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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第56回 『プロタゴラス』 2つの価値観 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次


プラトンの対話篇

前回は、プラトンが書いた初期作品の中から『メノン』『ゴルギアス』『プロタゴラス』の3つ挙げ、それぞれについて簡単な説明をしましたが、今回からは、もう少し詳しく掘り下げていこうと思います。
これらの作品ですが、一般的には『メノン』が入門編として優れているとされているのですが…
私が読んだ印象としては、『メノン』を理解するためには、前提の知識としてソフィストとは何なのかというのを知る必要があると感じました。

その為、このコンテンツでは、まず、ソフィストを扱った『プロタゴラス』と『ゴルギアス』を先に勉強していきます。
この2つの作品ですが、どちらから手を付けてよいのかというのは難しいところなんですが… このコンテンツでは、『プロタゴラス』から先にやってこうと思います。
まず、タイトルの『プロタゴラス』というのは、人名です。 プラトンが書いた対話篇は、対話相手がそのままタイトルになっている場合が多く、この作品もその1つとなっています。

プロタゴラスの相対主義

このプロタゴラスという対話編ですが、ソクラテスが住むアテナイに、プロタゴラスが訪問してきた事を聞きつけたソクラテスの友人が、彼に教えを請うた目に、多額の金を持って会いに行こうとするところから始まります。
前回にも少し話しましたが、プロタゴラスというのはかなりの人気のある賢者で、ギリシャ全土に幅広く名前を轟かせていた人物のようです。
彼の残した有名な言葉としては、『人間は万物の尺度である』というものが有りまして、この言葉は、彼が掲げる相対主義を象徴する言葉となっています。

この言葉を簡単に説明すると、物事の尺度というのは、各それぞれの人間によって決定されるというものです。 人間が、『その存在』を認識することで、存在に意味付けをするということです。
例えば、目の前に本があった場合、その本の存在を認識して、本という存在に意味や目的を見出すのは、それを認識した人間が決める事で、本そのものに絶対的な存在理由や目的は存在しないという事なんでしょう。
つまり、1つの現象を10人が観察した場合、その現象の捉え方は、人それぞれが持つ立場や知識によって変わってしまい、10通り存在するというわけです。

物事の基準というのは、それぞれの人が決めることであり、『その存在』そのものの絶対的な基準というのは存在せず、物事は相対的だと主張したのが、プロタゴラスです。

このプロタゴラスが、ソフィストを代表する人物だというのが影響しているのか、ソクラテスと対話するソフィストと呼ばれる人は、基本的には相対主義的な考えを持つ人間が多いです。
一説では、プロタゴラスはソフィストという職業を確立させた人物とも言われていたりもしますしね。

相対主義と絶対主義

一方で、ソクラテスが掲げているのは絶対主義で、この世には、絶対的な基準というものが存在するという考え方です。

例えば、正義の価値観で考えてみるなら、相対主義における正義とは、その立場や環境によって変わるものとして考えます。
つまり、それぞれの立場に立つ人間が、それぞれの立場で『正義』という価値観を自分で決めていくという事です。 いわゆるポジショントークで、戦争が起こる理由は、主にこれが原因となったりしますよね。
戦争は、2つの立場で考えられた2つの正義の対立によって、起こります。 一方が善で、一方が悪者ではありません。 そこに参加している人達は、互いに自分が良いことをしていると思って、争いを起こして参加します。

自分の主張が正義で、相手の主張は自分達とは違う主張だから、相対的に観て間違っている。 間違った主張なのに、正しい主張をしている自分と対立するのは、相手が悪だからという考え方ですね。
これを双方が思っているから、争いが生まれて、それが発展して殺人につながったり、戦争に発展したりするわけです。

一方で絶対主義は、この世には絶対的な基準というものが存在しているという考え方です
相対主義的な考え方では、戦争というのは正義と正義の対立によって起こる事になりますが、絶対主義では、そうは考えません。
というのも、『人間がどう認識するか』というのとは関係がなく、その事柄そのものに、絶対的な正義や善という確固たるものが存在していると考えます。価値観が一つしか無いため、皆がそれを知る事が出来れば、戦争は起こらないと考えます。

