だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著【メノン】の私的解釈 その1 『徳とは、どのようなものなのか』

広告

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

f:id:kimniy8:20190225212629j:plain

目次


メノンの挑発

裕福な家柄に生まれ、ゴルギアスのもとで弁論術を学んだメノンが、ソクラテスの元へ『徳とは何か。』を教えてもらいにやってくる。
教えに貰いにやってくるといっても、謙虚な気持ちでソクラテスから学ぶ為にやってきたのではなく、ゴルギアスの元で学んだ知識を試してやろうという思いでやってくる。

しかしソクラテスは、その質問に対して『私は徳がどのようなものかは知らない。』と告白する。
わざわざ遠くからやってきたメノンは、『では、故郷に帰って『ソクラテスは徳について何も知らなかった。』と言いふらしてよいのか?』と挑発。

それを聴いたソクラテスは、『私が知らないだけでなく、徳という存在を知っている人間は会ったことがない事も付け加えてくれ。』という。
するとメノンは、『アナタは、私の師匠であるゴルギアスと会ったことが有るのではないですか?』と質問をしてくる。
何故ならメノンは、師匠のゴルギアスは徳とは何かを知っていると思い込んでいるが、ソクラテスとゴルギアスが面会しているとなると、ゴルギアスも徳を知らない事になってしまう。

メノンは、ゴルギアスから教育を受けて、自分自身も徳について知っていると思い込んでいたが、ソクラテスの理屈でいうなら、自分も徳を知らないことになってしまう。
この事が受け入れられないメノンは、ソクラテスと『徳について』討論することになる。

前に取り扱った『プロタゴラス』や『ゴルギアス』では、プロタゴラスはソフィストと呼ばれる徳の教師で、ゴルギアスは弁論術の教師という事で、両者とも、ギリシャ内でも有名な教師だった。
しかしメノンは、ゴルギアスの元で弁論術を学んだだけで、教師であるゴルギアスに授けてもらった知識を見せびらかしたい気持ちを抑えられない青年。
例えるなら、格闘道場で格闘技を習って強くなった気になった生徒が、他の道場に道場破りに行くような感覚でしょうか。

ソクラテスは自分では無知だと言いつつも、数多くの賢者と対話を行っていたために有名で、演劇の元ネタになっている人物なので、自分の力試しのためにも、わざわざ押しかけてきたのでしょう。
しかし意外にも、ソクラテスは自分自身は徳という物を知らないし、今まで対話してきた人間の中にも、徳を理解している人間はいないと主張する。
これは、メノンも師匠のゴルギアスも徳を知らないと言われているのと同じ意味なので、メノンは受け入れることが出来ず、討論することになります。

徳とは何か

二人の討論のテーマとなるのは、当然のことながら、『徳とは何か』。
ソクラテスは徳を知らないと主張しているので、『徳とは何か』を知っているメノンから、持論を披露することにする。

メノンが主張するには、もし、成人男性の徳を知りたいのであれば、それは国家公共の為に尽くすことで、それを実現するためにも、善い人間関係を構築することが大切になる。
同じ様な志を持った友人は大切に扱い、敵対するものには厳しく接する。
続いて女性の徳は、外に出ている男性に変わって家庭を支えることで、主人である夫によく従うことになる。

この他にも、子供や老人や奴隷など、それぞれの立場や年齢に対応した徳が存在する為、徳を一概に説明することは出来ないという。
つまり、徳という概念には適応される対象の数だけ解説が必要という事になる。

このような答えは、ソクラテスの対話篇では、もはや定番となっています。ソクラテスがたった一つの物事の意味を尋ねると、その答えとして大量の解説が返ってくる。
プロタゴラスとの対話の際には、『徳とは何か』というたった一つの言葉の意味を尋ねただけなのに、徳は知識や節制や正義や勇気などからなっているという答えを聞かされた。
対話篇のゴルギアスでは、3人の人間と対話を行ったが、その全ての対話相手が、質問する度に答えを増やしていきました。

メノンの答えも、『徳とは何か』というたった一つの質問に対して複数の答えが帰ってきたが…では、メノンの言う通り、立場ごとに定義が変わるというのは、答えになっているのだろうか。
この説明を聞いたソクラテスは、メノンの回答がおかしい事を伝えるために、例え話をする。

仮に、ミツバチとはどのようなものかというのを質問した場合、ミツバチはそれぞれの個体で全て違っているので、一概に言えないなんてことがあるだろうか。
ミツバチという、その種族を説明できるような共通の概念的なものはないのだろうか?

