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【Podcast原稿】第63回【プロタゴラス】快楽が続く人生は良い人生なのだろうか 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

快楽が続く人生は良い人生か

ソクラテスが、快い事が続く人生は良い人生かと質問し、プロタゴラスは、快楽がずっと続く人生は必ずしも良いとは言い切れないと主張しているわけですが…
このやり取りを具体例を交えて考えてみると、例えば、手っ取り早く快楽を得たいと思うのであれば、今の時代なら違法ドラッグを手に入れるという方法があります。
打つだけで快楽を手に入れる事ができるドラッグという存在は、お金さえ払えば、楽に快楽を手に入れる事を可能にしますが、では、ドラッグを継続的に摂取し続けて快楽に身を委ねる人生は良い人生といえるのでしょうか?

ドラッグを定期的に打ち続ける事によって、体はボロボロになるかもしれませんし、そもそも違法である為に、警察に見つかれば、犯罪者として扱われるでしょう。

ここまでハードなケースでは無く、日常生活の中で考えるのならば、例えば、食べ物を食べることに快楽を覚える人は、その欲望に任せて食べ物を食べ続けるという行為は良い事だからと、肯定されるべきなのでしょうか。
自分の好きな食べ物だけを、欲望に任せて好きなだけ食べる生活は、欲望を満たし続けることが出来るために、快い生活といえるかもしれませんが、食欲という欲望が大き過ぎる場合は、食べ物の過剰摂取によって、体調を崩すでしょう。
単純に食べ過ぎで気持ち悪くなることも有るでしょうし、その生活を継続する事で、生活習慣病になることも有るでしょう。

逆のケースで考えるなら、何らかの怪我や病気になった際に、治療と称して苦痛を受け入れなければならない時もあります。
苦い薬を定期的に飲まなければならなかったり、手術の為に体の一部を切除しなければならないといったケースですが、この様なケースは、苦痛を伴うという一点に置いて、悪い事といえるのでしょうか。
治療を受けずに放置した場合は、傷や病気は悪化するでしょうし、更に悪い事態に発展する可能性があります。 一時的に、自分が嫌だと思う体の切除や苦い薬を飲むという行為を受け入れる事で、最悪のケースから逃れることが出来たりもします。

大抵の物事というのは、連続しているもので、その一点だけを取り出して考えたとしても、善悪の判断はできません。
その瞬間だけを抜き出せば、最高の出来事と表現できるようなことであっても、前後の出来事を組み合わせて考えると、全体として悪いということも有るでしょう。
逆に、その瞬間だけを切り取ると、嫌な事であったり逃げ出したい事であったとしても、後々のことを考えると必要な事柄で、それを行わなければ、更なる悪い事態に発展することもあるでしょう。

事柄の善悪とは、その瞬間だけを切り出して考えるのではなく、一連のつながりの中で考える必要があるために、プロタゴラスは即答を避けたのですが…
ソクラテスにいわせれば、快い出来事の中にも善悪が存在するというような主張をするのは、物事をよく考えない民衆のする事だそうです。
常日頃からアテレーについて考えている賢者であれば、答えることが出来るはずだというのが、ソクラテスの主張なのでしょう。 彼はプロタゴラスの警戒心を解いて本心を探るために質問を続けます。

知識とは何なのか

ソクラテスは、まず、『快楽とは善なのか』というものを考える為に、知識について、プロタゴラスがどの様に考えているのかを知ろうとします。
そもそも、知識とは何なのか。 ソフィストたちの主張では、知識には、人を支配する能力があるそうなのですが、果たして本当だろうかというのを解明しようとします。

大衆は、知識には人を支配するといった大層な能力は無く、人を支配するのは、その他の何か。例えば、『恐怖』『怒り』『快楽』といった、本能的なものを利用して支配が行われると思っています。
例えば、圧倒的な暴力を見せつける事によって、『痛い目にあいたくなければ、いうことを聞け』と脅しをかければ、力を持たない弱い人間を支配することが可能です。
同じ様に、『誰かが貴方に対して酷い事をしているよ。』という情報を吹き込めば、その人間は怒りに支配されて、思い通りに動くでしょうし、欲望を満たすために必要なお金を渡せば、それと引き換えに指示した通りに動く人間は沢山います。