絶対的な基準

人々は善悪の基準を知る事で、絶対的な基準において善悪を見分けることが出来るわけですから、やって良い事と悪いことを知ることが出来るようになります。
争いが起こるというのは、争いを起こすという動機の中に悪いものが混ざっているから起こるのであって、良いということを積み重ねた結果が、殺人を肯定するという結果には、なかなか結びつきません。
相手が悪行を重ねているだとか、物凄く酷いことを相手にされて憎しみを抱いているといったことが一切ない状態で殺人が肯定されるというのは、異常な事ですよね。

争いが起こるのは、人々が善悪の基準を正しく知らないから、もしくは誤解しているから起こってしまうものであって、互いが本当に正しいものを知り、その考えを共有することが出来れば、争いは起こらないことになります。

絶対主義的な考え方では、絶対的な善と悪が存在するわけですから、悪い事をしている人間は、悪いことと自覚した上で、あえて悪い事をしているか…
もしくは、無知である故に、自分が悪いことをしている事を知らないかの、何方かという事になります。
どちらの場合も、相手が悪い事をしているという事を伝えて理解させた上で、『悪い事は止めよう』と説得できる可能性があるわけで、争い以外のアプローチをとることが可能になります。

まとめると、相対主義は、相手の主張と比べて自分の主張はどうなのかという相対的な考えといえると思います。
自分の主張がどのようなものなのかを知るには、自分とは違った他人の意見が必要で、他人の主張と比べることでしか、自分の立ち位置がわかりません。

これに対して絶対主義は、どの観点から見ても変わらない、絶対的な価値があるという考え方となります。
人間の認識ではなく、それぞれのモノや事柄『そのものの存在』に価値観というのが内包されていて、その価値観を正しく知る考え方ともいえるでしょう。
この、相対主義と絶対主義との戦いが、プラトンが書いた対話篇には結構出てくるのですが、この3作品も、これにあたります。

相対主義相手に対話が可能なのか

ここで、一つ疑問に思われる方も、いらっしゃるかもしれません。 どういった疑問かというと、相対主義者と対話が可能なのかという事です。
相対主義は、それぞれの立場や状況によって、同じものを取り扱ったとしても、それを認識する人によって捉え方が変わるという考え方です。 先ほど紹介した、『人間は万物の尺度である』という言葉が、それを物語っていますよね。
物事をどの様に捉えるのかは、それを認識した人間によって基準が決められてしまう為に、人間、一人一人のそれぞれの認識の中に、それぞれ正解が存在するのが相対主義的な考え方です。

つまり、相対主義的な考え方でいえば、全ての人間の考える事は、その立場において正しいと言わざるを得ないので、そこに論争が起こりようがないんです。
何故なら、この考えを追求していくのであれば、間違ったことを言う人が存在しないという事になるからです。
相手と自分と考え方が違ったとしても、その考え方はそれぞれの立場において正しい為に、指摘することができなくなります。

自分が、正しいと思うことについて一生懸命、主張をしたとしても、『貴方がそう思うんであれば、それで正しいんじゃない? あなたの中ではね。』といわれて終わりです。
他の人に自分の価値観について否定されたとしても、『私は、これが正しいと思ってるから。 あなたが違うと思うのであれば、それで良いんじゃない?』といえば、議論が終わってしまいます。
つまり、討論をする意味もなくなります。

ソフィストとは、特に、今回から取り扱うプロタゴラスは、他人から金銭を受け取ってアテレーを教える事で、巨万の富を築き上げた人ですが、この相対主義の考え方に照らし合わせれば、この職業は存在する意味がありません。
何故なら、物事はそれぞれの人が把握して認識する事で、それぞれの立場において定義づけられるからです。
アテレーというものも、それぞれの人間が定義付するものという事になるので、正解は人から教えてもらうものではなく、自分の中に存在するということになります。

もっと別の言い方をすれば、アテレーとは卓越性なので、アテレーの宿る人間とは、他の人よりも卓越した凄い人という事になるわけですが、相対主義的な考え方でいえば、凄い人という価値観は、人それぞれが自分で決めることになります。
人それぞれが、自分自身が『凄い事』と捉えている事を行えばよいわけですし、『これが出来るようになれば、卓越しているといえるだろう。』と思えるようなものを身につければ良いだけです。