実よりの例で説明してみる。
例えば、ゴルフの打ちっぱなしにいって、理想的なフォームを身につける為に練習しているとする。
何百球も玉を打っていると、正しいスイングがわかった気になり、その通りに打つと思い通りの場所に理想的な球を打ち出せる瞬間というのがやってくる。

この時、多くの人が開眼し、打ち方を理解したと思うが、大抵の場合はそれは10球程度のほんの短い間の出来事で、その後すぐに、正しい球の打ち方が分からなくなる。
開眼し、球の撃ち方を理解できたと思える状態を常にキープできるのであれば、その人はすぐにでもプロに成れるかもしれないが、その状態は長続きすることはない。
練習という作業は、この『正しい球の打ち方』を、忘れること無く常にキープし続けるためにする作業のようなもの。

この様な考えは誰にでも、どの様な環境でも降りてくる時には降りてくるもので、将棋であっても逆転の1手を思いつくことはあるし、実際の戦争でも、圧倒的不利をひっくり返す考えを思いつくことはある。
これらの考えを、常に提案して実行できるのであれば、それは優れた人ということになるが、優れていなかったとしても、一時的であれば、優れた考えが身に宿ることはある。

優れていない人は、優れた考えが降りてきたタイミングで、その状態を利用して物事の本質を理解しようと推察し、常に、同じ様な考えを再現できるように努力しなければならない。
考えが降りてきた状態を完全に自分のものとし、常に再現できる状態になれば、その考えは安定的、持続的に自分の知識と言っても良く、徳を宿したといえる。

神がかりの状態

これまでの流れをまとめと、まず、前提として『徳が教えられるようなものかどうか』は、『徳が知識のような伝達可能なもの』かどうか。また、『徳を教えている教師を見つけ出す』事が出来れば、教えられる事になる。
だが、吟味した結果、徳は知識のようなものではなかったし、それを教える教師もいないことが分かり、『徳とは教えられないようなもの』という事に同意した。
また、徳は有益な性質を持っていることにも同意した。

人が取る行動に正しい知識が宿ると徳になりえるが、それだけではなく、正しい考えに基づいた行動にも徳は宿る。
偶然に取った行動が正しかったとしても、その行動は徳にはなりえない。 これは、対話篇のゴルギアスに登場したカリクレスとの対話でも明らかになっている。
臆病者と勇者は、時に同じ行動を取ることがあるが、その行動を取る目的が違っている為、全く同じ行動を取り続けたとしても両者は全く違った存在となる。

その行動に徳が宿るためには、正しい知識や推測に基づいた目標が必要となる。
しかし、先程の同意では知識は徳では無いとの事だったので、『考え』や『閃き』だけが徳になりえるのではないか。
つまり徳とは、賢者が持つ知識や知恵ではなく、それを利用した考えや閃きによって成り立っているのではないだろうか。

知識は他人に教え伝えることが可能だが、どの様に考えて推測をし、答えを導き出すのかといった過程や方法を他人に伝えることも教えることも出来ない。
それが出来るのであれば、誰でも天才的な『ひらめき』を意図的に起こす方法を習得することが可能になってしまう。

国の統治者は、様々な知識やデータによって国を統治するが、優れた統治者と呼ばれるものは、それらの材料を元に考えを巡らせたり推測することで、善い結果が得られる道を選び出す。
他人に教えることも出来ない『ひらめき』を元に統治し、国や民衆を善い方向へ導く統治者は、行っている行動そのものは、託宣を受ける人(これは、神が人間の体に降りてきて、人智の及ばないような事を告げてくれるといった感じの意味。)や占い師と変わりがない。

神を身体に憑依させる人間も占い師も、自分が出した結果が『何故、その様になったのか』を説明することが出来ない。
これと同じ様に優秀な国の統治者も、国の舵取りを行う為の重要な決断を下す際、数多くある選択肢の中から、何故、『その一つの答え』を選びだしたのかを順序立てて説明する事は出来ない。
仮に、この推測の部分を順序立てて説明することが出来るのであれば、そこには何らかの法則性がある為、他の凡人と呼ばれる人間であっても再現することが出来るはず。 しかし実際には、そうはなっていない。

神がかりの状態は教えることが出来ない

占い師も巫女も、自分の口を通して出てきた言葉なのに、何故、その結果になったのかを理屈で説明することは出来ない。
徳を宿した優秀な統治者も同じで、『ひらめき』を法則に基づいて説明することは出来ない。 (エジソンは、成功には99%の努力と1%のひらめきが必要というが、これは、ひらめきは努力ではどうにもならないという事)
(クリエイターも同じで、作品のアイデアを、法則に則って生み出すことは不可能で、『降りてくる』のを待つしか無い。)(コメディアンは、笑の神が降りてくる現象を法則に基づいて確実に再現できるなら、頭を悩ます必要はない。)

占い師も巫女も徳を宿した人も、自分自身では何一つ理解しておらず、最善の道へと向かう為の知識も有していないのに、どこからともなく降ってきたアイデアや『ひらめき』によって偉業を達成し続けた場合、その様な人は『神がかり』の状態と呼ぶことが出来る。
インスピレーションによって発言して行動する、神からのお告げを聞く人や預言者。詩人全員を『神のような人』と呼ぶことは、正しいことだろう。
政治家も同じで、正しいことを知識として理解して行うのではなく、推測で取った行動によって、数多くの偉大なことを成し遂げたとすれば、それは『神がかり』の状態とも言うことが出来る。
古代ギリシャでは、偉業を成し遂げた人物を神のような人と言ったりする。)

以上のことをまとめると、徳とは、生まれつき備わるものではなく、誰かから教わるものでもない。
何か、神的な運命のようなものによって、覚醒した知性などを抜きにして備わるものと予想できる。

参考書籍