集合体の定義は それを構成している物の数だけ存在するのか

ソクラテスはミツバチという昆虫を例に出したが、これを人間に置き換えても同じ事がいえる。
この文章を書いている『木村』という人物と、この文章を読んでいる読者の方は、全く同じ存在なのかといえば、違うとしか答えようがない。
性別も年齢も住んでいる地域も、それぞれが名乗る名前も違うでしょうから、私と皆さんが同一人物ということはありえません。

しかし、この文章を書いている私も、それを読んでいる読者の方々も、人間という枠組みでいえば共通の概念の中に存在します。
この状態で、ある人が『人間とは何か?』と質問したとして、『人間は70億人いて、それぞれ育った環境も考えていることも違うから、一概には言えない。』という答えが通用するでしょうか。
『人間とは何か?』という問いかけは、70億人いる人間という種族に共通する概念を聴いているのだから、個人個人のそれぞれの概念ではなく、種族としての答えを聞けば、それで良いことです。

これは、『徳とは何か』という質問にも当てはまることで、『人それぞれに徳が有る』だとか、男女の違いや年齢の差と言ったもので、徳という概念が変わるのはおかしい。
例えば、人間の状態を表す『健康』であるとか『病気』といった概念があるが、この『健康』や『病気』という概念は、男女や年齢の差によって概念が変化するようなものなのだろうか。
同じ様に『喜び』や『恐怖』といった状態も、老若男女でそれぞれ別の定義が存在するのだろうか。

そんな物は存在せず、人間に宿る感情や状態は全て同じ定義として説明できるはず。 
であるなら、人間に宿る徳も同じ様に説明できるはずではないだろうか。

『徳とは何か』(再)

ソクラテスの問いかけに対して、メノンは答えを用意できない。
今でこそ、ダイバーシティといった多様性が重要視されて、人々の性別や障害に至るまでが個性として認められはじめてはいるが、メノンが生きていた時代は2500年前。
スパルタ地方では、生涯を持って生まれた子供は良い兵士に成れないと崖から捨てられて間引きされているような時代。

男女の役割の違いなども今以上に強調され、男らしさや女らしさといったものが重要視されていた時代なので、『女性の中で優れているもの』と『男性の中で優れているもの』は全く別のものだと考えるのが普通だった。
同じ様に、子供には子供の優秀さがあり、老人にはあるべき理想的な老人の姿があって、『人の立場ごとに理想像が違う』という考え方が体に染み付いているのだろう。
しかしソクラテスが尋ねているのは、『優れた人間とは何か』である。
メノンは、健康や感情などは人間という種族全てに当てはまる様な説明が出来るけれども、何をもって優れているのかという徳(アテレー)だけは、人それぞれの立場によって違うような気がすると答える。

徳の教師であるソフィストや弁論術の教師には厳しい質問を投げかけて論争に発展させてしまうソクラテスだが、相手が少年の場合はそこまで追及する姿勢は厳しくなく、メノンと一緒に考えていくことにする。
メノンの主張では、男性は国家公共のために尽くすというが、国家公共のために働くとは、国を治めるために尽力するという言い換えが出来る。
女性の徳である、家を治めるというのも、家庭内がうまくいくために尽くすという言い方が出来るため、男女の徳で、何かの為に尽くしてよく治めるという点で共通している。

では、家にしろ国にしろ、良く治める為に必要なのは何かということを考えていけば、答えにたどり着くかもしれない。

家や国を、ただ単に治めるのではなく、良く治める為に必要なのは正義であり、その正義を実行しようとする場合には、自分自身の欲望を抑えて周りのことを考える必要があるので、節制も必要になる。
共同体を良く納める為に必要なのは正義と節制で、これなくして、共同体を上手い具合に治めることは出来ない。
逆にいえば、正義と節制を持っていないのであれば、『何かを治める』という役割ではない老人や子供であっても、徳を宿しているとは言えない。

メノンが最初に答えたとおり、徳とは、人の立場それぞれに存在するものではなく、正義や節制という同じ前提条件を備えた人間に共通して宿るもの。
では、その前提条件を備えた人物が宿す徳とは何なんだろうか?

(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