これらの、抗うことが出来ない本能的な感情を利用する事で、人は他人を奴隷のように支配できると漠然と思っているのですが、賢者であるプロタゴラスも、同じ様に考えるのかと質問をします。

何故、この様な質問をしたのかというと、それは、プロタゴラスが他人にアテレーを教える教師という職業だからでしょう。
アテレーとは、それを身に着ける事で他の人間よりも卓越した者になれる存在ですが、それを教えられると主張しているプロタゴラスは、アテレーを知識のように他人に伝授できるものだと主張しているのと同じです。
仮に、アテレーと呼ばれるものが、持って生まれた才能のようなものであるのなら、それを誰かに教える事はできません。 持って生まれた運動神経やら筋肉の作りや骨格を他人に伝えられないのと同じです。

しかし、プロタゴラスの主張では、アテレーは教えることが出来ると主張し、他人からお金を得て授業をするというのを生業としているわけですから、才能の様なものではなく、他人に伝えられる知識のようなものだと主張しているわけです。
アテレーとは、それを身に着ける事で他人よりも卓越した能力を持てる存在で、他の者よりも卓越した優れた者は、カリスマ性などを有して、他人を支配する能力も持つでしょうから、アテレーを持つものは他人を支配する能力が有るといえます。
アテレーを持つものが他人を支配することが出来、そのアテレーの正体が知識のようなものであるなら、知識は、人を支配できるようなものであると言い換えることも出来ます。

また、アテレーによって他人を支配した指導者は、ものの分別をわきまえて、何者にも屈しない知識による命令を下すことが出来て、それによって人々を救うことも可能になるでしょう。
プロタゴラスのスタンスは、大衆が主張するように、知識には大層な力が無いという事はなく、知識は素晴らしい力を持っていると主張しているといえます。

彼は当然のように、知識には素晴らしい力があると主張します。
それを否定してしまうというのは人類として恥ずべき行為で、人は本能に支配されて動くとするなら、本能的に動いている動物たちと人間との間に差はなくなってしまうからです。

人を支配するのは知識か感情か

この意見にはソクラテスも同意しますが、では何故、民衆は善悪の知識が有るにも関わらず、悪いと分かっている事を行ってしまうのかと疑問をぶつけます。
悪の道に進んでしまう民衆に、『何故、そんな事をしてしまうのか。』と質問をしたら、大抵の場合は、『欲望や恐怖や怒りという感情に押しつぶされて。』と答えます。
民衆は、自分が悪の道に進んでいると理解している状態なのに、一時的な感情に支配されて、その歩みを止める事が出来ないでいます。 彼らを説得するためには、どの様な知識が必要なのでしょうか?とソクラテスは彼に質問します。

それに対してプロタゴラスは、『何故、民衆を説得しないと駄目なのだ?』と一蹴します。
相対主義のプロタゴラスに言わせれば、彼らは彼らの人生を歩んでいるのであって、何故、物事の本質を考えようともしない、口から出まかせをいうような民衆を救わねばならないのかと疑問に思ったのでしょう。
仮に彼らが、自分の行く末を心配し、その事に真剣に悩んでいるのであれば、彼らなりに考えたり勉強をしたりするでしょうし、それでも答えが出ないのであれば、プロタゴラスのようなソフィストへの弟子入りを考えて門を叩くでしょう。

その様な努力を一切しない人間に対して、何故、こちらからわざわざ出向いて行って、求められてもいないのに、教育をしなければならないのかという素朴な疑問です。
この考え方を支持する方は、今の日本には多いかもしれないですね。 というのも、この主張は言い換えれば、現在の日本でよく叫ばれている自己責任論に通じる考え方だからです。
努力をしない愚かな人達は、自分の責任に置いて努力をしないのだから、その愚かさ故に破滅しようが関係がない。自己責任だという考え方と同じです。 破滅が嫌なら、自分で努力しろという事なのでしょう。
 
ですがソクラテスは、その自己責任論に納得せずに、『先程、議論が宙ぶらりんになっていた『勇気とは何か』を解明する為にも、その事が重要だ』として、プロタゴラスに意見を求める為に食い下がるのですが…
これ以降の話は、次回にしていきたいと思います。
kimniy8.hatenablog.com