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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast原稿】第64回【プロタゴラス】人を支配するのは知識か感情か 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら

目次

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
いつものように、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一部内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回の簡単な内容を振り返ると…
プロタゴラスが、アレテーを構成している徳目の中で、勇気だけは性質が全く違っていると主張し、その意見に対してソクラテスが吟味をした結果、勇気と知識は同じものだと主張し、それに対してプロタゴラスが…
ソクラテスの主張する理屈でいうなら、全ての技術や力は知識ということになり、その知識の効率的な使い方である知恵こそが、力であり技術ということになってしまうけれども、力も技術も知識も、別々の概念として存在するじゃないかと反論しました。

その後、テーマが変わり、快楽とは良いものなのかという議論に移りました。
快い人生を歩む事と、苦痛に満ちた人生を過ごす事の、何方が良い人生なのかという質問をして、快い人生を歩むほうが良い人生だという共通認識を得た後に、では、快楽とは何なのかというテーマに移ります。
ソクラテスは、快楽を得ているその瞬間だけを取り出せば、それは幸せな状態なのかを、プロタゴラスに対して質問しますが、プロタゴラスは、物事はそれほど単純ではないと主張します。

それは何故かというと、物事は一瞬一瞬で独立しているわけではなく、連続している事だからです。
欲望があり、それを満たすことで満足感を得て、快楽を得ることが出来たとしても、その物事は、長期で見ると悪いことかもしれません。
果てることがない食欲を満たそうと、食べ物を食べ続ける生活をしてしまえば、その時は幸せかもしれないですが、長期的に観れば病気になってしまうでしょう。

ソクラテスは、自分が聞きたいことが上手く聞き出せない為か、更にテーマを変えて、『知識とは、どの様な力を持っているのか』について質問します。
ソフィストは、他人よりも卓越して優れた人間になれる知識であるアレテーを教える事で、お金を得て生活をしている人達ですが、他人よりも優れている人は、自分よりも劣っている人を支配して思い通りに動かす能力が有るとされています。
国の指導者は、他の人間よりも優れているが故に、指導者として選ばれ、指導者の権限を振るうことで、他の人間を思い通りに動かして、一人では出来ないような壮大なことを成し遂げます。

しかし、庶民に対して『人を支配するものは知識なのか?』と聴くと、彼らは『知識にはその様な力はなく、人間を支配して動かすのは恐怖や怒りや欲望といった感情だ。』と答えます。
ソクラテスは、知識こそが人を支配できるのだと主張するプロタゴラスに対し、民衆に、真に人を支配する力があるのは、感情ではなく知識だと説得するためには、どのようにすれば良いかを尋ねたのが、前回でした。
今回は、その続きとなります。

人を支配するのは恐怖や欲望

前回、ソクラテスは、快いと感じる出来事や、悪いとされている出来事に、それぞれ善悪が有るといった民衆のようなことはいわずに、その瞬間の快楽そのものが、良いことなのかどうかを答えてくれと、プロタゴラスに対して質問をしました。
ただ、この質問をしたソクラテス自身も、快いと感じる出来事や悪いとされている出来事を判断するのは、それほど単純ではなく複雑なことを理解はしています。
その為、物事は単純ではなく複雑だというプロタゴラスに寄り添う形で、話を展開し始めます。

民衆が、感情に支配されて悪いと思っていてもやってしまうような行為は、例えば『美味しい』という感情に支配されて暴飲暴食をしてみたり、性欲に負けて風俗に通ったりといったケースが考えられます。
彼らは、暴飲暴食や風俗通いが良いことではないと理解していないわけではありませんが、感情に支配されてしまっている状態では、これらの行為を止める事はできません。
では彼らに、それらの悪い行動をやめてもらう為には、どうすれば良いのでしょうか。

民衆に対してこの様な質問をした場合は、快楽によって起こした行動の先にある悪い事の具体的な事例を、正しく知る事だと答えるでしょう。
例えば、暴飲暴食を繰り返したら糖尿病になって、後々、食べ物の制限をされてしまうだろうし、ひどい場合には、まともに歩けなくなるし、目も見えなくなるでしょう。
過度のアルコール摂取の場合は、肝臓を悪くして、先程と同じように制限された生活をおくることになるでしょう。
風俗通いも、それによって愛情が得られることはなく、性欲という一時的な欲望は満たされたとしても、その後、何とも言えない虚しさがこみ上げてくるだろうといった事が理解できれば、間違った行動はしないと思っています。

