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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第55回 プラトンが思い描いたソクラテス 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次


根本的な質問を突きつけるソクラテス

これ、サラッと言いましたが… よくよく考えてみると、かなりキツイ質問であることが分かります。
というのも、両方とも、自分が生徒や弟子からお金を貰って教えているモノの本質について、質問をされているからです。
プロタゴラスは、『アテレーを教えてあげますよ』と宣伝をして生徒を集めて、多額の金を貰うことで授業をしているわけですし、ゴルギアスも、『弁論術を教えてあげますよ。』と言って人を集めて、授業料を徴収している人物です。

両者とも、『金品と引き換えにして教えてやる。』と言っているものの本質について聞かれているわけですから、口が裂けても、『私には、そのものの本質がわからない。』なんて事は言えないわけです。
何故なら、それを教えることで金品を受け取って、人並み以上の生活を送っている人達だからです。 もし、本質も分からずに教えているとすれば、彼らは詐欺師ということになってしまいます。

では、ソクラテスは、意地悪で、この人達を背水の陣に追い込む様な議論をふっかけたのかというと、そういうわけではありません。
ソクラテスは、自分自身は物事の本質を知らないと自覚している人物であるわけですが、一方で、物事の本質について『知りたい!』と強く思っている人物です。
ですから、それを『知っている。』と自ら宣伝をしているような人の存在を知ってしまうと、教えて貰いたくて仕方がない性格をしているんです。

教えを請いながら相手を信じないソクラテス

この関係性だけをみると、『知りたい』と願っているソクラテスと、それを教えることが出来る教師が出会うだけですから、一方的に教師がソクラテスに物事を教えるだけで終了してしまいそうな気がします。
しかし、ここで注意が必要なのは、ソクラテスは、教師が話す説明を、鵜呑みにはしないという事です。

人が物を教えて貰う場合は、大抵は、人の話を聞くだけで終わってしまいます。 外国ではどうか分かりませんが、日本では、教師の意見を疑うのは失礼とされていたりもします。
例えば、今現在では知らないことに出くわした場合は、wikiなどで調べたりもしますけれども、知らない分野についてwikiで調べた場合、多くの人達が、その事について 疑わずに信じてしまうと思います。
ですが、一度試してほしいのですが、自分がものすごく詳しい事柄についてwikiで調べてみると、自分の知識とは違ったことが書かれていたりするのが見つけられたりもします。

wikiは、その性質上、自分が知らない事柄について書かれているページしか見る機会がない為に、その事を疑うことなく信じがちです。
しかし、ソクラテスが目的としているのは、教師に教えを請うて、その答えを分かった気になったり、盲信することではなく、物事の本質を理解して納得することです。

仮に教師が、物事の本質を知っていると主張していたとしても、本当に知っているのか、それとも知った気になっているのかは、対話をしなければ分かりません。
『自分よりも賢い人物の主張することだから。』と、疑うことを否定して盲信する権威主義は、世界は神様が作ったという話を信じて、見たこともない神を信仰する行為と同じです。
その為、ソクラテスは、自分が疑問に思った事を遠慮なく、質問としてブツケていきますし、教師が矛盾した発言を行うと、その矛盾点について徹底的に討論をします。

ソクラテスメソッド

この様な対話を徹底するために、ソクラテスは、相手の了解をとった上で、対話にルールを設けます。
そのルールというのは、先ず、テーマを決めて、そのテーマに対して主張が有る側が簡潔に主張をして、聞き手は意見を遮ることなく聞いた上で、疑問に思った点について質問をします。
質問をされた側は、短く簡潔な答えで質問に答え、聞き手は、その質問に納得が出来なければ、納得ができない点について質問を続けます。

時には、聞き手が質問の中で、自身の考えを話すことも有るでしょうが、そういった際には、聞き手と主張を話す側が逆転した上で、先ほどと同じ様に、主張を聞いた側は、自身が納得できない点について質問を行います。
質問がなくなると、双方の合意が得られたということになるので、次の議題に移ります。

