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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第56回 『プロタゴラス』 2つの価値観 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

人間社会の中での相対主義

ですが、ここでいう相対主義は、そこまで行き過ぎた相対主義というわけでもないようです。
というのも前回までの話で、古代ギリシャで何故、アテレーというものが求められて、それに応えるように、アテレーを教える人達が出現したのかというのを話してきましたが…
その理由としては、アテレーというものを手に入れることで、他の人間よりも卓越した人間になり、政治の場に置いて発言力を高めて成功者になりたいという思いを抱く人達が一定数現れた事で、アテレーというものを求める動きが出てきたんでしたよね。

では、政治とはどの様にして生まれたのか。 プロメテウスの神話にまで遡ると、人間というのは、他の動物達の様に、明確に他よりも優れた物を持たない状態で生まれてきた為に、その存在が何なのかというのは不明です。
また、人間は武器や動きの速さなど、卓越した能力を持たない為に、共同体を作り上げることで、自分たちの身を守ってきた歴史があります。 政治というのは、その共同体を暮らしやすい環境にする為に、必要なものですよね。
共同体とは、多くの人達が互いにに関係し合って生きていく集団のことですが、その舵取りをする政治の場で、『人は自由に振る舞ったら良い。』なんていってしまうと、政治の意味がなくなりますよね。

共同体を運営していく為には、他人に迷惑がかかるような悪い行為は規制しなければなりませんし、共同体の為になるような良いとされる行為は、市民が積極的に行うように誘導しなければなりません。
この場合、共同体にとって、何が悪くて何が良いのかを定義する必要がでてきます。 つまり、相対主義であったとしても、自分が住む国や地域内での善悪の共通認識を作る必要性が出てくるという事です。
当然の事ですが、意見が他の政治家と対立した場合は、相手を説得する必要性が出てきます。

各政治家には、それぞれの正義が有るからといって、それで良いとはならないわけです。
その共同体にとっての正義。 共同体に参加している人々が共通で『これが正義だ』と思えるものを定義して、その正義に照らし合わせた国の運営を行っていく必要があります。

共通認識を拡大すると絶対主義になる

先程は、相対主義を際限なく拡大解釈することで、善悪の基準が人それぞれの価値観で決まるという話したわけですが…
この、『自分たちが住む地域の善悪』という共通認識を際限なく拡大していくと、どうなってしまうのかというと、地球全体としての共通認識としての善悪という事になます。
例えば、今現在は200カ国程度の国がありますが、仮に、再び侵略戦争が起こって国の再編が起こって、最終的に地球には1つの国しか無いような状態になってしまったというケースを考えると…

統一された1つの国の政治家が、国の中で通用する正義を考える場合、結果的に、地球に済む人類全体の正義について考えなければならないという事になってしまうということです。
これは、相反する主義である絶対主義と似たような考え方になってしまうとも考えられます。
こうして考えると、相対主義と絶対主義という、絶対に交わる事のない相反する考え方も、議論が可能と言えなくも無いような気がしてこないでしょうか。

ソクラテスに関しても、アテレーを探求する目的は、幸せになる事だと主張しているので、地球全体としての善悪やアテレーといったものではなく、人としてのアテレーを求めていると思われます。
つまり、プロタゴラスとソクラテスは、絶対主義と相対主義という、交わることのない正反対の主義を主張しているのですが、双方ともに行き過ぎているわけではない為に、歩み寄れるような位置にいるわけです。
この両者の立ち位置によって、対話が可能となっています。

アテレーとは教えることが出来るのか

では、対話編を通してどのようなことが語られるのでしょうか。
詳しいことは、次回以降で1冊づつ取り上げて読み解いていこうと思うのですが、どのような事が主に話されているのか、議題を簡単にいってしまうと、『アテレーとは教えることが出来るようなものなのか。』といった事がテーマになります。

ソフィスト達は、アテレーを教えることを生業としているわけで、当然のことですが、アテレーを教えることが出来るようなものだとして扱うわけですが、本当にそうなのでしょうか。
それとも、運動や何かしらの競技の才能の様なものと同じ様に、教えるようなことが出来ない、天から与えられた、持って生まれてくるようなものなのでしょうか。

アテレーというのは、それを身に着けることで他人よりも優れた者になることが出来るといわれているもので、身に着けることで他人からの尊敬が得られるようなものと考えられています。
当然のことながら、アテレーを身につけたものの行動には正義や勇気といったものが宿っていますし、単純に力強いだけでなく、節制や慎みといったものも備えた人物と考えられているわけですが…

仮に、アテレーが教えられるようなものであるとするならば、どんな人間にでも、適切な教育さえ施せば、アテレーが宿る立派な人間になれるということになります。
これは、どんな人間が相手でもという事です。 例えば、自分自身の快楽のためだけに、他人の命を奪い続けるような連続殺人犯が相手だったとしても、適切に教育を施せば、その人物は立派な人間になれるということになります。
その人物が悪とされる道を進んだのは、その者が無知だったというだけなので、正しい教育を施すことで無知の状態を治すことが出来れば、その人物は立派な人間になることが出来るはずです。

もしこの通りであるのなら、犯罪者とされるものを逮捕して施設に収容した上で、正しい教育を行う事で、悪人の絶対数を減らすことも可能となるでしょう。
何故なら、正しい教育を一定期間受けて出所したものは、アテレーを身に宿した立派な人間であるからです。 善悪の分別がつき、立派な人間である彼らは、その後は犯罪に手を染めることもないはずです。

アテレーは天から授かる才能なのか

本当にこの様になれば、この世はもっと住みやすくなるでしょうし、素晴らしいことことだとは思うのですが…
もしかするとこれは幻想で、実際には、運動の才能やリズム感の様に、持って生まれたものかもしれません。
もしそうだとするのなら、善悪の見極めや、正義や勇気が宿った行動は、その才能を持つものだけが行える特別な能力という事になります。

この様な前提の場合は、当然ですが、アテレーを他人が教える事は出来ないですし、生まれてから努力をして身に着けようと思ったとしても、才能を持って生まれた者にはかなわない事になります。
アテレーを教えるといって人を集めて、多額の金をとっているソフィストと呼ばれる人達は、教えることが出来ないものを教えることが出来ると主張してお金をだまし取っている事になってしまいます。

これを聞いているみなさんも、是非、自分自身でこの問題を考えてもらいたいんですけれども、この質問は単純なようで、かなり難しい質問だと思います。
いきなり、アテレーについて考えるというのは、難しいことかもしれません。
というのも、アテレーという言葉は日本人には聞き馴染みがない言葉ですし、これまでの説明でも、抽象的な事にしか触れずに、具体的にどのようなものなのかという事について触れて来なかったですしね。

もっと分かりやすく、想像しやすい事として、善悪の基準や見分け方について考えてみるのも良いかもしれません。
何が良いことで、何が悪いことなのか。 これも、一見単純なように思えて、かなり難しい質問だと思います。 何故なら、多くの人が、善悪の基準なんて人から教えてもらわなくても、全員が共通認識として持っている価値観だと思い込んでいるからです。
でも哲学で大切なのは、今までの常識というものを取っ払った上で、改めて考えて見る姿勢です。

人間は、本当に善悪を見極めることが出来るのか。 そして、果たして、その方法は他人に教えることが出来るのか。
次回から、こういった事を、プラトンの対話編を読み解く事で、みなさんと一緒に考えていこうと思います。