民衆が考えている事は、その事柄に関するトータルのメリットとデメリットだけで、トータルのメリットが大きければ行うし、デメリットが大きければ実行しない。
ただそれだけのシンプルな思考で、多くの民衆がその様に考えているだけで、他の方法は想像すらしていません。これは、当時の民衆だけでなく、私も含めた現在の民衆の多くも、この様な考えを持っていると思われます。
ソクラテスはこの様に、物事は複雑だというスタンスに寄り添う形で、民衆がどの様に良い事と悪いことを捉えているのかを解説します。

善悪を見誤ってしまう愚か者

このソクラテスの主張をまとめると、その物事に付随しているメリットとデメリットを正しく測ることが出来れば、事の善悪を正しく判断することが出来るという事になりますが、プロタゴラスは、その説明では不十分だと主張します。
この、一見すると分かりやすい意見の何処に否定する要素があるのかというと、民衆にはメリットと、その後襲ってくるデメリットを正しく捉えることが出来ず、度々計算間違いをしてしまうからです。
何故、その様な計算間違いが起こるのかというと、タイムラグによる、物事の見え方の違いです。

例えば、暴飲暴食をして体調を崩すとか、太った事で膝を悪くしてしまうというのは、結構分かりやすいことです。
2つの現象は、直結して起こっているという事が直感で分かりやすく、相関関係と因果関係が誰にでも理解できるので、暴飲暴食は悪い事だと捉えやすい出来事といえます。
しかし、この相関関係や因果関係が、全ての事柄において分かりやすくなっているのかというと、そうとは限りません。

何十年という長い年月をかけて悪い状態になったり、相関関係や因果関係が複数のものと複雑に絡み合って、何がどの様に悪い行動なのかが一目で分かりにくいという事もあるでしょう。
この様なケースでは、人は錯覚に陥ってしまうために、メリットとデメリットを正しく比べることが出来ず、計算間違いをしてしまいます。

何故 善悪を正しく認識できないのか

例えば、自分が今、広い空間に立っていて、自分の現在いる場所から距離が離れれば離れる程、時間的に遠くに行くという状態を想像してみてください。
その空間には自分を中心として、放射線状に様々な道が存在していて、その道の先には、メリットやデメリットが転がっているものとします。
良い人生を選ぶとは、自分の周りに沢山存在する道の中から、トータルとしてのメリットが多い道を選ぶ事です。

しかし、数ある道に、それぞれ転がっているメリットやデメリットは、それぞれが同じ大きさをしていません。小さいなメリットをいくら足し合わせても釣り合わないような大きなデメリットも存在しますし、その逆も存在します。
その為、単純に数を数えるといった手段では、正しくメリットとデメリットを計算することは出来ません。 それをする為には、それぞれの大きさも正しく知る必要が出てきますが、ここで問題が出てきます。
というのも、物体というのは、自分の位置から離れれば離れる程に小さく見えてしまい、近づけば近づく程に大きく見えてしまうからです。

この例え話に置いて、距離は時間に置き換えて考えますので、遠くに有るものというのは遠くの未来を意味し、近くにあるものは時間を経ずに直ぐにでも手に入れられるモノとして考えます。
このようにして考えていくと、プロタゴラスの主張している事が理解しやすいと思います。

遠くに有るデメリットは遠くに有るが故に、その大きさが分からずに小さなものだと錯覚してしまい、近すぎる位置にあるものは、近すぎるが故に、全体像を把握しにくく、大きなものだと過大評価してしまう。
結果として、メリットとデメリットの大きさを正しく測ることが出来ずに、遠くに有る大きなデメリットを小さなものだと錯覚して計算してしまい、自分の進んでいる悪い道を良い道だと錯覚してしまいます。
これは逆も同じで、目の前にゴロゴロとデメリットが転がっていているけれども、その先にはとてつもなく大きなメリットが有ったとしても、遠すぎるが故に、そのメリットに気が付かなかったりしてしまう事もあります。

これは、メリットとデメリットを物体ではなく、音や声のようなものと考えても同じです。 近い場所で発生した音は大きく、遠い場所で発生した音は小さく聞こえる為、その音そのものの大きさを比べるのは至難の業です。
民衆はこの様にして、メリットとデメリットの大きさを測り間違えてしまい、正しい道を選ぶことが出来ないということです。
では、正しい道を選んで良い人生を歩む事を諦めなければならないのかというと、そういうわけではなく、知識を身に付ける事で、最善の道を選ぶことが可能になるというわけです。 
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