質問に対して、短く簡潔な答えを要求するのは、詭弁化が多用しがちな、議論のすり替えや、大量の言葉を並べあげて煙に巻くといった行為を防止して、議論を誰が聞いたとしても理解しやすいものにするためです。
例えば、今現在も放送されているかどうかはわからないんですが、『サンデープロジェクト』や『朝まで生テレビ!』と言った番組では、総合司会の田原総一朗さんが、ゲストの政治家に対して、『はい』か『いいえ』かのどちらかで答えてください…
といった感じで、短い言葉で答えを引き出そうとしますよね。 しかし大抵の場合、政治家は、短い言葉では答えずに、長い言葉で議論を煙に巻いて、逃げようとします。

ソクラテスは対話を行う前に、こういった詭弁による逃げをルールによって防いだんです。
これは、目先の討論に勝つために設定したというよりも、真実に近づくために設定したと考えるべきでしょう。
というのも、このルールは教師である相手にだけ課されたのではなくく、自分自身も、このルールに則って対話を進めていくことになる為、自分自身の逃げ道も塞ぐことになるからです。

ただ例外も有り、この主張や質問や返答を短い言葉で簡潔に行うというのは、相手が自分が話している内容を理解できている場合に置いてだけであって、相手が理解が出来ていない場合は、相手の理解を最優先にして、細かい説明を行う事は良しとします。
たとえ簡潔な答えであっても、相手が理解できない程に論理の飛躍が有ったり、難しすぎる言葉や理論を多用するというのは、結局、議論の到達点が、真実を目指すというところから離れてしまい、議論の勝敗を優先してしまうことになるからです。

これらのルールからも、ソクラテス自身は、『議論の勝ち負けそのもの』には興味がなく、純粋に、物事の本質について知りたがっていたことが分かると思います。
この様な対話形式は、『ソクラテスメソッド』や『ソクラテス式問答法』といった名前がつけられて、今現在でも、高度な教育の現場では使われていたりするそうです。

何故 ソクラテスは本よりも対話を重視するのか

以前に、ソクラテスは本を執筆するといった事を行わず、対話を重視したということを言いました。 その為、ソクラテスという人物像は、弟子のプラトンが描いたイメージでしか知ることが出来ないわですが…
何故、ソクラテスが自身の考えを本にまとめて後世に残そうとしなかったのが、この態度から分かると思います。

ソクラテスを傍から見ていた人間は別として、ソクラテス自身は、自分は真理とは程遠い人間だという事を自覚していましたし、知らないが故に、『その答えを知っている』と主張する人間を見つけては、教えを請いに行きました。
つまり、ソクラテスにとって他人に教える事はなにもないわけです。 そして、ソクラテスが求めるアテレーを知る為のアプローチは、自身の推論と、賢者との対話によってしか成し得ないと思っているからです。
本を読むという行動を通して、多くの知識を得ることは可能ですが、本というメディアは一方通行である為、そこに書かれていることが本当の事かどうかは分かりません。

本の中に、主張の矛盾点を見つけたとしても、それを質問することも出来ませんし、作者が文字を通して表現した事を、読み手である自分が正しく読み取れているのかも分かりません。
しかし、対話の場合はどうかというと、相手の主張で理解が出来ない部分は聞き返せばよいですし、矛盾点が見つかれば質問をすればよいわけです。
相手が目の前にいる為に、自分が疑問に思った事は、『聞く』というアクションを行うことで、解決することが出来ます。

また他の利点として、対話の場合は、自分が主張した事に対する反対意見や矛盾点を、相手が指摘してくれる場合もあります。
ソクラテスが望んでいるのは、目の前で行われる議論に勝って、相手を論破することではなく真実を追求することなので、自分が必死に考えた理論が間違っていた場合、それを指摘してくれる人間というのは、これ以上にない味方となるわけです。
しかし、本を読むという行為では、その様な事は起こりません。 その為、何よりも対話を重視し、それを皆にも推奨する為に、対話を促したのでしょう。

自分自身は真理から程遠いと思い、尚且、真実を得るためには、賢いものと対話をする方が良いと思っているような人物は、本なんか書きませんよね。

ということで、前置きが長くなりましたが、次回から、ソクラテスの初期作品を用いて、その考えを勉強していこうと思います。